同和はこわい考通信 No.27 1989.9.9. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
第6回部落問題全国交流会を終えて
藤田 敬一
1.
 8月5日、6日の両日、京都の本願寺門徒会館で全国交流会が開かれました。8月最初の土・日のため、仕事や旅行などの関係で参加できない人があるかもしれないと幾分気がかりでしたが、一年ぶりに顔を合わせる友人や初参加の知人が受付けにおみえになるにつれ、次第に気持がたかぶってしまったのはご愛嬌。定刻前には百畳の大広間が参加者でほぼ埋まり、結局参加者総数は東京から熊本までの162名、正直ほっとしました。
 師岡佑行さんの開会挨拶、吉田明さん(部落解放同盟京都府連委員長)のメッセージのあと、阿部謹也さん(一橋大学教授)の「ヨーロッパにおける賤視・差別の問題」と題する講演をうかがいました。阿部さんの著書は専門書や翻訳書以外、ほとんど目を通していたものの、大変興味深いお話でした。ヨーロッパの、しかも千数百年も昔の古代から現代に及ぶ話題のため、戸惑った方がおられたかもしれませんが、時空をこえて「人間と差別」について考えるという意味ではまことに適切な内容だったと思います。阿部さんの講演をとてもここで要約できません(レジュメは後掲)。京都部落史研究所所報『こぺる』に掲載されることになっていますので、ぜひそれをご覧ねがいます。
 ところで今回は「差別とわたし」(問題提起者:山城弘敬・住田一郎)、「差別とことば」(同:崎山政毅)、「事業で差別をなくしていいのか」(同:山本尚友)、「部落解放運動の主体とは」(同:津田ヒトミ)の四つの分科会を設け、のべ5時間余り討論できました。とはいえ時間不足・消化不良の感はまぬがれなかったようで、論議の継続性を保障しつつ、身の内と外の冴えない雰囲気を凝視し、自分の言葉で差別問題を語るという交流会の趣旨を生かすのはなかなかに難しいということでしょうか。今後の課題です。

2.
 わたしは第一分科会に参加しました。山城さんは問題提起の中で

社会全体を見通せば、<差別・被差別>という関係は歴然と存在する。しかしその社会を構成する人間を一人ひとりに分解し、そこに焦点をあてると、「歴然と存在する」はずの<差別・被差別>の関係は、非常に見えにくくなってくる。一人の人間と差別との関係が、社会全体を見通すときと異なり、ゆらいで、ぼんやりとしか見ることができない。…「部落差別とは何か」ということは、非常に実践的で、緊急の課題として議論されねばならないことであるが、人間一人ひとりの存在と切り離されたところで、その結論が出されるはずもない。その答を得るためには、「わたし」(のゆらぎ)を問い直すという回り道が必要とされているのではないか。…「わたし」という存在を考えねばならぬというのは、この場合、社会全体を切り刻んだ結果としての「わたし」という文脈からである。であればさらにその「わたし」を細かく切り刻んでみよう。/一日のなかの「わたし」を、さらに細かく時間単位で切り刻めば、「差別をなくそうとしているわたし」と「差別なんかどうでもいいわたし」が混在していることに気づくだろう。これは、<差別・被差別>の両側に共通していることだ。いや、ここでは、そうした<差別・被差別>という基準をまったく無視してもいいだろうし、無視すべきではないか。
と述べておられます。「差別とわたし」は、ここ数年わたし自身が考えつづけているテーマでもあるので、山城さんの指摘に共感を覚えました。
 多くの人はこれまで差別問題の構造、状況から論を立て「わたし」「あなた」に迫るやり方になじんできたと思うのです。しかし、わたしはこれにどうしても違和感をもってしまう。とりわけ頭の中で差別・被差別関係の一方に自己を位置づけ、それぞれ差別者・被差別者と規定するものの、そこには一向に「わたし」という特定・個別の人間の顔がみえてこないのはなぜなのか。差別・被差別の関係をスルッとかわして生きられる「わたし」がいることに目が向けられないのはなぜなのか。そうした「まるごと規定」につきまとう危うさを問うことがあまりに少ないのはなぜなのか。要するに山城さんのいう「『わたし』のゆらぎ」が正面から語られてこなかったことに、わたしはもどかしさをずっと感じている。
 第一分科会で、ある青年から職員採用試験の面接中に自分から「わたしは被差別部落出身です」と名乗ったのに面接担当者が父親の職業を聞いたのは差別だと問題にしているという話が出されました。趣旨としては後半部分に力点がおかれていることははっきりしていますが、むしろわたしは自分から被差別部落民だと名乗る必要がどうしてあったのか疑問に感じ、多少気色ばんで発言したのも、それが「差別とわたし」「『わたし』のゆらぎ」にかかわると思ったからです。
 自己を被差別部落外出身者・差別する側に立つ者・差別者あるいは被差別者と規定するところに止まっていては「『わたし』のゆらぎ」はみえないのではないか。山城さんの「『わたし』のゆらぎを問い直す」とは、実は「わたしはいったい何者であるか」「自分にとって他者とはなにか」を問うことにほかならない。それはこれまでわが身にまとわりついていた資格・立場・「側」の対象化・相対化の作業でもある。この作業には差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営み、あるいは既成の言葉や概念、理論的枠組みから自由な思索と討論が不可欠だろう。交流会をそうした討論のできる場にしたいと考えてきただけに、いまだに「わたしは……ですが」という前置きが聞かれたのは、いたしかたないとはいえ残念だった。

