同和はこわい考通信 No.68 1993.3.13. 発行者・藤田敬一

《 お知らせ 》
新『こぺる』は4月より刊行します
体 裁:A5判 16頁
発 刊:毎月25日(月刊)
購読料:年間4000円(送料込み)
購読申し込み先:〒602 京都市上京区寺町通今出川上ル4丁目鶴山町14
           阿吽社気付 こぺる刊行会
           電話075-256-1364 FAX075-211-4870
           郵便振替 京都1-6141 こぺる刊行会
           銀行振込 京都中央信用金庫西陣支店
                普通0555464 こぺる刊行会
☆93年4月号の内容
  部落のいまを考える:藤田敬一「運動は人と人との関係を変えたか」
  メディア・メディア:池村六郎「表情というコトバ」
  ひろば:師岡佑行「『特殊部落一千年史』への原題復帰を求めて」

《 各地からの便り 》
■ 前略
 新『こぺる』刊行ご苦労さまです。期待を寄せて創刊号を待ちたいと思います。この便りと同日に購読料並びに基金一口を振り込みました。京都のカリン亭までは出かけられませんが、先生のご苦労を思いつつ自宅で酒を飲むことにいたします。
 新潟県は、部落問題の研究者も少なく歴史的事実の発掘と評価が遅れています。現実の事柄にしても積極的に解明する人々不在のため本問題への関心・取り組みを拡大する方向にないことまことに残念と言わざるをえません。本県在住の研究者は、木下浩を第一世代とすれば、年配の方々が一線をしりぞかれました。第二世代は、高校教師の二名の方がそれぞれ専門の分野から発言されておられますが、この方々以外おられません。サークル的な組織が二~三つありますが、今一つ力不足のように思います。/関西とは違った部落の分散性の中で様々な課題・解明すべき点が多々あるのですが、私自身基本的な素養もない中で個人ではいかんともしがたく残念な日々です。通信第67号の求めに可能な協力と手にする「こぺる」「通信」からも勉強したく考えております。   (新潟 N.A.さん)

コメント.
地域には地域の特性があり、したがって部落差別問題の“問題性”もまたそれぞれの地域的特性を帯びています。岐阜もご多分にもれず部落史・部落差別問題の専門研究者は皆無にひとしい。研究というのも、部落差別問題への関心と取り組みのありようを反映するというわけでしょう。しかし、わたしは諦めておりません。いずれ研究者は出てくるものと思っています。

■ いつも「こわい考通信」をお送り下さってありがとうございます。通信のファイルもあつくなって、藤田さんとお会いしてからの年月のたつ早さを、あらためて思いかえしています。ムラの解放運動から離れない距離で、私なりに頑張ってみようと思っていた時に、藤田さんたちと出会い、通信を通して、ずいぶん考える機会を作ってもらいました。20年、必死になっていた、しがみつこうとしていた「運動」にようやくみ極めがついたという思いで、今はずいぶん冷静に運動をみつめられるようになりました。絶望は最後にするもの、まだまだ絶望する時ではない、様々なものがこわれていき、こわされていき、また再生するなら、あせらず、再生の日にそなえていよう、気持だけは、理想をすてないでいようと思っています。藤田さんの静かなたたかいから、ずいぶん励まされています。感情をコントロールすることのむずかしい自分の性格を、西の方の人のごたくに悩まされている藤田さんの腹だちとくらべて、「まだまだ」と元気がでました。相もかわらぬ、はしたないバトウにめげず、静かにとき聞かせる大人の態度を忘れない藤田さんに、私は尊敬を覚えます。どうか、頑張ってこの通信を続けてください。(大阪 Y.K.さん)

コメント.
Y.Kさんは、わたしを買いかぶっておられます。それほど冷静じゃないんです。感情の起伏は人一倍で、なんとか持ちこたえているありさま。今年の年賀状に「批判すらも、わたしの生の証だと考えられるようになりました」と書いたけれど、やっぱり格好よすぎる。あんなこと書くのではなかったと反省してます。それはともかく、各地の友人が寄せてくれる便りに支えられていることだけは間違いありません。ですからY.Kさん、これからも時々お便りください。

