同和はこわい考通信 No.9 1988.2.29. 発行者・藤田敬一

《 感想 》
「足を踏んでいる者」の自己解放を求めて
神奈川・T.M.
 『こわい考』通信、『天国つうしん』等いただき、何度か“筆をとらねば”という強迫観念にせきたてられて書きかけてみたりするのですが、どうも重くて気がすすみません。
 重いのは、ご存知の通り、第一は“自分には発言の資格がない”ということであり、第二は、そう思い込むこと、あるいは“謙虚に”そう言うことで、わずらわしさや場合によっては恐怖、あるいは、様々な空しさから逃げたいという潜在的な気持のしからしめるところでしょう。「───についてユーテミイ!」と迫られる時の何ともいえない対話不能のもどかしさ、───夫婦ゲンカ後に、相棒が言うことには、こういう言い方をされると「もう何もかも終わりだ」と思うそうです。
 というわけで、あまり発言したくないのが本音の1つですが、渋々、一言書いてみます。
 <主体は誰か>という問題については、僕は、あまり論議の意味がないと思います。人は、様々な抑圧や疎外から解放されたいと願って、生きているわけですから、人は誰でも自らの生の交替不能の主体であり、比較することは不可能であると思います。差別・抑圧されている人がそれと闘う時、その人はその闘いの主体であり、運動の主体であるのは勿論ですが、差別している人、抑圧に加担している人が自分の差別性、抑圧的立場から逃れたい、疎外を克服したいと思ってガンバル時、その人はまた、自己解放の当然な主体であり、そのような主体なしに、差別構造・抑圧構造が物理的にも、思想的にもなくならないのは自明のことなのでしょうね。
 「足を踏まれている者の痛みは、踏んでいる者には分らない」のは、ある程度、当然だと思いますが、「踏んでいる者」の疎外はやはり踏んでいる者自身のそれなりの“苦しみ”と自己解放のたたかいの中からしか克服できないのも当然のことであるし、夫々が夫々の主体的立場でがんばらなくては<誰が誰の足を踏んでいる>という構図を超えることはできないと思います。(それは藤田さんの説とどれだけ重なるか分りませんが、長年、他人の足を踏み続けてきた僕の考えです。今後、まだ当分、有形・無形に踏み続けていくことは避けられず、アジアの人の足も、今や、アメリカ労働者の首切りさえ日本企業が進める中で、アメリカ人の足さえ踏んでいると思います。─<差別>の概念の拡大しすぎかもしれませんが、他人の生活を侵してゆくときには、何らかの差別意識なしには、進まないのではないでしょうか。──)
 もう一点“ある事実があったとしても、それを表面化し、伝えること語ることは、敵の利益につながるからやめた方がいい”という考え方についてです。これは、状況によって、ケースバイケースという他ないと思いますが、僕は“報道”という仕事を選び、それを仕事としている立場で、それなりの日々の悩みとザンゲがありますし、又、多少の自負もあります。
 ある事実(の断片)に近寄るかどうか、どんな方法で近寄り・深めるか、目にした事実(の断片)を何のために、どんな方法で、いつ、誰に伝えるか、その最も適切な方法は何か、何に注意するか、伝えたあと、どうするか、───等々について、日常の個々の仕事の中で、不断に錯綜した判断を迫られています。沈黙は金です。「運動の防衛」のためといい、「人権を守るため」といい、秘かに、そして多くの場合「保身・自己防衛」のために、伝えるべきことを、伝えるべき時に伝えない気分が、マス・コミの中にーそして、おそらくは私の中に、まんえんしています。しかし、私流にいえば、“沈黙は金、事実は銀、思想は(イデオロギー)は銅”とでもいうことになるでしょうか。
 ある事実や実態を伝えたために、既存の秩序や利害に混乱が生じ、部分的、あるいは全体的な流動、崩壊、生成が始まろうと、そのことの善し悪しは、全体の人々と歴史的時間が決めることであって、一部の人々が決めることではないと思います。(ただ、私は、その“伝えられた事実”[の断片・実態]を主体的に担う人[々]が私の視野の中にいない時は、その仕事をしないことにしていますが、それでは、多分、“伝え手”としては失格で、主体の在・不在にかかわらず、自分の手に負えるか否かを問わず、注意深く伝えるべきでしょう。)
───話は飛びますが、田舎にすむのはイヤだという“中国残留孤児”といい、農村に大量に“輸入”されつつあるフィリピン花嫁といい、あるいは、国際金融戦争や財テクに投入されている我々の税金・年金といい、デタントに反対するユーロコミュニズムの一部といい、既存のパターン化された“思考法”“イデオロギー”では、何一つ、<現実>は解決しなくなってきているように思えます。歴史と、それに伴う構造・現象は、休むことなく動いているわけですから、───。
 やはり、どうも話が生意気、かつ抽象的な方へと流れようとします。私は、今、何も部落解放に関わることをしていないせいでしょう。たとえイニシアルであれ、この一部が“公表”されることを考えると、もっと具体的な私の日常のそれなりについて書くことはためらわれます。…

