同和はこわい考通信 No.65 1992.12.12. 発行者・藤田敬一

《 各地からの便り 》
初心者(?)には聞かせたくない思いです
Y・M(兵庫)
 先日の交流会は、ごくろうさまでした。今日は交流会に参加しての感想を中心に少し綴ってみます。(中略)
 分科会は、どれも参加したい内容でしたが、今回は藤田さんの分科会に出ました。そこでの話題は「差別語」の問題が多く出され、わたしも話しましたが、この問題については今、自分の頭の中は混乱していて、どう整理していいかわからない状態です。しかし、現状を支配している規定は、その言葉や文章を聞いて「傷つく」あるいは「傷つくだろう」人が一人でも、どこかにいたら……ということです。しかし、単純、簡単にこれでいいのだろうかとも思ってしまいます。
 全体的な感想というか、この集会についての自分なりの思いですが、率直に言って去年の山下さんの講演についての参加者の思いと同じで、このような集会や『同和はこわい考』などでふれられる内容について、やはり部落問題等についての「初心者」?には聞かせたくないという思いです。別に立場はどんな人でも気になりませんが、やっぱり、この差別の問題に何らかの形で関わってきて、いろいろ勉強してきて、その中で、いろいろしんどい思いも経験する中で、「やっぱり、ちょっとおかしいのとちがう?」という、最低そういう人たちに来てほしい、読んでほしいという気持ちです。こんなことを言うと、藤田さんに「心が狭いなあ」と言われそうですが、やっぱり「部落問題は、まだよくわからないが…」とか「まだ行政職員として、同和問題に関わりだして2~3年ですけど…」などと言われる中で、解放同盟や解放運動の現状批判がばんばんされると、「ちょっと、あなたたちには、このような話するの早すぎるのとちゃう」という思いにかられるのです。だから『同和はこわい考』の本も誰にでも勧めていません。実はごく一部の人にだけです。藤田さんには申し訳ありませんが…。
 私もそんな偉そうに言える者でもないんですが、運動に入ってはや16年がたちました。支部の役員をやり、組合活動をやり、市民運動にも加わるなど、自分で言うのも何ですが、いろんな立場を経験してきて、自分の運動の見方、考え方もずいぶん変わってきたと思います。特に3年くらい前から市民運動に関わり、いろんな人との関係もでき、今まで運動の中からしか見ていなかったものが、あらためて「外」から見つめさせられるようにもなったのです。このことは、現在の仕事とあわせて、私には貴重な経験でした。情けないけど、本当に今の運動家は自分たちの運動なり、自分たち自身が市民からどのように見られているか知らないんです。知っているのは解放同盟にすりよってくる(意図は別にして)者たちの評価だけです。
 そのようなことを会議等でそれとなく言うと、「あんたは、どんな立場でもの言うてんの」「なんぼ行政職員やいうても、立場忘れたらあかんで」等々の言葉が投げつけられるだけです。いったい、どうしたらわかるんでしょうね。同対法に委ねられた運動では、もう無理な気がします。

コメント.
 交流会は、どなたが参加なさってもいいと、わたしは考えています。運動に関心を持ち始めた方であろうと、二、三年の経験しかない方であってもかまわない。よしんばその人が部落解放運動や部落解放同盟にたいして率直な、ときには手前勝手で部落責任論と紙一重の感想をもらされてもいいのではないでしょうか。重要なのは、そうした感想の背後にあるものをお互いに凝視し、そこから各自の課題を思索する契機をつくることですから。
 Y・Mさんは「ちょっと、あんたたちには、このような話は早すぎるのとちゃう」との感想を抱いたとのことですが、それはやはり資格を問う議論につながりかねないと思いますよ。二、三年では経験不足というのなら、何年たてばいいのかと、人は問うかもしれませんし。経験年数や取り組みの深浅を問題にするやいなや、人はもう二度と発言しようとはしなくなり、対話がとぎれてしまいます。どんなに辛くても人びとの批判的感想を受け止めて、人と人との関係を変えるために努力するしかないのではありますまいか。
 また、『こわい考』をどなたが読んでくださってもいいのです。わたしの真意を誤解して、部落責任論への援軍だと勘違いする人がおられるかもしれない。なぜなら、人は誤読・誤解するものだからです。しかも言葉で表わすこと自体、誤読・誤解を前提にしているといえます。だから言葉では表現しないというのも一つの行き方ですが、わたしは誤読・誤解されることを恐れず、しかし丁寧に自分の考えていることを表現したい。こうして『通信』を発行しているのも誤読・誤解を正していただくためでもあるのです。微々たる営みですけれども。

