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《 再録 》
史料公刊のあり方をめぐって-岐阜県『高富町史』史料編の場合-
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藤田 敬一
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1.
先日、久しぶりに研究室を訪ねてこられた某氏が雑談のあいまに、岐阜県『高富町史』史料編(1977年刊)所収の村方史料の一部が原史料と違っているという話をしてくださった。中国史を専攻しているわたしにとって、日本の地方史、それも史料のことなどわかるはずもないのだが、ことは原史料と公刊史料との関係だから、話の内容はよく理解できた。某氏が帰られたあと『高富町史』史料編を開いてみた。
351頁下段に欠字を示す□が十一か所ある。文書は「宝永弐年酉ノ十二月」の日付をもつ「古来指出し写留」の一部である。
さて、この史料の出典は岐阜大学保管の『丹羽文書』である。さっそく原文書に当たる。十一か所すべて墨痕鮮やかだった。おおよそのことは聞いていたし、前後関係から推して、わたしにも読めた。 十一か所の□に埋まる文字を順にあげると「藤」「頭」「都」「頭」「せ」「き」「七」「さ」「さ」「伊」「穢」である。つまり「後藤」「座頭」「與都座頭」「こせ」「つき」「又七」「ささら」「伊右衛門」『穢多』と読める。 『高富町史』史料編冒頭の監修の辞には「史料編は原文をそのまま載せた」とあり、例言にも「欠字の箇所の場合は、□で字数をうめ、…」とある。さらに解説にはこう述べられている。
つまり、編者たちは原史料の頭分制にかかわる「苗字・名前から、現在に渦を引起こす可能性がある」と推測しつつも「敢えて史料のままに収録した」と明言している。しかし、この解説はどう考えてもおかしい。『高富町史』史料編が、頭分制にかかわる「苗字・名前」を史料のまま収録したことを強調するのはよいとして、「後藤」「與都」「つき」「又七」「伊右衛門」などの姓名、「座頭」「こせ」「ささら」「穢多」といった職業、身分を示す文言の一部を秘したことに一言も触れていないからである。「監修の辞」「例言」などは問題にもならない。
2
ところで『高富町史』史料編の解説は上掲引用文に続けて次のように述べている。
ここでいう「近世封建制の残滓」とは、直接的には「頭分制の遺制」を指してのことであろう。宝永二年十二月といえば1706年1月乃至2月である。今を去ること280年あまり前の史実にかんする文献が「現在に渦を引起こす可能性」を考慮しなければならない事情がうかがえる。家柄、身分の意識が今日もなお生きている証拠だろう。しかし、ことは頭分制にとどまらない。十一か所の伏字をみると、それらの姓名、職業、身分が差別問題と関係があることはすぐわかるからだ。 もっとも「伊右衛門」は神主で「田地之内御年貢地」に「僧喜庵」「ささら」七軒を住まわせているのに、なぜ伏字にされたのか、わたしのような素人には理解できない。まして七行前に「伊右衛門」がフルネームで登場しているのである。どうも伏字の基準そのものがあいまいのようだが、少なくとも差別問題と関係がありそうだと、発行者、監修者、編者が考えた姓名、職業、身分の一字もしくは二字を伏字にしたことは、まちがいなかろう。 だが、なぜ差別問題と関係がある名称を伏字にしたのだろうか。明確な説明がないので推測するしかないのだが、「現在に渦を引起こす可能性がある」というのが、その理由のように思われる。しかし、これがまた抽象的で、よくわからないのである。 現在に続く子孫に影響があるかもしれない、もしくはそれを明示することが差別の拡大・助長につながると考えられたからだろうか。あるいは外部からのクレームをあらかじめ防止するためにとられた、やむをえない繋急避難的措置だったのだろうか。渦という言葉が暗示するものは、まことに微妙である。前掲引用文に、そこはかとなく漂う遺憾の調子は、執筆者の苦衷を物語っているように、わたしには感ぜられるのだが、いずれにしても『高富町史』史料編が原史料に変更を加えたという事実は動かしがたい。 事柄は歴史研究の基本にかかわるといえば、おおげさだろうか。原史料を公刊するに当たって、日本史学界通例の約束事にしたがい、文書の体裁に手を加えることは広く認められていると聞く。□とかママとかの記号、符号の使用もその一つであろう。わたしの専攻する分野についていえば中国から公刊される史料集では匪や賊が民衆反乱への蔑視であるとして括弧に入れたり、少数民族の名称の「けもの偏」を「にん偏」に変えていた時期があった。最近では例言で断ったうえで、史料には手を加えないようだが、それがまっとうな史料の扱い方だと思う。『高富町史』史料編のように原史料の姓名や職業、身分の一部を「敢えて」秘すのは研究者として絶対にしてはならない史料の変更であろう。 ところが某氏の話から推察すると、こうした史料変更の事実があるにもかかわらず、公刊後11年になるというのに、誰からも指摘されていないらしい。原史料にあたらず、刊本にたよる傾向は学生の卒業論文だけではないのかもしれない。それとも「□多」とあれば「穢多」、「座□」とあれば「座頭」と研究者ならすぐわかるから、これでよいとの共通認識があるのだろうか。もしそうだとすれば、なんとも恐れいった話である。
3.
