同和はこわい考通信 No.63 1992.10.20. 発行者・藤田敬一

《 各地からの便り 》
生活文化の問い返しが必要だと思います
U.Y(京都)
 「通信」の住田・灘本往復書簡、調・平田往復書簡、それらへの割り込みも、実に興味深く面白く読ませて頂いております。自分も割り込みたくもあるのですが、暑さと体力消耗でどうも考えがまとまりません。とりあえずは、傍観、静観にて読み続けさせて頂きます。
 ひとつだけ、感想めいたことですが、57号の灘本さんの文章を読んで思ったことを書かせて頂きます。灘本さんは、「部落の生活の否定的現実」「低位性」は「1,2世代たてば板についてくる」「その程度のもの」とみておられるようです。そしてそれが同和事業によってむしろ阻害されていると言われます。広義の個人給付的同和事業については、私も10余年前から部落民の自立を損なうものと考え、打ち切りが必要と主張してきましたが、灘本さんの考えとは少し異なります。また住田さんの主張の核心は、部落の低位性-部落民の内面的弱さの克服という点にあると思い、そこに私も強い関心もっていたために注目していましたが、前記の灘本さんの見方とは、その前提において根本的にかみあわないように思います。
 一方、津田さんは、58、59号を読ませて頂く限りでは、「低位」が、部落差別と無関係にも存在していると言われ、低位と部落との結びつきを、部落に限ってだけ差別とからめて論じることに疑問を呈しておられるようですが、やはり前提としては部落に「低位なるもの」が存在し、内面のありようを含めたそのことのとらえかえしに意味を見ておられるようです(よくわからないところもありますが)。
 私は、たしかに津田さんの言うように部落以外にも現象的には同様の「低位性」があると思いますが、部落の場合は少なくとも数世代の蓄積をへ、しかも地域共同体として集団の生活文化全般にわたるものであるという点で、単に行動や生活上で同じように見えても同様に論じられないと考えています。
 ただこれは「差別の結果」ということだけで片付けられることではなくて、部落の生活、習慣、文化、立居振舞などが、歴史をへて、そのように形成されてきたためとしか、今のところ言い様がありません。そしてもちろん、それらは「低位」云々の面だけではなく、あらゆる生活の側面についても言えることであって、むしろ「低位なるもの」が目につくからといって、それだけ取り出して克服を考えても、また「低位性」だけから全体を否定的に考えても、しょせんイタチゴッコに終わると思います。
 「モーニングサービス」のことも、絵本の読み聞かせのことも、言葉の問題も、ゴミ出しの日のことも、たいがい口やかましくいっても、根本的なことが何ひとつ変わらないという感じに襲われ、これはもういちど生活というものをトータルに見返さないとダメだということに気付きました。とくに教育の問題は、地域全体がどう変わるかということを抜きには改善の見込みはないと思えます。そして、悪いところばかりでなく、プラスの面をどう見い出して意義を与えてゆくかがカギになると考えています。
 たとえば敷居はあってなきが如しなんていうのはやっぱりいいことでしょうか。そこで、灘本さんの言うように、こうしたことは1、2世代でどうにかなるというものではないし、また、過剰な部落民優遇策が放漫な家計を生み、「モーニングサービス」につながっているという単純なものではないと私には思えます。「実入りが少なければ放っておいても財布の紐は締まる」のではなく、少なければ少ないなりに締まらないという、そういう生活意識があるかぎり、単なる一方的事業打ち切りでは、長期には実質的貧困化に陥ると考えられ、どのように同和事業を打ち切っていくかが真剣に問われねばならないと思います。最近は、ほとんど支部の活動もしておらず、もっぱら問題意識にあることだけを書きなぐってしまいましたが、読み流して下さい。(1992.8.31.)

コメント.
住田・灘本「往復書簡」、そして津田文のテーマの一つは、被差別部落の生活文化をどうみるかということでした。U.Yさんは生活文化のトータルな問い返しを主張しておられます。しかし生活文化とはなにかというむずかしい議論があるうえに、被差別部落に特徴的な、もしくは固有の生活文化があるのかないのか、それ自体が大問題ですし、「部落の実状をありのまま書くと、差別の拡大・助長につながる」との批判や、原因・要因をめぐる議論を吹っ飛ばしかねない「差別の結果」論をどのようにクリアーするかといった難問も待ち構えている。これまで被差別部落の生活文化が議論の対象になりにくかったのは、それなりの理由があったといえます。それだけにみなさんの議論に期待しているんですが、目下休憩中ということで残念至極。このお便りがきっかけになってU.Yさんや山城さんなんかにも加わってもらって、論議の輪が広がればと考えています。
 なお、生活文化ということで、わたしがまず思い浮かべるのは、オスカー・ルイス『貧困の文化-五つの家族』(新潮選書)です。陳腐な人間類型と過剰な感情移入が横溢した「被差別と貧困の生活文化」像にあきたらない人に、ぜひ一読をおすすめしたい。重版されて手に入りやすくなっているはず。

