同和はこわい考通信 No.15 1988.8.10. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
「両側から超える」論の系譜(2)
梅沢利彦(NHK資料部)
◎『共に在ること』-キリスト者・小笠原亮一氏の場合
 小笠原亮一氏の著書『共に在ること』(日本基督教団出版局.1982年初版)の奥付によると、氏は青森県出身(1934)、京都の私立高校の教師をしたあと、現在は日本基督教団北白川教会の主任担任教師をしておられる。
 「宗教は魂の救済に関わり、世俗的問題から超越している」というのが世間一般の宗教理解であろう。これが偏見でないことが、「教会がなぜ、部落問題に…」という文章で明らかにされている。
 この文章では「教会がなぜ部落問題にかかわる必要があるのか」という信者の問いに答える形になっており、この問い自体が「部落問題は教会の外にある一つの社会問題だという考えが前程になっています」と書き出されている。この問いに小笠原氏は、学生時代に遭遇した一つの出来事を想起する。部落の青年がやっている学習会を手伝おうと教会の人に話したところ、「それはけっこうなことだ。しかし、だからといって、部落の子どもをすぐに教会学校につれてきてはいけないよ」と言われたというのである。
 小笠原氏はこの発言そのものをただちに「差別だ」だと弾劾することはしない。部落の子を迎えるための「準備や慎重さ」への忠告と受け止める。しかし、「準備や慎重さ」を必要とすること自体を、「現状の教会学校は部落の子どもたちを迎え入れることができない、拒否せざるを得ない、つまり、差別的であることを、客観的に物語っている」と分析される。
 そして一般に福音書にあるイエスの奇跡や、マタイ伝にある処刑寸前のイエスの叫び、「エリ、エリ、レマ、サパクタニ」(わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし)が、現代人がキリストに近づく「躓き」と言われているのに対して、「福音ではなく、私たちが部落の人々を躓かせている」とまで自己を責めておられる。
 問題は、一般的には内面の救いということで自足して閉ざされる信仰が、どのような契機で外に向かって開かれることになったかということである。
 『共に在ること』では京都の三条部落の土蔵に共同生活する四人のカトリックのシスターが紹介されている。「私たちの修道会は、社会事業や教育の仕事をするのではなく、共に在ることがモットーです」が自己紹介だったという。四人の生活は二人が雑用で生活費をまかない、一人が家事、一人が「地域に出て行って寝たきり老人や病人の世話をする」という。もちろん地域活動は無料奉仕である。
 こうした活動の意味についてマザー・テレサの「精神的な貧困、孤独、必要とされないという貧しさ。…これこそが今日の世界の最もひどい病です」ということばが引かれる。そして行動原理は、「自分の心を差し出し、自分の手を差し出」すことである。神によって啓示された「神と共に在る」という認識が「人と共に在る」という認識に拡がる契機が示されていると思う。
 では最後に小笠原氏がキリスト者として、差別の問題にどのような考えを持っておられるかを、「差別における人間の問題」と題された論稿を手掛かりにみていくことにする。
 副題に「フランクルに導かれつつ」とあるとおり、ナチスの強制収容所体験をもとに書かれた『夜と霧』を中心にして考案されたものである。論点の要釣だけになるが、まず人間観について。

収容所の人間が絶対的悪で、被収容者側の人間が絶対的善であるとは言えない。と同様に差別する側にも良い人間がいるし、被差別の側にも悪しき人間がいる。
それぞれのグループ(差別・被差別など)のなかで彼が良き人間になるか悪しき人間になるかは、あくまでも彼自身の自由と責任による。

と要約される。そして「被差別側の三つの危険」として

(差別側へのすり寄りも含めて)自分を見失ってしまう危険
相手の差別的偏見、特に恐怖感を逆用して、相手から自分の利益をひき出そうとすることへの誘惑
被差別性にとらわれ、他者に対し心をひらくことができなくなる危険