3.
 もう一人の問題提起者・住田さんはレジュメでパウロ・フレイレの「意識化とは…批判的な自覚意識の深化の<過程>である。それは、主要な経済的変化から自然に生ずる副産物ではない。適切な歴史的諸条件にもとづく、批判的な教育的努力から育つべきものである」との論述(『自由の実践としての教育』)を紹介しつつ、次のように書いておられる。

事業の進展によって獲得された住環境・仕事保障・教育諸条件等のハード面での改善を自らの生き方(生活の改善=自己変革)の確立にいまだ結びつけられていない。むしろ「自己変革」の必要性すら気付いていない場合が多い。…対策事業(行政闘争)によって部落差別から解放されるとする考えがいまもなお根強く存在する。そこから当然の事として、部落大衆自身が運動の中で担わなければならない課題(主体的な責任=自己変革)を不問に付してしまう。…部落差別を大局的な(階級的な)視点から捉えることの弱さ(被差別状況にのみ固執してセクト的にしか捉えきれない場合が多い)。極端に言えば、行政闘争のみが部落解放運動だと捉え、行政闘争での「私、告発する人」「あなた、告発される人」の図式をあらゆる運動の場面にそのまま当てはめようとする姿勢が強くみられるのではないか。…

相変わらずの厳しい自己省察です。さらに住田さんは「『私、告発する人』の位置に部落大衆をいつまでもとどまらせておくことになるような部落解放運動への関わり方」を批判される。「私、告発する人」「あなた、告発される人」は、「私、告発される人」と対応してこそ成立可能なのです。こうした関係から生まれやすい自己正当化とヨイショは双方の人間をだめにしてしまう。住田さんが深いところから「両側のありよう」を批判しているのは明らかであって、一度といわず何度でもここのところ論議する必要がある。しかし分科会でほとんど話題にならなかったのは不思議です。
 田中龍雄さん(岐阜市在住.『被差別部落の民話』全3巻、明石書店刊の著者)が第1分科会や全体会でなさった話も印象的で、結婚した相手方の親族、親戚から付き合いを断られても痛痒を感じず、またそれを結婚差別だとして糾す必要も感じられないのをどう考えるかというものでした。田中さんの指摘をいわゆるパッシングや被差別部落民の個人としての自立の問題とつなげて受けとめることも可能だし、重なっている部分もあるとは思うのですが、結婚差別にかかわって「差別事象と個人と運動の関連」についての一つの問題提起ではないか。つまり差別事象を契機に運動が組織されるのは当然とされがちだけれども、もうすこし丁寧に検討すべき課題がありはしないかという指摘として、わたしは聞かせてもらいました。
 運動には固有の論理と機能があり、それはそれで大切でしょう。しかし事象の性質や条件によっては運動にならないことだってありうる。それをおしなめて運動の論理で解釈し、対応していいのかという疑問が出されたわけで、前川む一さんが新鮮な問題提起として今後考えてみたいといわれたのもうなづけます。
 運動人間、活動家人間は個人よりも組織化された運動を重要と考えやすいものですし、個々の人間が自己の内面を通して考えるよりも集団の共同認識に重きをおきたがります。決議や声明、宣言などが無意味だとはいわないまでも、わたしはそれら言葉の群れではなく、その背後に隠れている個々人の内面における思索を注視したい。安易に運動化、組織化によりかかるようなことはすまいと思う。
 田中さんの意見を聞いてこんなことを考えてみたのですが、田中さんにはご迷惑かもしれません。

