同和はこわい考通信 No.64 1992.11.24. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
選良の見識と市民の常識
田村 一郎(京都)
 本誌63号に採録された「『部会報告』以来の反動思想」という散文を読んで、複雑な感慨にとらわれた。筆者はこの国を代表して国際的に活躍されている高名な人権擁護運動家、また野党第一党に所属する国会議員という立場にあるかただという。ここにのべられているのはそういう社会的地位にあるひとの見識か、という驚きである。市民の常識が政治家の見識を批評する。批評するのは市民の勝手である。それが市民社会の常識である。
 わたしが子供の頃、文章は右縦書きか右横書きで、左横書きは非常識だった。今、右横書きは非常識である。しかし、世界には右横書きの文化もある。昨今はワープロによる手紙は非常識の論が多数派だが、手書きに不自由の身には納得しがたい意見である。また、自動車はこの国では左側通行だが、国際的には右側通行をとっている国のほうが多数である。かように、常識は時代や社会や文化の差別によって変わる。ここで差別の語をつかったが、今は区別とか違いとするのが常識である。わたしのいう常識とは処世術にてらして納得できること、というほどのものである。
 この列島の市民社会は、この国の法の保護のもとにあるひと、つまり日本国籍を有するひとと、この国の法の保護の外におかれている定住あるいは非定住の外国籍のひととで構成されている。もともと市民社会の常識は政治的・宗教的・文化的な複数主義を前提にするものだが、これからはこの列島に居住する諸国民・諸民族の多様な文化を共有しうる複数主義を旨とすべきである。わたしの常識が非常識のそしりを免れるためには、諸国民・諸民族と共有しうる複数主義の理念に「かぎりなく」「近づくことが重要なのだ」と、自戒の念を強くしている。
 一読しての印象は、論旨不鮮明の演説口調、無制限の感情だけが露出している乱雑で攻撃的な文章だということである。攻撃のまとは、反動思想、政府の諸官庁、国会、差別とたたかう文化会議のメンバー、岐阜大学教授藤田敬一(以下GFKと略称する)、といろいろ列挙されている。いろいろというあいまいないいかたになったのは、それぞれの攻撃対象の評価、対象と対象との関係の評価がわからないからだ。しかし全体の雰囲気から、怒りのいちばんの対象はGFKであることが、すぐわかる。
 このかたの文章の特徴は、ことの是非が論旨をつくして示されずに、雰囲気できめられているところにある。論旨はよくわからぬが雰囲気から論者の意図するものだけは確実に伝わってくる。そういう類いの言論を、扇動という。それについてはまた後でふれる。
 扇動的な攻撃のいちばんのまとが、GFKである。攻撃はおおむね直接的、具体的にしかけられている。たとえば、論敵であるGFKの名前は呼び捨てにされる。文中には4人の個人名がでてくる。戦後文学の巨頭である作家に対しては「野間宏先生」、解放同盟の委員長と副委員長であるひとは「U委員長」「U副委員長」、そして「藤田敬一」、だ。ひとりGFKだけが、一般的慣用的な敬称すら与えてもらえない。
 こうした意図的な敬称の使い分けは筆者の人間観、上下・尊卑の観念をみせつけるだけでなく、読者に対しても筆者の人間観・価値観を強いることになる。情報の送りては受けての側にある上下・尊卑の観念にはたらきかけ、それが意識の表面にうかんでくるように刺激する。これはふつうには、ひとが意識して避けようとするふるまいである。筆者は確信をもって、あえてその逆をゆく。名前はたんに名前でしかなく、名前の差別化は格別のことではないと教えてくれているわけだ。
 かくしてGFKの名前は、批判者の思いのままに卑しめられた。次は、このまとに向けてダーテイなイメージ操作がしかけられる。キイは「獅子はネズミと闘うときも全力を上げるという話は『イソップ物語』の中に出てくる」、「『ノミが噛んだ』ほどのこともないと評価してよかろう」、「こんな災いを今日にもたらしていることをどう考えるのか」、という三つの文節のなかにある。ネズミにも比すべき論敵、ノミに噛まれたほどの痛さ、しかし今にもたらされた大きな災い、というのはなんとも矛盾した奇妙な含意だが、そういうあげあしとりはしない。文章の巧拙をもって書きての見識をはかるつもりはない。
