同和はこわい考通信 No.72 1993.8.2. 発行者・藤田敬一

《 お知らせと紹介 》
◆第10回部落問題全国交流会「人間と差別をめぐって」
 日  時/9月4日(土)14時~5日(日)12時
 場  所/本願寺門徒会館(西本願寺北側)
      京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町(075-361-4436)
 交  通/JR京都駅前から市バス9,28,75 系統 西本願寺前下車
 費  用/8000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み)・4000円(参加費のみ)
 申し込み/〒603 京都市北区小山下総町5-1 京都部落史研究所(075-415-1032)
      山本尚友あて、葉書に住所・氏名(フリガナ付き)・電話・宿泊の
      有無を書いて、8月25日までに申し込んでください。
 日  程/9月4日(土)13時受付け開始 14時開会
            14時半講演:師岡佑行「歴史の語りかけるもの」
            16時分散会 21時懇親会
      9月5日(日)9時分散会 11時全体会 12時解散
 その他/各地で発行されたビラ、パンフ、新聞、通信などを多数持参してください。また第一日目夜の懇親会への名産、特産の持ち込み大歓迎ですのでよろしく。

◆『こぺる』No.5(93/8) の内容
部落のいまを考える
 灘本昌久「第三期の部落解放運動とイメージ戦略
  ───差別反対キャンペーンの得失───」
ひろば
 嵐 清治「あしたから町の子やなあ」
メディア・メディア
 池村六郎「カれー・ラいスの挨拶」
第三回合評会から(藤田敬一)

《 各地からの便り 》
■ 「通信」のバックナンバーの送付、本当にありがとうございました。灘本氏から送付いただくものとばかり思っておりましたので、軽い驚きと、その存在すら知らなかったネットワーク構成に一種の喜びを感じた次第です。
 地域での部落解放運動と職場における労働運動との結合をめざしながら、さらに独自の主体性によってあらゆる人権問題について研究・学習していこうとの気概をもってサークル活動をすすめてきました。そのサークルの学習会に講師として招いた灘本氏との世間話のなかで私が氏にぶつけた質問が、「被差別部落民とはなにか」でした。
 人びとの部落問題との出会いはまさに多様で複雑ですね。ましてや、いまどのように向き合っているかということになればそれぞれに距離感が違うように思います。
 住田氏の指摘する問題(地域の抱える今日的な課題「人の意識」)に私が持つジレンマと同じものが存在しますし、しっかりと前向きに矛盾を認識してなお懸命に組織(運動体)と運動を動かしていこうという全国の一部の指導者が共有する焦燥感は理解できます。しかし、灘本氏の自らのなかの被差別部落民というものに対する意識との対峙の仕方は参考になります。人には生まれ持った性根というものがあるが、さまざまな縁と自らの努力によってほとんど多くのことは変えていけるものであると私は考えています。つまりそれは個に帰することであり、集団あるいは組織での立ち向かいはあくまで補助手段として、いかに意識的に強く自らをおしだせるかということです。
 私に、被差別部落民とはなにか、ということをいまさら考えさせてくれたキッカケは、自称、被差別部落民の彼(支部の青年)が「あんたのようなヨソ者にはわからんだろうが…」と、その場の前後の議論に関係なく感情的に会議で発言したことによる。しかし、私は彼に答えるために自問したのではない、自分自身にそのことの思索を求めたのです。(ずいぶん遅きに失するとは思いますが)
 十九歳で結婚し部落に住んで二十六年になる。子供のころから部落に隣接した地域に生まれ育った私は、むしろ部落に友達が多くいました。ですから、藤田さんの体験した「ひるみ」というものはなかった。だが祖母や親戚の者たちから聞かされた部落の低位性と、トラブルが生じたときの集団的威圧行為という部分について、私自身が垣間見る実態と合致するところに少々の偏見は持っていたように思います。
 部落に住みだしてからの年月が、それまでの年月をこえた今、私を人はどう認識しているのでしょう。ヨソ者発言をした彼は、被差別部落民ではないと言いたかったのでしょう。しかし、私がここに来た時、彼はまだ十歳にもなっていなかったのです。そして、彼が差別や貧困とも無縁のお坊ちゃんであることも知っています。だが、私は自身の結婚を通して差別の板挟みによる苦痛を体験しています。もちろん彼はそのことは知るよしもありません。
 血筋でみるなら私は被差別部落民ではない。だが居住地でみるなら被差別部落民となる。しかし、私の二人の子供たちは被差別部落民として抵抗なく認知されている。これが実態であり、私のまわりの人たちの平均的意識であるのです。間違いなく排除の論理が働いていると言えます。では、二人の被差別部落民としての子供を持つ私はいったい何者であるのでしょうか?誰も答えてくれません。私は私、M.Sという一個の人間であるだけなのに……。
 私の所属する支部は運動の歴史と伝統を誇り競う地域として位置付けられています。しかし実際に地域の人々の中にそのようなものが根付き存在しているのかといえば皆無です。もとより、歴史や伝統などというものは、そのときどきの「今」を懸命に努力して改革していこうとする者たちによってのみ継承されるものであると思います。そこらあたりに、住田氏が危惧する「本当に被差別部落民自身が主人公たり得るのか」という実態があると思うのです。
 私は以前、京都会館会議場で藤田さんの講演を聞きました。そして「同和はこわい考」も読みました。そこにふれられている両側から越えなければならない「壁」をいったい誰がつくっているのでしょうか。運動が、あるいは被差別部落民が越えなければならない壁は見上げるばかりです。打ち倒さなければなりません、私たちの内側から、と、私は感じます。なにやらバラバラのことを書いてしまったようにも思いますが、藤田さんの深い考察で何卒ご理解願います。ありがとうございました。まずはお礼まで。   (京都 M.Sさん)

