同和はこわい考通信 No.61 1992.8.12. 発行者・藤田敬一

《 書簡 》───藤田敬一様
<時>の名のりということ
藤井 慈等 (三重・浄土真宗大谷派僧侶)
1.
 5月16日京都で同炎の会があり、この会で金 時鐘さんにお会いすることができ感動して帰ってきましたら、藤田さんから「通信」(No.57)とメッセージをいただいていました。三重の研修会でお会いしてから、ずっと「通信」を送っていただいていますが、まったくカンパをお送りせずにいまして誠に厚かましい読者でした。といいますのも、カンパするなら何か一言書かなければ申し訳ないなあと思いながら、実際のところ「通信」のエネルギーに押されて、また考えをすぐにまとめる筆達者でもなくて、ずるずると今日になってしまいました。
 その意味では「通信」の<番外>の光栄をいただき、お便りするチャンスを作っていただいたことを感謝します。ともあれ本当にご無沙汰しております。「通信」をいただくかぎり藤田さんのおなかのポリープも異常なしだなと推察し、同じポリープ持ちとしては少しばかり心配しているのですが、実際妙なことですが、<同じ>人を見いだしては安心したりもしているのです。
 少し前置きが長くなりましたが、「通信」(No.57)でコメントして下さった大谷派の『「同和」推進フォーラム』所載の拙文「『水平社宣言』に聞く」は、2回目が終り、現在3回目を書いているところです。ひょっとすると2回目はお手元に届いているかもしれませんが、今回の試み(「『水平社宣言』に聞く」)は、「言葉がうわ滑りしていて、理解しにくい」というご指摘の、「差別するものが差別克服の歩みを主体化する」ということを課題として取り上げ、具体的なその方向をなんとか明らかにしたいということにあります。ただ、藤田さんが言われる「平田・調『往復書簡』と関連があるとみて抄録しました」という<関連>についてはどういう関連を指しておいでになるかわかりませんが、「往復書簡」はフォーラムで初めて目にし調さんの考え方も活字になったのを見るのはこれが初めてであったことをお断りしておきます。
 それにしてもお説のとおり、課題だけを上げてそのことにいまだ言及していませんから、表現上の問題以前に理解しにくいものになっていることは否めません。もっとも、「差別するものの解放」、「差別者の解放」ということですからどだいなじみのない言葉ですし、解放運動の歴史の中でも市民権を得ている言葉ではありません。しかし、ずっとこのことにこだわり続けているのです。
 従って藤田さんの『同和はこわい考』を何度も読み(いろんなところで引用もさしていただいてきましたが)、また「わたしのなかの“被差別部落民像”をたどり、人と人との関係を考える」(No.53,54)についても大部分の共感をしながら若干の違和感も正直なところ残るのです。これは恐らく藤田さんが長らく解放運動の中で活動され、そして人と出会い、人と人との関係を生み出しながら、しかも現在の解放運動に危機感を抱きその蘇生を願っておられる。それとは逆に実際の解放運動とは遠いところにあって、山間の田舎の寺で藤田さんのいわゆる「こわい」意識いっぱいの村共同体の中でそれを課題として頭をめぐらしているのが私であるとすれば、その差異が違和感の基づくところでもあろうかとそんなふうにも思ったりしているのです。
 『水平社宣言』の中で「過去半世紀間に…」とありますように、水平社運動発起の引き金となった部落改善事業も当該被差別部落の救済でありますし、水平社運動以来戦後の部落解放運動に至るまで、オール・ロマンス事件以後行政闘争の全体は、ただ「糾弾闘争」を除くほかは直接的には被差別部落(民)の解放であります。唯一「糾弾」だけが「差別者の解放」を課題として担っていた、こうも言えなくはないでしょうがしかし、部落責任論が行政責任論と変化しても結果的には部落の解放なのであります。もちろんそれを否定するわけではありませんが、飛躍的な部落の解放事業の推進が差別する側の意識を変えたかと言えば、かえって現在の課題は依然としてある差別意識の深刻さではありませんでしょうか。その意味で、部落はなくなったと手放しで喜べないから、むしろ部落の状態の著しい変化が被差別部落民意識を眠らせていくところにこそ敢えて「被差別部落民のアイデンティティー」を掘り起こさなければならなくなった矛盾もあるのではないかと思います。しかし、それはそのまま「部落解放とは何か」と言う根源的な問いかけであるとも思いますが、いずれにしても部落解放の裏に常に差別するものの解放が手つかずのままに残されてきたと言えるのではないでしょうか。
 藤田さんのおっしゃる「両側」あるいは「共同の営み」における「片側」は、常に差別される側の解放であって、もう一方の「片側」すなわち「差別するものの自立的な解放運動」は近代解放運動の歴史の中でどこにも成立していなかったと言えば、言い過ぎになるでしょうか。
 差別は差別するものがあるから差別がある。差別するものこそ解放されねばならないと言えば、現実を知らぬものの戯言になるでしょうか。