 ネズミ・ノミ・災いの三語から、ふつうひとは何を連想するか。市民社会では、ネズミをペットとして愛するひとは、ごく少数派に属する。ノミを友とするひとは、いっそうの少数派だ。シャリアピンの唄が大好きな心の優しいひとではあるが、世界史の常識にはいささか欠けるというべきだ。この連想ゲームの答えはひとつ、ペストしかない。
 これが野党第一党の議員氏であり、この国を代表して国際的に活躍なさっている高名な人権擁護運動家のしかけたゲームである。選良といわれるかたの見識なのである。
 ここで確認しておきたい。GFKへの攻撃が直接的具体的であることはさきにふれた。ところがダーテイな連想ゲームでは、なぜか語り口が間接法になる。寓意、譬喩である。直接ダーテイな名指しをすることは避け、それとなくほのめかすというやりかただ。これがひとつ。
 もうひとつは、乱暴な演説口調の文章のはこびが、ほのめかし効果をもたらしていることだ。「『ノミが噛んだ』ほどのこともない」という形容句は、「もし……たら、……してよかろう」というやや長い文章の最後のところにでてくる。これは反語法である。この一節には、実は主語と目的語がない。主語はなくてもよい。評価しているのは批判者である。しかし、いったい、何をだれを評価するのか。むろん、GFKである。それがわかるのも、むろん雰囲気からだ。演説口調の文章に特有の雰囲気からである。この不気味な雰囲気には、直接名指しはないにもかかわらず、ダーテイなマスナスイメージが被批判者に付せられていることを容易に読者に推察させる、というしかけが隠されている。
 反語法は、表現されているみかけの上の言葉の裏に真に主張したいことばを隠し、しかも真意をほのめかすというやりかただ。主張をより強調するために用いる方法である。散文の冒頭、「人はあまり問題にするなという」から、「つまり問題にするなといのは」まで、やりだまにあげる論敵を登場させるまでに長い文章がつづいている。これも反語法である。反語法とほのめかしは、扇動家のもっとも得意とするところである。弁士のほとばしる熱情、聴衆の高まりゆく熱狂とくれば、論旨をつくして事の非理を説く必要はない。これはたいへん恐ろしい言論である。歴史の教訓にてらして、いちいちの具体例をあげるまでもない。
 没論理というこのエッセーの文体の特徴は、典型的な扇動家の語り口である。かつて、弁舌のたくみなことで知られる歴史家がさかんに反語法を駆使するのをさして、ひとりの文学者が反語法にはフアシズムのにおいがすると警告したのは、有名な話である。受けては論者に同調することを強いられ、反論する余裕を持てないからである。
 批判者のいう『イソップ物語』のネズミと闘う獅子の話、これがダーテイなイメージ作戦の立脚点である。この小話は、内容において批判者と被批判者との関係を具体的に示し、方法的には寓意という間接法をとることによって批判者の立場をきわめて強いものにしている。いざ獅子奮迅のはたらきをせん、の図だ。獅子が吼えるのは百獣を恐れさせ、屈服させるためだ。論敵ならぬ敵は、ただ倒すのみ、論理を駆使してあらそうことはない。
 これはいっさいの批判を許さぬ、という強い決意のあらわれである。「運動にまったく関係のない人なら、それは自由である」という一節がある。それとは、批判することをさしている。ここも、お得意の反語法である。むろん、自由な批判は許さないという意味だ。また、「部落差別の対象にならない人が、差別の痛みの真髄もわからないのに、『あれもいけない』『これもいけない』と注文がましいことを言ってはいけない」という一節がある。真髄また神髄は奥義とか極意のことで、学術・技芸の道の奥深いところをきわめるということだが、「差別の痛みの真髄」とはなるほど言い得て妙だと感心する。それはともかく、これも自由な言論を許さない、ということである。言論のひとり占め、独善的なドグマのおしつけ、複数意見と複数主義の排除、である。これはすなわち、公然たるイデオロギー独裁の宣告にほかならない。
