同和はこわい考通信 No.20 1989.1.20. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
対話を求めて
倉元 祥子(三重)
 「同和はこわい考」をめぐって、賛否両論が実に多くの人々によって書かれてきた。それらを読んで思うことは、この問題の根の深さと、にもかかわらず自分のこととして取り組んでいこうとする人達の真摯な姿である。それは「同和はこわい考」が問題提起の書であり、一つの方向性を出しえていないにもかかわらず、その発想の斬新さゆえに多くの人達に読まれていることからもうかがえる。
 藤田氏は理論をもてあそぶ人ではない。むしろ分りやすくやさしいことばを選び直截に語る人で、それゆえストレートな表現に抵抗を感じる人も多いのだろう。けれども藤田氏の提言は深くラジカルである。理論をつき抜けた所でそれぞれの生きざまに迫る力を持っている。
 私自身、差別の問題を話す時、いつからか「私は日本人なので…」「私は部落外の者なので…」という前提をつけていることに気付く。部落の人から差別的といわれる言動を犯さないか、在日の人に「だから日本人は分っていない」といわれないかとおびえながら語ることばには、当然生気がなく、建て前のことばになりやすい。きわめて人間的なことを話す時、これほど固定化された概念にとらわれるというのはなぜだろうか。それはどこから来るのだろうか。
 差別を観念でとらえながら現実を知らないということもあるだろう。しかしそれ以上に、運動に関わる者の主体性の欠如の問題が大きいと私は思う。それぞれの人間が自己のアイデンティティーを見すえながら、そこから問題に迫らない限り、共感の深みへ降りることは誰にもできないだろう。差別、被差別の関係で第三者というものが存在しないというのはそういう意味である。当然私は日本人として、部落外の人間としての自分から出発する。
 先日熊本市に住む友人から手紙を貰った。それには

「解放された関係」とは自分が「部落民」ということから解放されると共に、その相手もまた「部落民」ということから解放されなければならない。これがまさに「両側から超える」ための作業であろう。部落民が「部落民」としての自己から解放されんがために、私自身もまた「部落民」としてのアイデンティテイーをもち、そのことにこだわり続けている。それはまさに、私自身が「部落民」としての自分、そして「非部落民」としての他者ということから解き放たれたい欲求によるものかもしれない。「他者」を受け入れるために、「部落民」といわれるものも、そうでないものも、「共感」できる感性を研ぎすまし、豊かにしていきたい。

とあった。深く鋭い洞察だと思う。彼女は「自己否定」をことばでなく生き方で示している人なのだろう。対面にいる私としては恥ずかしく、また身の引き締まる思いがする。
 差別、被差別の関係は相対的である。関わる人の数だけの様相がある。きめつけ、拒否、排除、レッテルはりからは想像的な展開はのぞめないだろう。他者を解放しない自己解放などありえないのだから。立場の違いを認識した上で解放の方向にむかう建設的な取り組みはできないものだろうか。イデオロギーや肩書きや、立場や所属というもろもろのとらわれを一度はずした所で、裸の人間同士として対話の席につくことは、今もっとも必要なことではないだろうか。

コメント.
倉元さんのこの文章は、あるサークル誌への予定原稿だったのを、無理にお願いして収録させていただいたものです。文中の熊本市に住む友人とは、津田ヒトミさんとおぼしく、同じ内容の意見が『こぺる』No.131(88/11)に載っています。
 わたしも「組織や既成の概念にとらわれぬ思索と討論」とか「組織や資格、立場にとらわれぬ個人参加の自由な討論」とか述べていますが、さりとて手ばなしでその可能性を信じているわけではありません。個人が、この世の人と人との関係や意識・思想・観念、歴史からどこまで自由でありうるかは、やはり大きな問題として残されています。ただ、まずはこれまで運動の中で語られてきた言葉や概念、理論的枠組みから自由でありたいと思うだけです。

