同和はこわい考通信 No.62 1992.9.20. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
空しく時が過ぎるということ───藤井慈等さんの文章に寄せて
畑辺 初代(京都・浄土真宗大谷派僧侶)
1.
 すっかり秋ですね。今年は秋じゃがに挑戦。ここらへんは秋じゃがには適していないといわれているのですが、それでもちょっと試してみようと思っているのです。うまくできたら裏の畑のお爺さんにも教えてあげるつもり。彼は私の農業の先生ですが、ときどきは逆の流れもあって(ごくごくたまですが)、そういう時は「ほう、やってみるもんじゃのう」と喜んでくれます。楽しみです。
 さて、藤井さんの文章、拝見しました。正直なところ、難しすぎてよくわかりません。藤田さんの問いかけ───あなたはどのような意味あいで自らを差別者と規定しているのですか、また現在広く見受けられる差別・被差別の隔絶した関係の実情をどう考えておられるのですか───に対する応答として書かれたはずだと思うのですが、どうも応答になっているようには思えず、かわりに藤井さんの描く解放のイメージだけしか見えません。
 失礼を承知でいってしまうと、藤井さんの頭の中に「親鸞の仏教はこういうものだ」というイメージの原形がインプットされていて、それにあわせて被差別者の言説を切り取って張りつけた観念のモデルを見ているような感覚に襲われました。これでは書いておられる願いとは逆に、ますます時を喪失するのではないかという危惧ばかりがふくらみました。使われている言葉には部分的に感動もするのですが、言葉を生み出している動機が見えてこないのです。とはいえ、それで藤井さんを裁断するつもりは毛頭なく、「時の名のりという題で書いておられるのだから、読めない私の方に問題があるのかなあ」と思ったのです(なにせ藤井さんは修練の先生で、私は生徒ですもの)。
 理解のしにくさの原因を自分なりに知りたくもあったところに、たまたま藤井さんが会長をしておられる同炎の会からの要請もあったので、渡りに船とばかりに、ある集まりに出かけてきました。「『差別者の自覚』とは、被差別正義に身をすり寄せることでもなく…」なんて書いてありましたしね。ところが、五時間ばかりの討論の大半は私への集中攻撃に終始しました。甘い勧誘の言葉にのって、時間とお金を空費した自分の馬鹿さかげに乾杯。攻撃されるのはいっこうにかまわないのですが(嬉しくもないけど)、あんまり紋切り型だったのには辟易へきえきしました。いわく、「部落の経済状態は十年前と変わっていない」「経済闘争も意識変革の闘争も同じ原理に立つに決まっているではないか」「部落差別といえば地区住民への差別に決まっとるやろ」等々。藤田・灘本さんへの批判(?)も「差別者の居直りだ。吐き気がする」「大学の講師なんかに部落のことがわかるか」など、実にヒステリックで聞くに耐えませんでした。なぜ耐えられなかったかというと、藤田さんや灘本さんが批判されているからではありません(まったくなかったといえば嘘ですが)。批判の口振りの奥に、あたかも「自分の理論枠をおびやかされることイコール自己をおびやかされること」とでもいえるような余裕のない心を感じてしまったからです。まさしく宗教的解放とはほど遠い姿を見てしまいました。
 「部落といい、差別といい、糾弾といっても、それぞれに見ている具体的現実は違うかもしれないので、見ている現実を具体的に提示しあいませんか?」と何回も要請しましたが、とうてい聞いてもらえるはずもありませんでした。もっとも私のほうも終始テレビでも観ているような感覚から抜けきれず、最後に「そんならあんた、部落民と結婚できるか?」と踏み絵を置かれたときには、「定食メニューどおりやなあ」とちらっと思っただけで、食べる意欲すら起こりませんでしたが。

