同和はこわい考通信 No.69 1993.4.12. 発行者・藤田敬一

《 おねがい 》
『こぺる』の購読申し込み、よろしく
 新『こぺる』1号が発刊されました。世に部落問題関係の雑誌は多いけれども、組織や集団にたよらず、個々人の力を寄せあって発行するという意味では画期的だと自負しています。目下、こぺる刊行会会員はもとより、旧読者からも購読申し込みが順調に届いています。しかし、まだ目標部数に達していません。郵便局へ出かけるというのは、昼間勤めている人にとっては、なかなか大変なことだと推察しますが、なにとぞ足をはこんでくださいますように。
 創刊第1号は、藤田「運動は人と人との関係を変えたか──対話がとぎれる現状をみつめる」、池村六郎「表情というコトバ──日常のコミュニケーション」、師岡佑行「『特殊部落一千年史』への原題復帰を求めて」の三篇を掲載しています。
☆『こぺる』編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任 藤田敬一)
☆発行所 〒602 京都市上京区寺町通今出川上ル4丁目鶴山町14 阿吽社
     Tel.075-256-1364 Fax.075-211-4870
☆年間購読料4000円 郵便振込 京都1-6141 こぺる刊行会

 なお、お寄せいただいた基金と購読申し込みとは別です。念のため。

《 各地からの便り 》
 貴論文、きわめて論旨明快、《こわい考》の延長線上の文章だと思います。‘共同の営み’によって壁が消える、という見通しはおそらくそうなのでしょうが、その前に(その途中で?)、師岡書函にもある賤称を‘誇りある名’に逆転させる───その‘誇り’を対等性において認め、讃え、共有するという一段を意識的に強調せねばならないのではないか、という感想を抱きました。(それと対応的に、差別を恥ずること、恥ずることをマトもな心性と認め、“讃え”、共有する、ことが在るはず)
 日頃、考えていることではないので、タダ貴論、師岡書函を拝読しての意見なので、ピントは合っていないでしょうが、《新こぺる》を出された情熱に少しは応えねば、と思って感じたことを書きつけてみました。
 なお注文二つ。一つは簡単なことで、この雑誌を一定の知識(部落問題への)を持っている人だけを対象にするのかどうかとかかわるのですが、注釈の問題。もし、知識のない人にも、というのであれば、例えば、オール・ロマンス闘争、とか若干、注の要るものがあると思います。
 二つ目は、大問題。ぼくが読めば、論旨がスウッーと入ってくるのに、この六年、仕組に動揺なし、ということは、われわれの書く文章に問題があるのではないか。かつての文語から口語への転換と対応するような、口語的文章語から生活語(“共同の営み”語では語呂悪し)とでもいった転換を求められているという気がするのですが、もちろん、それはコレだ、との答を用意して言っているわけではありません。いろいろな接触の機会が多い貴兄に、その方面も少し考えてもらえれば、と思って書きつけておきます。
 以上、祝福旁々若干の感想まで。二号以下、維持が大変でしょうが頑張ってください。   (京都 H.Nさん)

コメント.
 H.Nさんは、わたしの書くものを丁寧に読んで、時折こうして感想を寄せてくださいます。ほんとにありがたいことです。
 ところで「賤称を‘誇りある名’に逆転させる──その‘誇り’を対等性におい て認め、讃え、共有するという一段を意識的に強調せねばならないのではないか」との指摘は難解ですが、わたしなりに理解したところはこうです。
 被差別者が賤称を「誇りある名」に逆転するとは、自らが賤称によって示される存在であることを引き受け、そうすることによって賤称はもとより賤視そのものを無意味化し、人間観の逆転をはかることにほかならず、被差別者以外の者もまた対等な立場で、被差別者による、かかる賤称、賤視の無意味化、人間観の逆転を認め、讃え、共有する段階が必要で、それは同時に人が差別を恥じることを、まともな心性として被差別者も認め、讃え、共有する段階でもあり、この二つの側面を含めたものが差別・被差別の壁が消える過程の内実であるということになりましょうか。このように理解して間違いなければ、「讃える」かどうかはさておき、H.Nさんの意見に賛成です。わたし自身、被差別部落で、人間観の逆転の大切さを教えられてきました。それがなければ、とっくの昔に途中下車前途無効になっていたかもしれません。ただ問題は、それが差別・被差別の隔絶された関係の変革にどうつながるかということなのでしょう。
 注文の第一は、もっともです。これからはできるだけ気をつけます。第二は、おっしゃる通り大問題、というよりコミュニケーションにとって言語とはなにかという問題にかかわります。しかし、そんなことをいっても始まらないので、今のところはせいぜい日常生活語に近い形で表現するように努力するしかありません。

