同和はこわい考通信 No.17 1988.10.15 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
いろいろ感じたことを、とりとめもなく
雀 文子
◎ソウルオリンピック開会式の夜、店でテレビのニュースから流れる開会式セレモニーの様子を観ていると、そばで一緒に観ていた客の一人がこう云った。
 「韓国って、なめたらあかんねぇ」
 私を在日韓国人と知らずにこぼしたその言葉に、私は思わず、笑みをもらした。
 友人の老母(在日韓国人一世)は、「これで日本人も韓国の偉大さを思い知ったろう」と肩をそびやかしたという。

◎オリンピック聖火ランナーのなかに.孫基禎を見た。テレビに写し出された老顔は輝いていた。ベルリンオリンピック(マラソン)の優勝ランナーとなった時よりも、今度の聖火ランナーは誇らしかったろうと思う。
 その事に私の胸は熱くなったが、日本人の友人のほとんどは孫基禎の事を知らない。知っている私と知らない友人との間には、深い溝がある。

◎娘が中学校で男子のクラスメートから、「昨日の開会式でのテッコンドー見たぞ。やっぱり韓国人は気が荒いんだなぁー」と云われたらしい。
 テッコンドーは朝鮮古来の武術で、武器を持たず、自分の体だけで相手の攻撃から身を守る武道たと聞いていた。それじゃ日本の剣道はどうなんだろう。真剣勝負の時は日本刀のはずだけど。

◎オリンピックで韓国人の日本嫌いが目についた。
 私は二つの国の友好、親密、暖かい交わりを心から願うものですが、それはすベてを忘れて、これからの良い関係だけを作り上げてゆこうというものではありません。こう云うと、過去にこだわる執念深い人間だと思われそうですが、これからを作るために、過去の正しい認識が必要だと云いたいのです。そうでないと、在日韓国人、朝鮮人が、日本人には見えないと思うのです。

◎先日、李正子と話した時、「在日韓国朝鮮人の問題を簡単に差別問題、人権問題と云われたくない。これはもっと深い人間の誇りの問題だ」と彼女が云った。成程、韓国人という事を隠さずに生きる、指紋を強制されずに生きる、本名を自然に名のる、---これは人間のあるがままの真直ぐな生き方---つまり人間としての誇りを持った生き方なのか。

◎崔久明君が「指紋はともかく、本名の事だけは、どんな在日の人に対してもはっきり、自信を持って勧める事が出来る」と云った。日本名をやめて、本名を使って何年にもなる彼の言葉だから素直に聞けた。
 本名の運動が依然として広まらないのは、在日韓国、朝鮮人が臆病になり過ぎているのか。
 私が自分の名を告げると必ず相手の日本人は問い直す。耳馴れないせいと思う。ひどい時には五回も六回も。それが億劫で、全然見ず知らずの郵便局とか、運送店では、つい通名で済まそうかと、楽な方に心が動く。
 韓国ではやはりこんな事は一度も無かった。「チュェムンジャです」と云うと、すぐ親しみのある笑顔でうなずいてくれた。

◎今年の夏、17才の甥がオートバイの事故で死んだ。彼は自分の運転免許証を決して誰にも見せなかった。「本籍 韓国」と印刷されたそれは、自分の出生をひた隠しにして生きてきた彼には迷惑な物だった。
 遺影の前に、いまは亡き彼の免許証が、やっと許されて堂々と置かれていた。

◎在日韓国、朝鮮人のための老人ホームが欲しいと思う。日本語の上手ではない在日一世のために、韓国語で話の通じる施設が望ましいし、年寄りの口には、日本食よりも、長年、食べ馴れた韓国料理があうと思う。
 一世達がチャンギ(将棋)をさしたり、マックリ(どぶろく)を飲んだり、民謡を歌ったり踊ったり、チャング(太鼓)をたたいたりして余生を送れる場所が必要だと思う。

◎NTTが番号案内を有料にするという。私の夫の母など、日本字が読めない在日一世である。
 番号案内に頼るしか電話を利用出来ない在日韓国人の年寄りは、母以外にもたくさん居る。文盲の人こそ電話は必要で、有料は痛いと思う。

◎教会で在日韓国、朝鮮人のための識字教室をという話が出た事がある。
 善意なだけに聞いていてつらかったけど、在日韓国、朝鮮人のおかれている状況や、歴史などを理解していない教会の人達がただ、日本字だけをマスターさせようと考えてもダメじゃないかなぁと思えた。