2.
 ところで、藤井さん。私の関心はむしろここにあるのです。この私の関心はたとえば、「なぜ、『差別者の自覚』がすぐに『反差別者の資格』に転倒してしまうのか?宗教を道徳的強制の言説に変えてしまうものは何か?」という形で表すことができます。これは「差別からの解放」というよりもむしろ「ルサンチマン(怨恨えんこんー藤田補注)からの解放」とでも表現したほうが展開に必要な広さを確保できるような問題です。そして私にとって、あなたの言葉が空疎に聞こえてしまう原因もたぶんこうした「動機の違い」が根底にあるように思えるのです。まあ、あなたのように「寺に生まれたから親鸞の仏教を生きねばならない」という場から出発した方と、私のように「これが自分の生だ」といえる生を生きたいという欲望を生きて、その果てに生を狭める知の構造をすっぽりと包み転ずる形で、真宗に出会った者との根本的違いかもしれませんが、私にはあなたの論稿の最後の部分「それだけに『オノレにほれる』といっても、そのことに定まることが『難中の難』でありますが」だけが、妙にリアルに響いてしまうのです。この溜め息は、「オノレにほれる」という「当事者性」を獲得できないが故の溜め息のようですが、あなたは、気づいておられるでしょうか、この溜め息の出所を。私には、あなたが「こうすれば世界はよくなる」「こうすれば差別はなくなる」式の論理に身を任せば任すほど、あなたの溜め息は深くなるように感じられます。そして残念ながら、あなたの溜め息はかえって世を汚すと思うのです(『浄土論注』に「外道の相善は菩薩の法を乱る」とあります)。
 あなたもよく御承知のように、あなた方の会は、宗門内の解放同盟のようにおのれを規定し、差別語狩りや代理糾弾をやってこられました。差別という大問題は、あなた方を高みに立たせ、つきなみに生きている人々に道徳的強制の言説をたくさん浴びせました。そのときあなた方は、後ろ盾として「親鸞の仏教」を使われました。私は、是非を問題にしているのではありません。あなた方を指弾する資格が自分にあるとも思っていません。ただ、そういう自分たちの過去を「水に流して」、新しい理論を着ても、あなたにとってとうてい「当事者性」は回復できないと思うのです。「当事者性」を忘れて行動してきたことが、自分や他者をどういうところに導いたか。そこからしか「当事者性」を回復するような立論はできないのではないかといいたいだけなのです。
 先生にむかって浅学のくせに誠に申し訳ない言い方をしましたが、実は本誌59号の「『差別者の自覚』について」で、私がいいたかったこともこの事一つです。ついでにいっておきたいのですが、あなたは「畑辺さんの論稿は、宗門の政治主義に堕して、親鸞の「如来回向の信心」と異なることを指摘し、問題を担う真の主体を明らかにしようとしたもの」と読んで下さいましたが、私の論稿は、親鸞を後ろ盾にして語られている「差別者の自覚」の後ろには親鸞はいないと表現しただけです。
 「真の主体を明らかにしよう」という気は私にはありませんでした。なぜ、こういうのかといいますと、私は宗門に集う人々に「真宗門徒だから部落解放に関わらねばならないなんて無理に思う必要はないよ」といいたいからです。部落解放がどうでもいいからではありません。現状の理論枠に縛られたまま、部落に関わることの損失を指摘したかっただけなのです。こういう私自身は自分に強制として働く道徳的動機を、今のところ持っておりません。(かつて道徳的動機が働いていた時期もあったのですが、その時期は私は意識的に「解放運動」から身を離しておりました。どっちにころんでも、相手に失礼になるように思ったからです。とはいえ、これは道徳的動機一般が悪いといっているのではなく、道徳の罠にはまり、舞い上がりそうな自分に気づいていたからあえて抑止していただけのはなしですが……)
 先日の「会」で、「畑辺さんのように自分を差別者であるとも規定しないで、どうして解放運動に参加できるのか?」とあなた方は問われました(解放運動に参加しているという意識は私の中にはありません)。そして「差別者として自己規定しない畑辺さんはひどい差別者だ」ともいわれましたね。たしかに、この私のスタンスはあなた方を始めとして多くの教団人から非難を受けることでしょう。私はそのことを知っています。そして実は知っているが故にこの座を選びとったのです。もっとも、これはある意味では長く念願していた座でもありますが、現実には「馬鹿チョン」問題を通じて与えられた座です。あの問題を通じて私は、教団というものがいかに危ういところに立っているか見てしまったように思いました。危うければ危ういほど人は他物に頼ります。そしてますます自分を見失っていく。知らぬ間に「親鸞の教団」が、表は親鸞を語りつつ、その実「鬼神の集団」と化しているではないか。そんな驚きが新鮮でした。たまたま偶然に「集団のなれあい」から一歩出る機会を与えられた者として、そこからしか見えないものを見て思索したいと思ったのです。被害者願望が加害者を名のらせることによってさらなる加害を惹き起こす集団にあって、加害者を名のらないことによって被害を身に受け、思索する場を確保するということです。「もしかしたら、ブラックホールになれるかも?」とひそかに思っているところもあるのですが。

