同和はこわい考通信 No.60 1992.7.20. 発行者・藤田敬一

第9回部落問題全国交流会「人間と差別をめぐって」開催のご案内

 「解放令」から121年、全国水平社創立から70年、同和対策事業特別措置法の施行から23年、これらの歳月はけっして短くはありません。なのに部落差別事象が跡をたたないのは、どうしてでしょう。努力が足らなかったからか。たしかにそのような面がないとはいえません。しかし、すべてを努力不足だけで説明できるとも思われないのです。どこに問題があったのか、まずはこの単純素朴な疑問から出発する必要があるのではないでしょうか。
 今年もまた、「自分以外の何者をも代表しない」個人どうしが、自分の言葉でこの単純素朴な疑問について議論できたらと考えています。みなさんの参加を心からお待ちしております。

 呼びかけ/部落問題全国交流会事務局(連絡先:〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一)
 日  時/9月5日(土)14時~6日(日)12時
 場  所/本願寺門徒会館(西本願寺の北側)
      京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町(電話075-361-4436)
 交  通/JR京都駅前から市バス9.28.75系統 西本願寺前下車
 費  用/7000円(夕食・宿泊・朝食)・3000円(参加のみ)
 申し込み/京都部落史研究所(〒603 京都市北区小山下総町5-1 電話075-415-1032)
      山本尚友あて葉書に住所・氏名(フリガナ付き)・電話・宿泊の有無
      を書いて8月25日までに申し込んでください。
 日  程/9月5日(土)
       13時  受付開始 14時 開会
       14時半 報告:住田一郎・灘本昌久・土方 鉄・藤田敬一
              「わたしたちは確かな一歩をしるしてきたか」
       16時  分散会(第1:住田 第2:灘本 第3:土方 第4:藤田)
       21時  懇親会
      9月6日(日) 9時分散会 11時全体会 12時解散
 その他/各地で発行されたビラ、パンフ、新聞、通信などを多数ご持参ください。
     また第一日目夜の懇親会への名産・特産の持ち込み大歓迎ですので、よろしく。

○報告要旨
●部落差別問題の今日における到達点と課題-被差別部落の視点から
住田 一郎 (大阪・西成労働福祉センター)
1.
 「地対財特法」は5年の延長が決定された。この法律を私たちはどのように受けとめるべきかについての支部学習会が先日開かれた。その席上、講師は「同和行政はいつまでやるのか」と設問し、同和対策審議会答申の「現時点における同和行政は、基本的には国の責任において当然行うべき行政であって、過渡的な特殊行政でもなければ、行政外の行政でもない。部落差別が現存する限りこの行政は積極的に推進されなければならない」に論拠を求め、「同和行政は部落差別が存在する限り実施されなければならず、部落差別が撤廃されたときに廃止されることになる」と答えた。参加者の多くにとってはしごく明確な答えであった。だが、ほんとうにこのような形で「納得」して良いのだろうか、との疑問を私は強く感じた。まず、27年前の国・同和対策審議会がとらえた被差別部落の状況把握に基づく提言と、その後23年間にわたる同和対策事業実施後の被差別部落の著しい状況変化(成果)を無視して、単純に提言をそのまま今日の時点で繰り返すことは正しいのだろうか。また、今もなお部落差別が存在しているとして、これまで通り被差別部落大衆すべてに同和対策事業が一律に打たれねばならないのだろうか。さらに、その前に、今日の部落差別問題とはいったい何かが、被差別部落大衆自身によって問われなければならないのであるが……。