◎日本に来て二年目という韓国人女性が、「日本人の様に表と裏、つまり、たてまえと本音を使い分けるようになりたい」と云った。二年でもう日本人をそのように分析し、日本社会ではその技術が必要だと思い知ったのかと驚いた。
 では四十年もこの空気で生きて来た私はどんなホリックを自分の中に育ててしまったのだろう。

◎友人で日本人気質よりも韓国人気質を多く持った日本人が居る。「貴女は日本人らしくないね」と云うと本人は嫌がるが、日本人の心を敏感にかぎ取る生き方をして来た私には、その様に匂う。
 これは遠く大陸から運ばれて来た渡来人の何かがながい年代を経て、彼女の内にひらいたものではないかなぁと思える。

《 各地からの便り 》
その1.
高麗 恵(三重)
 「同和はこわい考」は私に「差別」の再点検をきびしく要求する難儀な本でありました。
 私はたまたま「幻野通信」に「嗤ってすますわけにはゆかない-『中央本部見解』について」を読んで、前後の事情を知らないから、ストレートに伝わってくる「差別」への軽い姿勢が気になって「エステルに会ってから」を書いたのです。ここで私が言いたかったことは「差別」は見えにくくなっているということでした。いまの差別は、被差別部落の存在する地域で、日常的生活者として暮らしていないとよく分らないのではないかと思うのです。差別者は差別を口にしないし、部落の若者も差別の経験を知らない人が多い。一切の差別を許さないと展開された解放運動の成果は、おもてに表れる「差別」を一応無くすことができたと思います。
 藤田さんの生家で見たような衝撃的な情景は、勿論今は見ることができないだろうし、もともと小地主の家庭は差別の様態が普通よりきついので、一般的な話ではない。
 こんなことを書いているとまたまた藤田先生の逆鱗にふれるかも知れないが、先生は生活的日常のなかの差別を、ほとんどご存知ないのではないかとおもえて仕方がないのです。
 同和はこわいから一応差別を引っ込めているというのは事実でしょう。しかしこわがらせるのも差別をやめさせる一方法ではある筈です。踏まれた足は痛い、と大きな声で言えることから自己主張ははじまるのです。
 日常的生活の中の差別をみていて、差別は決してなくならない、むしろ日々に新しい差別は再生産されていて、それはどちらのせいでと問われるまえに、差別される側が声を荒げて抗議するのが最良であるとおもっています。
 「同和をこわがっている」人々は、同和対策事業が進められるずっと以前から「こわがって」いたのであり、「オドシ同和」や「エセ同和」については、これを許す事ができないと憤る「清廉のひと」はどこにもいない。ひとり共産党がかわらず熱心に宣伝していますが………。自民党のカネとコネにつながっていればこの世は安泰と、すべてお上のなさることにおまかせしてあるこの大衆社会では、「どこを向いても誰を見ても悪いヤツばかりや」と嘆くのがせいぜいの正義感です。
 だからと言って、私は、現状に安んじているわけではないことは「幻野通信」で書いた通りですが、また、小森書記長の「敵の攻撃を受けているときにこれが味方の論理か」という反論も良い反論と思わないし、同盟内の派閥争いという「噂」も嫌な反応です。いかなる修羅場にも正すぺきは正し、提議があればうけてゆく余力を持たないでは、たたかいの展望は開けないと思うからです。
 私がこの本を読んで一番難儀だったことは、刺激的な批評や問題提起はいっぱいあるのに、たたかう力があいてくるような、具体的な運動の方法や実践の姿勢が全く書かれてないからでした。それは二冊目の「こわい考を読む」も同様です。批判や問題提起は頭の仕事、あとは手と足が考えよというのであれば、この本はしんどいだけです。まして「国家主義的同和政策」が目前に迫っているぞとおどされながらでは尚のことです。
 難儀ととまどいは前川さんの
「被差別部落の兄弟が肩をいからせて歩くようになったのはいつからで、なにがそうさせているのだろうか」というところで頂点に達します。
 「胸を張れ」「肩をいからすな」と言っても「胸を張る」状況がない。
 私の知っている部落の子どもたちは、小学生のころは胸を張っています。中学生になってくると肩をいからせるようになります。受験体制にはじきとばされる子どもたちは、肩をいからせる以外に自分の気持を表わすすべがないからだと、言っておきます。
 「解放教育」はどうなった。「子ども会活動」はどうなっていると、逆に私は前川さんにききたいのです。
 不満と憤りをさそう「同和はこわい考」であるけれど、軽はずみにも一口のせてしまった私は、「この本を読んで、そして私は何をすればいい?」という問いにとりつかれました。考えて考えて、いつも頭にあるのはその問いばかり。この二週間は全くほかのことが考えられない状態になっていました。何としても具体的な行動のイメージが出てこないとこの本を読み終えることができない。
 わたしは差別する側の人間なのだから、差別する側だけみていれば良い、という今までの姿勢は変えるぺきスタンスであろうか。差別する負い目を持ったものが、差別している人々とたやすく肩を並べることができるだろうか。解放運動の理論や内容に立ち入って、批判する資格が簡単にできてもいいだろうか。というためらいが具体的な行動の発想を閉ざしていることは確かなことです。
 しかし、ついに私に「両側からこえる」というイメージが見えてきたのです。嬉しかった!私の側から一歩も二歩も出て「差別」の柵に近ずいて行く行動を見付けた!
 何を今更と笑われそうですがそれはこのことでした。
 それは、エステルの家族とあらゆる面でもっと仲良しになること、エステルと「部落差別」についてもっと話し合うこと。「肩をいからせて」いる若者たちについて語り合うこと。その他、子育てのこと教育のこと、話し合いたいことがいっぱいあることに気が付いたのです。
 これも「こえる」ひとつの方法ではないか(と)気付いたのが嬉しくて、初めて「通信」に手紙を書いた次第です。
 今まで通信を送っていただいておりながら、何の音信もなくてすみませんでした。お詫びいたします。
 通信費のカンパを三千円同封いたします。