 そのひとはあたかも法の執行官、宗教裁判の異端尋問官であるかのようにふるまう。専制君主のように君臨し、命令する。これはなんとも奇妙な絵柄だ。代議士は選挙民によって選ばれるのが、この市民社会の常識である。その代議士が市民社会の自由な批判を許さぬとおっしゃっているのである。これは非常識のきわみというべきで ある。言論の自由が許されたり許されなかったりするのであれば、人間の自由も同じあつかいをされる。人権も、そのていどのものにすぎない。
 くどいようだが、これが野党第一党の代議士、国際的に活躍されている人権擁護運動家というかたの見識なのである。
 天皇機関説事件が戦前の言論統制の大きな節目だったことは、よく知られている。その言論封殺の声が最初に議会のなかからあがったことも、よく知られている。市民社会の自由に対する抑圧が、常に「政府権力の手によって予定されてい」るわけではない。
 この列島の市民社会は、端的にいって多民族社会である。わたしの常識は、多民族社会の複数主義を尊重するものでありたい。言論や批判の自由について、より寛容でありたい。少数意見の発表の自由を認め、異端的な意見の発表の自由を認め、少数派の意見を排除せぬようにこころしたい。
 ところで、イソップ寓話に闘う獅子の話はない。獅子と鼠の話は確かにある。ふたつもある。獅子に恩返しをした鼠の話と、鼠を恐がった獅子の話である(『イソップ寓話集』・岩波文庫)。闘う獅子の話が鼠を恐がった獅子の話といれかわってしまうのは、なんとも皮肉なことである。この皮肉な逆転劇については、闘う獅子のおはなしがでてくるのは戦前の国定教科書だと示唆するにとどめる。「イソップ物語」の名の本は図書館の棚からあふれるばかりだが、いかなる「イソップ物語」にも闘う獅子の話はみつからない。散文の筆者のいう『イソップ物語』という虎の巻は、まっかなニセモノである。これはすなわち、散文の筆者のいう『イソップ物語』は、私本イソップ物語のことである。
 いまどき、図書館で人気の高いのは、田辺聖子『私本イソップ物語』である。これは現代の作家による現代人の寓話である。イソップ物語と銘うったのは、作家がふつうにつかうトリックである。作家の嘘は作家の才を示すもので、それは世間が認めている。市民社会の常識だ。批判者の私本イソップ物語が創作文学であることは世間でも認めるにやぶさかではない。ただし、その私本イソップ物語はいまのところ、創作者のおぼろな記憶か妄執のなかに存在するだけだ。
 その創作文学を世に知られた古典とすりかえる。なるほど、これはみごとなトリックだ。だが、創作作品をダーテイなイメージ作戦の典拠とするのは、詐欺まがいのふるまいというべきだ。事実の捏造、デッチあげだ。それをもとに人身攻撃すれば、これは世上に悪名高いあの“赤狩り”と少しも変わらない。謀略である。
 政治家の嘘は、ただ嘘である。政治家の嘘も政治家の才であると認めなければならないとすれば、それはその政治家がデマゴーグであることのなによりの証明だ。そういう政治家がいることは世間にもひろく知られている。人生が凡俗醜悪であるからには、それはしかたがないことかも知れない。それも市民社会の常識だが、これは哀しい常識である。
 これからあとは、つけたりである。「驢馬が獅子の皮を着て考えのない動物を恐がらせながら歩き廻っていました」という話が、イソップ寓話のなかにでてくる。そして、図に乗った驢馬がもっと恐がらせようとして脅しの声を発したため、化けの皮がはがれてしまった。これには、「教養のない人々のうちには見てくれが立派なために一廉の者だと思われているが、自分のおしゃべりでぼろを出す人がいるものです」というコメントが添えてある。(『イソップ寓話集』・岩波文庫)
 他人の愚かさを利用せよというのも、イソップ寓話の教えてくれる貴重な教訓である。確かに、愚かさは他人に利用される。もって銘すべきである。

コメント.