《 各地からの便り 》
その1. 内部にかかえる問題はどうなのか
C・N(京都)
 …先日、京都会館で「差別事件報告集会」がありました。私も三時間余、勉強させてもらいました。中央本部からは山中氏が来て「地対協路線と糾弾闘争の意義」について約一時間講演しましたが、なかなか理路整然として好感がもたれました。しかし私の横に座っていた人で、多分企業関係の人だと思える方が、もう一人の人に「言われるようなやり方をしてくれたらなぁ」との趣旨でコソコソ話されているのです。私が「藤田さんがもっと書きたいことがあるのに…」と表現したのも(『通信』No.19. 「各地からの便り」その2)、ここに根拠があるのです。
 「糾弾は人間性の回復を求める」、確かにその通りです。でも内部にかかえる数多くの、それも殆どが幹部による腐敗堕落の体は一体どうなるのかということです。不問にされている事がいかに運動を挫折させていることか、同盟員だけではなく、協力者も知っています。しかし、あきらめることなく小さい力で頑張ります。…

コメント.
企業の方が同盟について「言っていること」と「やっていること」とが一致していないと感じている様子がうかがわれます。しかし、これは企業関係者だけの、あるいは糾弾闘争だけの問題ではないように思われます。
 それにしましてもホンネをコソコソ話しながら講演や報告を聞いたりするのは誰にとっても大変な苦行のはずです。苦行なら苦行だとはっきりいえばいいのですが、それがいえないように感じてしまっている。これでは報告集会や研究集会が一方通行的なお説拝聴の場になっても不思議はないでしょう。なぜホンネがいえないのか、なにが素朴な疑問を語れなくさせているのかを明らかにすることなしに、いくら人が集まってもしかたがない。そのうち苦行に飽きた人は顔すら見せなくなるような事態が到来するかもしれません。わたしにはそんな予感がしてならないのです。
 「裸の王様」には、まだしも見物人がいました。見物人のいない「裸の王様」なんてサマにならぬことおびただしい。まだ手遅れではないと信じる人びとがいるからこそ全国交流会などが開かれるわけで、それを分派的潮流だと非難する人がいると聞いて開いた口がふさがりませんでした。

その2.やはり「みようとしない」人には、みえないものですね
S・Y(大阪)
 …「こわい考」に、京大出身の参事官が田中部落を全く知らなかったという話がありましたね(20頁)。『やはり「みようとしない」人にはどんなに劣悪な実態も「みえない」ものなのだろう』と先生は書いておられます。これがそっくりそのまま自分にあてはまると実感できたのは、つい最近のことです(最初に読んだときには見過ごしていました。)
 私は大学に入ってから7 年間、毎日のように阪急京都線の梅田行き急行に乗っていました。大学生になった春、急行の止まる茨木市駅と淡路駅の間に、すばらしい「桜の名所」があるのをみつけました。以来毎年、ちらほら咲きから桜吹雪まで、車窓からその美しさにみとれていました。
 その「名所」が、他の住宅地と比べて非常に特徴的だということにも、すぐ気づきました。つまり、そのあたりの家々はとても小さく、古くて、粗末なのでした。今どき、こんな家に住んでいる人もいるんだなぁと思いました。でも、それだけでした。実に7 年間、私はそこが被差別部落だということに気がつかなかったのです。
 今の仕事を始めてから、ある日ふとその「名所」に目を留めて、愕然としました。これが「部落」なんじゃないか。今まで自分はいったい何を見てきたんだろう。この家並を見て、7 年間何も考えなかったなんて…
 そういう経験がありながら、最初に「こわい考」を読んだときには『「みようとしない」人』の部分に何も感じられなかったのです。「自分の問題」として考えるのは、むずかしいことです。でも、そうしようと努力しなければ、何も変わりはしないと思います。解放運動の現場におられる方々から見れば、どうしようもなく甘い考えかもしれません。けれども、少なくとも努力している者、努力しようとしている者を「甘い」と切り離すことは、差別をなくすことにプラスになるとは思えないのです。
 よく、「同情は差別」ということを聞きます。対等な関係においては「共感」が生まれるはずであり、「同情」のなかに相手を低くみる姿勢が含まれているのはほんとうだと思います。けれども、「差別」ということば自体になじみのない人(部落問題に無関心な人はたいていそうなのではないでしょうか。相手を「傷つける」とは言っても「差別する」とはあまり言いません)は、「同情」と「共感」を混同しがちです。そんな人たちの「同情」のなかには、ひとかけらの「共感」もないのでしょうか。
 つきつめて考えれば、誰も他の人の怒りや悲しみを「自分のこととして」理解することはできません。自分自身のつらかったこと、悲しかったことを思い出し、相手の気持ちを察して「共感」するのです。それが、例えば「かわいそう」ということばになることだってあるのではないでしょうか。そんなとき、「かわいそう」は「同情」だから「差別」、と言われても何のことかすぐにはわからない人はたくさんいます。そこのところを説明するのは、部落の人ちにとっては相当しんどいことなのでしょうが、そこで見捨てないでほしいのです。「同情」と「共感」はどうちがうのか、いっしょに考えていこうというふうに、「無関心層」をまきこんでいってほしい──。…