その2.高麗恵さんの文章をめぐる論議についての感想
工藤 力男(岐阜)
 高麗恵さんの「エステルに会って、その後、井戸端会議風に」(『幻野通信』復刊5号)と、それをめぐる論議について、ささやかな感想をのぺます。初めのほう、全体め9割ほどには特に言うことがありません。むしろスケッチふうに良く書けているなあ、と読んでおりました。ところが、終わりの40行ほどの記述には、砂の入っためしを噛んだような不快感を覚えました。…
 運動の成果である「制度」ができると、運動の限界が見えてくるようだ、というのはわたしにも分ります。だからといって、それを、「エセ同和やオドシ同和が「こわさ」の原因なら、それはいかなる行政施策にもつきまとうタカリ屋の群れだから気にすることはない。」と結びつけるのは、なんたる論理の飛躍でしょう。むしろ非論理と言いたいほどです。これでは差別を両側から越えようという、藤田さんの主張や運動を、ほとんど否定しているようなものではありませんか。
 高麗さんは続けて「「こわさ」の原点は、やはり私が暮らしている普通の人々の性根の中にある。(中略)解放同盟の役員にも、運動にコミットする学者たちにもいちど親しく会ってもらいたくなるいやな顔々です。」と言っています。みずからを「差別の井戸端会議」にいつでも入ってゆける主婦と自認し、理論や批判は持てないとい述懐しておりながら、「運動にコミットする学者たち」という言い方は、筋違いも甚だしいではありませんか。これでは、藤田さんが、差別の再生産を事とする井戸端会議族の実態に無知で、空論ばかりをぶっていると言いたげです。わたしはそれが的はずれの言辞だと思うし、藤田さんが反論したのも当然です。
 人はそれぞれになりわいを持ち、たいていは家族を抱えて生きているし、性分も適性も異なるのですから、自分にできることからやっていくしかないでしょう。同じ方向を目指しながら、自分のゆきかたと少しくらい違うからといっていやみをいうのは、仁義にはずれているのではないでしょうか。…
 高麗さんは『幻野通信』復刊6号に「重い錘について」を書いて、藤田さんに再度応じています。そこで藤田さんを「先生」と呼んでいるのは、対等な議論を拒否しようとするようであり、書き出しにある「せっかく女に生れて男の真似をする不毛をえらぶこともない」の実践なのでしょうか。このような呼称は、藤田さん自身が最も忌避するものだということを、知りながらやっているようです。藤田さんはまたカッカとしているのではないでしょうか。
 高麗さんは終わりのところでこう書いています。

「両側から越える」というイメージは画期的で、共に両側から梯子をよじ登る姿を描いてみるのは嬉しいのですが、私はかかえている人々が重くて登れそうにありません。一人一人の錘を砕きながら、壁のこちら側で穴を空けでゆく、それが私のやりたい事です。

人はそれぞれに、おのおののなしうるやりかたでいく、それが間違っていなければ、それでいいではありませんか。せっかくここまで来ておりながら、「藤田先生はそれを十分なさっておられますか?」と結ぶのは、初めの稿と同じく、藤田批判を皮肉でまぶして、投げ付けて、再度けんかを売っているとしか読めません。…

