同和はこわい考通信 No.70 1993.5.21. 発行者・藤田敬一

《 紹介 》
『こぺる』No.2(93/5)の内容
 ひろば②
  沖浦和光「<特殊部落>という言葉の意味するもの
       ──高橋貞樹『特殊部落一千年史』の改題をめぐって──」
 メディア・メディア②
  池村六郎「<暖かくて冷たい>状況──double bind 」
 旧こぺる主要論文目次

次号(No.3.93/6)の予定
 ひろば③
  師岡佑行「ふたたび『特殊部落一千年史』への原題復帰を求めて」
 メディア・メディア③
  池村六郎「上品な・身振り・しぐさなど」
 第一回『こぺる』合評会から(藤田敬一)

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《 採録 》①
前川む一「『人間と差別』を考える───『こぺる』再刊について」
            (『毎日新聞』大阪本社版、1993年3月11日夕刊)
 『こぺる』という、薄くてコンパクトな雑誌があった。京都部落史研究所が発行していたA五判十六頁の月刊誌で、二つ折りにするとポケットに収まる、ほどよい雑誌であった。/この『こぺる』は一九七七年に発足した同研究所の『所報』として翌七八年一月に創刊されたもので、六年のちの八三年六月に体裁を改め、『こぺる』と改題されたものである。
 この誌名を改めるさい同研究所長の師岡佑行さんは「新しい革袋に」と題して、同誌に「部落問題を核心としながらも、話題をそこに限定せず、広く現に私どもが生きている時代を様々な角度と形において把えることをねらいとして」と、その方針を記している。/しかしこの名前は、耳目になじまないこともあって、八三年の春におこなわれた同研究所総会で戸惑いの声があがったものだ。
                  □
 わたしの場合、この『こぺる』といえば、まず藤田敬一著『同和はこわい考』をめぐる、一年間にわたり同誌で交わされた論議が忘れられない。/一九八六年、政府の一審議機関である地域改善対策審議会から、国および地方自治体がおこなっている同和対策事業に、縮小、見直しを迫る「意見具申」が出された。当然、民間運動団体から抗議がなされた。
 この政府と民間運動団体との間で、きびしいやりとりが交わされているさなかの八七年五月に、『同和はこわい考』が出版されたのであった。同著で藤田さんは、解放の展望を明らかにするためには理論の検討と再構築は欠かせないが、そのための最小の条件は、差別・被差別の両側の対話の成立だとし、共感と連帯にもとづいて「両側から超える」必要があると問題提起した。
 このとき『こぺる』編集部では、『同和はこわい考』への賛否を含む感想を諸氏に求めたところ、部落解放同盟中央本部書記長の小森龍邦さんや、部落解放運動に携わっておられる方々からも貴重なご意見が寄せられた。/ほぼ同時に『朝日ジャーナル』も「『同和はこわい考』論議の渦中から」と題する連載を断続的に掲載している。しかし藤田さんの主張が、あまりにも文学的にすぎたため、双方の論議が噛み合わないままにおわった。この舞台になったのが『こぺる』であった。
                  □
 それが昨年の五月、同誌一七三号に、とつぜん「廃刊のごあいさつ」が掲載された。その主な理由は『京都の部落史』と『近江八幡の部落史』の主務に集中、専念したいため『こぺる』編集までの余力がない、というものであった。/この廃刊の辞は、たしかに大方の読者にとっては唐突であり、そのためもあって廃刊を惜しむ声がぞくぞくと寄せられたのである。
 『こぺる』は、まことに薄い冊子ではあったが、また「中世に生きる人びと」や「近世に生きる人びと」を連載し、それらは『中世の民衆と芸能』『近世の民衆と芸能』として結実している。ゆえに、同誌の廃刊を惜しむ声は多いのであった。
                  □
 この度、有志が『こぺる』の再刊を決め、何回か顔を合わせる中で、どんな雑誌に育てるかを話しあった。まず先立つ資金も欠かせないため、生臭い話も交わしあった。/さらに、『こぺる』刊行会を発足させ、目下、一人ひとりが株をもつように「一灯」を持ち寄りつつある。ただし力に応じ、何口でも供出しあうが、口数に関係なく同等の権利と発言を保障しあい、けっして組織をピラミッドにはしないと申し合わせた。/しかし世話人と代表、編集委員会と編集長、会計と会計監査は欠かせないだろうから便宜上置くとし、この世話人会、編集委員会には刊行会に加わっている人なら誰でも参加できることとした。
 ところで、もっとも大事なのは編集方針である。どんなメディアに育てたいのかということであった。/基本的には元『こぺる』の方針を継承して部落問題とあらゆる差別の問題をテーマに据えはするが、かつて語られ論議され、もう結論がだされたと思われる問題であっても、いま一度見直し、自分の言葉で語りなおすとした。さらに、それがどのような意見であったとしても、わたしたちがいま生きている場を照らすものなら、限定はしないということであった。
 最後にわたしとしても、広く「人間と差別」に関わるご意見なら、どなたが参加したくださっても嬉しいし、いま交わされている差別や人権の問題が、ごくふつうの声音で語られる場となれば、さらに結構だと考えている。
 多くの方のご支援ご参加をお願いしたい。(まえかわむいち=詩人)