《 採録 》①
小森龍邦『人権論ノート──部落差別と権力の恣意』
   (藝備人権新報社、1992.10)
 (前略)政府権力が「部落責任論」を展開しているとき、いかにも86年地対協路線に反対するかのような素振りをしながら登場してきたのが、日共差別キャンペーンとはひと味違った内容を提示しつつ、その内実はやはり「部落責任論」にのめり込んだ『「同和はこわい」考』という冊子で、世間の受けとめ方にも一理はあるといったスタイルでデビューしてきたものである。/今日の差別を考える上で、地対協のように確認・糾弾にその責任をなすりつけることは納得がいかないと一応は主張してみせながら、よくよく考えてみると、糾弾なるものが理不尽に展開されているから、世間が納得しないのであるというものである。
 コッケイなのは、いま部落解放同盟が、部落民たることをひけらかしながら、論理的やりとりとなると「部落民でなければわからない世界がある」と、部落の立場を絶対化していると批判する。これでは、差別、被差別の両極から乗り越えて、差別を克服することはできないというのだ。本当にいやらしくてならないのは、せっかく連帯しようと思っていても、部落の立場を絶対化したような言い方をされれば、その連帯ができなくなるといったあたりだ。彼らは86年地対協と部落解放同盟との間に入って、たして二で割るようなことを言いながら内実は86年地対協路線と同じように、今日の部落解放運動が人々から非難されるのは確認・糾弾がきびしすぎるからだといい、いかにもかしこらしく部落の立場の絶対化を指摘する格好をとり、やはり究極は「部落責任論」でわれわれに対抗しようとしている。
 はじめのうちは、部落解放運動の主流から何か新しい理論的提起があったかのごとくに錯覚し、藤田敬一著『「同和はこわい」考』なる冊子の売り捌きに広同教あたりも協力の姿勢を示した。だが少し冷静に読んでみると、86年地対協の援軍でしかなかったということがわかり、全国的にはにわかに冷え込んでしまった。/だが、われわれが運動的に考えねばならぬことは、部落解放運動は常になんらかの弱みにつけ込まれようとしていることだ。
 われわれがこの『「同和はこわい」考』を批判すれば、たちまちにして、これまて部落解放同盟と連帯しているかのごとき素振りをしているマスコミ関係者とか学者づらしているようなものの中から、『「同和はこわい」考』という「部落責任論」とわれわれとの間に入って、これまた、たして二で割るように論理を展開するものが出てくるという始末である。波風の立たないときには、いかにも味方のような素振りをしているが、いったん緩急ある場合はには、大抵の人がつい地金を出してくる。/部落解放運動の本体が、日頃からしっかりした論理構成をしておく必要をあらためて痛感するというところだ。それというのも、「社会意識としての差別観念」なるものによって、少し部落解放同盟批判〃すれば、マスコミ界でも国民大衆の中でも、あれこれと取り沙汰されるのではないかというケチな考えが脳裏に浮かぶからである。つまり日常不断に、そういう意味の誘惑にさらされていると考えておかねばならない。(後略)