 追伸 「こわい考」通信No.17で崔文子さんが「在日韓国、朝鮮人のための老人ホームが欲しいと思う」と書いておられますが、大阪府堺市(だったと思います。うろ覚えで申しわけありませんが…)に来年中(89年)、在日一世のための老人ホームができるはずです。ご存知かもしれませんが、お知らせまで。

コメント.
S・Yさんは阪急沿線の被差別部落に気づかなったことについて、きびしく自らに問うておられます。しかし、これに類したことはよくあるのではないでしょうか。たとえばわたしが冤罪事件についてまともに勉強しはじめたのは、といっても一般的な啓蒙書を読むぐらいでしたが、1975年、青木英五郎さんの『市民のための刑事訴訟法』(合同出版.1973) がきっかけでした。狭山闘争にかかわりながら冤罪が権力犯罪であることに思いをいたすことができなかったのです。そして次第に冤罪事件の多くが差別問題と関連していることに気づくようになりました。だからというわけではありませんが、誰しも人は大多数の問題、課題が「みえない」「みない」ままに生きてゆくのではありますまいか。
 部落差別問題にしても同様でしょう。亡くなられた米田富さんがいつか「ほんまに向こうずねを蹴ったらんとわからん奴もおりまっせ」とおっしゃったことがあるけれど、なんとも鈍感な人に出会うこともしばしばです。その意味では無知、無関心は許せないという人の気持がわからないわけではありません。しかし人には個性があるし、個人として引き受けられる容量にもかぎりがある。許す許さないということではなく、その問題、課題に目をむける人が一人でも多くなるように努力するしかないのかもしれません。

その3.自分に問い返してみると、しんどいのです
K・Y(三重)
 …きっと一年ぐらい手紙を出していないのかなあ、先生に。私、前に出したときとちっとも人間的に変わっていません。本当は本をいっぱい読んで変わってからでないと先生に手紙出せないような、そんな気がしてたから。
 ところが「通信」を読んで、こりゃ悪いことしてるなって思い始めて、そうや、前に書いたもの、広告の裏やおみやげの箱につけてあった紙に書いてしまったものやけど出さんとあかんと思って。内容は別に入ってるものでもありませんが、あの時の感動はそのままです。あの時(7.25) は本当に本を頂いて感動して書いたし、次は(8.3) 全国交流会の感動を書いて。
 なぜ清書してその時々に『先生に出せないでいるか?』、全国交流会にいっしょに行った人といつも先生の話をしていますが、「全部自分にかえってくることやで、それが重たくて出せやんし、書けんのやろ」って言います。
 その人は、私のことを「ムラに生れ育った私が持ちたくなくなっても持ってしまってるものがある。それがいつも見えてくるように思う」というのです。話しているとそれがなんとなく感じられるというのです。それで本を読んだ時、自分に問い返してしんどいし、重いから出せないというわけらしいのです。人ごとの様に今、書いていますが、頭の中は整理がつかない程、色々と湧いてくるのです。(略)
 これ乱文乱筆で分りにくいかも知れません。私はいつもこの調子で主語が並んでいたり、どこに何をどう考えて書いているんやって人によく言われます。でも、書き直したり清書していると違うこと(自分のおもいと)になってしまいます。飾りがついてしまいます。だからこのまま出します。

☆1988.7.25.
 …流し読みというかそういうのは誰だってすると思うのですが、この本(『こわい考を読む』)や「こわい考」はそれができないと思うのです。228 ~230 ページあたりはムラの立場にしか立てない私が読むと、しんどい思いばかりを持ってしまういつもの学習会が目に浮かんでくる。ここでは外の人が糾弾会で感じるのと同じようなものをムラのものが持ってしまう。金縛りにあうのがムラの人たちである。
 部落解放運動を真剣にとらえるならば、ちゃんとした意識の人が多ければいいんだけれど、流れは多数派の方に流れやすい。ちゃんとした意識というのは、真剣に「部落差別とは何か」ってことを考えてる人々を言います。人間っていやらしいもので自分本位にはものごとを考えることはできるけど、きっと優しさはあっても (持ちあわせていても)相手の立場にたつってことがなかなかできないんですヨ。私それで今、いきづまりを感じてるんだと思うのです。ただそのことに気づくか、気づいてどうしていくかってことを考えるかどうかで、ずいぶん違う生き方できるんですよネ。