コメント.
 毎日新聞や京都新聞のほか、各地の新聞が『こぺる』の復刊を報道してくださり、大阪の『人民新聞』には「購読のお願い」文が掲載されました。おかげさまで電話などによる申し込みが続いています。
 ところで、前川さんの文章には、復刊に至るまでの経過と新『こぺる』の趣旨が丁寧に書きこまれていて、さすがですが、ただ一か所、『こわい考』論議について、「藤田さんの主張が、あまりにも文学的にすぎたため、双方の論議が噛み合わないままにおわった」と書かれている部分では「オヤッ」と感じました。「論議が噛み合わなかった」、その原因は藤田にあるといっておられるように受けとれなくはないからです。誤解される方があるといけませんのでコメントしておきます。
 「『同和はこわい考』を読む」「『同和はこわい考』をめぐって」と題して87年6月から89年12月まで前後33回、執筆者のべ36人におよんだ『こぺる』誌上でのあの論議は、部落解放運動をめぐる問題のありかをはっきりさせました。論点がずれて、進展が見られなかったわけではありません。それは、掲載された論稿を選んで編まれた『同和はこわい考を読む』『部落の過去・現在・そして…』(いずれも、こぺる編集部編、阿吽社刊)を読んでもらえばわかります。
 たしかに小森龍邦さんや江嶋修作さん、本山勝美さんから批判が出されました。小森さんなどは、「地対協との違いはどこに」(87/7)、「再び『地対協』との違いを問う」(87/12)の二篇を寄稿しておられます。批判に対しては反批判が出され、さらに再批判がなされる。こうして論議は深まっていくものでしょう。
 わたしは当初から開かれた議論、すなわち公開の場で、組織の枠を越え、自立した個人の間で議論がすすめられることを願っていました。集団や組織の名のもとに、ある作品に対して一定の評価が下され、取り扱い方、遇し方が決められるとしたら、もはや開かれた論議にはならない。ところが論議最中の87年12月、部落解放同盟中央本部は機関紙『解放新聞』第一面を使って「『同和はこわい考』にたいする基本的見解」を発表し、「『地対協』路線と同水準のもの、国家権力と対決している時に部落解放運動にたいする味方の発言とは評価できないとして、きびしく批判していくことを決定した」のです。つまり、『こわい考』は論議の対象ではなく、批判、指弾の対象とされたのでした。論議の打ち切りを宣言したのは、わたしではなく、小森さんたちです。
 もちろん、その後も小森さんは機会あるごとにわたしを批判し、『こわい考』一派なるものへの警戒を呼びかけておられます。わたしもこの『通信』や『こぺる』を通して反論していますから、論議は継続中で、論点が次第に鮮明になってきている。わたし自身ずいぶんと考えるヒントを得ました。それに論議が噛み合っているかどうかより、論議の中でそれぞれが思索を深めればいいわけでしてね。
 なお、前川さんは、わたしの意見が文学的にすぎたと評しておられます。「文学的」という言葉はなかなか意味深長で、思想的という意味あいもあれば、修辞的という意味あいもある。前川さんがどのような意味あいで使われたのかわかりませんけれど、読みようによっては、わたしの意見を誤読、誤解した人への皮肉、あてこすりともとれる。ま、言葉のあやということにしておきましょう。

《 採録 》②
「同炎の会第九回研究集会・第十四回総会の案内」から
 同炎の会の運動が批判的に議論されているのに対応が遅れています。(中略)