2.
 『同和はこわい考』の中でも取り上げられていますが、「国民的課題」「自分自身の問題として」と言われながら、相変わらず<啓発>の域を出ないのです。「国民的課題」や「自分自身の問題」と言うことが、被差別部落解放運動・行政闘争を支えることから一歩を踏み出さずに、「動員」であったり「被差別者のまえにひれ伏す」ことに終わるのは、帰するところ「差別するものの自立的な解放運動」にまで課題が深められていないところに基づいているように思われてなりません。
 藤田さんのいわゆる「部落解放運動は差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営みとして創出される必要があり、その一歩として差別・被差別の両側から超える努力がなされなければならない」と言う考えは、「人と人との関係」を具体的に生きたこられた、また現に生きておられる藤田さんの解放運動の歴史的な実践の中からでた問いであることは充分に承知しながら、しかもなお「片側」を問いにしたいのです。
 「人と人との関係の変革にむかう回路をもたぬ自己否定」という強烈な言葉のまえに、私自身の言葉に詰まりながらなおかつ「片側」「差別するものの解放」を問いにしたいのです。それは決して単なる「内省」や「自己否定」におけるものではなく、むしろ「国民的課題」という時の「国民」であり、「自分自身の問題」という時の「自分自身」を奪い返すような問題であると考えるからです。いささか使い古された言葉ですが、「主体」の問題です。私は親鸞の仏教をそのままに考えているのです。
 少し話は変わりますが、部落解放運動の中ではことあるごとに『水平社宣言』が取り上げられ、それに帰することが叫ばれてきたけれど、果たしてその精神が充分にくみ上げられてきたであろうか、ということを思います。といいますのも、いま「部落差別」「障害者差別」「性差別」「民族差別」と皆一様に「差別」という言葉で一くくりにしているのですけれど、一体差別とは何か、解放とは何かということをあらためて考えてみると実際のところよくわからないのです。その点『宣言』は、「差別」という言葉をどこにも使っていないのですが、にもかかわらずその本質を端的に言い表している、そう言えないでしょうか。
 藤田さんへのお手紙に書くのは屋上屋を架すことになっていささか気恥ずかしい思いもしますが、既に指摘されいることですけれども、『宣言』の「いたわる」という言葉にしたって、「差別」という言葉以上にその本質を言い当てているように思います。字のもとの意味からしても「いたわる」ことが同時に「かすめとる」ということであります。このことは『こわい考』通信No.53でも、藤田さんが具体的な事象を2P~3Pにわたって取り上げられておられることです。それは学校の教頭先生の話であり、前川む一さんの学校当局と解放同盟員の話でもあります。この「勦る」という二重の意味を持つ事象を、ある方は仏教の<与奪>という字を充てて「与えることが奪うことになる」と了解されておられますが、いずせれにしても「勦る」ことに対して『宣言』は「人間を尊敬する」ということを対置します。「解放」という言葉でなく「尊敬」という概念に比重を置いています。これはずいぶん前から気になっているのですが、西光万吉は『人間は尊敬すべきものだ』という論文の中で、「我らの運動は「あたかもオノレにほれよ」というごときものである」と述べていますが、「尊敬」という言葉を端的に「オノレにほれる」ことと表しています。親鸞は「自身を探信する」とも言っています。