の三点が指摘される。小笠原氏はこうした自身の指摘に関しても留保をつけられている。すなわち、①「良き人間・悪しき人間」の選択も全くの自由意志論としてではなく、「差別・被差別の構造的連関」の中で考えられるぺきこと、②被差別側のマイナス状況(歴史的に強いられた文化的貧困や深い心理的歪曲)の記述に、差別的偏見を助長する危険があることを銘記する、などである。
 こうした前程を置きながら、小笠原氏は解放の運動に対してつぎのような提言をなされている。

 被差別の側は、単に差別の側に対して否定的に迫るばかりでなく、自己自身に対しても批判的にかかわり、自己否定の原理を確立ない限り真の解放はあり得ないのではないか。被差別の側が自己に批判的にかかわることは、差別側の想像を絶するきびしさを要求されるのであるが、そのきびしさのなかからのみ新しい世界の人間性と倫理性がきたえあげられるのではないか。

◎広範な力の結集が課題
 差別撤廃に積極的に関与されてきた三人の方の考えをたどってきた。作家、詩人、キリスト者とそれぞれ生い立ちを異にしておられ、ことに金時鐘氏は在日朝鮮人であると同時に、被差別部落などの高校生に教員として接した特異な経歴をお持ちである。ということは、差別の問題も第一義的には在日朝鮮人と日本人の問題であり、部落差別問題とはやや質を異にする。
 それにしても野間氏の解放運動に呼応する決意、金氏の連帯者にひそむ庇護意識の指摘、小笠原氏の三つの危険への警告など、どれも無視することなどできない。
 そこで藤田敬一氏の『同和はこわい考』である。本稿に係る部分だけを要約するとつぎのようになる。
 「差別かどうかは被差別者にしかわからない」(判断の資格の絶対化)と、「部落民にとって不利益な問題は一切差別である」(判断の基準の絶対化)の二つのテーゼは再検討されるべきである。その理由は、①差別・被差別間の対話をとぎれがちにさせる要因のひとつになっている、②同和事業をめぐるさまざまな不祥事の背因になっていると考えられる、というのである。
 論証ともなる具体例を省略したので、枝葉を払った裸の木のように味気ない文章になっているが、まさに戦後部落解放理論に根本的な検討を提起したものといえる。問答無用の切り捨ても、闇雲の肩入れも、運動にとっての益にはならないであろう。
 論議の高まりが、広範な勢力の解放運動への結集をうながすものと考え、「『両側から超える』論の系譜」を提出した次第である。(完)

《 各地からの便り 》

 -藤田前白-
 塩見鮮一郎さんの「『差別の痛みは被差別者にしか分らない』という主張にこだわる理由」(『朝日ジャーナル』88.6.17について、『通信』読者から感想がとどきました。塩見さんからなんらかのご返事がいただければ嬉しいのですが。

その1.
 …部落の大衆レベルでの感情の連発を、卑屈に自己批判する必要はないけれど、少なくとも指導的な立場の人間が大上段にかまえてみせることもないことです。ことのなりゆきで、いきおいあまってそれに似たたぐいのことばを口ばしってしまってから、そのあと味の悪さに長く苦しむのが普通の感覚だろうと思います。たとえ相手がどうしようもない石頭さんだろうと、です。私なら、塩見さんのように、28年もその言葉に「こだわって」いたら生きていくのがいやになるのではと思います。 連帯は、あくまでも対等性がたもたれた関係があってはじめてなりたつものです。妙なおもねりやおぺっかがみえみえでは、真実の信頼関係は生れてきません。塩見さんのような立場の方がそう思っておられるのなら、あくまでも自分の原点として、たえず自己点検される時に取りだしてみられる程度でよいことであって…。/それに続いて「少々の部落民が便宜供与を受けるために、この主張を利用したぐらいで…」は、まったく荒っぽいへ理屈です。このくだりを読んで失望しました。「この主張」は絶対「便宜供与を受けるために」利用すべきではない。それは部落自身の大切な思いです。犯してはならない範疇にかかわることで、ごく普通の人々(部落の)が一番困っていることでもあるからです。正義にならない「便宜供与」は、ムラ人にとっても厳しい批判対象です。…(大阪・Kさん)