〔経緯〕
『差別と解放───「差別者の自覚」批判をめぐって───』というテーマで研究集会と総会を開催するに至った経緯。
①藤田敬一の提起
 「同和はこわい考通信No.57」で藤田は平田・調の往復書簡(同和推進フォーラム13号)を批判し、さらに、同号の藤井慈等の文(水平社宣言に聞く)に対して質問が寄せられた。
②拡大役員会の招請
 藤田の質問が同炎の会運動の理念と関わるものと考え、同炎の会では拡大役員会を招請した。
③畑辺初代の提起
 拡大役員会での案内準備中に畑辺が『差別者の自覚について』(同和はこわい考通信No.59)を書き、大谷派の部落解放を批判。そこで畑辺にも拡大役員会への 参加を招請する。
④藤井慈等の提起
 藤田の要請に応えて『時の名のりということ』(同和はこわい考通信No.61)を書く。
⑤拡大役員会の開催
 藤田の提起に応えた畑辺、藤井の論を手がかりに、ここ10数年の宗門における部落解放運動・解放理論の検討をするはずでした。畑辺の部落認識の指弾ということに議論が集中し、目的を果たせないままに閉会。
⑥畑辺初代の反論
 畑辺は拡大役員会での批判への反論を「南御堂361 号」に、藤井論文への批判を「同和はこわい考通信No.62」に書く。しかし同炎のたよりに寄せられた批判は撤回。
⑦畑辺初代の再反論
 代筆問題を過剰評価し、反論の趣旨が本来議論したい「差別者の自覚」から逸れているとの判断からしばらくは静観し、課題を整理して拡大役員会を開催することを決める。
⑧地方大会の中止
 三重同炎の会より同炎の会三重集会を開くことができる状況に内外ともにないということで中止要請。
⑨研究集会の延期
 今年3月の開催を決定するが、準備を整えれず延期。

〔課題〕
 藤田さんが『「同和はこわい考』通信」の紙面を費やして平田・調往復書簡をはじめ大谷派の解放運動を取り上げている意図がわからないところがあったのですが、悠長に構えていたせいで、再刊「コペル」誌で次のような藤田さんの文章を読むことができ、見えたきたものがあります。

「差別・被差別関係が固定化され、両側の対話がとぎれる状況の根底には、人間を…差別者と被差別者とに分ける二項対立的思考方法があり、その克服なしには部落解放にむけた人と人との新たな関係はつくれないだろう。…部落問題に無関心であったり、被差別部落に住む人々の思いと願いに鈍感な人は多い。だからといって被差別部落民以外の者は差別者だとはいえない。…(差別者と)自己を規定しているかぎり、いつまでたっても対話の当事者になれないし、まして人と人との関係を変える主体になれるはずもない。」

 藤田さんはこれまでの続けてきた被差別という立場の絶対化・固定化への批判に次いで、今回は差別者の自覚を理念とする運動にも立場の絶対化・固定化があるという批判を課題に置かれたのだと思います。
 批判の中心である差別者という概念のママえ方ですでに誤解があるよう思われ、とまどいを覚えます。しかしそれはむしろ、私たちの主張が教団内でしか通用しない閉塞した主張に止まっていることを示唆するものとして受け止めていきたい。
 さらにこの批判が従来のように大谷派教団が部落問題に取り組まないことへの批判でなく、取り組みのあり方についての批判であることに注目していきたい。つまり旧態依然とした部落観や闘争スタイルからの脱却を模索する今日の部落解放運動の状況からいっても、同炎の会を含め大谷派教団の解放思想の普遍性がこれからも問われる機会があると思われるからです。
 そうしたことから、「私たちの解放思想」を教団の外にある人と対話できるような形に開いていくことがまず求められているのだと考えます。
 そこで今回の研究集会・総会では、「差別するものの解放」という表現にこめてきた論点や課題を整理すること、また現在提起されているいくつかの解放理論を学び、これからの相互批判を可能にする方向を探ってみたい。さらにそうした解放思想の課題整理と関連して地域同炎の会の活動を中心に同炎の会の実状と課題を検討していきたい。(『同炎のたより』No.30、1993年5月10日)

コメント.
 コメント.  真宗大谷派の同和推進本部が発行する『「同和」推進フォーラム』(89/9) に掲載された調さん(当時の推進本部長)の文章「いま思うこと」をめぐる論議(本誌47、57、58、59、65号の各号参照)をきっかけとして、大谷派の「同炎の会」の方たちと、畑辺さんやわたしとのあいだで、「差別者の自覚」「差別からの解放」についていくらか議論しました(本誌61、62号参照)。新『こぺる』創刊号の拙文が、これらの論議をふまえていることはいうまでもありません。わたしに誤解があるかどうかはともかく、「同炎の会」の研究集会でどのような見解が出されるか期して待ちたいと思います。