4.
 その他の分科会での討論も二日目の全体会での議論も、総じて問題状況を出し合うことで終わったけれど、わたしはそれでいいと考えています。なぜならもともと交流会の当初からの目的はそこにあったからです。ただ今回「人間と差別をめぐって」を主テーマにかかげたのは、わたしたちの問題意識が確実に広がりつつあることの表われといえるかもしれません。人間存在に対する深い洞察なしにいくら対症療法的な論議をしても仕方がない。迂遠で当座のたしにならぬ論議だと敬遠していては、いつまでたっても運動方針討議のレベルから抜け出せない。
 ところでわたしは、部落差別問題をめぐる状況は部落解放運動の存在根拠を問うており、「部落差別とはなにか、その実態はどうなっているのか、どうすれば部落解放が達成されるのか」といった基本問題についていまほど真剣に論議されなければならないときはないと述べたことがあります(『同和はこわい考を読む』164 頁)。しかし、それはいってみれば状況を対象化する作業であって、生身の「わたし」を横においてきぼりにしても可能な面がある。ところがこの一年、興冷め現象は確実に「わたし」の身のまわりにしのびより、あるいは「わたし」の内側に冴えない雰囲気を広めてきている。生身の「わたし」が危ない。それだけに「差別とわたし」をくぐって、あるいは「ことば」「事業」「運動主体」を媒介にして「人間と差別」にいたる思索と討論の端緒をつくりたい。「わたし」「ことば」「事業」「運動主体」をめぐる課題としての様相は異なるにしても、まっとうなものであれ、ゆがんだものであれ、それぞれに人間と人間との関係を内包しているはずだ。それをなんとしてもえぐりだし、対象化したい。わたしはそんなことを考えていました。
 「差別とことば」についていえば、差別語、差別用語をめぐる混迷状況の裏には、阿部さんにならっていうと「糾弾されるかもしれないと考えている人」と「糾弾するかもしれないと考えられている人」との目にみえない絆を媒介にした関係があり、その姿がみえないだけ「オソレ」が増幅されているにちがいない。そうした実相を議論の中で明らかにしてゆくことによって「人間と差別」の問題に接近する一つの道が開かれてくるのではないかと思うのです。
 しかし、なにはともあれ状況を語りあえただけで、今回もよしとしなければなりますまい。5月に準備討論会を開き、各分科会ごとにワーキンググループをつくり、その中から問題提起者をきめ、報告内容の検討を少しやったのですが、まだまだ不十分でした。また参加者にはあらかじめ論議の柱が知らされておらず、当日になって報告のレジュメをみるというのも、考えてみれば不親切です。すぐに改善できないかもしれませんが、検討の要がありそうです。