「立場の絶対化」なんてできるものではありません
N・S(京都)
 通信No.64、ありがとうございました。小森さんの権威主義、人間、えらくなると身につくのでしょうかね。『部落解放』十二月号の「きのう・きょう・あす」を読ませていただき、いよいよ考えさせられます。それに論理の正当性を、具体例をあげて、というよりも具体例をつくってPRするのも、なかなかのものです。私も部落出身者ですが、「立場の絶対化」なんてできるものではないし、また、したこともありません。部落解放運動が国際的な人権運動に連帯していこうとしている今日、心配どころか、腹立たしい思いがします。
 「立場の絶対化」を前提にした国際連帯なんて、どうしてできるのかを教えてもらいたいものですね。とにかく部落解放運動の最高指導者の一人であるかぎりは、その責任は重大であることを認識してもらいたいものです。心が痛みます。

コメント.
 コメント.  いつの世にも、権威主義的な人間はいるものです。権威に屈する人がおれば、権威を振りかざす人がいる。この関係を成り立たせているのは、職業・肩書きであったり、業績・評判であったり、立場・資格であったりします。そして困ったことに、権威は特権と権力を引き付けやすい。厳しく己を律するとともに、他者からの批判を拒否しないで、耳を傾けることが肝心なのでしょう。

《 採録 》
報告:「真宗大谷派の広報」から派生したこと
  (『部落解放県政樹立第23回広島県民研究集会討議資料』1992.11.8,9.)
府中市役所 平田 美知子
はじめに
 昨年、一昨年と県政樹立「解放の思想と文化」の分科会で「大谷派の広報をめぐって」と題して報告してきたわけですが、これまでの経過と若干の説明をして、今年の報告に入りたいと思います。/東本願寺から発行されている「『同和』推進フォーラム」No.6 に掲載された、東本願寺同和推進本部長の巻頭の文章「いま思うこと」の中に、岐阜大学の藤田敬一著『同和はこわい考』の引用があったわけです。その内容は次のようなものでした。(中略)
 当時の私の疑問として、中央本部のこのような見解が出されているものを、部落解放を進めている教団が、なぜ引用するのですか、という単純なものであったわけです。/このようなことから、東本願寺同和推進本部長との往復書簡が始まり、お互いの意見の一致がみられたところで、その往復書簡を『フォーラム』誌で公開する、という約束もできていました。
 昨年報告しましたように、いろんな紆余曲折がありましたが、一応、『フォーラム』への掲載には至ったわけです。

「立場」のとらえ方
 このように一段落していた矢先のことでした。藤田氏から『同和はこわい考』通信が送られてきたのです。「『同和」推進フォーラム」13号の往復書簡について感想を書きました。一読してくだされば幸甚。」という文章が付され、往復書簡の文章を引用してはそれにコメントしたものでした。

(平田は)解放同盟中央本部の見解以外は認めないと言っている。この文言は権威主義的である。
調さん(東本願寺同和推進本部長)が自らを差別者・差別する側のものと規定し、「差別する側の主体確立のための闘い」「差別する側の差別克服運動」「差別する側のものとしての私自身の自己認識」を強調すればするほど、言葉がうつろに響く。自己を差別者・差別する側という範疇に押し込め、そうした自己を丸ごと否定しようとしている。このような自己否定は空中分解する。
(平田は)被差別者に「こうしてほしい」と希望・請願・要請してはならない。ただただ被差別者のまえにひれ伏せと言っている。これは(平田の)独創や部分的現象ではなく、運動の根底に流れている思想とみなすべきだ。