3.
 ところで藤井さん。私はあなたの論稿を「調さんの文章とよく似たところから発せられている言葉だなあ」と受け取り、自分の主観に任せて表現しました。この感覚は実は、『「同和」推進フォーラム』No.13(91/11)(真宗大谷派同和推進本部発行)の平田・調「往復書簡」を読んだときに始めて宿ったものでした。ただ、私は調書簡は調さんご自身が書かれたものと当然のことながら思っておりました。最近になって私は、調書簡は調さんの書いたものではなく、同炎の会の方が書いたものであることを、書かれた御本人から聞きました。びっくりしました。だって、私が出席した「会」では宗務当局を悪の権化のように軽蔑しののしる発言がずいぶんありましたし、てっきり一応一線は画しておられるように見受けられたからです。別に当局批判をせよといっているのではありません。一線を画すことが同炎の会のアイデンティティになっているように感じられたからです。「それなのに、書簡まで代わりに書いてしまうなんて。同炎の会っていったいどういう組織なのかなあ」と疑問を感じたまでです。
 そして、「藤井さんもそのことを知っているのだとしたら、私の論稿に対する藤井さんの評価を自分はどう受け取ればいいのだろうか?」と、わけがわからなくなってしまいました。私のこの論稿があなたの言葉の中に入らず、もっぱら立脚地を問題にしている直接的原因もそこにあることを正直に表明しておきます。
 ともあれ、今となっては「往復書簡はフォーラムではじめて目にし、調さんの考え方も活字になったのを見るのはこれが初めてであったことをお断りしておきます」では、いかにも表面的返答のそしりは免れないでしょう。名をかくしたり偽ったりというなれあいの中から、ちょっぴり身を離して、自分を発信してもらえたらと祈らずにはおれません。とはいえこれ以上の論議に『こわい考』通信の誌面を借りるのも気がひけますので、続編は『同炎のたより』誌上で、藤田さんたちにも参加してもらう形でやってもいいなあと思いますが、一方では「これ以上、空しい論議はごめんだ」という気持ちもなきにしもあらずです。
 正直に自分の主観を提示することだけに努めました。失礼の段、お許しあれ。

コメント.
新しい読者もおられるので、これまでの話の筋を要約しておきます。発端は浄土真宗大谷派(東本願寺)の同和推進本部編『「同和」推進フォーラム』No.6(89/9) に本部長の調 紀しらべおさむさんが「いま思うこと」と題する短い文章をお書きになり、『こわい考』の一節「自己の成育史や生活体験を絶対化してしまうと、他の人々にも程度と質の違いはあれ、それなりの苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さがあることへの配慮がなくなり「やさしさ」を失う。他者への共感のないところで人間解放への希求を語っても説得力はない。」を引用して、こう述べられたことにあります。

同和推進本部長に任命されて、まもなく半年になろうとする。その間、二度にわたる糾弾をとおして、同じような言葉を聞かされた思いがしている。/被差別大衆が大谷派に問うていることは、単なる制度の改廃や宗政にかかわる問題だけではない。/本質的には教学・信心が問われているのである。