コメント.
 確かに、M.Sさんがおっしゃるように、被差別部落民とはなにか、定義づけようとすればするほど分からなくなります。以前書いたことですが、「被差別部落民とは、他の人びとが被差別部落民だと考えている人間である」としか言いようがありません。血筋や居住地で定義しても、包み切れない人が出てきますし。M.Sさんの二人の子どもさんが「被差別部落民として抵抗なく認知されている」というのも、実は被差別部落民のお母さんの血を受け継いでいるとみなされているからでしょう。しかし血の意識そのものが、一つの虚構にすぎないとも言えるのです。「被差別部落民である」ことの根拠らしいものを探したところで見つからないと、わたしは思います。要するに、人が「あなたは被差別部落民だ」とみなすなら、その被差別部落民なるものを引き受け、部落差別(意識)を媒介にした人と人との関係を変える生き方への転換の契機にするしかないのではという気がします。
 ところで、M.Sさんは「あんたのようなヨソ者にはわからんだろうが…」という言葉を投げつけられたとのこと。この言葉は「部落民でない者に、なにがわかるか」と同じように、対話や議論の打ち切り宣言にほかなりません。えてして人は、議論につまりそうになると、これに類する言葉を吐きたくなるものですが、それは自分と相手の資格・立場・体験の決定的な差異を確定し、相手との関係を断ち切る言葉として機能します。その青年は、M.Sさんが外から入ってきた人だということを、誰かから聞いて知っていたのでしょう。そして「ヨソ者に、なにがわかるか」との一言が、相手の意見を封じるのに有効だという知恵すら身につけている。体験にもとづかなくても、学習することによってこの言葉は吐けるというところがやりきれない。
 最後に、M.Sさんが「私はいったい何者であるのでしょうか?」と問うておられる点について少しふれておきます。この問いは、表面的にみれば「私は被差別部落民であるのかないのか」ということなんでしょうが、それはもっと深い問い、人間存在の根源にかかわる問い(「わたしはいったい何者なのか」)につながっているはずです。この問いに「あなたは被差別部落民である・ない」と答えても、「わたしは被差別部落民である・ない」と自答しても、大した意味はありません。わたしはいかなる存在なのか、一回かぎりのこの“わたしの生”をいかなる生たらしめるか、それが問われているのですから。