 これは大変なことだと思います。なぜなら人間の心(意識)は「オノレにほれる」ことがないからです。わが身を深く信ずるなんてことはないことです。せいぜいが思い込みです。例えば自死ということを考えればわかると思いますが、<我>に執着することによって我々の心はわが身を殺すことだってあるからです。条件によってころころ変わる人間の心が「オノレにほれる」ということにはならないのです。にもかかわらず、ほれるべき自己を発見したのです。自己の尊敬です。これはいわゆる個人主義ではありません。「オノレにほれる」人において初めて「他者にほれる」ことが成り立つのです。言い換えれば、自分の人生を大事にする人が他人の人生を大事にしていくことになるのではないでしょうか。
 そこで、ほれるべき自己を発見せしめたのは「人の世に熱」を「人間に光」を求める願心が発見せしめたのです。そのチャンスが「犠牲者がその烙印を投げ返す時」「殉教者がその荊冠を祝福される時」「吾々がエタである事を誇り得る時」として表現されていますが、この三つの<時>は「特殊部落民」「エタ」という名のりの時なのです。しかし実際、「特殊部落民」「エタ」という実体があるわけではないのですから(この点は藤田さんの「被差別部落(民)として見る」幻想あるいは像・イメージ論に賛成ですが)、従ってまたその名のりはそうした実体を名のっているのではないということは言うまでもありません。「幻想」を実体化することによってつくりあげられた歴史的社会的な差別の現実を担って、「いたわり」「かすめ」とっているこの身の自覚の時が、尊敬すべき人間を奪い返す逆転のチャンスであることを示しているのです。<時>の名のりなのです。
 住田・灘本「往復書簡」で「部落民宣言」の問題が取り上げられていましたが、なぜ問題かといいえば、逆に実体の名のりになっていく(ここには血統とか家柄とかいう様々の問題がはらまれている)ことへの疑問と、名のりの<時>がもつ内実への問いかけがあったからだと思います。名のりは解放運動の到達点であり、解放運動はその到達点から始まる運動であることを『宣言』は示していると思います。と同時に、糾弾もその名のりの上に成り立つことであると考えます。
 現在の解放運動の中で指摘されているような様々の問題も、『宣言』の要であるこの運動の主体の問題に帰するように思いますが、藤田さんのおっしゃる「固定的な、幻想としての“被差別部落民像”」ということも、像を越えるという意味からすれば、『宣言』の「人間が神にかわろうとする時代」という文章について、その「神」を実体化と押さえ、「実体化からの解放」「宗教からの解放」と解釈する私の考えとあまりへだたっていないのかもしれません。
 それにしても被差別における<時>の名のりがあるとすれば、差別するものにおける<時>の名のりも成立するのではないか。差別するものがその<時>を獲得するかどうか、そのことがもう一つの片側の問題であると思うのです。その意味で、「実践的には片側、歩むものにとって道はひとつしかない」と書いたのですが、藤田さんが「おのれの生き方を選びとるほかない」「現に生きている「側」にこだわる」とおっしゃるのもそういうことではなかったのでしょうか。親がわが子の死を代わって死ぬわけには行かないように、オノレの人生はオノレが歩むほかない、そういう意味なのです。時が<時>そのものを得るかどうかは一人一人にかかっているのです。
 従って、藤田さんの「もしそうだとすると他者を差別する被差別者の道はどうなるのでしょう」という問いにも<時>の問題、それで以て答え得るものと思いますが、「他者を差別する被差別者」という問題はまた別の相において取り上げられる必要があると思います。