■ 「こぺる」刊行おめでとうございます。早速拝見させていただきました。藤田先生の的確な分析に新鮮な感動を覚えます。

 P.11.【お互いに差異を認めつつ一人の「丸ごと生命いのちいっぱいの人間として向きあい……差別・被差別の二項対立ではない新たな人と人との関係が生まれているにちがいない。】

 まさに至言です。部落問題をこえて人類共通の基本姿勢であるべきです。民族紛争、宗教対立が激化する世界情勢の安定のため、我国の役割が期待され日本人の責任が増大しつつあるとき、この理念がすべての前提であると思います。
 このごろ「人は、いずこより来たって、いずこにいくのか?」考え込むことがあります。百数十億年前の宇宙誕生。二、三百万年前に最古の人間の誕生、日本列島に人が住みついたのは十数万年前のことでしょう。日本語とアイヌ語の分裂したのが約五千年前、首里方言と分離したのは約千七百年前、これらは宇宙の歴史からすれば一瞬の差でしかありません。また日本の基層文化は沖縄文化とアイヌ文化に残されているともいわれます。技術、経済の優劣のみをもってすべての物差しにすることは、未来の人類の幸せにつながりません。人にとって心こそが永遠なのではないでしょうか。   (奈良 N.Tさん)

コメント.
 「お互いに差異を認めつつ一人の『丸ごと生命いのちいっぱいの人間』として向きあい」たいというのは、わたしがこのところ痛切に感じていることなのです。「人間はみんな一緒だ」とよくいわれますが、ほんとにそうなんでしょうか。差異は差異として認めあい、差異をもって忌避・排除の根拠とすることのないようにしたい、そう思うのです。それがN.Tさんのおっしゃる理念にあたいするのかどうか、わたしにはわかりませんけれど、技術、経済だけでなく、これまで当たり前とされてきた物差し、基準をもう一度検証してみる必要があることはたしかです。それは、当然人間の問題につながるはずです。まさしく人間への視点、人をみる物差し、つまり人間に対する“まなざし”をあらためて自ら問い、たがいに問いあうことが求められているのではないでしょうか。