なぜ議論が前に進まないのでしょうか───全国交流会から帰って───
津田 ひとみ(熊本)
 私が行き出してから全国交流会も5回となり(1回欠席しましたが)、つまりもう5年経ったわけで、『同和はこわい考』が出て翌年の夏、まだ赤ん坊だった末の娘は来年一年生です。今年もたくさんの方が参加され盛況でしたが、当初の予想を裏切って新しい方が結構参加され、以前から参加されていた方が来られないというような、つまりかなり流動的なかたちで毎年回を重ねているようですね。新しい方が参加されるのはとても嬉しいのですが、反面、いつも同じところで同じような議論を巡らせ、それからもう一つ踏み出せないもどかしさを感じています。
 今回は分散会の司会でしたので、様々な方たちの様々な意見をなんとか絞り込みたいという思いばかりで、よけいにそう感じたのかもしれません。ただ、夜の交流会で少しお伝えしたように、たとえば「なぜ己が差別者と自覚するのが悪いのか」というような意見が飛び出し、少なくとも私が知る限り5年前に藤田さんが提起された差別・被差別という絶対化された関係を見つめなおすという一点においてさえ交流会参加者の理解を得られていないという印象がぬぐえなかったのです。
 このところの同炎の会でのやりとり、さらに62号の畑辺さんの文章などを読んでそういう思いがいまさらながらしています。
 部落外の人が「私は差別者の側にいました」というのを聞くにつけ感じることは、その時私は被差別という側に置かれ、そしてその相手にとって、私の存在はただそれだけで意味を持たされるということの居心地の悪さです。こういう場面を心地よいと感じる部落民もいないわけではないのですが、少し冷めた目で見ることができるならば、それはなんとも情けないことではないでしょうか。対面している相手を差別者と自覚させるためにだけ被差別の一面を浮き彫りにされて、そこに立たされる、人間として他にも色々な要素があるのに、「被差別」だけが存在を意味づけられるというのは、憤慨こそあれ、心地よさなどあるはずがないと思うのです。紋切り型に「部落民でない私は差別者です」という人に向かっては、どっちに転んでも部落に生まれたことがなんぼのもんやと、ならば男はすべての女性に向かって「女でない私は差別者です」というのかと、言いたくなります。
 しかし、いまもって「己を差別者と自覚する」ことを第一歩(本当は到達点)として意味づける人たちは、畑辺さんが「すぐに『反差別者』の資格に転倒してしまう」と言っておられるように、懺悔ざんげの心地よさにひたっているのではないかと思うのです。生活していくうえでまとってきた醜悪なるものを、「私は差別者でした、差別の側にいます」という懺悔で一時的に払拭ふっしょくできるのではないでしょうか。誰だってどこかで自分を天使のように無垢むくに仕立てたい時がありますから。
 まあ、百歩譲ってそれもよいでしょう。しかし、そんなもののためだけに、色々な要素のある自分の中から「被差別」だけを取り出されて目の前に立たされて、そこからどんな互いの関係が結べるのかという疑問が『同和はこわい考』で提起されたものであったと思います。
 交流会でもそうですし、『こわい考』通信でもそうですが、「両側から超える」が、そのようなものとしてどうして理解されずに、その手前でいつまでも止まっているのか不思議でしようがないのです。
 「両側から超える」のではなくて、超えるのは「差別者」の側だとよく聞きます。そうではなくて、問題は差別者の、あるいは被差別者の「側」という線引きの虚構であって、「両側と言われているものを超える」から始めればよいのに、5年経ってもまだそんなことを議論しなければならないかと、つい思ってしまいます。
 ともかく、『同和はこわい考』で提起されたことをとりあえず曲解せずに受けとめて、そのうえで異論は大いに結構ですから議論するということにしたいのに、なかなかそこまでいっていないというのが、この間の歳月を振り返り、とくに今回の交流会で感じたことです。

コメント.
今年の交流会は例年より初参加の方が多かったのは事実ですけれど、そのせいで議論が先祖返りしたとか、堂々めぐりしたというふうには、わたしは考えていません。議論というものは、必ず階段的に発展てゆくものでも、螺旋らせん的に上昇していくものでもないし。新しく参加なさった方の問題意識をも包み込みながら、くりかえし原点に戻って議論すればいいのとちがいますか。津田さんのお気持もわからないではありませんが。
 ところで「差別者としての自覚」「差別者としての自己を否定する」「差別者としての自己を解放する」といった議論は、ずっと以前から連綿としてつづいているもので、わたしなんかも影響を受けました。それが『こわい考』批判の思想的根拠として表面化してきたのが最近の状況ですが、それにしても、自己否定が自分の内にとどまらず、言葉として表出されたり、自己否定を他者に求めたりするとき、内的緊張がゆるむのはどうしてでしょうか。じっくり考えてみたいテーマです。