 などと中傷しています。
 私としては、①で『同和はこわい考』に対する中央本部見解は、確かにそうだと頷けるものだという思いから、最初の手紙に書いたのですが、藤田氏は、「見解に従え」と言っていると解釈しています。
 しかし、これは私の当初の考えが浅かったと反省せざるをえません。なぜなら、宗教者としての本部長との往復書簡であるわけで、藤田氏あてに書いたものではないのです。それが藤田氏の目にふれることを予測してはいたものの、宗教的次元での話の通ずる人ではないという予測などなかったわけで、このような文章が届くとは思いもよらないことでした。
 ②に関しては、仏教界(特に浄土真宗)は、親鸞を祖として徹底した内省をする場だという観念を持っていたものですから、『フォーラム』の文中では、「仏教では“立場”ということを非常に問題にすると聞かされています。その“立場”とは、自己をどこまで掘り下げて見つめるか、ということだと思うのですが、それは親鸞聖人の言われた“煩悩具足の凡夫”“罪悪深重の凡夫”あるいは“いし、かわら、つぶてのごとくなるわれら”のような、徹底した内省の姿だと思うのです」と書いています。/ここで言う“立場”とは、自己の立たされている立場ということですから、私で言えば「差別する側」の自己をみつめることが徹底した内省ということになるはずです。それを藤田氏は、ご自分が「差別する側」であるという内省もなしに、解放運動の一部分だけをみて、まるで運動のすべてであるかのごとく「こわい運動」であるという評価を下しているわけです。そして、自己を掘り下げることが「空中分解する」ということだとしています。
 ③については、「何があっても被差別者の前にひれ伏せ」と言っているという解釈のようですが、藤田氏は、自己を内省するという前提もなく、自分が部落解放のために何をしてきたか、ということもなく被差別者への要求ができないのはおかしい、ということのようですが、そういう宗教的次元での解釈のできない人々にいくらこの論理を述べても通じることはないでしょう。
 こういう内容の『通信』が、その後、5回も送られてきました、この『通信』に集う人達の言いたいことは、『通信』No.58の文中にある。

部落解放運動にすり寄った平田さんのこのような姿勢こそ、一見心地よいが、「人間を勦るかの如き運動」そのものであり、決して乗せられてはならない「立場」であると、私は肝に銘じている。平田さんはその意味で水平社宣言のエッセンス(自らの律する自己解決の思想)を読み違えている。自分たちの恣意的な価値判断でしか評価しない「自由な意見」云々にいたっては何をか言わんやである。要は、「被差別者の立場の絶対化」を認めさせたいだけなのだから。」

ということなのだろうと思うのです。

私の向かう道
 このように『通信』に集う人達は、「差別」は、「差別するもの」がいるから存在するのだ、という定義が根底に欠落しているからこれらのあやまてる考え方が起きて来るのだと思うのです。東本願寺の同和推進本部長との私の往復書簡は、そうした「差別する側」の克服すべき問題について書簡を交わし一定の到達点に至ったのです。
 藤田氏は、「差別する側」にある自己を変革しようともせず、被差別の立場にある一部の人達のことを、さも解放同盟全般にある腐敗のごとくに書き散らし、被差別の側の一部の人達に、困惑を抱かせていることに気付かなければならないと思うのです。送られて来る『通信』の内容には、そのような内省の姿はみじんも見受けられません。
 たとえば、

平田さんによって「差別と闘っておられる」被差別者は、いまや神の高みにまで持ち上げられ、平田さんは神に仕える巫女役を演じているかのごとくです。 ───中略ママ───ここまで来れば悲劇を通りこして喜劇です。

と藤田氏が書いているのに対して、次号の『通信』には福岡のS・Tさんが、

巫女役を演じること自体とっても残念です。…それにしても“巫女”とはよく言われましたね。

等、「差別」を真剣に語るはずの誌上へ、このような表現をするのですからまじめさは見えようはずもありません。
 最後に余談になるかも知れませんが、1884(明治17)年に奈良県に生まれた三浦参玄洞は、篤信の念仏者の両親に育てられ得度し、結婚して誓願寺の住職になります。そして西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作ら水平社の人々と親交を結びますが、西光万吉が起草したと言われている『よき日の為に』は、この三浦参玄洞の助言を受けたのだそうです。この人が、自分自身を

私は人々から(被差別部落に対して)無関心な批評を聞く度毎に、私自身の心を掘り下げていった。そしていつしか朧げながら水平社運動の真実の心もちが判ったような気分になり彼等の云為をするところはすべて無条件で肯定さるべきであると信ずるようになった。

と言っています。
 私はこの文章に出逢ったとき、自分自身が部落問題に立ち向かう姿勢に対して確信のようにものを持ちました。真の宗教者とは、このような姿の人のことを言うのではないでしょうか。三浦参玄洞も、「差別する側」の自己をしっかりと見据えたうえで、掘り下げた思いが「彼等の云為とするところはすべて無条件で肯定さるべきである」の言葉で言いあらわしています。
 これらのことを思うとき、今、私が向かっていく方向は確かにこの方向であるし、これを避けては、真の解放は成り立たないと思うのです。水平社宣言の中の「人間を勦るかの如き」は、「吾々によって、又他の人々によって」の両者のための“主体”に他なりません。
 行政に位置付く私は、この三浦参玄洞はもちろんですが、その他、水平社の外の人と表現される(差別者の側)先人たちの行なって来た歴史を識ることによって、その生き様に心を震わせながら学んでいく決意を新たにしています。現象に惑わされることなく、本質をさぐりながら歩むことが私の今後の重大な課題であると、藤田氏の『通信』にふれて感じさせられたのです。