3.
 これは既に『フォーラム』にも書きまししたが、「在日」で部落解放運動(元滋賀県連副委員長・元本部中央委員)に挺身された朝野温知(李 寿龍)という方がおられました。既になくなられて10年を迎えますが、この方は奇遇にも藤田さんの子供のころの疎開先木之本の広瀬で保育園をやり親鸞によって部落解放を目指した人でした。この方の残された課題に学ぶ中で、水平運動の指導者である松本治一郎さんたちの戦争責任を問う金 静美さんの論文(これは「解放とは何か」という、解放の根拠を問う重い課題だと思いますが)に出会い、そのことを思い起こしたのですが、1970年に福岡で行われた部落解放研究第4回全国集会の「解放の思想文化の創造をめざして」分科会討議を読み直しました。古い話ですが私は翌年の大阪で開かれた水平社創立50周年の研究集会には朝野さんと一緒に参加しているのですが、この集会には出ていません。因みに朝野さんのご縁で木村京太郎さんのお話を聞く機会を得ましたが、この朝野さんの「帰化」をめぐって分科会の課題であった「朝鮮、沖縄、部落、非部落のものが差別とたたかうのにどう連帯するか」というその「連帯」が、「在日」の視点から問い直されたのがこの分科会討議でした。
 その中で広島の鄭さんという方が、「朝野さんを帰化させておいて解放運動をさせてきたが、日本人の、それも部落民の立場からそれを考えたらどうなるのか」と問うています。それに対して「踏まれた者だけが知る痛さにおいて連帯して進んでいく」という答えが返っているのですが、またそれに続けて鄭さんは「「私は踏まれてきた痛さをかみしめてわかっている」というが、関東大震災の時、日本の民衆は踏まれてきても朝鮮人を殺したやないか。なぜ部落解放がすぐそのままに人間解放につながるのか。部落解放、朝鮮解放、沖縄解放という、ズタズタにされている、そこの裂けめをもっと明らかにしなければ同じ解放だとかたづけられない」と、さらに問いを展開しています。それに対して「朝鮮人とちがうということを証明するために、人種起源説の間違いをただすとするならば、これ以上の差別はない」というような同じ民族であるということが差別の原理になることや、あるいは「部落のしんどさだけで連帯を求めるというのはもうやめたほうがええ」とか、「自分が差別されていると非難しながら、逆に自分がよそを差別している加害者になっているという立場、これはぜひとも知っておきたい」というように応答されているのですが、日本の対アジアの歴史を総括した「連帯とは何か」「解放とは何か」ということについては充分に深められないままで、この討議はウヤムヤで終わったという印象があります。
 しかしこの討議の内容は重要な課題であって、議論尽くされないまま現在に至っているといえるのでしょうが、住田さんの「共同体と帰属意識」の問題ともかかわることかとも思いますけれど、日本という国、共同体の問題に迫っていると思うのです。最近、なだいなださんの『民族という名の宗教』という本が出ていますが、その本に示唆されて考えてみると、同じ民族を象徴する宗教としての天皇(制)と、幻想としての被差別部落“民”(人種起源説は間違いであるにもかかわらず一定の役割を果たしてきたが)という上下の構造に、浄と穢という内外の宗教意識が重なって、独特の共同体を形成していると思うのです。その共同体は資本の著しい形成が育むさまざまの矛盾を解消し、本来共同体は自立した個と個の共同性を本質とするものでしょうけれど、その尊厳性を見失わせ、なかんずく過去を見る眼を曇らせ、自立的な主体の形成を奪いつくしてしまうという巧妙な構造になっていると思うのです。
 従って、幻想を本質とする共同体であることは、差別するものも差別されるものも、<時>の自覚における位相であることを表します。差別する凡夫であり差別される凡夫であります。実体ではないのです。しかし、それがそれぞれの<側>として実体化し固定化されれば、お説の通り「隔絶された関係」となるのだと思います。 話が抽象的で広がり過ぎるという声が聞こえてきそうでもうやめますが、そうした意味において私は「差別する者のの解放」という言葉を使っているのです。日本人が真に自立した国民たるかという課題なのです。従ってまた部落解放は、その日本的共同体に同一化することでは果たせない、それもいかに超克するかという問題をはらんでいるのではないでしょうか。
 その要が、西光さんの「人間は尊敬すべきものだ」という一点にかかっていると考えているのです。