■ 藤田先生 ごぶさたしております。ポリープの調子はどうですか!あまり酒を飲みすぎるのも決してよくありませんので、たまには休肝日もつくりましょう。
 さて、この前、三重県連の大会があり、そこで資料として小森龍邦さんの『人権論ノート』を大会要項書といっしょにもらいました。その中には『同和はこわい考』のことにもふれてあり、同情融和の売り込みだとか、地対協と部落解放同盟との間に入って、たして二で割るようなことを言いながら…とか書かれてありました。
 解放同盟は理論構築の為、だいたんな論議をということで、解放新聞で呼びかけて、解放されるとはいかなる状況をさすのかというようなことを述べています。うまくは言えませんが、自分は、だいたんな論議をするのならば『同和はこわい考』を契機にした回りの人の論議されている事柄も、その中に含まれるのではなかろうかと思います。『同和はこわい考を読む』の中の梅沢利彦さんの文章には、『同和はこわい考』で論議されている事柄は、1979年の『解放新聞』紙上の師岡・大賀論文の延長線上にあると述べられております。もしそうだとするならば、過去に精算・解決されていないことであれば、私は、勇気をもって、そのことを解明すべきだと思います。
 よく同和教育の派遣主事の先生と話をするのですが、「あんた部落民と結婚できるか」とか「部落に住んでみたらどうや」とか「部落のもんでない者に何がわかるか」ということを言われると、それは殺し文句で、そんなことを言ったら、人はつながっていかないし、共同の営みも成り立たなくなると述べています。たしかに、私自身も過去にはそんな思いを胸に、一般の人達とむかい合い、本音では何を考えているのかわからんと考えながら接していたのです。今でも若干は、ひきずっていますが。
 藤田先生みたいに理論だててよう考えませんけれど、私なりに考えてみたところ、部落の人のいたみを、外にむかって「わかってくれ」と言って、他の人のいたみ(障害者、在日朝鮮人・韓国人等…)を理解できない人間では、あまりにもむしがよすぎますし、真の連帯や共闘にはなりません。特に同和教育にたずさわる教師を見ていて、私はそう思います。運動する側が主導権をにぎったり、上にいていばったりするという形では真の連帯にはなりません。お互いの為にもなりません。そして疲れるだけです。
 小森龍邦さんも、もっと議論して耳をかたむけるべきだと思います。運動団体は他人を批判する時だけ強くて、自己批判する時は弱いというのであれば、あまりにも悲しくなります。いろんな人がいて、いろんな人が主張し合い、それでもつながっているからこそ、解放同盟という大組織に魅力があるのだと思います。組織が大きくなるにつれ、小さい意見は切り捨てていこうとするやり方は、“解放”そのものをダメにするものだと思いますし、民主主義に反するものです。藤田先生、今の議論をずっと続けて、継続させてがんばって下さい。私も先生が提示したことについては、自分なりに考えていきたいと思います。もっと書ければいいのですが、文を書くのが大変ヘタな自分ですので、お許し下さい。  (三重 D.Hさん)

コメント.
 ポリープのことまで心配してくださって申しわけありません。胃のポリープは、その後ずっとおとなしくしておりますし、酒もほどほどにしてます。酒好きの親父が、飲みすぎて倒れたのが四十九歳、亡くなったのが五十四歳で、今のわたしの年齢なんです。そんなこともあって今年は自重しています。ほんまですよ。
 お便りによると、D.Hさんは先生方とじっくり話し合っておられるようす。そのような対話のなかから、いずれ新しい人と人との関係が生まれてくるにちがいありません。人が心を開いて胸のうちにあるものを語り出すには時間がかかります。それを待つゆとりがほしい。辛くても、焦らず気長にやってください。

《 採録 》
人権教育研究室研究員による良書の案内
小野 信爾:藤田敬一著『同和はこわい考───地対協を批判する』
  (花園大学『人権教育研究室報』93-4、第2号)
 ずいぶんと物議をかもした、いやいまだにかもし続けている本である。1986年、政府総務庁の地域改善対策協議会が、同和問題の解決を妨げている要因の一つが「民間運動団体」(具体的には部落解放同盟などを指す)の糾弾など激しい行動形態にある、という報告書を提出した。それが「同和問題はこわい問題だ」とする意識を国民に植えつけ、再生産しているというのである。それは差別の実情に目をつぶり、責任のすべてを被差別部落民の側におしつけようとするものだと、「運動団体」および有識者の反対・批判を浴びた。
 部落外の活動家として長年、解放運動にたずさわってきた著者も当然その一人であったが、同時に解放運動内部にも「敵」につけいるすきをあたえた問題点があるのではないかと率直に、かつ真摯に指摘したのが本書である。/「運動団体」が地対協報告と対決している最中にこういう本を出すのは利敵行為ではないかと、運動主流から激しく非難される一方で、解放運動内外の反響は大きかったようである。京都部落史研究所機関誌『こぺる』編集部が編んだ『「同和はこわい考」を読む』にその一端をうかがうことができる。著者自身も個人誌『同和はこわい考通信』をひき続き発行して、自ら提起した問題をさらに深めることに努めている。
 内容の要約はここではしない。ただ、部落差別は実際に差別されている者でなければわからない、踏まれた者の痛みは踏んだ側にはわかるはずがないという立場の絶対化に反対し、差別・被差別の両側から超えることを主張する著者と、部落に生まれ現に部落解放運動内部に働く前川む一氏との誠実な往復書簡が収録されていることだけを紹介しておこう。本書の魂はここにあると言って良いと思うから。