反差別の理想に陶酔しない主体とは
東谷 修一(大阪)
 今回の交流会のサブテーマである「私たちは確かな一歩をしるしてきたか」は、私にとっても重くのしかかってきます。
 私は反差別の理想を人々に説き、その夢に陶酔とうすいしていた時期がありました。私は高校から大学にかけた学生時代のある時期、人々の考え方や態度や言葉から、人格を傷つけると思われるものを差別だと指摘し、それをやめてほしい、なくすべきだと主張してきました。だが、私が指摘したことは本当に差別だったのか、なくすべきだったのかと、今さらながら思います。事柄の内実を問わず、表面的な屈辱感だけで、やめてほしい、なくすべきだと主張してきたことが多々ありました。むしろ指摘した事柄の中には、他の面や、長い目で見たとき、差別問題を解決していくためにはプラスになるものもあったかもしれません。
 例えば、私の子供時代、障害者と呼ばれる私が道を歩いていると、道行く人に変な目付きで見られ、すれちがう人によく振り返られたという経験があります。学生時代、私は彼らの視線に障害者を同じ人間と見ない特殊視を感じ、それを差別ととらまえ、そのような視線はやめてほしいとなんどか訴えました。だが、よくよく考えてみると、障害者は私達の社会のなかにある人間像からかなり異なっているのだから、「こいつ、何者だろうか」と障害者に関心を持ち、よく見ようとして注視して振り返ったと考えるほうが自然ではないでしょうか。もちろん、一面、特殊視による差別があったかもしれません。だけど、その面を強調するあまり、別な面である人々が障害者に関心をもつことすら奪ってきたかもしれないのです。
 また子供時代、私は近所の子供達に私の歩き方を真似まねられ、笑われたという経験があります。学生時代、私はそれを障害者を軽蔑し、笑い者にしたと捉まえ、やめてほしいと主張してきました。だが、冷静になって考えてみると、たとえ障害者を軽蔑した面があったにしても、障害者の模倣は障害者理解の第一歩ではないでしょうか。
 今まで述べてきたことから考えますと、私が差別だからやめてほしいと人々に訴えてきたことの中には、人々が障害者に関心を持ち、障害者理解に向かう可能性を阻害し、障害者と健常者との関係を断ち切ってきた面が多々あったように思えます。
 ところで、私は数年前からなんどか聞いた話があります。子供が障害者をじっと見ていると、親があわてて「見ちゃいけません!」と言いながら、子供の目を両手でおおったといいます。私はその話を聞くたびに、親がそんな行為に及んだ責任の一端は私にもあると思われ、胸が痛みます。
 そこで、私は自分が「差別」だと指摘した事柄の内実を洗い直し、反差別の理想に陶酔しない主体を自分の中に生み出していきたいと思います。それが反差別の理想を説いたものの責任だと思うからです。

コメント.
これまで障害者差別だと自分が指摘してきた事柄は、ほんとに差別だったのか、もしかしたら、そうした指摘は逆に障害者たいする人びとの関心、理解を妨げるものではなかったのかという東谷さんの痛切な自省の言として読ませていただきました。しかし、障害者に向けられる無遠慮で好奇な視線や、障害者の動作をおもしろおかしくまねることが、障害者への関心や理解にそのままつながるとは、わたしにはとても思えない。もちろん東谷さんは「そのままつながる」とは言い切っておられませんけれど、そう読めなくはない。異形の認知、関心をすべて差別意識によるものと即断してしまうと、大切なものが抜け落ちることはたしかですが、異形の認知、関心が差別意識につながってゆく経路も現実に存在しているわけですから、そこらへんについて十分考えてみる必要があるでしょうね。