コメント.
 人様がどのような生き方をお選びになろうと、それはその人自身の問題であって、口をさしはさむことなど、だれにもできない。ですから、三浦参玄洞の、被差別者の言動はすべて無条件で肯定されるべきだとの文言に出会って深く感動し、それに学んで生きたいという平田さんの心情告白に対してとやかくいうつもりは、わたしにはまったくない。しかし、たとえば「被差別者の言動はすべて肯定されるべきだ」という主張が、部落問題の解決をめざす取り組み、あるいは運動の原理として提言されるなら、それはそれとして議論せざるをえません。
 ところで「被差別者の言動はすべて肯定されるべきである」との主張には、さまざまなニュアンスが含まれているにしても、それが現実の人と人との関係の中におかれたとき、被差別の立場・資格の絶対化、部落解放運動や団体の神聖化、さらには差別・被差別関係の固定化にゆきつくほかはないと、わたしは考えます。それでいいのだというのなら仕方がない。ただ、平田さんの主張は、63号に採録した小森文の一節「被差別者の周辺にあって部落解放運動をするものには、まずかぎりなく被差別者に近づくことが重要なのだ」と呼応して、共同の営みとしての部落解放運動を否定するにひとしいということだけは指摘しておきます。
 また平田さんは、調さんとの往復書簡は「徹底した内省」「差別する側の自己を見つめること」をめぐってなされた宗教的次元のものだと述べるとともに、「自己を内省するという前提もなく、自分が何をしてきたか、ということもな」い藤田には、そのような宗教的次元の話は通じないと断定しておられる。
 次元の話はさておき、わたしがこの間ずっと考えているのは、取り替えのきかない一回限りの、このわたしの生を、人間の限界をみすえつつ、いかにして他者との共感と連帯の世界に生きる“生”たらしめるかということです。他者の苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さ、怒り、嘆きに向き合いつづけることがいかほど困難なものであるか、わたし自身のこととして感じてもいるのです。「わたしにとって他者とは何か」との問いを前に足踏みしているというのが正直なところです。まだまだ人間存在の根源について内省が足らないと批判されても、甘んじてお受けするしかありません。顧みれば「あなたはこれまで何をしてきたのか」と、他者に迫るがごとき言辞をかつてわたしも弄したことがある。青年の客気といえば聞こえはよろしいが、要するに傲慢なだけでした。傲慢で思い上がっているあいだ、わたしには人間の問題がみえなかったようです。とはいえ、現在も気づかぬうちに傲慢になっているかもしれません。自戒してはいるんですが。

《 あとがき 》
◆大山と日本海を眺めることができたうえに、友人たちと夜を徹しての歓談ありで、鳥取・島根四泊五日の旅はまことに結構でした
◆つづけて大阪へ。久し振りに矢田の温泉に入れてもらいました。倉吉の関金せきがね温泉もよかったけれど、矢田ふれあい温泉もなかなかのもんです。一度ご一緒しませんか
◆前号畑辺初代さんからのお便りに「東本願寺派…」との見出しをつけましたが、正しくは浄土真宗大谷派です。東本願寺派というのは大谷派から分離独立した法主系(?)が名のった宗派名とか。お詫びして訂正します。それにしても派という言葉は、政界やセクトの□○派なんかが連想されて好きになれませんなあ
◆新『こぺる』基金は、12月10日現在、219人・328口・164万円にのぼっています。続々届く払込通知票に、事務局一同、励まされております。なおご送金の場合は郵便振替「京都1-6141 こぺる刊行会」あてでお願いします。すでに第一回編集会議を開くなどして、四月刊行にむけて着々と準備中。年明け早々から購読者を募ります。ご支援のほどよろしく
◆11月28日から12月12日まで、島根(2),岐阜,京都(4),大阪の8人の方より計37,920円の切手、カンパをいただきました。この他、米子の友人が開いてくれた集まりでカンパ8,658円が寄せられました。ほんとにありがとうございます
◆本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)