 前号に掲載した小森龍邦さんの文章は、よほど読む人を驚かせたらしい。なかには電話で、「しょげてへんか」と声をかけてくださった方がおられました。わたしがしょんぼりしていると心配なさったのでしょう。しかし、この五年半、身体のほうはともかく、神経だけはずいぶん太くなりましたからね。ご放念ください。
 田村さんは読後すぐにこの原稿を寄せてくださいました。「鼠を恐がった獅子の話」が、小森文では「闘う獅子の話」にいれかわっており、その典拠はおそらく戦前の国定教科書にあるというのはまったく知らなかった。いい勉強になりました。
 なお『部落解放』92年12月号の小森さんのコラム「きのう・きょう・あす」では、「藤田敬一氏」と氏をつけてもらってます。念のため。

《 各地からの便り 》
 東本願寺派『「同和」推進フォーラム』No.15の編集部注記について
畑辺 初代(京都)
 寒くなりましたね。山茶花の透明さが身に透む季節。いかがお過ごしですか。
 ところで、すでにご覧になっていると思いますが、『「同和」推進フォーラム』No.15(92.10.20)の最後のページの末尾に「調書簡が同炎の会の会員によって書かれたとの記述が『同和はこわい考』通信No.62(1992年9月20日、発行者・藤田敬一)の中にありますが、そのような事実はありません。(編集部)」と記されています。
 「こういう形で論点がすりかえられていくのか」と、いささか憂欝にもなり、また「ちゃんと相手と状況を見て、言うべきだったかな」と、少し後悔もしています。でも、鐘にしても叩かねば鳴らないわけですから(鳴った音で、叩いた自分と叩かれた鐘を知るのかも)、出てきた反応から出発してもいいんではないかとも思っています。とはいえ藤田さんと『通信』の読者には、「代筆」云々について、わたしの知りえていることどもをお伝えすべきだと思い、お便りを出させていただきます。
 まず、代筆の中身と程度は、私にはわかりません。はやい話が、代筆の現場にいたわけではありませんし、もし私に語ってくれた人が意識的に嘘を言ったとしたら、代筆の事実はないということも可能でしょう。「もう少し調査してみようか?」という気もちらっと起こりましたが、止めました。必要を感じなかったからです。そして、私は「調書簡は調さんの書いたものではなく、同炎の会の方が書いたものであることを、書かれた本人から聞きました」という事実をそのままに表現し、「聞いた」という事実を調さん宛の文章ではなく、同炎の会会長の藤井慈等さん宛の文章に、藤井さんの立脚点を確かめる形で提出したわけです。これ以上は不必要だったのです。まあ、代筆の事実については、代筆した人、代筆してもらった人それぞれが仏との対話の中で責任を持っていけばいいわけです。代筆の話を「聞いた」という事実に、私としてどう責任をとるかが、私の問題でした。それが「空しく時がすぎるということ」という藤井さん宛の文章になったわけです。
 そこで、論点を元に戻すために、私が関係した事実と、事実に対して私が行った意味付け(ここから藤井さん宛の文章が出立しているのですが)について、少し述べておきたいと思います。