一面トップ、立ち上がって指を突き付け大谷派を糾弾している部落解放同盟中央本部書記長・広島県連委員長の小森龍邦さんの写真のそばに、この一文が載せられているのですから、運動の事情に通じ、政治世界における身の処し方を知っている人からみれば、調さんや同和推進本部は世間知らずの常識はずれということになるのでしょうが、ものは考えようで、調さんや同和推進本部のこの「うかつさ」には、「政治世界の仁義」なるものに通じていない宗教者の姿が逆にうかがえるともいえるのです。ところが、やはりというべきか、早速抗議の手紙が広島県府中ふちゅう市教育委員会社会教育課の平田美知子さんから寄せられました。要するに部落解放同盟中央本部が否定的な評価を下している『こわい考』からなぜ引用したのか、それは「宗教団体の方の内省として再びあやまてる方向に向かっておられること」の徴候ではないかというわけです。
 抗議を受けた調さんや同和推進本部の驚愕ぶりが察せられます。ことは、一読者からの抗議程度の扱いではすまなくなり、京都と広島とのあいだで、小森さんも加わってのあれやこれやのやりとりがあったらしい。問題は個人を超えてしまったのです。かくして調さんから反省をこめた自己批判の手紙が出され、それに対して平田さんから再度の応答があり、それらを一括して『フォーラム』No.13(91/11) に公表することによって一件落着とされました。
 つまらんといえば、まことにつまらん話です。部落解放運動の世界でよく聞く話の一つにすぎません。しかし、調さんの文章とそれをめぐる右往左往、および公表された平田・調「往復書簡」は、今日ただいまにおける差別・被差別の隔絶された関係の実情とその背後にある心性、感性、思考パターンをあますところなく示していると、わたしには思えます。たとえば、調さんは書簡のなかで、自らを差別者と規定し、「差別する側の、差別することによってゆがんだ自身の在り方を明らかにし、そしてそのことを克服する運動をどう始めていくのかが問題にならなければならない」と書いておられますが、このような視点では、とてものことではないけれども部落差別(意識)を媒介にした人と人との関係の変革という課題は視野に入ってこず、したがってその先には1970年代から80年代にかけて破産が証明された贖罪しょくざい意識にもとづく随伴者の道しか残されてはいないでしょう。まして反差別運動とその組織を神聖視し、被差別者を聖別化するかぎり、両者ともの人間的崩壊は避け難い。わたしの感想はこれにつきます。
 なお平田・調「往復書簡」は、わたしのコメントをつけて本誌57号に抄録してあり、住田一郎さんの「『寄り添う同伴者』を拒否する」(58号)、畑辺初代さんの「『差別者の自覚』について」(59号)とあわせてご覧ねがえれば嬉しい(お読みになりたい方は、ご一報ください。すぐお送りしますので)。
 ところで平田・調「往復書簡」が公表された『フォーラム』No.13には、藤井慈等さん(三重・浄土真宗大谷派僧侶)の一文「水平社宣言に聞く」も掲載されていて、その注記のなかで「部落解放運動は差別・被差別関係総体の止揚にむけた共同の営みとして創出される必要があり、その一歩として差別・被差別の両側から超える努力がなされねばならない」というわたしの主張について疑問を提出しておられます。わたしは藤井さんの注記が平田・調「往復書簡」と関連がある、つまり『こわい考』批判の編集方針と関連があるとみて抄録するとともに、

藤井さんは「両側から越える論については、論としては成り立ち得ても、実践的には片側、すなわち歩むものにとっては道はひとつしかない」とおっしゃるけれど、それは差別者としての道、被差別者としての道しかないということなのでしょうか。もしそうだとしたら他者を差別する「被差別者」の道はどうなるのですか。
藤井さんはいかなる意味あいにおいて自らを「差別するもの」と規定しておられるのでしょうか。
藤井さんは東本願寺教団内部はもとより、世間に広くみられる差別・被差別の隔絶された関係の実情をどう考えておられるのでしょうか。