2.
 先日の懇談会の席上、あるベテラン教師が「実は、この中学校に来てからずっと考えているのですが、地域の子どもたちの低学力の原因を部落差別の結果とはどうしても思えない」「低学力の子どもたちのパターンは地区生徒、地区外生徒とも基本的には同じで、要は当該の子ども自身の課題(やる気)が大きいと思うのですが」と重い口を開いた。この発言に、すかさず地域の活動家でもある父親が「先生はこの間の同和対策事業の成果であるハード面(物的な教育条件)だけを見ているが、現実にはソフト面(やる気を起こさせたり、知的好奇心を喚起すること。具体的には親が勉強を見れることなど)である子育てのあり方で、部落の親は自分自身の親からも十分なしつけ(教育も含めた対応)を受けてこなかったので、著しく劣っている。自分のことを考えてもそのように思う。この面では、現在もなお部落差別による原因は大きいと違うやろか」と語気を強めて発言した。
 確かに、従来はこの父親の発言、「子どもの低学力は部落差別の結果」で、教師も親も運動側もお互いに納得したことになっていた。しかし、先の先生の真意は子どもの低学力を子ども自身ではいかんともしがたい「部落差別の結果」に求めることによって、今現在、自分の前にいる被差別部落の子ども自身の主体的な責任、ガンバリをあいまいにしてきたのではないかとの問題提起であった。
 部落解放同盟はこれまで被差別部落大衆が生活のなかに背負っているマイナスの痕跡を、すべて部落差別の結果(部落民は被害者)として説明してきた。ところが実際には、部落差別という目のあらいザルで被差別部落の生活実態をすくってきたにすぎず、ザルから落ちる多くの重要な課題を見過ごしてきたのではないか。そのうえ、自分たちの「部落差別の結果」というザルが目の粗い代物であった事実すら気づかなかったのであるから、当然その内容について解放同盟はなんら吟味することなく、そのザルを同和対策事業を生み出す「魔法の杖」として使ってきたのである。 この弊害は今日の被差別部落大衆の生き方そのものに大きな影を落としている。自らの思考回路が外に開かれるのではなく、たえず内にこもるという形、まさに「部落差別の呪縛じゅばく」(過敏な被害者意識が、同時に自らをもおとしめる)によって被差別部落大衆がからめとられているように思えるのである。

3.
 先日、親しくしていた友人(元教師)から一通の手紙を受けとった。彼は家庭の事情で退職してからも、ずっと同和教育推進校での自らの実践にこだわり続けているとのことであった。なかでも特に子ども同士の差別事件に対する自らの指導にこだわり、自分も含め多くの教師は指導した子どもと10年後に部落差別問題の内容について自信を持って語り合えるだろうか、少なくとも自分にはその自信はないし、同僚の指導を観察しても、危ういように思う、と手紙には綴られていた。
 なぜ、このような事実が起こるのか。差別問題において被差別部落の児童・生徒は何がなんでも被害者であり、加害者の立場にある他地区の児童・生徒は差別者性を免れないとの図式をあてはめた指導が強いられてきたからに相違ない。もちろん、部落解放運動の姿勢が大きく作用しているのであるが、それだけでなく教師が自ら運動に迎合しながら「主体的に」指導している場合も多いのであるけれども。