4.
 ところで、先に金 時鐘さんとお会いしたことを記しましたが、その際資料として同炎の会から配られた「詩を生きるものとして」(『水平社宣言』と私』)を読みましたが、その中で金さんは、

水平社運動は徹底した当事者性を貫いたことが、最も大きな特徴だと思います。(中略)
この「あたかもオノレに惚れよ」という言葉こそ、水平社運動が当事者性を原理としていることを語るものでしょう。(中略)
当事者意識の問題は在日朝鮮人運動にもまったく当てはまる問題でしょう。在日朝鮮人であるという負荷性、いうところの民族差別を被っていることでひきおこされている私たちの不遇さ、不幸さというのは、そのすべてがあたかも日本人の無理解、日本の国家社会の片寄った施策やあり方のせいだとするような言分は、戦後このかた、ずっと私たち在日朝鮮人の間で幅をきかせてきた認識でした。まさしくそこに私は当事者意識の希薄さを痛感してきました。(中略)
当事者性と背中合わせにあるのが、「いたわる」ということでしょう。水平社宣言の中でも「勦る」という表現で語られています。「いたわる」ことは、一見ヒューマンなことのように見えますが、人間の自立を大事にし、人間を尊重する精神は、逆に省みられなくなることもあるのです。兵庫県の湊川高校という「解放教育」を標榜した日本人の生活圏で長い間勤めて、いの一番、目についてかなわなかったのは、差別を被るものの正義、恣意なまでの被差別正義でした。「部落出身」というだけで、全てが大目にみられて対処されていく。言葉が過ぎるかもしれませんが、それこそ「いたわる」ことの連続でした。(中略)
私は早くからその「被差別正義」に意見を出してきましたが、エゴイズムというのは、けだし差別する側だけのものではなく、差別を被る側のエゴイズムだってあるのです。その度しがたさはむしろ、差別を被る側のエゴイズムの方が強いのです。

と述べられています。いささか長い引用となり、金さんの真意をゆがめることを恐れますが、この「当事者性」ということは部落民だけのものではなく、「在日」にも当てはまるというのです。金さんの「在日」を生きる悩みの深さに却って胸を開かれる思いがすると同時に、それならば私の「当事者性」とは何かということがすぐそこから問題となってきます。
 これは金さんと同じく「在日」で、この金さんの「当事者性」を貫くことに呼応するような、梁 容子さんという方の『在日する女性たち』(三重片州濁世の会発行)という講演録があります。その中でも、

人間というのは最終的に、これは私の価値観ですけれども、違う立場の人から発言を受けなければ、絶対一人で気がつくっていうことはないと思いました。朝鮮人やから差別の問題がすべてわかるかというと、それはあり得ない。だから自分が差別された経験があるから弱者の痛みがわかるというのは、あれは絶対嘘だと思いましたね。

と述べられています。「被差別正義」を成り立たしめる「いたわり」が人間を「かすめとる」ものであることを明らかにした金さんの言葉に加えて、梁さんは他者ということを通して人間の経験の固執ということを実践的に指摘しています。なかんずく「いたわる」ことは「いたわる」者自身が、他者のみならず自らの尊厳性を傷つけることに気づかされるのです。
 従って、金さんの「在日朝鮮人の当事者性」という言葉に則していえば、圧倒的な日本人自身の「当事者性」が問題になるはずであります。「差別者の自覚」とは、自覚という内面に閉じこもって「被差別正義」に無批判に身を寄せることではなく、また「被差別正義」を批判するところに自らの正当性を固執することでもない、差別する自覚のときが「いたわる」ことが何であるかを知らされて「オノレにほれる」自立的主体を奪い返す時であることを言い表すものと了解します。その意味で住田さんの論稿「『寄り添う同伴者』を拒否する」(No.58)は「いたわる」ことの真の意味を開いて、まさに足下を照らされる思いがしました。
 そして「オノレにほれる」ことを奪い返す時、同時に、人間の関係をどこまでも尊敬していく歩みが始まる。他者の発見、それは名のり得た人ばかりでない無数の名のり得ない人たちの悩みの深さとの出会いをも意味しますが、そのことが「オノレにほれる」ことに留まることを限りなく突破していくような、そんな「オノレ」(自己)を生きることである。その主体を、親鸞は「本願力回向(往相・還相)の信心」と言い表している、そんなふうに私は考えているのです。
 従って、畑辺さんの論稿「『差別者の自覚』について」(No.59)における批判も、それが宗門の政治主義に堕して、親鸞の「如来回向の信心」と異なることを指摘し、問題を担う真の主体を明らかにしようとしたものと受け止めています。
 金さんにしろ、梁さんにしろ同じ同胞からいろいろ批判を受けているようですが、ある意味では「オノレにほれる」という「当事者性」は権力や権威(宗教的)に対して、かってのような反権力反権威の激しい闘争に比べて、いかにも無能力で迂遠のように見えるけれども、それらの闘いが政治主義化し体制化してしまう場合を考えれば、却ってそれに対峙しているのではないでしょうか。それだけに「オノレにほれる」といっても、そのことに定まることが「難中の難」であります。
 「厳密かつ具体的に」というご要望に程遠いかもしれませんが、いささか息切れです。思うところを書きました。ご批判下さい。