 私は8月下旬に、同炎の会事務局のTさんから「『調書簡』はKさん(同和推進本部員・同炎の会会員)と僕との合作のようなものだ。よく出来ているでしょ?」と教えられて、驚きました。何に驚いたかというと、代筆の事実ではありません。代筆した人がTさん、Kさんであるということ、しかも「よく出来た」と評価しておられることに驚いたのです。なぜかといいますと、私が出席した同炎の会の会合では、「調書簡と藤井論文は大いに違う」と声高に語られていたし、その席にはもちろんTさんもKさんもおられたからです。だから、もし「調書簡は僕たちが代筆したんだけれど、あんな無茶な圧力に対してはああするしかなかったんだ。それにしても魂を売ったみたいだ」という文脈で代筆の事実が語られていたら、おそらく文字にする必要を感じなかったと思います。もっとも、代筆の事実が秘密だなんて私は知りませんでした。Tさんと私とは、秘密を教えてもらえるような関係ではないし、当然のことながら「これは外へ漏れるとまずいんだけれど……」というニュアンスの一言もありませんでした。『フォーラム』の編集に関わった人や、Tさん・Kさんの近くにいる人は当然知っておられることだと推測したわけです。なかんずく藤井さんはいつもTさんやKさんと話し合っておられるのだから、事実を知っておられるはずだと今も思っています。
 「いったい、この人達ってどうなっちゃっているのだろう」という単純かつ根本的疑惑を抱いたのです。人間が見えなくなってしまったと表現したほうが適当かもしれません。ある時は「反体制」の自己をふりかざし、ある時は体制を援助できた自分をよろこんでいる、しかも依然として人間を体制と反体制で識別する自分だけは決して変えようとはしない。その御都合主義に驚いたのです。
 ですから藤井さんの論考について意見を述べる際に、どうしても触れざるをえなませんでした。なぜかといいますと、藤井さんが私の文章「『差別者の自覚』について-調・平田『往復書簡』を読む-」(本誌No.59)について、一言の批判もされなかったからです。異質だと思われている相手から、何の論拠もなしに「君は僕と同じ願いに立っているんだよね」と言われたら、困るでしょう?評価されて困ってしまったのです。異質なものを同質だと思うことと、同質なのに異質だと思うことが奇妙に錯綜しているように感じられて(もちろんこれは私からそう見えるということなのですが)、境界線を明らかにしていく布石にでもなったらいいなというくらいの気持ちで問うたわけです。
 もともと、調書簡が自筆でなければならないと私は思っていません。その理由は平田さんの書簡も本当の意味では「自筆」ではないからです。事実として平田さんご自身が書かれたことは確かでしょうが、『フォーラム』に公開された部分に関して言う限り、どこにも平田さん個人は存在していないように思いました。もし調さんが宗教者であるなら、平田さんを閉じ込めている観念を含めて、その背後にある力から平田さんが脱出なさるように努力すべきであったでしょう。調さんはそういう姿勢をとられませんでした。だから、いくらでも匿名になれたのです。そういう場にすでにおいでになる方の文章が自筆か代筆かと、ことあげする必要を私は感じていなかったからです。
 けれども、「平田・調往復書簡」に象徴される人間関係の超克を願っているはずの藤井さんを始めとする同炎の会の方々には、言わざるをえない事実でした。「聞いたという事実」で充分であると私が判断したのもそうした意味からです。代筆の事実よりも、「代筆を自慢して語っている」事実のほうが、私には大切でした。
 現在の宗門と解放同盟との関係をどう思うか、「平田・調往復書簡」に象徴される関係をどう思うかを、私は論議したいのです。「親鸞の考えからすればこうなる」という話ではなく、現に生きている自分はどのような人間関係を願うのかを、私は論議したいのです。
 「親鸞のイメージ」の引っ張りあいをしたいわけではありません。そういう次元で褒めていただくこともかえって困るのです。(1992.11.20.記)

コメント.