その2.
 私のこだわってきた「資格性」の問題に係わるものとして興味深かったのですが、一つだけ言わせてもらうとすると、「部落」「部落民」と「被差別者」という言葉が、都合のよいように用いられているとの印象をうけました。塩見氏にかぎったことではないのですが、部落民と被差別者とは≠であり、前者と後者は≦の関係だと思います。「被差別者にしかわからない」「部落民にしかわからない」「解放同盟にしかわからない」と置きかえると、何が差別かを判断できる資格のあるもののもつ意味がかわってくると思うのです。/それから矮小な疑問で甚だ恥ずかしいのですが、被差別部落外の出身者になんで部落のことがわかるかとつきつけられたりして、むしろ部落問題は差別してきた側の問題としてととらえつつ、(部落外の者に)「絶対にわかりゃせん」という叫びを原点にしているというのだから、絶対わからないのに書いているのは理解しがたいのです。…(熊本・Tさん)

その3.
 …「差別は《その痛みを知っている被差別者にしかわからない》という主張を、それがどんなに旧態依然の主張に見えようと断乎、支持する」ということですが、「『お互い』の内省と向きあい」とクロスさせて論じれば、「おかしい、これは差別では?」と感じた時、「差別!」と主張出来るのはお互い(ここでは「差別する側「される側」)ではないでしょうか。又、このまま放っといたらダメだと感じた者が「差別!」と動き始めることではないでしょうか。(塩見氏は論点をはっきり出さんがために、あえて「断乎、支持」といった調子で述べられたのかもしれませんが…。)/ことは、「お互い」(各々)が、“部落解放への道”から等距離にいるのかどうかを論じれば、論点がすっきりするということになるのでしょうか。
                           (京都・Mさん)

《 採録 》
その1.コラム「解放の灯」(『解放新聞』広島県版.899号.1988.7.20.)

 塩見鮮一郎という人がいる。『浅草弾左ヱ門』という本を書いた人だ。この人が『朝日ジャーナル』に「『差別の痛みは被差別者にしか分らない』という主張にこだわる理由」という一文を寄せ、例の『同和はこわい考』の藤田敬一なる人物を批判している。▼この人の言い分で印象に残るのは、「少々の部落民が便宜供与を受けるためにこの主張を利用したぐらいで、これを放棄するわけにはいかない」という部分だ。ここで「利用する」と言っていることについての説明がいる。「おまえは人から指をさされ、四つ、といわれることが、どんなものかわかるか」という論法のことである。▼差別には、きびしい態度でのぞまねばならない。そこで必然的に行きすぎということもあろう。その行きすぎの弊害よりも、きびしく批判することの方が、人間社会においては、もっともっと大事なことだと言っているのである。『同和はこわい考』を地対協路線だと言うのは、何が基本的に貫かれなければならないことか、わからなくなっているからである。▼偉大な詩人ゲーテが面白いことを言っていることを、この文章を書いている途中でまた思い出した。「人間は努力をする限り、過ちをおかす」というものだ。糾弾は、人間平等を求めるための被差別者の「努力する」姿ではないのか。▼そうなれば、当然のことながら、そこに「過ち」なるものがついてまわる。問題は、その「過ち」にどう対処するかである。日共・全解連と、地対協と、そして『同和はこわい考』と大同小異で、その「過ち」の可能性の故に、人間の「努力する」営みを中止せよというのである。▼かりそめにも差別を憎む気持のある者には、そんなことは言えまい。それにしても見田宗介・東大教授の「立場の客観性」の正当性は、塩見鮮一郎の論で言いえているようだ。

その2.大西巨人「批評の悪無限を排す-『周到篤実な吟味の上での取り入れ』-」
  (文学時標社『文学時標』21号.1988.7.15.)
 …ところで、論争(「吟味」)がようやく緒に就いた昨年末、部落解放同盟中央機関紙『解放新聞』は、同盟中央本部の「権力と対決しているときこれが味方の論理か」という高圧的な.(『同和はこわい考』にたいする全否定的な)「基本的見解」を発表した。それは「『同和はこわい考』内容の周到篤実な吟味の上での取り入れ」とは、まったく裏腹の意見であって、当然にも私は、『朝日ジャーナル』八月五日号所載の前記小文において、それに反対した。その際、誌面の制約のせいで私の書き残したことを、私は、ここに書く。むろん、これを独立のエッセーとして私は書くが、甚だ勝手な願いながら、大方の読者は、どうかなるたけ、『朝日ジャーナル』八月五日号所載の小文を併読せられたい。/さて、不定期刊舐『幻野通信』復刊第五号(岐阜県幻野の会五月二十六日発行)に、高麗恵筆『エステルと会って、その後、井戸端会議風に(藤田敬一氏の“同和はこわい考”にいっておきたいこと)』というエッセーの佳品が載っていて、それは左のごとく締め括られている。

