同和はこわい考通信 No.26 1989.7.10. 発行者・藤田敬一

《 阿部謹也さんの本を読む 》③
『中世賤民の宇宙──ヨーロッパ原点への旅』(筑摩書房.1987.2200円)
柴田 則愛(三重)
1.
 中世といえば洋の東西を問わず、長く緩慢な暗い時代という印象を持つ。おそらくそれは、時代はだんだん良くなっているとか、今がいちばん良いという思いによるものなのだろう。もしそうした思い込みだけなら、正しい知識を得ることでそんな印象は克服できようが、事柄はそう単純ではあるまい。
 先日、ピーテル・ブリューゲルの美術展に行った。その作品に、正視できない嫌悪感が湧き上がってくる。こどもは、と見れば、「うんちだ、うんちだ」とか、「このかえるさん、ちんちんついてるよ」なんて言って、けっこう面白がっているようだった。ぼくの持った嫌悪感は、きたないもの、みにくいもの、みせてはならないものを、価値のないものとして排除してきた合理性の証なのかもしれない。そんなことを考えながら本書を読みすすめた。
 まず構成から紹介しよう。

  (1) 私たちにとってヨーロッパ中世とは何か
  (2) ヨーロッパ・原点への旅───時間・空間・モノ
  (3) 死者の社会史───中世ヨーロッパにおける死生観の転換
  (4) ヨーロッパ中世賤民成立論
  (5) 中世ヨーロッパにおける怪異なるもの
  (6) ヨーロッパの音と日本の音

 (1) の論文が<はじめに>の役割をはたしており、本書における主要な三つの論文の大筋の説明となっている。本書の核になっているのは、明らかに(2) の論文だが、部落問題を考えてきたぼくたちにとっては(4) ,(5) の論文も見過ごせない。どれも興奮させられるが、とりあえずここでは(2) の論文に集中しよう。「あとがき」で阿部さんは、「ヨーロッパと日本の共通の地盤にまで到達し、そこからヨーロッパに固有なものがどのような形で生れてくるかを論じた」と説明されている。共通の地盤を探る討論が、『中世の風景』(上下二冊.中公新書.1981.)に凝縮されているので、ぜひ併読されることをお薦めしたい。