《 採録 》①
岡田 豊「いま三重・同炎の会では」(『三重・同炎の会(通信)』92/12)
 私たち「三重・同炎の会」では1990年の夏以降、金 静美、山本尚友、藤元正樹、金 時鐘などの諸氏の論文や講義録に目を通し、あるいは部落解放研究第4回全国交流集会「解放の思想文化の創造をめざして」分科会討議録を通して、朝野温知さんの帰化をめぐっての、在日の人々と部落の人々とのやりとりなどを目にしました。さらに会員のレジュメや紹介により梁 容子、尹 健次、松井久吉、山本平重などの諸氏の言葉や人となりにも触れることができました。
 その中で私たちが議論し学んだことは、「被差別者」という言葉の実体化による「差別・被差別」の固定化であり、他者を差別する「被差別者」の「被差別正義」でありました。自らの反差別運動を対象化し、そして「差別・被差別」の固定化、絶対化を克服し、「被差別正義」から脱却せんとする在日する人々の運動でした。さらには、「被差別者」も「差別者」も相対的で流動的で、事象によっていくらでもその立場が入れ替わる以上、「差別者」とはいわゆる「被差別者」を含むものだという意見が出されました。また、「部落民」ということを絶対化して「非部落民」との連帯を疎外し、行政からの補助に頼るという解放運動の現実からすれば、解放同盟からの解放が「自立と連帯」の部落解放運動のために必要なのではないかという意見も出ました。そして、「差別者の自覚」によって「被差別者」に拝跪してしまうという落し穴に、我々が差別と関わろうとすると、まず最初に落ちてしまうのではないかという発言もありました。
 こういう歩みから、私たちの間では、来年の二月の「同炎の会三重集会」には藤田敬一さんをお呼びし、また藤田さんの「両側から超える」論に対する疑問もぶつけてみたいとの意見の一致をみました。この提案を持って、七月三十一日の京都での「同炎の会拡大役員会」に藤井さんと大橋さんは臨みました。しかしながら、この役員会については、すでに「同和はこわい考通信」No.62の畑辺さんの文章ですでに触れてありますように、暗澹たるものであったようで、当然この提案も吹き飛んでしまい、またその後の展開で、二月に三重で開くことができるような状況に内外ともにないということで、93年2月22、23日の「同炎の会三重集会」は中止ということになりました。
 さて、その後の「同和はこわい考通信」を舞台とする論議が、「同和推進フォーラム」誌上における「平田・調往復書簡」が「同炎の会」のメンバーのKさんTさんによって代筆されたものであることを知っていて、その上で藤井さんの「同和はこわい考通信」No.61の文章が書かれたものなのかという点を巡って、あるいは「同炎の会」と宗門当局にどのような関係があって代筆がなされたのかという点、さらには代筆そのものを「同和推進フォーラム」15が否定したことを巡って展開されていますが、ここではもう一つの焦点、「差別するもの」「差別者」について少し考えてみたいと思います。
 「差別するもの」という言葉自体が「差別者・被差別者」の固定化と結び付けられて考えられてしまっています。そのうえ、「差別者の自覚」というとき「おまえは差別者なんだぞ」と他から強要される「自覚」であり、他に強制する「差別者であるという自覚」というイメージが付きまとっています。しかし「同炎の会」の「差別するものの解放」の出発点はそんなにところにあったのではないと思います。藤井慈等さんの言葉を借りれば、「山間の田舎の寺で藤田さんのいわゆる「こわい」意識いっぱいの村共同体のなかで」とあるように、差別意識むきだしの門徒の人々と、またその差別的言動に対してもあいまいな態度しかとれない寺の住職としての自分を見つめるとき、部落の現状がどうなのかもさることながら、我々の課題は「差別するものの、差別をするという悲しいことからの解放である」という、素朴なところから出発したのではないかと思います。/それは他から押し付けられるような「差別者の自覚」でもありません。また「被差別者」の対概念であるような「差別するもの」でもありません。それは差別の中に自己を見いだし、差別の中に人類の課題を見いだし、それを自己の使命とする人間たらんというのが、「差別するものの解放」であったのだと思います。「業の現実を通して、新しく生きる道を見いだしていく自己創造」という、宗 正元さんの「三重・愚禿の会」での講義の言葉があります。「差別するものの解放」とはそういう方向を模索するものであると思います。

コメント.
 岡田さんとわたしとの間にそれほど違いがあるようにも思われませんが、「差別するものの解放」という言葉にはどうしても違和感を抱いてしまいます。それはきっと、わたしが差別・被差別の隔絶された関係の実情をふまえ、関係総体の止揚を求めるという考え方に立っているところからきています。
 わたしのまわりにも「差別意識むきだしの人々」はいますし、それよりもっと多くの無関心な人びとがいます。そんな人びとに対して、わたしの言説や行動はほとんど無力に近いかもしれません。にもかかわらず諦めないのは、少数であれ両側から超えて共同の営みを模索する人びととの出会いと対話があり、その小さな輪を広げてゆく中で、新たな関係が生まれるに違いないと想定しているからです。大きな網を打たない、人を組織しようなどとは考えない。自分以外の何者をも代表しない、個人と個人との出会いと対話に希望をつなぎたいのです。