コメント.
 藤井さんから「共同心───『孤絶の歴史意識』(尹 健次)を読んで」(『大地塾報』第52号、92/6) という文章も送っていただいていますが、「差別するものの解放」論については、わたしなりに考えていることもあり、あらためて一文を草するつもりです。しばらくお待ちください。



《 各地からの便り 》

 通信につきましては、先生のバイタリティーあふれる活動をその行間からみるにつけ、大変興味深く読ませてもらっています。ところでこうした先生方の論議や解放運動に傾ける情熱に接する度にいつも私は、どれだけの被差別部落民が同和問題解決のための運動や論議を知り得ているのだろうかと疑問に思います。
 岐阜県における少数点在部落の大半はほとんど寝た子を起こすなという意識が強く、運動への参加も消極的であると言えます。そんな中において今日の同和問題をとりまく状況がどうであるかなどは毛頭わかるはずなく、各地でのとりくみを耳をふさいで聞かぬふりする者さえいるのです。私はすべての部落民は解放運動に参加しろと考えているわけではありませんが、そうした関わる人々の努力は、差別体制による抑圧よりもむしろ被差別部落の側によってないがしろにされ、足を引っぱられているのではないかなあと思われて仕方ありません。
 このことは部落出身で同和対策に関わる私にとって、いきどおりと同時にいらだちを覚えさせます。なんとかして地区の中のかくれた声を引き出さねばと思いつつ、いたずらに時を過ごしてしまっていると反省しています。多くの部落民は、同和問題は国民的課題であると言われたその国民の中に地区住民は含まれていないと解釈しているのでしょうか。むしろ私などは、部落民でない人が積極的に同和対策や運動に関わることに対して何の疑問もなく感謝の念を抱いてしまうのですが…。
 少々ぐちっぽいことを書いてしまいましたが、また色々とご指導いただけたらと思います。  (岐阜・Y.Kさん)

コメント.
 岐阜の状況を考えると、Y.Kさんのいらだちもわかりますが、少なくとも18年前と比べたら人の輪が、被差別部落の内外を貫いて広まっているのは確かですから、じっくり腰を落ち着けて気ながにやるしかありません。理屈で入った人は理屈で出ていき、情で入った人は情に流され、金で入った人は金の切れ目が縁の切れ目で去っていく。それもまた人情、人の世のありようです。にもかかわらず“さてそこで、わたしは”と考える人がつながりあうことが大事ではないでしょうか。ところで、わたしは愚痴の効用を誰よりも認めているものの一人なんです。人間、愚痴をいうのは元気な証拠、絶望したら愚痴すらいわなくなる。それに愚痴は状況の対象化作業ですし。ただし愚痴を聞いてくれる友人が必要ですよ。よろしかったら、わたしが聞き役にまわりますので、またお便りをください。



《 案内 》
第9回部落問題全国交流会「人間と差別をめぐって」のご案内

  日 時:9月5日(土)14時~6日(日)12時
  場 所:本願寺門徒会館(西本願寺北側。京都市下京区花屋町通り堀川西入る)
      電話075-361-4436
  費 用:7000円(夕食・宿泊・朝食代をふくむ)・3000円(参加のみ)
  申込み:〒603 京都市北区小山下総町5-1 京都部落史研究所内 山本尚友あて、
      葉書に住所・氏名・電話・宿泊の有無を記入して8月25日までに
      申し込んでください。
  日 程:9/5 14時 開会 14時半 報告(住田・灘本・土方・藤田)
        16時 分 散会 21時 懇親会
     9/6 9時 分散会 11時 全体会 12時 解散


《 あとがき 》
★夏も今頃になると、遊びほうけていた少年時代が思い起こされます。なにか宿題が残っている感じがして。お変わりございませんか。わたしは岐阜に籠り、汗をたらしながらあれこれの本を乱読して過ごしています
★交流会が近づいてきました。知友との再会と新しい出会いへの期待で胸がふくらみます
★7月20日から8月11日まで、大阪,岐阜(3),東京,三重,京都,神奈川の8人の方から計38,110円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)