《 採録 》②
三橋 修「差別の定義をめぐって(序)」
 (差別を考える研究会編集『年報 差別問題研究』1、明石書店、1992.11)
差別の定義の位相
 (前略)差別の定義は不必要と言いきってしまえるなら、何も問題ないのだが、最近「差別」という語が流行ってき、それにつれて、そもそも差別とはどう事象をいうのかという疑問も吐かれるようになって来ている。ここで、正面きって差別を定義しようとすると、なかなか難しいことに気付かされるはずである。そしてこの定義がきちんとしていないと議論が先に進まない場合もある。先年被差別部落問題の領域で大いに議論された藤田敬ママ氏の『「同和はこわい」考』は、まさに定義の問題そのものである。氏の問題提起の骨組は、被差別部落問題とは何か、それはどのような形で取り上げられなければならないのか、ということをはっきりさせるために今や差別の定義が必要であり、かつその定義に従って改めて運動の質を問うてみようというものであった。
 ここでいささか私事になるが、この藤田氏の問題提起をめぐる議論を多方面から行おうと、京都ママ部落解放ママ研究所『こぺる』編集部がコメント・シリーズを企画した際に、僕もごく早い時期に執筆を依頼され、それをお断りしたことがある。その時僕がとても何かを書けないと感じた理由は二つあった。一つは、藤田氏の議論が本当に生かされるのは、実際に運動に携わって来た人々が、自分のやって来た運動を自省的に振り返る時であり、その議論の中身についてはいちいち公表される必要もない、と感じていたからである。そうした議論がその後実際に行われたのか否かについては、僕は何も知らないが、それはそれでよい。もう一つの理由は、運動の外部にいる人間が藤田氏の提起した問題に口をはさむと、彼の意見に賛成か反対かの二者択一的議論となる可能性が高く、そうした議論は、ともすると藤田氏の問題提起を踏み絵として、あちらに属するか、こちらに属するかという形の不毛な二分化を生んでしまうおそれが多分にあると感じたからである。この感じをどう表現したら良いか解らぬままに、僕は原稿を書くことをお断りするしかなかった。後に同じ思いを抱いていた人がいることを知って、少し安心した。森武弘氏はそうした感じを「外側からのアプローチ」の中で様々な「誌上で展開されている論争に目をとおすとき、この論争の『外』に置かれている自分をいやというほど感じます。すっと入っていけないのです。」と表現されている。その上で、森氏は、藤田氏のよって立っておられる場所について議論されているが、やはり外側にいる僕としては、どのようにこの議論に参加出来るかについてその後もずっと考えさせられ、その結果、差別の定義を考察することが、僕なりの切り口の一つになるのではないかと考えるようになった。
 とはいえ、差別の定義を論じようとすると、早くも外側か、はたまた内側かという問題に突き当たらざるを得ないのである。つまり、すぐれて人間の関係に関わる事象である差別を「客観的」に定義することは可能なことなのか。例えば部落問題を己の問題として考えようとすれば、とりあえず自分は部落出身者ではないのだから、自分が差別する側になった場合をもとに考える。その考察は自ずと自分が差別される側になった場合とは異なってくる。そして人には多かれ少なかれ差別する側と差別される側の両者の場合を経験しているはずである。だからこそ「客観的定義」が必要だともいえるが、では、「客観的立場」とはどのようなものなのか。今「客観性」をめぐって議論するつもりはない。どちらの場合にも囚われない「立場」というものを想定すれば、結局それは「第三者の立場」ということになろう。差別についての第三者の立場とは、とどのつまり政策施行に寄与する立場となる。何故なら、当事者相互に対して第三者の立場に身を置いた定義とは、何等かの形で、件の当事者間に生じた差別問題に対して調停的な立場で関係する場合にのみ有効なものだからである。そうした有効性を追及するのでなければ、第三者的立場からの定義は、そもそも必要がない。
 以上のようなわけで、もし差別の定義を求めようとすると、三つの定義が、よって立つ立場によって生まれてくることとなる。それぞれを総合した定義づけが可能であるかどうかは、解らない。そのことを考えるためにも、まず、「客観的定義」について考察してみる。
 僕自身も何回か機会があって、いくつかの定義を試みたことがあるが、今ともかく恥ずかしながら、僕自身が客観的定義を最初に試みた例を最初に挙げてみよう。僕は『社会学事典』のために次の様な定義をしてみた。それは「ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いを受けること。その集団の区分基準は、人種、民族、生活様式、国籍、性別、言語、宗教、思想、財産、家門、職業、学歴、心身障害、ある種の病気など多様におよび、被差別集団は、これらの内の単一あるいは複数の要因のからまりで形成される。差別のあらわれ方と激しさは、その社会の文化と歴史によって異なるが、差別される側の就業機会はせまく、他集団員との自由な通婚が疎外され(性差別を除く)、しばしば居住地域まで限定されるという共通性がある。(後略)ママ」(見田、栗原、田中ママ『社会学事典』弘文堂、1988年)というものである。正直いってあまり成功した定義とは自分で思っていない。(中略)いずれにせよ、ここ何十年間にわたって試みられてきた定義からさほど進歩していない。そこで、自分の事例をこれ以上材料にするのではなく、ここ何十年間の差別についての論議の基となってきた論議に立ち返って、それを材料にして以後の論議を進めることにしよう。
 今述べた材料にしようとする「客観的定義」の典型的試みは、国連関係者が行っているので、それを取り上げて、定義に含まれる問題点を考えてみたい。/国連人権委員会の差別防止・マイノリティ保護小委員会が1949年に出した『差別の主要なタイプと原因』(中略)の中から重要と思われる箇所を拾って見て、そこに盛られている考え方を検討してみよう。