5.
 最後にある分科会で「議論よりも行動を」という意見が出されたことについてふれておきます。わたしは、この方の意見がわからないわけではありません。これまでの組織や運動についての考え方からすると、組織らしきものがあれば、その組織を通じて運動をと心ひかれるのはやむをえないからです。
 しかし交流会は、自分以外の何者をも代表せず、その属する組織、資格、立場を超えて、個人の言葉で差別問題について語りあう場なのです。「結論を急がない」「組織や運動の方針を求めない」「多数をめざさない」ことも、暗黙の了解になっている。これには当然のことながら組織や運動に関する旧来の枠組みそのものが崩壊・破産し、無惨な姿をさらしているという事実認識が前提にあります。たとえば少数は多数に従い、下級は上級に従うとのいわゆる民主・集中制、一枚岩的団結がいかに非人間的な事態を生んだか、実例にこと欠かない。
 それに組織というものは一旦できあがると分業が成り立って、全体性を担保するのは極めて困難になります。そして必ずとよいほど指導と被指導、権利と義務、内発と外発などの問題が出てくる。これが、わたしなんかにはうっとうしくて、わずらわしい。わたしが個人の自立・自発・自主を根底にした結合態を模索しているのは、そのためです。このような結合態を「不定形の集合体」と呼ぶ。自己解体と自己再生の契機を個人の自立・自発・自主におく結合態に、個人を縛りかねない共同行動の方針を求めることは無意味であり不要です。組織や運動の方針、行動提起は、各自の属する運動団体でやってもらいたい。交流会にそれらを期待されても困ってしまいます。もちろん交流会の持ち方について、すでに述べたような共通の了解事項らしきものはあります。しかし、これにしたころで多数決できめたものでもなければ、文書で確認したこともないのです。あくまで暗黙の了解事項にすぎず、さりとてそれでなんの不都合もない。不定形の不定形たるゆえんです。
 また交流会は一年に一度、各自の思索と実践の成果を持ち寄って、開かれた論議をする場です。議論が単なる言葉のやりとりで終わるかどうかは、討論参加者間の緊張関係と思索の深さにかかっており、自らの課題を考えるヒントを引き出すかどうかも、個々人の自由な意志にまかされてます。当然のことでしょう。事務局といっても通常の機関、機構ではなく、やりたい人がやっているにすぎない。代表者もいるようでいていない。それでいいのです。今回はじめて参加した人にとっては、旧来の組織とは異質の結合態であるこのような交流会はなじみにくかったかもしれません。中には宣伝・煽動・組織の場と勘違いした人もおられたようです。
 組織や運動、資格・立場・「側」によりかかった言葉でなく、個人の言葉で語る場、両側から超えてとぎれがちな対話をつなぐ場からしかみえないものがあり、そこから部落解放運動蘇生への道をまさぐりたい。わたしのこの考えは今回の交流会を通してさらに強まったといえます。

 以上が第6回交流会に関するわたしの簡単な報告と感想です。いずれ『こぺる』に阿部謹也さんの講演はじめ参加者の文章が掲載されるはず。それらをぜひ一読してくださいますように。

「京都新聞」1989年8月12日 朝刊


《 資料 》
ヨーロッパにおける賤視・差別の問題
阿 部 謹 也(一橋大学)
 ヨーロッパ中世後期に刑吏をはじめとして皮はぎ、捕吏、外科医、浴場主、羊飼その他数多くの職業に従事する人びとが賤視され、差別されていった。ジプシーなどもヨーロッパに現われると直ちに差別の対象になった。ヨーロッパ東部のヴェンド族などの辺境の民も同じく差別され、ヴェンド族の血筋をひくものは手工業組合に入ることができなかった。このような差別が生じたのは何故か。この問題を中世の人びとの日常生活のなかでのモノとの関係の結び方、森や山や川に対する態度などを包摂する宇宙観のなかで解明してゆこうとするのが本日の報告の主たる内容である。人間と人間の関係の原点にモノを媒介とする関係と目に見えない絆を媒介とする関係があり、その関係が変化する過程で差別が生れると考えられるからである。
 この問題に関して私はこれまでにいくつかの文章を書いてきた。本日はそれらをふまえながらもさらに新しい視点を導入してみたい。それは差別発生のきっかけとなった二つの宇宙の一元化の発生点に何があったのかという問題である。古代世界の住民も基本的には二つの宇宙の構図のなかで生きていた。この構図を破ったのはキリスト教であったが、それはどのような混乱をもたらしたか、そして一元化はどのようにして進められたのか、その具体例を聖人崇拝の問題に即して考えてみたい。賤視、差別の根底にある呪術的なるものがどのようにして打破されていったのかをもその過程で明らかにしてゆきたい。

《 紹介 》
☆京都部落史研究所『こぺる』特集“『同和はこわい考』をめぐって”12~13
 師岡佑行「糾弾論の系譜-水平社運動における-」(No.138.89/6)
 灘本昌久「『差別語』といかに向き合うか(下)」(No.139.89/7)

《 あとがき 》
*全国交流会のあと仕事に追われ、とうとう8月は『通信』を発行できませんでした。残念ですけど、完全試合を逃した投手のように、さばさばした気分でまたワープロのキーをたたきます
*多少夏ばて気味。クーラーにあたったんにちがいありません。やはり夏はおもいっきり汗かいてやるのがよろしいようで
*6月28日から8月31日まで、三重(4) 、岐阜(3) 、島根(3) 、愛知、千葉、大阪(2) 、熊本、京都(3) の18人の方から計89,952円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。