2.
 <不均質な世界から均質な世界へ>、これが中世の合い言葉だ。その転換点は、十一世紀から十二世紀ころになる。さてそれでは、何が変わったのか?
 一つは、時間意識の変化である。
 自然の規則正しいくりかえしや、天災などの厳しい自然にたいする畏敬の念が、農耕する人々の身体にしみついている。当時、日々の労働や生活は、直接に聖なる自然と接触していた。もっと積極的に表現するなら、労働によって自然の何かが始まるような、そんな<時間>であった。いわば人間が時間の内容を規定するのだ。そういった時間が、一方でキリスト教によって天上と地上の時間へと分割され、他方で都市の成立が予測可能な時間へと変えていく。本書では歯車時計の出現によって、人々にとって不均質な時間が、自然からもっとも遠い運動に換えられたことが述べられている。都市の象徴となった大時計だ。
 二つは、空間観念の変化である。
 都市が成立する以前の農村では、諸個人の足の長さ(フィート)、腕の長さ(エルレ)が単位であり、それはきわめて多様であったといえる。多くの人が集まる都市では、商品の交換がさかんに行なわれ、自然から離れた抽象的な単位が用いられるようになった。塀で囲まれた都市の内部は、死や闇の「大宇宙」からかろうじて人間の自由になる「小宇宙」であった。家の外が「大宇宙」であった以前と比べ、「小宇宙」の範囲が少し広がったのだが、家のアジールは公権力から認められなくなった。
 『中世の風景』(下)には、阿部さんが提議者になっている「5 音と時」が収録されていて、三時間ごとに鐘を鳴らす、あるいは何かの合図をしたりすることが、かならず下層民の仕事だったことが述べられている。パッチワークのように均質な空間が重なりあって模様をなしていた中世では、両空間の境界にいつも賤民がいた。そしてそれは、中世に生きる人々にとって、自然と人とが交差するところにいつも賤民がいたと言えるだろう。不均質な空間にたいする「おそれ」が、そこにもっとも近い人々への「おそれ」へと移行したのであり、不均質な空間がやがて科学によって均質な空間へと変質したのち、人々に宿った「おそれ」だけが残ったのかもしれない。
 三つは、モノをめぐる関係の変化である。
 都市の成立は、三圃農業の確立による人口増加に依っている。そしてそれは当然にも、人間と人間、人間と自然の関係にも大きな変化をもたらした。十世紀以前のヨーロッパ社会において、人間と人間の関係は富によって結ばれていた。富とは自己の存在を高める道具であり、蕩尽するものであった。「贈物を貰うことはこの上なく強い人と人の絆が生ずることを意味」し、お返しができないと隷属することになる。このような関係は、「贈与・互酬の慣行」によって支えられている。
 キリスト教の広がりは、当事者同士の贈与の関係を、神を介在させたものへと変えた。そして、「死後の救済への期待と畏れが贈与慣行の転換を促したのである。」それは現世においては、「無償の贈与」となり、私的な人間関係に「公」が成立することを意味した。交換関係が盛んになるにつれ、教会の「公」は、しだいに市当局の手に移っていくとともに、人間関係は「売買関係」に転換していく。
 阿部さんは、現代の都市における人間と人間の関係の問題の根源を掘り下げていけば、このような三つの転換点へと到着する、と言われる。
 「中世の都市は、基本的には客人を迎え入れなければ成り立ってゆかない構造をもっていましたが、他方で、定住している人間にとって客人は常に歓迎されるわけではない。そういうアンビバレントな意識が都市のなかで形成されざるをえない状況があり、それを巧みに媒介したのが貨幣であったといえると思うんです。モノの贈与の関係から生ずる社会的序列(身分)の問題は、キリスト教によって教会の建設や養老院、病院の建設へと転換させられながらも、底流としては存続している。」(『中世の風景』上、「4 都市」)と阿部さんが言われるように、いくつかの転換点をくぐり抜けながらも、身分の問題はいまなおぼくたちをとらえて離さないようだ。

3.
 「そしてその答えはわたし自身の生活の中にあったといってよいだろう。つまり自分自身の生活の根を掘り起こしてゆくうちに、それまでは自明であったと思われることがらが自明でなくなり、明晰と思われた概念が内容を失ってゆくのである。」
 ちょっと気を入れて読んでいなければ、通り過ぎてしまいそうなさりげない文章だ。だが本書の隠された主題は、ここにあるように思う。そしてそれは何も歴史をはじめとする学問の領域のことではなく、むしろぼくたちが常識と思って考えもしなかったことを、本当に常識なのか検討してみる方法によって深く入り込もうとするものだ。
 ぼくたちが行為を選択するときの基準は、常識、あるいは無意識の支柱によって組み立てられている。そういった無意識を無意識のままに放置するのではなく、関係という照明をあててみることによって影の部分を見れるのではないだろうか。たとえば無意識の差別は、差別というあまりに「明らかな」行為のために、一方では個人の「おくれている」人権意識の責任にされる。他方で「無能な大衆」に差別意識を植え付ける国家の政策の責任にされる。しかしその「自明」な行為は、「自分自身の生活の根を掘り起こ」すことによって、差別かどうかわからないけれど他者の人格を否定する行為と重なっていることに気づく。そのような無意識のうちの行為を支えているものが、「明晰と思われた概念」ではないだろうか。
 ぼくの関心から見れば、人間と人間の関係、人間と自然の関係が、<時間>や<空間>によって広がりとしての変質をもたらされたのなら、<労働>は、それらの関係をより深いところまで変質させたのではないだろうか。教会と商人の<時間>をめぐっての対立は、「鐘」と「時計」の対立に象徴される。ところが歴史の流れのなかで、教会は「贈与」を資本蓄積の手段にするようになる。教会の論理では夜間の労働は禁止であった。ところがギフト・エコノミー論の変質と前後しながら、労働者から労働の延長の要求が出されてくる。やがて夜間労働が公認され、使用者は「仕事の時計」によって労働の組織化をはかろうとする。このような使用者の動きにたいして、規律化した労働形態に不満を持つ労働者の反抗が始まる。
 このように見れば、資本と賃労働の矛盾は、労働の自立をめぐる問題とも言えそうだ。現在の職場の状況は、仕事をすればするほど他者との関係が歪んでいくが、それぞれの労働者が自分のことは自分で考えなければ自己の社会的存在を主張できない状況でもある。労働組合や企業に、自己存在の確認を依存する閉ざされた関係からは、脱出しつつあるように思う。
 <おそい/わるい>というぼくの職場の価値基準は、諸個人をのっぺらぼうにしてしまう。それぞれの人にとっての時間は、ほんらい多様な内容を持っているはずだが、ぼくの職場では労働の量によって時間を均質化している。だが一定時間内の仕事の量に差が出るのは当然だ。その差が個人の「できがいい、悪い」の証拠になる。こういった価値基準が、ぼくの身体にもしみ込んでいる。否むしろ、中間を認めない現代社会の二項対立の枠組みを、ぼく自身の思考がしっかりと支えているといえる。その意味で、ぼくは権力と共犯関係にある。