…いま差別の様相は「あれ」とか「あの部落」とあからさまな用語を使わないで、アクセントの入れ方や殊更なる念押しや、つめたい無視の態度で伝達されている。あからさまに言うのはこわいのである。私はいつでも「差別の井戸端会議」に入ってゆける主婦なので、運動者達のような理論や批判はなかなかに持てないでいる。しかし運動の成果である「制度」が出来たあといつも限界が見えてくるようです。エセ同和やオドシ同和が「こわさ」の原因なら、それはいかなる行政施策にもつきまとうタカリ屋の群れだから気にすることはない。
/「こわさ」の原点は、やはり私が暮らしているごく普通の人々の性根の中にある。この人々は「こわさ」の再生産を飽きずに心掛けており、知らない人には何とかして伝えたいとお節介を買って出る人々で、「同和だよ」「こわいよ」と上手に伝達できるとひと荷物おろしたようなほっとした顔をする人々です。
/解放同盟の役員にも、運動にコミットする学者たちにもいちど親しく会ってもらいたくなるいやな顔々です。

 あたかもおなじ右部分が、近着の月刊紙『“同和はこわい考”通信』No13(藤田敬一六月二十日発行)に引用掲載されていて、それに藤田の「コメント」が付けられている。私が考えるに、その「コメント」の調子は、中央本部「基本的見解」のそれに甚だ類似していて、突っ撥ねるように否定的であり高飛車である。高麗文(の言葉遣いなど)には、不都合・不行き届きが、あれこれなくはなかろう。だが、それが藤田著にたいして敵対的・全否定的な物である、とは、到底私は信じない。われわれは、高麗文を、論理軽視主義または経験主義または庶民至上主義ならざる物として受け取るベきであり、「周到篤実な吟味の上での取り入れ」に努めるぺきである。/たとえば、---旧軍隊が解体してから、四十余年が、過ぎ去った。とはいえ、旧軍隊において初年兵たちが古兵たちから手痛くいじめられていたことは、いまでもかなりひろく知られているだあろう。その初年兵たちは、“おれたちは、 古兵になっても、決して初年兵いじめなんかしないぞ。”というようにたがいに披瀝し合っていた。しかし、たいていの物たちは、自分たちが古年次になった場合には、けろりとしてやはり次の初年兵たちをいじめ痛みつけたのであった。/たとえば、---小林多喜二が国家権力から虐殺せられたとき、Aは、その死体の枕元にいた。その事実を日本共産党(代々木)は、Aが自党にとって現在好ましからぬ立場にいるという理由で、隠蔽する。しかるに、そんな目を見てその卑劣なやり口に憤激したAが、別の局面においては、その事柄の説明にはB(の氏名)を抜きにすることはできぬはずであるのに、BがAにとって現在好ましからずという理由で、B(の氏名)をそこから平然として抹殺する。それならば、どうしてAは、日本共産党(代々木)の歴史偽造的所業を非難することができるのか。/藤田敬一は、高麗恵の一文にたいして、高飛車にして突っ撥ねるように否定的な態度を取るぺきでなく、「周到篤実な吟味の上での取り入れ」に心を掛けねばならない。(一九八八年六月三十日)