《 各地からの便り 》
■ 三月、四月のコペルの会議では、考えさせられることが多くありました。とくに、差別語をめぐっての話では、はっきりとわかりました。目に見える言葉の言い換えは、人々がどう関係を作っていくかを考えていく主体性がなければ、見えにくい人と人との関係の差別をごまかし、おおい隠すのではないでしょうか。関係を作ろうとする主体性がないからこそ、人を傷つけまいとする善意にもかかわらず、言い換えられた言葉には内実がなく、トンチンカンの言葉が生まれてくるのではないでしょうか。   (兵庫 H.Sさん)

コメント.
 ある言葉が人を不快にさせたり傷つけたりするなら、そんな言葉は葬りされというもの、言葉の言い換えを主張するもの、言葉に対する干渉をいっさい排除せよというもの、言葉を言い換えても現実の差別はなくならないのだから言い換えは意味がないというもの、差別語や不快語の問題は大いに論議すべしというものなど、差別と言葉に関して、70年代以降、百花斉放、百家争鳴の状態が続いています。ところが、言葉や表現の規制だけが確実に進行している。なんとも奇妙な話です。
 つい先だっても、所ジョージさんが袋詰めにされて身動きができない状態で電話するコードレス電話機のコマーシャルが「手足が不自由な身障者の気持ちに配慮していないのではないか」と指摘があり、急遽放映中止になったといいます。三洋電機は「配慮が足りない、と一人でも感じるのであればCMとしてマイナス」だと打ち切りを検討しているとか。「そんな理由でCMを中止するのは不愉快だと二人の人が電話すればどうなるのか」と友人が話していましたが、ほんとにそんな電話がかかったらどうするんでしょうね。朝日新聞の記事には、天野祐吉さんの「だれ一人として不快感を持たない表現なんてこの世には存在しない」との談話が載っていました。まったくその通り。「足を踏まれている者の痛さは、踏まれている者にしかわからない」という痛み論、「踏まれている人が痛いというかもしれない以上、そんな表現はしない方がよい」という気づかい論、「主観的意図にかかわらず、差別を拡大助長する可能性がある」という拡大助長論は、考えられている以上に根強いのです。沖浦和光さんは『こぺる』5月号で

私は、師岡さんのおっしゃるように糾弾を恐れて「出版界がオロオロしている」とは思いません。今日の出版界は、そんなに思想的主体性のない人ばかりなのでしょうか。

と書いておられますが、ジャーナリズムにオロオロ現象が定着していることは事実ではありませんか。
 以前紹介したことがあるように、部落解放研究所編『部落解放史───熱と光を』(解放出版社刊)の凡例に、「本書には、部落の地名が実名で数多く出てくるが、利用に際しては、これを差別的に悪用されることがないよう、くれぐれもお願いしたい」との注意が載っています。わたしにいわせれば、地名が「差別的に悪用されることがないよう」にするには、誰の目にふれるかわからない(したがって「差別的に悪用されかねない」可能性がある)書店に並べるなどとはもってのほか、金庫にでもしまっておくしかない。まさか編者たちがそんなことを考えているはずがないでしょうが、そう読めます。とすると、凡例のこの注意書きは気安めにすぎないことがわかります。気安めでもいいから書いておくというところに、すでにしてオロオロが顔を出している。部落解放研究所、解放出版社ですらこうなのだから、ほかの出版社は推して知るべきです。素直にまわりを見渡せばオロオロ現象が見えてくる。それが見えないというのは不思議としかいいようがありません。

《 あとがき 》
★先月、『通信』と『こぺる』の読者会に招かれ、松江に出かけてきました。日程の都合で大山や宍道湖をちらっと眺めただけの駆け足旅行、もったいないことをしました
★神奈川のK.Rさんから『こぺる』創刊号の拙文について「何回も読んだり聞いたりしたような気がするものが多く、運動が堂々めぐりをしていることを示すようです」との感想が寄せられました。わたしとしては、これまでに書いたものをベースにしつつ、総括の視点を提示し、共同の営みが成り立つ根拠を述べるとともに、わたしなりの見通しを明らかにしたつもりです
★一方、大阪のK.Sさんのお便りには「何度も読みました。この四月からはじめて同和教育推進校に転勤します。それほどの不安も、気負いもなく、きちんと向きあってみようと思っているのですが、「大変ですね」という同僚の励まし、とも同情ともとれる声がかえってプレッシャーになります。そういう時に読んだ藤田論文でしたので励まされる思いがしました」とあり。人様々ですね
★『通信』、次号から7年目に入ります。飽きられているかもしれませんが、もう少し続けるつもりです。今後ともよろしく
★4月9日から5月19日まで京都(5),岐阜(2),滋賀、大阪の9人の方より計58,010円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)