 調書簡が代筆であったかなかったかは、それに関わった人びとが一番よく知っておいでになるわけで。その意味するところも、それぞれの方がお考えになればいいのです。政治的配慮のもとに起こった出来事は、政治的に処理されるしかないという鉄則が、この場合にも通用するようですな。

《 お願い 》
新『こぺる』誌刊行についてのお願い
 すでにご承知の方もおられるかと存じますが、京都部落史研究所の所報『こぺる』は1992年5月号をもって廃刊となりました。
 世に部落問題関係の新聞・雑誌はたくさん出ていますけれども、『こぺる』は毎号わずか16頁ながら部落差別の歴史・現状・課題を中心に多彩な問題提起をくりひろげるユニークな雑誌でした。掲載された文章がまとめられて一冊の本となり、好評を博したものもあります。たとえば『中世の民衆と芸能』『近世の民衆と芸能』などはその一例です。
 また、差別問題をめぐる情況をふまえ、これまでの発想、理論、思想の枠組みそのものを大胆にとらえかえし、より広く、より深く「人間と差別」について開かれた論議が展開される必要を感じている人びとにとって、『こぺる』への期待はけっして小さいものではなかったといえます。
 しかし京都部落史研究所には、残された時間と精力を『京都の部落史』全10巻の完成に注がなければならないという事情もあり、あえて『こぺる』廃刊に踏み切ったと聞いています。なにごとも廃止・廃刊が決まると急に惜しくなるのが人情でしょうし、惜しまれて廃止・廃刊するのも一つの行き方ではありますが、『こぺる』がこれまでに果たしてきた役割と成果を考えますと、その廃刊は残念でなりませんでした。
 ところがまもなく、廃刊を惜しむ人びとのあいだで、「ならばこの際、『こぺる』に親しんできたものが、力を合わせ続けて発行しよう」との声が自然にあがり、たがいに呼びかけあったところ、百名をこえる方の賛同がえられました。京都部落史研究所も誌名の使用などを快く承諾してくださっています。つまり京都部落史研究所の『こぺる』は、読者の、読者による『こぺる』として再生、蘇生することになったわけです。
 新『こぺる』は、おおよそ次のような取り決めで出発します。

1)
発行主体を『こぺる』刊行会とする。
2)
刊行会は、刊行の趣旨に賛同し、基金(一口5000円)を寄せてくださった人全員によって構成する。
3)
刊行会に世話人会、編集委員会を置く。

 もちろん、前途が容易でないことは覚悟しています。既成の発想、理論、思想の枠組みを検証し、新たなものを創造するといっても、ことはそうスムースに進むとは思われないし、しばらくは発行部数も限定されるでしょう。組織や集団に頼らず、個々人の力を集めてやるのですから、困難を乗り越えるには、おたがいが困難を分かち合うしかない。そこでまずは、刊行呼びかけに加わった者一人ひとりが基金を持ち寄って出発時の財源にすることにしました。10月23日現在、呼びかけには加わらないけれども趣旨に賛同するといって基金を拠出してくださった方の分を含めて、その額は168口84万円になっています。しかし、これだけではなんとも心もとなく、広くみなさんにお訴えしてご支援をお願いしたいと考えた次第です。
 つきましては、新『こぺる』刊行のための基金をお寄せいただけないでしょうか。まことに心苦しいかぎりですが、ご配慮を賜りますようお願いいたします。
   1992年11月
            新『こぺる』誌刊行呼びかけ人一同(106人の氏名は省略します)

   新『こぺる』来春四月刊行開始!
上掲「お願い」文にもありますように、これまで京都部落史研究所が発行してきた『こぺる』が、読者の、読者による『こぺる』として再出発することになりました。ぜひ基金をお寄せいただきたく、ここにお願いする次第です。
 基金 一口5000円
 目標 200万円
 郵便振替 京都1-6141 こぺる刊行会(阿吽社内にあります)

《 あとがき 》
★右肘痛がひどく、どうもいけません。ビールの大瓶が持てないようでは…。トホホ
★いよいよ新『こぺる』刊行にむけて出発進行。ご支援ください
★今号を郵送したら、ちょっと旅に出ます。晩秋の大山と日本海が眺められるんです
★10月23日から11月18日まで、三重(2),京都(3),岐阜,愛知,岩手の8人の方より計17,704円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)