わたしが、ここで『高富町史』史料編の欠字(伏字)のことをとりあげたのには、それなりの理由がある。一つは岐阜における差別問題の歴史的研究がまったくといってよいほど行われていないばかりでなく、差別問題にかかわる史料すら公開されにくいという事情の背後にあるものを考えたいからである。 そのかぎりでいえば『高富町史』史料編は画期的といえるだろう。口はばったい言い方になるけれども、埋もれさせられている史料を公開することによって、農民史、民衆史、社会史をはじめ岐阜における地方史研究はもっと豊かなものになると思う。史料を密封していては、その歴史像もひからぴたものになるのは避けられない。 いま一つは世上、史料や文献の公刊にあたって、差別問題に「からみそうな」言葉を、伏字にしたり、言い替えたりする例があることの意味を考えたいからである。 その底に「差別用語」問題が伏在していることは、わたしも承知している。また歴史上の過去の地名であっても、古い町なら容易に現在の地名とつながり、そのことで被差別部落の中に苦悩する人がいることも、まぎれもない事実である。その苦悩のなかから、差別問題にかかわることはもう触れてほしくないという声も出る。対応に苦慮し、結局、史料を載せないか、伏字、言い替えに落着くことになる。渦に巻き込まれぬためには、はじめから触れないのが一番という人もいよう。かくして差別問題に「からみそうな」史料は「避けた方がよい」という傾向を生むにいたる。しかし、それで果たしてよいのかどうか。 文献の出版にあたって、いわゆる「差別用語」なるものも、その意味するところを指摘したうえで、そのまま掲載しているものがある。たとえば『宮崎滔天全集』全五巻(1971~76.平凡社)がそうである。また最近(1986年)、岩波書店から出された『吉田松陰全集』全十巻は1936年に完結したものの覆刻だが、随所に××の伏字がある。「討賊始末」(第3巻)の「宮番卜云ヘハ、乞食非人ナトニ比ヘテ××ヨリ又一段見下ケラルヽ程ノ者ナルニ」に付せられた編纂者の註記には「××は原本二字、以下同じ」とあり、「××」が「穢多」を指すことは明白であるが、覆刻にあたって奈良本辰也さんは、解題のなかで、そのことをはっきりと指摘している。島崎藤村『破戒』初版本の覆刻のことは、いうまでもなかろう。 「差別語狩り」などといいつのるのではなく、差別の実態をふまえ、その廃棄を展望しつつ、史料・文献の出版のありかたについて議論できればと思う。
《 採録 》
その1.土方 鉄「差別の現実を超えて」(径書房『こみち通信』16号.1988.7.