その3.全国交流会から帰って
K・S.(三重)
 京部での二日間は、とにかく楽しかったにつきます。
 藤田さんや横井さんのお話を聞けたことはもちろんのこと、同室の女性と何年も前からの知り合いのように語り明かした夜。三重の方々が多く、顔だけは知っている人達とゆっくり話し合えたこと。
 そして、これは主催者の人達には悪いのですが、2日目のまとめの話し合いの途中で、トイレに立った所、偶然、女性がたくさん外にいて、四日市の人の音頭取りで、ここに集まった女達で、今度女性問題のセミナーをしない?ということになって大いに盛り上がり、部落問題、在日問題を語ろうにも、その場にさえ来れない女がいっぱいいるのは悲しいねぇーということになり、それぞれが自分のことを語りだし、とうとう、閉会まで室に入らなかったということになってしまいました。女性問題の第三分科会を外でやっていたということで許して下さい。…
 また話しはしませんでしたが、学生や若い人達の生き生きとした姿が印象的でした。ずっと「今時の若い者はアホばかりやから話なんかしたらへん」と思って来ましたが、あんなステキな青年達を見ると、考えを変えないといけないかなあと思っています。
 後で一緒にいった男性方に、女性問題を考える会をやろうと思うというと、「女性の問題は女性にしか分らないというのは間違いです。両側から越えていくいとなみが大切です」と、どこかで聞いたようなことをいうので、それももっともだと思い、「どうぞ参加して下さい。第一回は“レイプについて”ですから」というと絶句していました。…
 所でかんじんの交流会のことですが、今、私の頭の中はいろんなものがいっぱいでとても整理できません。はじめて聞くことばかりでした。刺激的でした。自分がこれからやっていくことが、おぼろげながら見えてきた気がします。…

その4.来年は自腹を切って
O・S(大阪)
 …仕事上のかかわりがきっかけということで、全同教の大会にも京都の部落問題基礎講座にも、そして先日の交流会にも「研修」として参加しました。そういうこともあって、自分にとっての部落問題をどこまで仕事として、どこから個人の問題として考えるのかについて、ずっと迷っていました(そのような区別をすること自体がおかしいのかもしれませんが、「立場上、軽々しく動けない」というような意識がどこかにありました。)
 交流会で、「自腹を切ってこれだけの人が集まったこと自体がすばらしい」と、どなたかおっしゃっていましたが、社費で参加した身では何となく申しわけない気持ちになり、来年は自腹を切ろうと思ってます。…

その5.横井先生の話は大変役に立ちました
S・C(奈良)
 …解放同盟中央本部は「こわい考」を差別書だと認定しているようですが、私にすれば、解放同盟を見直させた、まだまだ解放同盟には良い意味での水平社の歴史と伝統が残っていると気付かせた書物だと思います。
 又、先日の交流会、本当に楽しく参加させていただきました。個人的には部落問題に関心があり、自分なりに研究もしているのですが、所謂「研究集会」や「同和講演会」には、とても参加する気にはなりませんでしたが、今回はじめて交流会に参加し、こんな雰囲気なら次回も是非と云う気になりました。扨、横井先生の話は本当に面白く、役に立ちました。その中で、藤内等の被差別民が人間の終焉である死と共に誕生をも司っていたと云う話は極めて興味深く聴かせていただきました。

《 紹介 》

☆京都部落史研究所『こぺる』(連載『同和はこわい考』をめぐって)
 住田一郎「今日における実態的差別-その克服への視点」No.126(9月号)
 今岡順二・中島久恵・灘本昌久・山城弘敬・山本尚友「部落青年のアイデンティティー-その過去・現在・未来-」No.127(10月号〉

☆幻野の会『幻野通信』復刊7号(9/30)
 山城弘敬「具体的な論議を望んで-高麗恵さんへの批判-」

☆共同通信社の解説記事“共同で差別の克服を”、人物紹介記事“論議呼ぶ「同和はこわい考」を著した藤田敬一さん”は、前者は徳島新聞、日本海新聞に、また後者は、徳島新聞、高知新聞、日本海新聞、山陰新聞、北海タイムス、北日本新聞、東奥日報に掲載されたと、その後、連絡がありました。

《 あとがき 》
《 あとがき 》 *8月末、『こわい考』五刷3000部が出ました。これで計2万3000部になります。なにせスツール八席の小さなオーシャン・バー、リラ亭(京都)で200部売れたというから驚きです
*9月6日から10月8日まで愛知、三重(3)、東京、福岡、奈良、岐阜(2)、大阪の10人の方から計13,500円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本通信の連絡先は〒501-11岐阜市西改由宇川向 藤田敬一です。