 たとえば、私自身が実際に見聞した事例は次のような内容であった。ある女生徒がなんら思い当たる節がないのに、被差別部落出身の女生徒に殴られた。「被害者」の女生徒の訴えを聞いた教師は指導に入った。教師は「理由もなく人を殴ったのはのはなぜか」と問うと、その女生徒は「あの子の私を見る目(視線)が差別的やったから殴ったんで、理由がないわけではない。差別やんか」と悪びれもせず答えた。指導した教師は彼女の発言があまりにも主観的であることを知りつつも、「差別的視線」云々にひるんでしまった。結局、事件は殴られた方の女生徒が「差別的な視線で見た」自らの非を理由に、被差別部落の女生徒に謝ることで一件落着となったのである。こんな指導で、殴られた女生徒はほんとうに納得・理解しただろうか。何か、部落差別問題というのは不可解で、近付けないとの思いを彼女に与えてしまったのではないか。さらに問題なのは、この被差別部落の女生徒にとっても「被差別部落民としての立場の絶対化」にあぐらをかくことによって、彼女自身の部落差別問題の真の理解を妨げる結果となっているという事実である。
 この実践は、例外なのかもしれない。しかし、これに類した実践、狭山事件の学習や読本『にんげん』の授業等による部落差別問題の認識が、教師の「善意」からねじ曲げられることを恐れないわけにはいかないのである。狭山デーの取り組みで日頃から「いじめ・仲間はずし」の中心である部落子ども会の代表が、朝礼台から「差別やいじめをなくそう」と訴えるのであるから、部落外の子どもたちがしらけない方がむしろおかしい。ところが、彼らが「しらけている」事実を部落の子どもたちは知るすべがないのである。
 今回の映画「橋のない川」にたいする私の最大の不満、こだわりは「被差別部落=善、被差別部落外=差別者、悪」とのあまりにも単純な図式化にある。この単純な図式化では今日の部落差別問題をリアルに理解することは決してできず、ひいては部落差別問題の解決を遥か後方に追いやることになるのではないか。これまでの同和教育実践を通じて成長したはずの多くの青年たちが部落差別問題に食傷気味で後ろ向きの姿勢をとるのも、この図式化、差別・被差別の立場の固定化、そして自己変革を迫られるのはいつも差別者側というように「共同の営み」が否定されるところに原因があるように思う。
 以上三点の指摘は「地対財特法」5年延長の初年度にあたり、部落解放同盟に結集する私たちが真剣に取り組まねばならない課題である。この課題との格闘なしに、私たちは部落差別問題解決にとって避けることのできない「両側から超える」共同の営みの当事者たりえないのである。
 同時に、23年間に及ぶ同和対策事業が被差別部落大衆に何をもたらしたかについての総括も不可欠の課題である。同和対策が被差別部落大衆の「特権」となり、それが部落大衆の「自立」を妨げている事実をふまえ、同和対策事業の成果をまじめに総括する視点が求められている。しかし、「地対協」の政府にたいする報告はそれらの問題点について論及することなく、したがって最小限の対応である「所得制限」も実現されず、結局、被差別部落大衆が同和対策にどっぷりとつかり、その立場に「安住」する状況に変化は起こらぬまま事態が推移することになっているのである。
 全国交流会ではこれらの課題について議論を深めたいと考えている。