 1 「差別とは、個人に帰することの出来ない根拠に基づいた有害な区別である。つまり社会的、政治的ないし法的な関係において正当化出来ない結果をもたらすような根拠(皮膚の色、人種、性など)、あるいは様々な社会的カテゴリー(文化的、言語上、宗教的、政治的意見その他の意見、民族系列、社会的出身、社会階級、財産、出生又は他の地位)に所属しているという根拠に基づいた有害な区別である。」

 2 「差別とは、何等かの特定の社会的カテゴリーに属する人々に対して、権利や社会的な利益を拒否することによって、不平等なあるいは非友好的な取り扱いをすることと言える。あるいはそうした人々に特殊な重荷を課するやり方もあるし、あるいは、彼等とは別のカテゴリーの人々に排他的に好意をかけることによって、特権的なカテゴリーに属する人々とそうでない人々との間に不平等を作り出すやり方もある。」

 3 「差別を防止するということは、個人あるいは集団に対して、その人たちの望んでいる平等な取り扱いを拒否するようないかなる行為も防止するということである。」

 4 「人間は、相似たものであると同時に異なったものであるから、平等の原理は、何等かの基準に基づかなければならない。こうした基準とは、倫理的コンセプト、つまり人間の尊厳という考え方に求められるべきである。」