小森 龍邦「部落解放運動の現在───共に苦しみ人間復権を」
  (『中国新聞』93.6.7. 「中国論壇」)
 部落解放運動は、歴史的社会的理由による被差別部落民衆の人権を回復することにある。この人間復権なるとりくみは、差別されているもののためのみならず、分裂支配政策によって、差別させられているものの、人間的いびつさとでも言おうか、自己疎外状況にある民衆の人間復権のとりくみでもある。

同じ地平に立って…
 世に言われる社会啓発なるものが、単に被差別民衆に対するものにとどまらず、広く国民を対象とするものであることが、関係者の間で理解されるようになりつつある。/それは「差別することの愚かさ」という抽象概念の理解のみならず、差別によって双方が受ける損失に気付きつつあることを意味する。つまりは、分裂支配の社会的理由が明らかになってきたということである。/ところが世の中には、まだまだ、このからくりのわからない人もいる。被差別部落の運動に協力することは、そういう立場の人への「哀れみの情」ぐらいにしか理解していない人たちのことである。分裂支配が「損のわけ取り」をねらうものだとの認識に欠けているのだ。
 部落解放運動が近時、急速に仏教の説くところに接近し、仏の「大慈大悲」を人間の平等観を強調するための論理として展開。「慈悲心」なるものは、高きより低きを「哀れむ」というものではなくて、同じ地平に立って、共に苦しみ、共に悩むとするところに、「同情融和」の思想との根本的相違性が存在するからである。
 同じ仏教にあっても、親鸞の浄土真宗に、被差別部落の民衆が圧倒的に多く、その門信徒となっているわけは、「煩悩具足の凡夫」「いし、かわら、つぶてなるわれら」などと親鸞が被差別民衆と同じ地平に立っていたことにもあると思われる。もちろん道元、日蓮らの鎌倉仏教の宗祖方はそれぞれ、そのような姿勢を具有していたればこそ、古代仏教から一種の宗教改革をなしとげ、民衆の心をつかむことができたのであった。
 近ごろ、本紙『中国新聞』紙上に、「同情融和」の立場に立ち、政府とくに法務省の融和主義と協調する『こぺる』誌の復刊のことが報じられた。『中国新聞』が紹介した記事の一部を引用してみる。
 「復刊第一号では、編集責任者の藤田敬一岐阜大教授が、これまでの部落解放運動を概括。『差別する側』『差別される側』といった立場を絶対化する考え方を超えて、人と人との関係を変えていくよう模索する論文を寄せている」
 部落解放は、差別と被差別の立場を超えた共通の利害をともなうものというなら、今日の部落解放運動の提示する理論と一致する。『こぺる』において言わんとするところは、「差別される側」からの人間解放の叫びが、「立場の絶対化」だと言って、差別を企(たくら)む支配階級をよろこばせる論理に立っている。

解決にならぬ「融和」
 「差別される側」と「差別する側」とは、たして二で割るような「同情融和」では問題の解決にならない。「差別する側」も悪いが「差別される側」も、その言語と態度を改めねばならないという論理であるからだ。/同和対策審議会答申が「国の責務」「国民的課題」だと提起したところからも遠く離れたものである。/自らを「差別する側」と気付いたら、いかにして、被差別者と同一の地平に立って、悩み、共に苦しむところに身をおくかが重要である。藤田敬一氏は、86年地対協路線の融和主義と歩調をあわせて、『同和はこわい考』という「奇を衒(てら)う」ような題名の冊子を発行したことがある。「同和はこわい」という意識を批判するようなポーズをとりながら、「こわい」と思われる被差別民衆の「悪さ」を社会的にあげつらうというものであった。(部落解放同盟中央本部書記長)

《 あとがき 》
★七月中はとうとう発行できませんでした。それほど忙しかったわけでもないんですが、ワープロをうって印刷して発送するのに最低二日間必要で、その時間がとれなかったというにすぎません
★今年もムクゲが花をいっぱい咲かせています。この花は枝についているときはきれいなのに、落ちると路上にベターッとひっついて、なんとも無残。美しいままで終わるのはむずかしいということですかねぇ
★前川む一さんの作品集『蜂のムサシ』(柘植書房、2,060 円)と吉田欣一さん(岐阜市在住)の『吉田欣一詩集』(土曜美術社出版販売、日本現代詩文庫78、1300円)が出ました。一読してくだされば幸甚
★全国交流会が近づいてきました。ぜひお出かけください。わたしも一日目の全体会で短い報告をします
★6 月15日から7 月31日まで、岐阜(4),三重(2),京都(3),大阪(2),神奈川,愛知,奈良の14人の方より計50,912円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向187-4 藤田敬一です。(複製歓迎)