●差別・言葉・糾弾について
灘本 昌久 (京都・大学講師)
 全国交流会に言葉の分科会ができて、今年で4年目になります。第6回(1989年)は、崎山政毅さんが言葉の理論的整理を、第7回(1990年)は、私が『ちびくろサンボ』問題を、第8回(1991年)は、高木奈保子さんが図書館現場でのクレームへの対応を中心に、それぞれ報告を行いました。そうした、今までの報告を受けての感想をいくつかにまとめると、一つは、現在問題になっている差別語問題(差別語狩り、差別語の拡散)は運動上に現われた否定的現実であるという認識で一定の共通理解を得ているということです。しかし、二つめは、「助長拡大論」「差別の痛み論」にいまひとつ合意、もしくは決定打を欠いていることがあります。たとえば、過去の差別的記述(××市史、△△全集)が差別を助長拡大するものだ、あるいは、戦争を屠殺にたとえることは差別意識がなくても被差別者に痛みを与え、それだけで問題なのだといった論法をどう考えるかについて(差別というレッテル貼りに抗するのが困難である)。そして、三つめに、より根本的には、議論として一定のまとまりをもっても、差別語狩りの勢いが圧倒的に強いという現実です。
 そこで、今後の方向として三つの課題を提起します。一つは、もっと公然と差別語狩り的運動に対して批判を加えていくこと。差別語狩りに対する批判は、それ自体は差別をなくすことそのものではないので、あまり積極的ではなかったように思いますが、これ以上座視できないまでに事態は混乱していると思います。とりわけ、解放同盟に対する批判者が共産党系の人たちに片寄ってしまっている結果、解放同盟の差別語狩りへの批判が共産党対解放同盟の政治的、組織的対立という矮小な対立図式の中で理解されてきたのではないでしょうか。しかし、現在の糾弾(とりわけ差別語狩り)に対する批判は、もっと中(?)から公然となされないと、運動への信用がますます落ちるばかりです。
 課題の二つめには、議論を深めると同時に、言葉・表現の取扱いに関する見解を明快な形にまとめる必要を感じます。表現に関する議論は、ことの性質上、一刀両断とはいかない場合があると思いますが、しかし、最低限のガイドラインは制作可能であるし、また、それを多くの人の守るべき土俵として確認することは、事例の具体的分析とならんで重要ではないでしょうか。たとえば、全集など過去の言論活動に関しては、現在の観点から問題があっても、絶版では対応しない(『清沢満之』『手塚治虫』など)、言葉は文脈・発言の意図で判断する(馬鹿チョン、熊本ボシタ祭り、サンボ)などなど。
 課題の三つめとして、従来我々も含めて行って来た糾弾に関して、過去のいきさつにとらわれずに大胆に見直し、再評価すること。たとえば、『世界』の大内兵衛事件は差別か。矢田事件は果たして解放同盟が正しかったか。「橋のない川」上映阻止闘争はよかったのか。今まで私が話したり書いたりしてきた差別語狩り批判も、よく考えてみれば根っこを掘り起こし忘れていた感は否めません。報告内容は今から詰めていきますが、結論をおおざっぱにいえば、特殊部落を100%被差別部落の意味で解釈するのに反対で、大内発言を不快だと思った人の気持ちも理解できないわけではないが、大内氏をとがめだてする必要はなかったのではないか。矢田事件は、木下挨拶状の内容はよくないし、話し合いの約束を反古ほごにした共産党系の教師にも問題はあったが、なされた糾弾会自体は越えてはならない一線を越えており、否定的に総括する。また「橋のない川」は、私自身、その映画(今井作品)を見ていないのでここでは予告しにくいのですが、よほど部落差別を意図的にあおるような映画ならいざしらず、今井作品はそうしたものとは誰も思ってはいない。内容上問題ありと批判するのはもちろん自由だけれども、上映阻止闘争は行き過ぎであった(私自身の自己批判を含めて)。なお、「橋のない川」の解放同盟版は、すでに5月25日に見ました。10億円かけてあんな駄作とはなさけない(まぁ、画面と音楽は今までの同和啓発映画の中では一番よくできていると思いますが、中身はお金を払って見るようなものではありませんでした。そもそも、運動と相談して作った映画がまともなものになるはずがないのです。最近、アメリカ映画界で台頭著しい黒人監督が、作品を運動と協議して作ったなどということを聞いたことがありません)。今井作品は1・2部両方を部落問題研究所の夏期講座で一挙上映するそうなので、遅ればせながら見に行ってきます。まだのかたはいっしょにどうですか(7月30日)。解同版より今井版がよかったらどうしましょう……。そんな結論になる気がするんですが。
 なお、当然のことながら、以上述べたことは、私自身の19年間の活動の自己批判を含むものであると同時に、今までの糾弾理論を作り、広め、制度化してきた土方鉄氏、師岡佑行氏、藤田敬一氏を批判するものであることはいうまでもありません。全国交流会は盛り上がること必定。山城さんなどとは、いわゆる「解放運動三悪人」を批判せなあかんと前々からいっていましたが、今回はその始まりです。