 (中略)右に見てきた報告書の1から4までの内容を一括して、今日の多くの差別撤廃の法的根拠となっている差別の定義として扱い、少し議論を進めてみよう。

差別と<近代>
(前略)まず第一は、どのように定義してみても、近代主義的理念をもちださない限り、差別とは、やってはいけない行為だとすることが出来ないということである。俺を差別するとはケシカランと、差別を告発するためにも、その根底に、人間の平等という近代主義的理念がなければ不可能である。もちろんその場合、告発する人が、近代の理念について充分な知識を持っていることが必要だと言っているわけではない。抽象的に「人間」という一つのカテゴリーが告発をする人々に意識されていることが最低の条件である。今、実証的に論議するつもりはないが、歴史的に見て、そうした意識は、社会的上位にいた人間よりも、差別されていた側の人々の方に、より早く意識されるようになったであろう。そして告発が告発として有効な行為となるためには、告発を受ける側に、同様の観念が共有されていることが必要である。つまり上の理念は、差別告発行為の正当性を支えるものであると同時に、告発行為を成立させる根拠でもある。
 しかし以上のことは、その正当性を支えているだけであって、差別の不当性を何等保証するものではない。この観点から見ると、右の3の考え方は興味深い。「その人たちの望んでいる平等な取り扱いを拒否する行為」という言い方には、結局、藤田氏がその立場の絶対化を問題にしている二つのテーゼが含まれていることになる。つまり、部落解放同盟が定式化したものを、今「部落」の部分を「被差別者」と置き換えて表現してみると、「日常生活に生起する、被差別者にとって不利益な問題は一切差別である。」及び「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」というテーゼである。藤田氏が再三指摘しているように、この二つのテーゼが絶対化されてしまうと、運動を空洞化させてしまうが、この二つのテーゼは、実は近代主義の理念をも乗り越える開いたものである。それだけにまた、とんでもない苦労を被差別者に負わせるものでもある。というのは、第一のテーゼは、常に新しく人と人との関係を問い直す契機を孕んでいるからである。しかし、一方で、二つのテーゼとも、何が差別的言動であるかを明らかにする責務が、被差別者の側にあることを意味しているのである。(中略)
 ここでは、まったく感性について考慮していない。特に被差別者の感性について、敢えて考慮していない。ある言動が差別であると、差別された当人の感性が判断した時、その感性による判断を疑う必要もない。問題は、その感性そのものによっては、当の言動が、差別に当たるか否かを明らかにし得ないことが、問題なのだ。それがどう「不利益」なのか。この順序は、逆にしてもよい。ある「不利益」は、当該の被差別者の属するカテゴリーとどのように結び付いているのか。さらに面倒なのは、どのように取り扱われれば、平等(平等ではない)といえるのか、という問題である。近代主義的な言語は、極めて抽象的であり、その抽象性によって普遍主義的になり得ている。それだけに、告発の正当性はよく保証できるが、その内実は、当の人々が埋めなければならない。
 この困難さが、告発の行為の中で、藤田氏の指摘するような「テーゼの絶対化」を生む一つの理由であると、僕は思う。差別的言動を受けた者が、その不当さを全身で感じていても、その不当性が説得できない場合、全身を包んでいる怒りや悲しみの大きさそのものの表現によって相手の感性に訴えて、その言動の不当性を説明しようと試みることを誰も非難することは出来ない。あるいは差別を受けてきた歴史の長さをもって、当該の言動の差別性の証明に代えようとするかもしれない。しかしこうした試みは、当該の言動の差別性を明らかにすることの代替物である限り、おそらく失敗することになる。
 この時、右に述べた最も困難な中間項をすっとばして、告発者が「差別だ」と言っているのだから、かくかくの言動は差別に違いないということで話がすすめば、これは何とも楽な話である。ここで楽をするのは、告発する方だけでなく、告発される方も同じである。しかも、誰でも何等かの局面で差別される可能性があるのだから、誰でも告発者になり得るのだが、これまでの原理を基にすれば、誰も代理のの告発はできないことになる。かくて、何だか話がよく解らないままに、差別はいけない、差別はいけない、という言説のみが世の中を飛び交うこととなる。現在の日本の差別問題に関わる状況はこんな風に言い表せるのではなかろうか。そして、そうした状況を揶揄する発言はあっても、では何が差別なのかを論ずることが流行らない。皆楽をしたい気持が勝つからであろう。
 かくて、1から4までの文言をいくら集めてみても、差別そのものの内容を差別の定義によって明らかにすことが出来ないことが解ったわけである。つまり差別の定義そのものの中にダイナミズムが存在していて、それ自身では、その内容を説明出来ないのである。なんともだらしのない話だと言われれば、それまでだが、さりとて、右の1から4までの内容を越えた定義は、極めて難しく、僕は少なくとも成功していない。(中略)