4.
 中世に生きる人々の「宇宙観」を理解することは、骨の折れる仕事だろう。しかしぼくたちの日常生活を顧みて、そこに非合理的な側面を見いだすことはそれほどむつかしくない。そういった側面を、ぼくたちはとかく「おくれた」部分だとして否定しがちだ。さらにこれは、人の評価にもつながっている。人間はほんらい多様なものなのだ。まずはそれが当り前であることを確認することにしよう。
 阿部さんの数多い著作のなかで本書は、ちょっと堅いほうに属するようだ。それだけにポイントが絞りこまれ、中世ヨーロッパ研究の骨組みが整理されていてわかりやすくなっている。自分の問題、人間の問題として本書を読めば、不均質な世界のイメージで頭が一杯になる。ジャズの大御所ベーレントは、<宇宙は音>だと言う。天上の世界がないことを知ってしまった人間にとって、もはや<青い惑星>だけが存在している。闇の世界にもっとも近い色彩も、やはり<青>だ。重力に惑わされない<音>になって、<青い世界>を軽やかに翔び回ろう。そうすれば、待ちに待った夏の交流会が、もっと待ちどうしくなる。

コメント.
 柴田さんの職場は郵便局の集配課ですが、87年12月以来、「同和はこわい考/通信(郵政版)」を仲間と発行し、とくに職場における人間と人間の関係を通して「労働とはなにか」を問いつづけておられます。文中の<おそい/わるい>というのは、作業の遅速が人の評価に直結してしまう職場のありようを指し、そこからどのように脱却するかが、柴田さんたちの悩みのようです。
 ところで《阿部謹也さんの本を読む》は、今回で終わります。読者から『自分のなかに歴史を読む』や『刑吏の社会史』を読みはじめているとのお便りをいただきました。阿部さんの著書を読んでもらうことによって「あなた、しゃべる人。わたし、聞く人」の関係をちょっとでも変えられたらと思ってたてた企画です。好評でよかった。山城、津田、柴田のみなさんに感謝します。
 阿部さんの本はどれも装丁が美しく、しかも図版がたくさん挿入されていて楽しい。そこでぜひ拡大鏡を手もとに置いて、人物や家屋、道具、調度品、あるいは村落、都市などを眺められることをおすすめしたい。イメージがさらに豊かになるはず。「ちくま文庫」に入っている二冊(『ハーメルンの笛吹き男』『中世の星の下で』)を読むときは、とりわけ拡大鏡は手放せません。