●わたしが話したいこと
土方 鉄 (京都・著述家)
1.部落の現状
 現在、被差別部落では、人口の流出がみられる。ある部落では、3分ノ1に減り、児童数が10分ノ1となった。この傾向は全国的傾向で、濃山村にもみられる。
 したがって、核家族や老人単独世帯が増加し、生活保護世帯が増えている。
 さらに昨今、結婚する若者の半数以上が、非部落民との結婚である。部落脱出者や、通婚の夫婦の間に、部落民意識の希薄化がうまれている。
 他方、都市部落では、非部落民の流入がみられ、少数部落では混住が拡大している。もちろんそこでは、部落隠しがおこなわれる。
 部落には、強固な親戚集団が形成されていた。それを人間関係の基礎においていた。それは極めて封建的な人間関係である。部落解放運動は、その封建的人間関係を打破するのに、成功していない。部落民の意識変革にも、成功していない。
 これらは部落共同体の崩壊を、はやめているゆゆしい問題である。

2.解放運動の問題点
 法の制定によって、部落の解放は可能か、疑問である。現在の部落差別は、今日の産業社会において、必然的にうまれる。産業社会が、差別を解消するなとどと考えるのは、幻想である。まず部落の現状を、直視することである。一人ひとりの部落民の、意識の内面に眼をそそぐことである。
 運動体は、自主財政を確立させねばならない。
 ソビエトや東欧の社会主義政権の、崩壊のひとつの原因は、民主集中制という名の独裁にあった。解放運動体も、多数決という名の非民主的決定を、上意下達するだけで、大衆の意見をくみあげるということが、決定的に欠如していはしないか。

3.わたしの解放のイメージ
 部落解放は文化闘争そのものである。部落民はもちろん、日本人民総体の意識変革のなかに、解決の鍵がある。伝統文化のなかに、差別をうみだし、育み、固定させるものがある。近代以来、それにのっかって、産業社会が構築されてきた。その頂点に幻想としての天皇がある。
 文化を、芸術という枠に閉じこめてはならない。芸術活動も活発にならねばならないが、同時に、封建的な差別する文化を、うみだしてきた、生活様式、慣習などを、徹底的に創り変える闘争をすることが必須である。つまり日本文化そのものの変革である。そのことこそが、差別と闘うということに、ほかならない。


●対話がとぎれる仕組みの背後にあるもの
藤田 敬一 (岐阜・岐阜大学)
 「部落差別とはなにか、その実態はどうなっているか、どうすれば部落解放が達成されるのか」といった、部落解放運動の基本問題について、いまほど真剣に論議されなければならないときはないにもかかわらず、いっこうに論議が起こりそうにない。原因はいろいろあげられますが、わたしのみるところ、差別・被差別の隔絶かくぜつされた関係が、論議の自由な展開をおさえているように思われてならないのです。
 一方に「部落民でない者になにがわかるか、わかるはずがない」「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」という人がおれば、他方に「差別する側に立っているわたしには、被差別者の思いはほんとうのところはわかるはずがない」「被差別者でないわたしには、被差別者になにかを望んだり求めたりできる資格はない」という人がいる。これではとてものことではないけれども、「部落解放運動は差別・被差別関係総体の止揚しようにむけた共同の営みとして創出される必要があり、その一歩として差別・被差別の両側から超える努力がなされねばならない」との主張が受け入れられるはずもありません。いまや部落差別(意識)を媒介にした人と人との関係は、変革へ向かうどころか、「ねじれ」現象をいよいよ拡大しつつあるかにみえます。
 かくて繰り返し、前川む一さんと往復書簡で論じたテーマ、つまり差別する側に立つ者と差別される側に立つ者との対話がとぎれる、あるいはとぎれがちになる仕組みの問題に立ち戻ることになります。
 この対話がとぎれる、あるいはとぎれがちになる仕組みの背後には、立場・資格・体験の固定化・絶対化があると、『こわい考』段階では考えてみたのですが、どうもそれだけでは不十分なようです。そこには「他者の苦しみ、悲しみ、さ、つらさと無関係のままで生きることができる“わたし”」「他者に成り代わることのできない“わたし”」という、人間存在の根源にかかわる問題が横たわっているのではないでしょうか。ですから、たとえばわたしが、被差別部落民であることを呈示されてひるんだのも、自己責任の無限性、無限責任への恐れにもとづくというよりは、部落差別問題と無関係のままで生きることができるわたし、被差別部落民に成り代わることのできないわたしの生そのものへの批判として無意識に受けとめたからこそ、たじろいだといえなくもない。そんな気がするのです。もしそうだとすると、問題は、取り替えのきかない、一回限りのこの“わたしの生”を、人間の限界をみすえつつ、いかにして他者との共感と連帯の世界に生きる“生”たらしめるかということにならざるをえません。もちろん、その課題は被差別部落出身者・差別される側に立つ者・被差別者として自らを位置づけ、他者にその立場・資格を呈示する人にも同じように突きつけられているのであって、ここに「差別・被差別の両側から超えた共同の営み」を求める根拠があると、わたしは考えます。
 交流会では、差別・被差別の隔絶された関係を示す事象をいくつか紹介しながら、最近抱いている以上のような考えを、もう少し詳しく述べるつもりです。
 なお、こぺる編集部編『部落の過去・現在・そして…』(阿吽社、1991年)所収の拙文「差別-被差別の現在を凝視する」を読んでおいてくだされば幸甚。