とおたずねしたところ、本誌61号所収の一文が寄せられ、それを読んでの感想が畑辺さんの今号の文章です。畑辺さんのむなしい気持が伝わってきます。それはともかく藤井さんのご意見にたいするわたしの考えは後日まとまった形で書くことにして、いまは調さんの書簡が実は調さんの筆になるものではなく同炎の会の一会員によって書かれたという新事実にだけふれておきます。
 わたし自身、部落解放運動のなかで幾度となく代筆した経験があり、その経験からいうと、代筆はあくまで代筆にすぎず、本人に成りかわってその思想を表現することはできないのです。しかも本人の心と身体を通っていない文章だから身につくはずがない。なにせ本人が、自分の名前で出されたことすら忘れていたという笑うに笑えない話さえあるくらいなんですから。
 で、同炎の会というのは、一度呼ばれて話をさせてもらったことはありますが、「部落差別を撤廃し魂の解放区(サンガ)建立を!」をスローガンに浄土真宗大谷派のなかでなにか活動している組織程度の知識しかありません。だから同和推進本部との関係も、代筆者との関係も、そして裏の事情もわからない。おそらく誰か知恵者がいて事態収拾をはかるべく同炎の会の会員に代筆を頼んだのでしょうが、それにしても個人の生き方が議論されているとき、それにかかわって代筆するとはどういうことなのかと首をかしげるのみです。
 代筆とは知らず調さんに話しかけていたわたしがアホやったということでしょうか。いや、そうではありますまい。代筆した人、代筆してもらった人のことは、突き放した言い方をすれば、この際どうでもよろしい。藤井さんが代筆の事実を知っていたかどうかも関係ない。それぞれがお考えになればいいことです。あの書簡が代筆であろうとなかろうと、問題のありかがそれとして示されており、わたしなりにそれに応えようとしたことで意味があったのです。もうそれで十分です。

《 各地からの便り 》
 昨年、『同和はこわい考』を読み、以来何となく身のおきどころがはっきりしないままになっていたんですが、今日、友人から『同和はこわい考』通信No.57~59をもらい、読んだとたん実にスッキリと、私のこれまでのあり様が平田さんそのものであったということが教えられました。それにしても、私も大谷派の僧侶としてある身として、調さんの返答には息のつまる思いがしてなりません。えらそうなことは言えませんが。スイマセン   (大阪・F.Mさん)

コメント.
このところ僧侶の方からの『通信』送付依頼がつづいています。一方に「気にくわないので読まずに捨てる」という僧侶がいれば、他方に「ユニークで読みたい」という僧侶がおられる。世の中、なかなかに面白いもんです。

《 あとがき 》
★読書三昧の夏休みが終り、いま後期試験中です。庭の紫式部の実や萩の花を眺めながら、のんびりやってます
★藤井さんがふれた胃のポリープのことですが、あれは六年ほど前の話です。ワル型ではなく、エエ型なので取らずに残してあります。ご放念ください
★今年の全国交流会はわりと初参加者が多かったのですが、百数十人が集まって活発な議論ができました。11月には報告集が出せるはず
★畑辺さんが同炎の会の集まりで「部落民と結婚できるか」と問いただされたとか。さかしらな理屈をこねながら、結局はこのような糾問しかできないところに、心の硬さを感じます。ああ
★先日、真言宗智山派の僧侶で唯識思想の研究者でもある友人が業や平等について書いたものを送ってくれたのがきっかけとなり、仏教関係の本をときどき開いています。学生時代に仏教学の講義を聞いたものの、まったくの無学・無知にひとしく、それだけに楽しいんだなあ、これが。「いまごろなんだ!」といわんでくださいね。これも縁あってのことですから
★8月12日から9月18日まで、三重(5),京都(5),兵庫,岡山,愛知(2),岐阜(3),島根,大阪(2)の20人の方より計44,672円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)