コメント.
大西さんから指摘を受け、あらためて高麗恵さんの文章と、それに付したわたしのコメントを読みかえすとともに、コメントを書いたときの気持を思いおこしてみました。
 高麗さんの文章に、わたしが身がまえて力んだことは否定できません。その原因は二つあったように思います。一つには高麗さんの文章が、自らを「いつでも『差別の井戸端会議』にはいってゆける主婦」であり、しかも「運動者たちのような理論や批判をなかなか持てないでいる」者と位置づけた上で、「運動にコミットする学者」に一言物申すという形をとっておられることに、正直いってまず不愉快になったからです。「こういうもの言いは、どうしても好きになれません」と書いたり、「なかなかどうして、理論や批判がもてない方ではなさそう」とか「高麗さんのように『気にしない』『気にしない』ですむなら話は簡単でしょう」と、いささかムキになっているのは、そのためです。いま一つは、「こわい」意識および「エセ同和」「オドシ同和」の問題に関して、高麗さんとわたしとでは、考えが大きくちがっており、しかもそれは論議の基本にかかわると気おいたってしまったからです。
 高麗さんの文章に対するわたしのコメントが、中央本部『基本的見解』の調子に甚だ類似して、突っ撥ねるように否定的であり高飛車であるかどうか、さらには古年兵にいじめられ痛めつけられた初年兵が、古年次になるとけろりとして初年兵をいじめ痛みつけたという旧軍の広く知られた事実、および虐殺された小林多喜二の死体の枕元に誰がいたかをめぐる歴史偽造における五十歩百歩、と同質・同類のものであるかどうかはともかく、「周到篤実な吟味の上での取り入れに心がけよ」との大西さんの指摘は、肝に銘じます。このところ神経が尖っていまして、異論、異見に出会いますと、「疾視シテ気ヲ盛ンニス」る場合がときとしてあります。まだまだあきませんね。

《 紹介 》

☆真宗大谷派宗務所:『真宗』1001号.1987.8.10.書棚.
        :『同朋』1987.10.ザ・ブック.

☆京都部落史研究所『こぺる』.特集「『同和はこわい考』をめぐって」①~③
 灘本昌久「部落差別を根拠とする権利の合理性について」(6月号)
 山城弘敬「部落差別はどのように存在しているか」(7月号)
 山本尚友「被差別部落と貧困-その再生産構造について」(8月号)

☆『朝日ジャーナル』.
8/5号.大西巨人「部落解放を『国民的課題』にする一つの有力有効不可欠を道」
      (「『同和はこわい考』論議の渦中から⑥」)
8/12号.千本健一郎「『美しい虹』のイメージに接近する試み一京都・部落差別を
        『両側から超える』普通の人々の全国交流会」

『朝日ジャーナル』8/12号 千本健一郎「『美しい虹』のイメージに接近する試み一京都・部落差別を『両側から超える』普通の人々の全国交流会」

《 あとがき 》
*第5回部落問題全国交流会が7月30日、31日の二日間、京都で開かれ、各地から206名もの方が参加してくださいました(上掲『朝日ジャーナル』8/12.千本さんのルポ参照)。「自弁でこれだけの人が来ておられることに励まされた」という発言がありましたが、それはわたしたち共通の感慨です
*横井清さんのユーモアにとんだ講演にはたぴたび笑い声がおこりました。参加者にリラックスしてもらおうとの横井さんの心くばりには感謝のほかありません
*一日目夜の懇親会には多くの方からカンパがあったほか、中国産の葡萄酒、京都名物「洋食」、三重の激辛キムチ、岐阜の馬刺などが持ち込まれたりして大盛会。この分だと来年は各地の名産、特産がずらっとならぴそうです
*わたしたちは「自分以外の何者をも代表しない」ことを確認しあってきました。しかも交流会は「結論を急がない」「組織や運動の方針を求めない」「多数をめざさない」不定形の集合体でして、あとは出された意見を素材に、各自で自由に思索してもらえばいいわけです
*それにしましても濃密な議論に疲れた方も多いはず。かくいうわたし自身まだ酔っている感じで、とても思索どころの話ではありません
*準備と進行にあたってくださった事務局担当のみなさんには心からお礼を申し上げます。参加された方から「スタッフが知的で沈着だった」とのお便りをいただいております
*7月16日から8月5日まで、京都(4),三重(3),岐阜(2),奈良(1),兵庫(1),大阪(1),滋賀(1),神奈川(1)の14人の方が計32,900円のカンパ、切手を送ってくださいました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』のご連絡は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一まで。