《 各地からの便り 》
● 二年間、勤務先にこの“通信”があったため、身銭を切らずに読むことができました。このような形で浸透していく思想は、とてもリアルで、また、しばしば自分の背後にあるものを衝いたので、おっおっと思うことも少なくありませんでした。
 ともかく、党派性に属さず、腰を落ちつけて考えようーじゃないか、という姿勢、これもなかなかできそうでできないものです。考えることからしかはじまらないということは分っていても、我々はえてして、ネをあげたり、ハデな方向に身をゆだねるのが常です。それはひとえに自分の考えようとしていることと、社会性(あるいは現代性)との距離をつかみそこねるからだと思います。距離を遠ざけすぎてあきらめたり、近づけすぎて直接行動…というパターンはこれまでもよく見てきたことだし、今でも日常的に見ることですから。
 その点、この“通信”の多くの論考は自分の感覚や感情や記憶を丹念にたどることから、社会性や大衆性や現代性を照射しようとしているように見えます。そこでは自己の位置づけがまず明確にされ、いろいろな現象に対する批判的、あるいは肯定的な視点が、かなり低い位置(個人の深層)に定められることで、部落問題という「底流的」「底辺的」な問題をよく見渡すことができるのではないでしょうか。だから、ある意味でこうした論考の方法論そのものによって政治起源論、政策起源論にある「支配者によって作りあげられた」という視角を否定することにもなっている気がします。
 わたしは(も?)部落問題を、単なる政治的な問題、あるいは単なる社会的な問題として考えてしまうことには反対です。それが、共同体・民衆・大衆(部落大衆も含めて)の、共同幻想・共同観念・共同禁忌の問題として考えるという視点を伴わない限り、分析としても活動としてもまったく不十分だと思います。
 とりとめのないことを書きましたが、実はこの四月の部署異動によって“通信”が読めなくなりました。これからも読みたいと思いますので送っていただけませんでしょうか。  (島根・Y.Sさん)

コメント.
 この間、毎号500人をこえる方々に総数630部ほどお送りしてはいるものの、そこから先、どこのどなたに読まれているやら、わかりかねますので、こうしたお便りをもらうと、なんともうれしくなります。わたしの知らぬところで、『通信』が健気けなげにメッセージを伝えてくれているのかと思うと、ジーンときますなあ。しかし年に二、三通、「転居先不明」で帰ってくるものがあり、そんなときは、日頃の遇され方を想像して、胸が痛みます。いや、ほんと。



《 あとがき 》

★わが家には高さ3メートルをこえる木槿むくげの木が三本あり、いま白や紫の花をいっぱい咲かせていて、なかなかの見ものなんですが、この花、開いたかなと思うまもなく、一日でぽとんと落ちてしまいます。わたしは、この花が好きです。がんばって枝にしがみつかんところがよろしい
★つい12,3年くらい前まで、わたしもご多分にもれず「がんばる」病にかかっていました。この病にかかると、つんのめりながら走るランナーにも似て、そばの人をハラハラさせ、自分でもどこをどう走っているのか、わからんようになるらしい。そのことに気づいてからは、肩の力が抜け、わりとしなやかに感じたり、考えたりできるようになりました。『通信』がここまで続けられたのも、肩肘を張らなくなったからにちがいなく、そうこうするうちに木槿むくげの花が好きなっていたというわけ。ちょっとこじつけ気味ですかねぇ
★今年の交流会は、住田・灘本・土方・藤田の四人が、それぞれ短い報告をしたあと分散会に入ります。報告要旨を前もって読んでおいてくださいますように
★7月2日から7月17日まで、島根(2),三重(3),京都(2),岐阜(2),大阪,奈良の11人の方より計35,758円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)