差別と偏見と区別立て
 (前略)僕は、かつて先に挙げた例とは全く違う差別の定義を行ったことがある。それは、時代を越えた差別関係の定義を求めたもので、「差別的関係とは、一方の集団が他方の集団を意味づける権利を一方的にもっており、その逆を不可能にする現実的障害に媒介された関係」というものである(『増補差別論ノート』新泉社、1984年、19頁)。よくわからない表現かもしれないが、差別される集団なりカテゴリーを分類する時に働くメカニズムを差別の定義の中に組み込みたかったのである。そのことによって、第三者の立場とは違ったところから定義をしようと努めたのだが、これまた成功しているとは言えないので、自らの恥を晒して、さらによい定義をしようと試みる人の参考に供するに止めよう。(中略)差別の定義に登場する人種、民族、国籍等々に関する具体的な分類は、歴史的に政治的・軍事的・社会的等々の力関係を背景にして分類されて来たものである。そこで次の様に言うことも出来るのではなかろうか。つまり主要な種の秩序の確保のために、種の典型あるいは垂範者の引き立て役のために分類された下位の種というものが、あるのではないか、と。となれば曖昧さなしに、ある種に属することが、そのまま引き立て役としての意味付けを持たされることとなる。皮膚の色の違いなど明確な外見上の区別がつかず、しかも日本式の姓名を名乗って生きている在日韓国・朝鮮人に対する場合、あるいは日本人同士の部落民に対する場合、しばしば、ある人物が当該のカテゴリーに属していることを公然とさせることが、それに伴って生ずる不利益を予想させることによって、差別的であることがある。もちろん、「○○はエタだ」というような形をとることが多いから、単にカテゴリーを明かすだけにとどまらないで、「エタ」という語を用いることによって忌避ないし排除の意志・意図を伝えている。しかしこうした言辞は、それを投げかけられた人々に、属させられたカテゴリーに対する態度表明を迫る性格を持っている。古くからの「寝た子を起こせ」論の正当性は、ここにある。つまり、いかに不快なものであれ、一旦こうしたカテゴリーを引き受けない限り、最初に述べた差別性の証明が不可能になることとなる。こうして差別という問題を考えていくと、我々は何らかの社会的カテゴリー、あるいはそれの指示する集団に属しているということから免れることが出来ないということを、つくづく痛感させられる。だからこそ、近代主義の理念もまた、内部に矛盾を抱え込むことを知りつつ、本来個々人に属する基本的人権の中に集団的な人権を加えたのであろう。そしてレーガン政権は、差別が意図的であることと、告発者自身が個人的に差別されたことを記録に基づいて証明することを要求することによって、集団的な権利をもう一度個人の問題に絞り込み、人権政策を骨抜きにすることに励んだのである。(後略)

コメント.
筆者の三橋修さんは、和光大学教授で『増補差別論ノート』の著者です。『こわい考』にふれてくださっているところだけ採録しようとしたのですが、ある程度論旨が通るようにと思っているうちにこんなに長くなってしまいました。これだけではわからんという人は『年報 差別問題研究』1をご覧ください。
 ところで三橋さんは、『こわい考』は「まさに(差別の)定義の問題そのものである」と評しておられます。たしかにそうともいえますが、定義問題に収斂されてしまうとちょっと困る。わたしがなによりも論議してほしかったのは、部落差別問題をめぐる、被差別部落外出身者・差別する側に立つ者・差別者と被差別部落出身者・差別される側に立つ者・被差別者との隔絶された関係総体の止揚なのですから。また三橋さんは、例の二つのテーゼを「近代主義の理念をも乗り越える開いたもの」と位置づけ、「第一のテーゼは、常に新しく人と人との関係を問い直す契機を孕んでいる」とも述べておられますが、わたしにはその文意が読みとれません。もう少し展開してもらえないでしょうか。

《 あとがき 》
★今年は侘助がまだ花をつけています。そこへ白い沈丁花が咲きはじめました。なにか変てこりんな感じですが、まぁ、これもなかなかいいもんです
★前号に3月27日夜、京都のカリン亭で『こぺる』復刊の祝杯をあげているはずと書いたら、新潟のN.Aさんから自宅で祝杯をあげるとのお便りあり。うれしいですなあ。新潟の方に向かって杯をあげることにします
★『こぺる』購読の申し込みは順調に届いていますが、刊行会会員の振り込みが遅れ気味です。よろしく
★3月27日(土)午後2時から、京都部落史研究所をお借りして『こぺる』編集会議と4月号の発送準備作業を行います。ぜひお出かけください
★2月27日から3月11日まで、愛知(3),京都,東京(2),千葉,兵庫,新潟,大阪の10人の方より計38,316円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)