☆1988.8.3.
 …先日の京都の交流会、本当に感激しました。私、先生のお話を聞いている時、「うん」「うん」ってうなずいてた。「ここから始まる」って。ここから始めないのでいつまでたっても浅い、というか足がかゆいのに背中をかいているような議論だなあって感じる集会、講演会が多いんですヨネ。でも私すごいなあって思った。全国から、同じような思いをもって京都にこれだけ集まる。動員じゃなく自主的に。(略)私の考えてることと同じ人がこんなにいるなんてすごい──。(略)本をちゃんと読みきってない人もいるんですネ。でも読んでない人の話を聞くことも大事なんですヨネ。
 もうすっかり、あの熱気の中にとけこんでいた私。ムラに帰って見つめてみたら「しんどい」部分があります。住田さんは本当に私が言おうと思ってたことを言うてくれました。Mさんという人もムラにこだわってこだわって闘っておられる様子はよく分りました。あのこだわりがムラに生れ育ったこだわりなんでしょうネ。けれど一般とかっていう言葉にこだわって話す、そこに差別性はなくても高いへいをつくってるような感じがあるので、やっぱり先生の言われたようにやめてもらいたい言葉です。

コメント.
「ちゃんと先生にもらった通信を読んでるし、うれしく思ってるし、いつも心の中で先生、元気にされているかなあと気にしている人間もちゃんといることをお礼とともに書かなあかんと思って書き始めたのです」ともありました。なんと申しあげたらよいか、言葉につまります。

《 採録 》
人民新聞社(大阪)『人民新聞』1988.12.15.
 

《 紹介 》

☆京都部落史研究所『こぺる』.特集「同和はこわい考」をめぐって
 柚岡正禎「近代の部落差別と人権-部落差別の定義をめぐって」No.132(88/12)
 藤田敬一「自らの課題をまさぐる一つの試み-第五回部落問題全国交流会から-」No.133(89/1)

なお次のものも『こわい考』についてほんの少しふれています。
☆『放送レポート』95号(晩聲社発行.88/11)
 用語問題特別取材班「『卓球レポート』から『同和はこわい考』まで-拡大する放送禁句第20弾」

☆部落問題研究所『部落問題研究』96号(88/12)
 杉之原寿一「国民融合論『批判』を批判する」

《 あとがき 》
*本誌前号でつまらぬことを書いたために三重のK・Yさんだけでなく、年賀状に「通信を読んでいる」との添書をしてくださった方も多く、催促がましかったかなと反省してます
*京都のC・Nさんのお便りには「私の方も岐阜のR・Y氏同様、別綴じにして借出自由の他、コピーも自由の版権違反を職場で行っています。真面目な諸君に人気があります」と書かれていました。ありがたいことです。複製大歓迎ですのでよろしく
*岡山県教職員組合のみなさんに二度話をさせてもらい、そのあい間をぬって甲山控訴審第二回公判(大阪高裁)の傍聴に出かけてきましたが(12/8 ~12/10)、裁判の成りゆきには予断をゆるさないものがあるようです。第三回公判は2 月1 日(水)、第四回公判は2 月22日(水)、いずれも午後1 時30分から
*なぜか鳥取大学から講演依頼があり、前日に山陰の友人たちがセットしてくれた集りに出席。集りもよかったが、あとでよばれた蟹すきはまことに結構なものでした。帰りは久し振りに山陰本線まわりでのんびりしました(12/18~19)
*次回の差別意識論研究会は1 月21日(土)午後2 時、京都部落史研究所。報告者は山城弘敬さんです(前回のつづき)
*昨年12月3 日、岐阜・太平天国社の恒例大忘年会があり、総勢24名が集まって養老名物馬刺を賞味しながらワイワイガヤガヤ、楽しい一夜を過ごしました。今年の忘年会は創立15周年大祝賀会を兼ねてやるつもりです
*88年12月9 日から89年1 月12日まで兵庫、東京、三重(3) 、京都、大阪(3) 、愛知の10人の方から計35,560円の切手、カンパをいただきました。ありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。