《 採録 》②
小森 龍邦「格差の是正と主体の確立」
 (『部落解放』No.356,1993年4月号、「きのう・きょう・あす」)
 差別者にとって、まことに「耳ざわり」のよい主張として「確認」や「糾弾」に出席しなくてもよいというのがある。法務省人権擁護局が、それを一生懸命に力説している。/しかし、愛媛県の松山で発生している結婚差別事件の例などは、典型的な事例として、この主張がムチャな理屈であることを明らかにしている。/こともあろうに、愛媛県の例は、結婚差別した当の本人が松山法務局の職員である。それを「確認」「糾弾」もなく、法務局側の「調査」ということになる。/いま、どの程度の「調査」ができたのかとたずねれば、「プライバシー」なのでお話しできませんという答えが返ってくる。
 広島県尾道市の小林百合子事件の場合などは、「調査」中ということで逃げつづけていたが、事件発生以来、七年目にして、やっと彼女を「説示」の処分にしたという。/「説示」の内容はとたずねれば、これまた「守秘義務」だの「プライバシー」だのといって、差別を受けた当事者にたいしても、なんの様子も知らせない。 法務省人権擁護局というのは、まったく理不尽を地で行っているといわねばならない。/しかし、政府部内においても、法務省人権擁護局が困った存在だということが次第に浸透しはじめている。その意味では部落解放同盟の闘いは、86年「地対協部会報告」の路線を相当程度、打破したものと見てよいであろう。
 たが、彼らにとって、もうひとつ逃げ場が存在する。それは残念ながら、依然として、運動の味方のような素振りをしつつ蠢動しゅんどうしている『同和はこわい考』の一派のことである。/部落解放運動の重大な闘いである「基本法」制定闘争になんの寄与をしようとしない連中のことである。いな、それどころではない。「基本法」が制定されなくてもよいと考えているのかもしれない連中のことである。
 部落差別が現存することを、差別というものにしっかりした認識をもたない人に説明するときには、「市民的権利」が行政的に不完全にしか保障されていないといえば、なんといってもいちばん手っ取り早く理解されるであろう。それを私は、「市民的権利」享有時の格差の問題だといった。
 えせ県連の『解放新聞』(岡山)の対談形式の記事のなかで、差別というものは格差の問題ではない、なぜなら格差が是正されても差別は解消されていないという意味のことを述べているところがあった。彼らの言いたいのは、格差が是正されても、部落解放の主体が確立されていなければならないということである。/そんなことは、十数年の前から部落解放同盟中央本部の運動方針で明確にしているところ。わざわざ格差是正と主体の確立を二律背反の論理に持ち込もうとするところに、部落解放運動以外のよこしまな彼らのねらいというものがある。
 ところで彼らの主張は、「地対協」路線がいうところの「自立」思想と符合してくる。総務庁地対室に「部会報告」の推進者であった熊代という人物がいたころ、彼は、交渉の度ごとに、前記のような主張を持つものもいるというところに逃げ込んでいた。/『同和はこわい考』は、いかにも、このような主張に論理的基礎を与える役割を果たしている。/彼らは、「差別」と「被差別」の双方の立場を両極から超えることが必要だと、まことに差別者にとって「耳ざわり」のよいことをいう。そして、部落解放同盟の闘いに敵対的気持ちをもっている新左翼のグループとか、「糾弾」をされたら困るという連中から相談を受けていることに気分をよくして、今日もなお蠢動を続けていると分析する。
 日本における部落解放運動が歴史的に成功するかどうかは、もちろん、差別行政との闘いをいかにはげしく展開するかにかかっている。だが、敵の裏側に陣取って、運動をやりにくくしているものに、適度な警戒心が必要である。

コメント.
 読者から、小森さんの文章を載せるのはもうやめたらどうかとの忠告をいただきましたが、わたしとしては『こわい考』に関する論評はできるかぎり採録するというこれまでの方針をつらぬくつもりです。悪しからず。

《 あとがき 》
★やっと『こぺる』復刊にこぎつけました。3月27日夜、カリン亭に立ち寄り、新潟に向かって乾杯。感慨深い夜でした
★『こぺる』のあとがき“鴨水記おうすいき”は、これまで通り阿吽社の森芙美子さんの筆になります。創刊第1号の“鴨水記”でふれておられる花梨、花が咲きました。秋には芳香を放つ黄色い大きな実がなります。花梨は「お金を借りん」といって縁起がいいとか。『こぺる』もあやかりたいものです。アハハ…
★故北原泰作さんの出身地、黒野栄町の知人から春祭りに御輿をつりにこないかと招かれました。岐阜ではかつぐことを「つる」といいます。体調をくずしていたので初めは御輿について歩いていたんですが、そのうちお神酒が効いたのか元気になり、後半は一緒につりました。やはり祭りは御輿にかぎる。この分だと来年も出かけることになりそう
★小森さんによれば、秘密結社『同和はこわい考』一派なるものが存在しているらしい。しかし、この『通信』は、わたしが勝手に発行しているもので、部落問題全国交流会も年に一度出会う不定形の集まりにすぎない。どこにそんなものがあるのでしょう。一派だなんて、わたしはさておき、みなさんに対して失礼です
★前号、小森文に漢字転換ミス(P3-3行目「ないよう」は内容、13行目「絶対か」は絶対化)や、三橋文に脱落(P7-17行目、「問題は差別である」は「問題は一切差別である」)がありました。お詫びして訂正します
★3月16日から4月7日まで、三重,岡山,奈良(2),京都(2),大阪の7人の方より計18,308円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)