《 採録 》
「部会報告」以来の反動思想
小森 龍邦
 人はあまり問題にするなという。しかし、86年の「地対協部会報告」以来の反動思想は、運動現場の弱いところでは、いまだに後遺症を残している。それよりも何よりも、政府部内では各省庁とも、これに公然と敵対の姿勢を示すものはいない。
 国会の論議においては、「同対審答申」の精神に違背いはいするこの86年「地対協」路線を、あらかじめ頭の中に置きつつ、遠まわしに反論するというやり方でなければ、論点を追った議論をすることはできない。
 つまり問題にするなというのは、藤田敬一(岐阜大学教授)の主張する『同和はこわい考』のことである。/うがったことをいうものは、部落解放同盟という大組織が問題にすれば、藤田敬一を著名にするばかりで、彼をますますのさばらせるだけだというのである。/副産物としては、たしかにそのようなこともあるかもしれない。/しかし、本質がそこにあるのではない。ことがらの本質は、86年「地対協」路線による融和主義が表沙汰おもてざたになるや否や、その融和主義を批判する格好をとりつつ、その内実、部落解放同盟の「基本法」要求の路線にケチをつけようとするところにある。
 亡くなった野間宏先生も、大変このことは心配されていたようで、藤田敬一のことはさることながら、むしろ「差別とたたかう文化会議」のメンバーの中に、この思想に汚染されているもののいることに心を砕かれていた。/したがって、野間先生は、問題の所在をやさしく整理された。『解放新聞』もそのことをニュースとすることは避けて、その意のあるところを尊重した。/ところがことこころざしと違って、配慮されたメンバーは意に介することなく、「表現の自由」という気持ちなのであろう、部落解放同盟、上杉委員長を筆頭に上田副委員長の批判も大々的に展開。しかも、これら個人名をあげての批判は、同時に運動の路線上の批判ということでもある。/部落解放同盟の運動にまったく関係のない人なら、それは自由である。だが、この人たち、部落解放同盟中央本部や、いまなお府県連の活動と関係する位置にあり、そのために生活しているような人である。
 あまり、藤田敬一の『同和はこわい考』を問題にするなといった、いわば藤田敬一無視路線ともいうべきものが、こんな災いを今日もたらしていることをどう考えるのか。
 獅子ししはネズミと闘うときも全力を上げるという話は『イソップ物語』の中に出てくる。/ある一つの主張が融和主義として間違っているとき、それを無視してよいときもあるし、無視できないこともある。
 今回の場合などは、背景に86年「地対協」路線がある。もし「糾弾はダメ」「自由な意見を抑えている」「差別されても我慢せよ」などの融和主義、差別主義の宣伝が強大な政府権力の手によって予定されていなかったら、「ノミがんだ」ほどのこともないと評価してよかろう。/マスコミがある程度、これを取り上げたのは、政府権力と部落解放同盟との闘いであるから、その庭先で政府側に立つ議論には興味があるとしたからである。
 藤田敬一の『同和はこわい考』は、自分たちのやっていた新左翼的運動のグループ内での出来事を、あたかも部落解放同盟本体の動きであるかのごとくに錯覚していること。/もう一つ肝心なことは、「両極から越える」といって、被差別者、差別者の立場を忘れて勝手放題なことを言っているところにある。
 被差別者と差別者に大別することは論理に飛躍をともなうから、少し厳密に分類すると、少なくとも部落差別の対象にならない人が、差別の痛みの真髄もわからないのに、「あれもいけない」「これもいけない」と注文がましいことを言ってはいけない。/被差別者の周辺にあって部落解放運動をするものには、まずかぎりなく被差別者に近づくことが重要なのだ。
 (『部落解放』解放出版社、No.348,1992年10月、「きのう・きょう・あす」)

コメント.
いかに議論ずきのわたしでも、小森龍邦さん(部落解放同盟中央本部書記長)の文章をうれしがって載せているわけではありません。眠れる獅子を起こし、ぐるぐるまいをさせたという鼠にたとえられて喜ぶほどアホでもない。ただただ最後の一文「被差別者の周辺にあって部落解放運動をするものには、まずかぎりなく被差別者に近づくことが重要なのだ」を紹介したいがためです。
 いったい「被差別者の周辺にあって部落解放運動をするもの」とは誰のことなのか。「かぎりなく被差別者に近づく」とは、具体的には何をどのようにすることなのか。そんなことをあれこれ考えていると、差別・被差別の隔絶された関係の背後にある発想、心性、思考パターンの一つが浮かんできます。差別・被差別関係を固定化し、被差別の立場・資格を絶対化しているかぎり、部落差別(意識)を媒介にした人と人との関係は変えようがないと、わたしは思います。



《 あとがき 》
★畦や堤防に刈り残された曼珠沙華が色あせ、雨に濡れてポツンと立っている。刈り残されているのは、やっぱり仏さんと関係があるからでしょうね
★小森さんの文章に誘われて絵本をくったのですが、獅子と鼠の話が載っていない。やむなく『イソップ寓話集』(岩波文庫)を買ってしまいました。いやはや
★ところで、あの話には「考えのある人々はいい加減なものでさえも軽蔑しない、ということを教えています」とのオチがついてるんですが、どうみたってあれは獅子の照れ隠し、弁解話だと思いますよ
★絵本といえば、先天性四肢障害児が主人公の『さっちゃんのまほうのて』(偕成社)がよかった。はさみ込まれた「しおり」もいろんなことを考えさせてくれ、いい絵本に出会った喜びにしばし感動
★9月26日から10月17日まで、島根,大阪(3),鳥取,岐阜(2),熊本,愛知,京都の10人の方より計39,412円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)