インタビュアーは同社の竹井正和さん)
部落の内と外
-戦後、40年以上経っているにもかかわらず、いまなお日本には被差別部落(行政側では、同和地区と呼ばれる)が、歴然としてあるわけです。差別落書きや結婚差別などはどうしようもなくある.土方さんは、被差別部落出身で、現在は「解放新聞」の編集長としてご活躍なわけですが、解放運動を長く見つめ、考えてこられたと思うんです。1922年の水平社創立に起点を持つ部落解放運動は大きな成果をあげながら、もう一方では、問題を抱えているのではなかろうかと思うのです。そのへんのことをふまえながら部落解放運動の目ざすものとは何であるか、問題を超えるにはどうしたらよいのかというお話をうかがえればと……。最近話題になったものに藤田敬一さんの『同和はこわい考-地対協を批判する』(阿吽社)という本があります。私は非常に大きな問題を投げかけたと思うのです。一例をあげれば、被差別部落出身者でなく、部落解放運動に携ってきた藤田さんが被差別部落の人間に「お前は部落の人間と結婚できるのか」と質問されるところがありますね。藤田さんは非常に当惑していますね。人間の自然の感情としては「はい」とも「いいえ」とも言えないわけです。将来は被差別部落の出身者と結婚したくなるかもしれないけれども、現在はその相手は見えないわけですから。そのようなことがたびたびあるわけですね。 私も被差別部落の出身者ですから、そのような質問をする気持ちは痛いほどよくわかるのです。しかし、逆にどこかで被差別部落ということをある意味で特権化しているのではとも感じてしまうのです。もしそうだとするならば、被差別部落の内側と外側の人々が手と手を結び、部落解放のために連帯できないのではと思ってしまうのですが…。 部落解放同盟の側では、この事について、どう受けとめているのでしょうか。読まれているのはむしろ、被差別部落の外にいる人たちで、外部で議論していることが多いということでしょうか。 土方-そうですね。それは非常に寂しいことでもあります。本当に読まれたら、そして論議したら、もっと違った空気が出てくると思うんだけれどもね。そうならなきゃいけないわけですが。 -あの本を運動に対する批判としてしか受けとめることができないということですか。……。論議を深めて、部落のなかの人間も外の人間も手を組んで、問題をのり超えていくというふうには……。 土方-現状ではそれはむつかしいですね。地域改善対策協議会というものが総務庁にあるんですが、そこが、「解放同盟が糾弾をやるから差別はなくならない」という意味のことを文書にした時期と重なってしまったんです。結果として、『同和はこわい考』がそれをパックアップするということになってしまったと思います。残念ですね。 -たしかに残念ですね,それに加えてエセ同和というものがマスコミに取りあげられたこととも重なってしまって、部落解放運動そのものが、あまりいいイメージを持たれていないということもあります。 土方-被差別部落の外にいる人たちにとっては、解放同盟も同和会(保守系の部落融和団体)も、いわゆるエセ同和団体も区別がつきませんから。みんな部落ということで一括してくくってしまう。 -個人個人について、さまざまな判断をするのはかまわないけれども、「部落」とひとくくりにして、いろいろなことを言うわけですね。一般の人たちと違ってなぜそういう言われ方をしなきゃいけないのか、私もずいぶんいやな思いもしてきました。 土方-そうですね。部落のなかだっていい人もいれば悪い人もいる。差別する側は部落に対しても、在日朝鮮人に対しても、ひとくくりで批判していくわけですよ。それは無責任なうわさでしかないわけですね。それが無限に拡大していく。 -事実、「ちょっと目つきの変な人間がいる。あれは部落の人間だ」というような言われ方をしているわけですね。部落の外の人たちは、あそこはこわいところだというイメージを持っているということがあります。 土方-もうひとつ、非常に困ることは、そう言われると、部落のなかでも「そうかなあ」って思ってしまう傾向があることです。外側で「部落はこわい」という全体的なイメージができあがってしまっていて、部落に住んでいるというだけで「こわい」という反応が起きてしまう。そういう外部の反応が、部落の人間にも影響して、自分には「力があるんだ」「こわいんだ」というような“期待される部落の人間像”を形作ってしまっているんですね。(中略)部落のなかでも批判力が弱い青年は、自分で外から見られている目にあわせるように自分を形作ってしまうということがあるわけです。在日朝鮮人の世界でも同じだと思うんですよ。差別されている集団においては同じことが起きる。だから問題は、外側にいる差別する人間だけにあるのではないんですね。部落内部の人間のそういう弱さ、むしろこれが一番の問題であるとぽくは思います。『同和はこわい考』という本は、そういうところを指摘して、内部で拒絶反応を起こしてしまっています。(以下略)
コメント.