《 各地からの便り 》
中国情勢をふまえ組織・運動について考える
Y・S(京都)
 …本来ならもっと早く御返事を書かねばならなかったのですが、「通信」No.25で触れられた中国情勢の変化(悪化と言うべきです)に、机に向かう気がなかなか起こらなかったのです。手紙というものは、本来「書かねばならない」時に書いて、送らねば意味はない、と私は勝手に思っているのですが、北京の事態が「密告の奨励」に堕るに及び、私は「語らねばならない」ことを手紙に認めたく思います。…
 六月四日の事態をTVで見ながら私が考えたのは、実は先生と同じく魯迅の言葉(「花なきバラの二」)で、もう一つは1976年4月5日の「天安門事件(四五運動)」のことでした。中国共産党中央が遅かれ早かれ何らかの行動に出ることは、誰の目にも明らかなことではありましたが、私にとっては──誰でもそうでしょうが-「決して見たくないもの」を見てしまった衝撃からなかなか立ち直れませんでした。但し中国においては、戒厳令がすでにチベットに布告されていて、北京とおなじく軍隊が発砲して多くの人間が死んでいるので、いまさら驚くのがおかしいといえばおかしいのです。チベットに関しては、軍隊の無差別発砲が恒常化し、多くの人間が死傷しているのですが(以上、アムネスティ・イナタナショナルの情報による)、要するに、チベットに目を向けなかった私自身の怠慢さを許せずにいるのです。
 今回の民主化運動は、庶民一人一人の自覚的「主体性(主観能動性)」にもとづく「法治」要求であり、その点においても「天安門事件」の思想的質を受け継いでいるのではないか、と私は想像していましたが、党中央は今回も武力鎮圧でこれに応えたのでした。
 もっとも1976年の段階での「天安門の反党反革命暴動」は翌年に、「党中央が指導した革命的行為」に評価が逆転し、そのことで運動のもっともラディカルな部分が骨抜きにされたことは、周知のことと思います。いずれ中国共産党は(恐らく小平の死を境に)、「六四事変」の評価を逆転する必要に迫られるでしょうが、その時「革命的」言辞を弄するだけでは「中国人民」は納得するまいと思います。そして私達もまた。そのように同時代を生きるものとして、ささやかながら「抵抗」を試みたいとも。
 さて私は、『こわい考』論争と、劉賓雁「もうひとつの忠誠(第二種忠誠)」など文化大革命以降の中国新思潮をからめて考えていることは、先生と会うたびに話してきたことですが、その必要をいまあらためて強く感じています。私用で3月に上京した際、「もうひとつの…」を収録した単行本(『劉賓雁自選集』中国文聯出版公司.1988)を手に入れたのですが、今回読み直してみて(拾い読みです。念のため)、そう思いました。それは『こわい考』論争・部落解放運動総体にとっても「以て他山の石と為すべき」ことであると考えられます。というのは、劉は「もうひとつの…」で、上役にひたすら柔順な(その代わり相応の見返りがある)「ある種の忠誠(第一種忠誠)」と、必要とあらば諌言をも辞さない(見返りが望めないどころか、命を危険にさらしかねない)「もうひとつの忠誠(第二種忠誠)」を対比しつつ、媚びへつらい等の害はあって益のない「余計な忠誠(第三種忠誠)」が「ある種の忠誠」にとって変わる危険性を警告しているのですが、これは中国における事態収拾のやり方と同じであり、それは部落解放運動の「危機」にも通底するとも思えるからです。おそらく中国共産党中央は、組織自身の「物神化」・個人の「私心無き」忠勤をすすめることで危機打開をはかるでしょう。そしてその同じやり方が、現在の部落解放運動における、『こわい考』断罪に端的に示された「解同無謬論」であり、小森龍邦流の「主体性の確立」にほかならないでしょう。しかしそれはむしろ混乱を生んでいると思うのです。というのは「主体性の確立」する方向が、そう主張する同じ人間達によって「組織に無限の忠誠を尽くす」ことへのみ向けられているからです。但しそのように組織された運動が、個人の思惑はどうあれ、どのような経緯をたどったかについて、私達はよく知っています。むしろ過去に学ばないなら、まさに悲劇にほかならないのです。…
 ついでながら、私はアムネスティ・インターナショナル(人権を守る国際機構)の会員です。実はこれも『こわい考』論争の影響で「人権とは何か」をもっと考えてみたくなったからですが、それはともかく、このただでさえ気の重い活動に加え、中国政府への抗議のことを考えるとますます気が沈んでいきます。…ここで「気が沈む」のは、かつて(今でもですが)中国革命の理想を信じたからにほかなりません。無論、中国で進行する(であろう)未見の革命を注視してゆくのが同時代人の義務でしょうし、故なく死んでいった人々のことを決して忘れず、その無念さを掘り起こし、語り継ぐのが、この大量死時代へのささやかな抵抗でしょう…。