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その2.高麗 恵「重い錘について-『同和はこわい考』通信13号
藤田氏のコメントのこと-」(幻野の会『幻野通信』復刊第6号.1988.8.15.) 藤田先生は、私の書いた「『同和はこわい考』に言っておきたいこと」が、よほど的はずれた、犬の遠吠えのように感じられたのでしょうか、いとも手きびしい、しかし方法しては軽く「叱ッ、叱ッ」と追いやる手つきに似たコメントをつけて下さいました。 これを読んで私は、「こんなの“有り”なの?」と思い、このやり口に負けず思い切り噛みついてやろうと思いましたが、せっかく女に生れて男の真似をする不毛をえらぶこともないと思い直して、藤田先生の側の意図を十分に受容して、もう一度書いてみます。 藤田先生が望んでいられることが、私に全くわからないわけではないのです。(中略)我々の悩みであり、また、藤田先生が望む所は、常に民主的に再生し力を展開し得る、組織の創造だと認識しております。 しかし私は尚『同和はこわい考』およぴ「『同和はこわい考』通信」に同調したくない思いにせき上げられます。その思いがエステルとの出会いを通して確固となったのだと思います。私は差別の真ッ只中にいる。そして私は差別する側にいる。私もまた差別者であるという辛い思いがせき上げて、これは私らの問題で、同盟組織について云々する資格は私らにはないと思えてくるからです。 差別している人たちには言いたいことがいっぱいあります。この言いたいことはよほど思慮深く出さなければ、有効な会話となり得ません。私とPTAのお母さんの「差別の井戸端会議」でやや有効な対話が出来た例を書きます。 「高麗さんは知らんやろうけどな、あの人たちは皆怠け者や。働きもせんで酒ばっか飲み喰らって、それでも圧力かけて町の金で面倒見てもらうのは逆差別とちがうか?」こういう話を聞いただけで私の血は逆流する質なので、まず押えて……それが難事です。 「“あの人らは皆怠け者や”という言い方は一寸納得できんなぁ。怠け者の飲んだくれがおるのは事実やろ。でもそれは皆とは違うやろ?大方の人はまじめに働いて、それでもエエ会社には雇って貰えんで困っていやはるやろ?私がおかしいと思うのはそこや。怠け者はどこにもおる。部落でない怠け者はあの人は怠け者やと個人のせいにして終わりや。部落の怠け者は、それ見よ、あれは部落だでと部落の生れのせいにされてゆく。それが変だと思うのよ。おかしいと思わへんか?」「うん、そりゃ、ま、そうや。皆が皆悪い人ではないけどな」 「差別が悪いと私が思うんはそこなんや。悪い事したらその人が悪く言われるのは仕方がないと思う。だけど部落のものはって全体をきめつけてしまうのは嘘の事やし、おかしいわ」「うん、そういうことは言えるね」 行政は一年に一回、同和問題講演会を婦人やPTAの役員を集めて開きます。プログラムの消化です。出席するのはいつも同じ顔ぶれ(非民主的行政組織では役員はいつまでも変わらない)。折角よい講師を招いても義務の出席だからそれで終わり、中々深まっていかない。むしろ「差別の井戸端会議」を開いて本音をさらけ出す中で、自分の差別の姿を写し出す話し合いの方が有効なのにと、いつも思っています。 「両側から超える」というイメージは画期的で、共に両側から梯子をよじ登る姿を描いてみるのは嬉しいのですが、私はかかえている人々が重くて登れそうもありません。一人一人の錘を砕きながら、壁のこちら側で穴を空けてゆく、それが私のやりたい事です。藤田先生はそれを十分なさっておられますか?いい智恵があったら教えてください。
コメント.
高麗さんからは、8月27日付で『通信』あてにA4版2枚のお便り、というか原稿をいただいておりますが、誌面の都合で次号にまわさせてもらいます。《 紹介 》
《 あとがき 》
*9月4日、大阪府連矢田支部創立30周年記念集会に出かけ、久し振りに河内音頭を踊り、汗をかいてきました。体を動かすのはええもんですね*8月6日から9月5日まで三重(4)、静岡、富山、大阪、岐阜(2)、愛知(2)、京都(3)の14人の方から計43,370円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます *本『通信』のご連絡は〒501-11 岐卓市西改田字川向 藤田敬一まで。 |