コメント.
 この間、わたしのところにも、いくつかの抗議声明(案)署名のお誘いがありました。次に紹介するのは、その中の一つです。
「六月四日、中国人民解放軍の戒厳部隊は、身に寸鉄も帯びず、平和に、整然と、自分たちの要求・主張を政府に訴えている学生をはじめ中国人民大衆に発砲し、数千人あるいはそれ以上の民衆を殺傷した。武力弾圧はその後も行われている。/このことは、私たちを深い悲しみの底につきおとした。私たちは中国と中国人民を尊敬し、愛し、中国の発展、人民の生活の向上、幸福の増進を願い、そのための中国人民の努力を支持してきたし、いまも将来も支持する。それは同時に私たち日本人民自身のためでもある。こういう私たちにとって、六月四日とその後の惨案は、中国当局のいかなる説明を聞いても少しも納得できない。学生・民衆の背後には、ごく少数の反革命分子の黒幕がいる、と当局はいう。仮にそうであったとしても、その黒幕を壊滅させるために、数万の軍隊を動員して、数千の民衆を無差別に殺傷するほかなかったとは、とうてい信じられない。/学生たちが政府に求めたことは、党・政府の幹部のあいだに広がる腐敗を一掃すること、人民に真実を知らせ人民が自由に自分の意見を発表する、報道と言論の自由、政府と学生たちとの真の対話であり、そのどれをとっても現代世界においては極めて当然のことである。学生のこの要求を、政府機関で働く人びとをも含めて、広範な人民大衆が熱烈に支持した。それに対して、人民共和国の政府が人民解放軍をさしむけ、人民を流血のなかでおぼれさせるなどということは、どうしてありえただろうか。悲しいとも、無念とも、憤ろしいとも、なんといいようがない。/中国政府がただちに人民弾圧をやめ、人民の声に真剣にこたえることを、私たちは心から念願する。1989年6月 日」
 この「中国の事態をめぐる緊急声明」の発起人は、飯沼二郎、市川誠、井上清、後宮俊夫、岡部伊都子、杉浦明平、針生一郎、日高六郎、丸木位里、丸木俊のみなさんです。なおY・Sさんのご意見については多少考えているところもありますが、交流会でお会いできるとか。そこでお話できればと思います。

《 あとがき 》
*前号は多数のミスタッチがありました。1頁5行目「第六回」→第五回、2頁5行目「アイデンティテー」→アイデンティティー、同28行目「わたしち」→わたしたち、5頁31行目「必読所」→必読書、7頁20行目「なされるている」→なされている。もともと校正べたなうえに、交流会の案内を早く出さないとあかんと焦り、さらに中国のことで冷静さを欠いていたためです。お恥ずかしい
*「京都新聞」が昨年同様、交流会について報道してくださいました。なおこの記事にもありますように近畿以西の方の場合、京都部落史研究所の山本尚友さんに申込んでいただいても結構です。またわたし宛のお便りにちょっと書き込んでくだっても、もちろんOK。杓子定規はいやですから、融通無碍といきたいものです
*すでに各地から申込みが来はじめています
*今号も気がせいて、かなり早めの発行になりました。お笑いください。『通信』がお手元に届くのは七月の初旬になろうかと存じますが、申込み方、よろしく
*中国事情は悪化の一途をたどっているようです。要するに孫文(1866~1925)の革命進行の順序をもじっていえば、「訓政」から「憲政」に向かわず、「軍政」に逆戻りしたということなのでしょう。人の褌で相撲はとるまいと心に決めてはいるものの、穏やかにというわけには参りませんなあ
*6月8日から6月21日まで、岐阜(2)、福岡、大阪(2)、三重の6人の方から計15,620円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。

「京都新聞」89.6.20.