コメント.
「既存のパターン化された“思考法”“イデオロギー”」は、わたし自身の内にも確実に盤踞していまして、その頑固さにうんざりします。だからこそ、少しでも自己を対象化、相対化しようと努力しているのですが、まだ駄目です。
 ところで金時鐘さんがこんな発言をしておられることをご存知でしょうか。
 「足を踏まれた者の痛さは踏んだ者にはわからないというその話は、よく聞くたとえではありますが、この比喩も私の実感からはかなりかけ離れたものですね。そのような比喩自体が常識の類型のように思えます。踏まれた者の痛さは踏んだ側にはわからないというけれど、痛さどころか、踏んでいることすら知らないのが実は差別の構造なんですよ。第一ね、被差別者の痛さというのは、踏まれる程度のものじゃない。踏まれるという部分の痛みではない。まるごと踏みつけられ、まるごと押し込められて腐っていくことなんですよ。教訓めいたこのたとえこそ、啓蒙主義の一つのパターンだと思うんです。そんなのは説得力を持たない。部落なら部落、朝鮮なら朝鮮の持つエゴだってありますからね。両方が越えねばならないものに、『差別』の問題はあると私は思っています。」( 金時鐘、土方鉄、藤田敬一「被差別の陰の貌」下、『こぺる』86年10月号.P6)
 金さんは、この後、もう少し展開しておられるのですが、「踏む-踏まれる」という比喩そのものを、あらためて検討すべき時期にきているようにも思います。
 情緒や感傷に流されてはいけないのでしょうね。そうしたものからは、おそらく共感、同感が生れるはずもないからです。

《 各地からの便り 》

その1.地をはうように己を問い続けている人々がいます

 …この間、私も地区外から地区成人学級に通い続け、地区内のやさしさ、したたかさにふれ、人情深いつき合いをしています。
 地区内外を問わず、普通に生活している人々は、組織のリーダーや運動家とは全く別の次元で、やれ「労働運動」だの、「階級」だの、「生産点」だの、へったくれだのとは言わなくても着実に頑張って生きているように思えます。
 「敵の思想に利する」だの、「マルクス、エンゲルスが云々」だの、「本質的なものは現象する」だのといった講演など越えた所で生活している人が沢山います。 地をはうように、己を問い続けて生きている、私のまわりの人々と、組織はかけはなれているようです。先生の本は、そんな私の気持ちに通じるものがありました。 ともあれ無料では心苦しいと思いながら受け取らせていただきました。…(広島・Tさん)

コメント.
Tさんのお便りから、自信満々の雄弁家などとは無関係に生きている人びとの心意気のようなものが伝わってきて、なぜかほっとさせられます。
 惰性化した言辞の無力さに気づかないで、あい変わらず大言壮語する人はどこにでもいるものです。しかし常識の世界に生きる人びとには、いたけだかな指導者に沈黙をもって答えるという戦術がある。しかし指導者は、その沈黙を支持だと錯覚しがちで、こうなると組織も運動も衰弱してゆくしかないようです。


その2.どうぞ毅然としていて下さい

 …高橋恒美さんの感想いいですね。藤田さんは、いい「身内」をおもちでうらやましいなと思います。それはとりもなおさず、藤田さんのこれまでのたたかいが、誠実だったことの証だということでしょう。私たちは、小さなエリアでしかものを見れない弱さがありますが、広い範囲の友人たちとつながって色々なものの見方、把え方を知ることによって、少しづつ「思い」を別にする人たちともつながっていかないと、と思います。あまりに単純で、ある意味では鈍感なとさえ思ってしまう規格品あつかいの価値観の押しつけは、もうまっぴらです(私自身に対してもですが)。
 …8号が届くまで「藤田さんがしんどい状況になってはるんとちがうか」と心配でしたが、せまい度量でしか「けんか」をふっかけられない人のちょっかいには、わずらわされず、どうぞ毅然としていて下さい。良識ある仲間はきっと沢山いるはずです。…(大阪・Kさん)

コメント.
ご忠告に感謝します。わたしの「これまでのたたかいが、誠実だった」かどうかは、この際おいて、いい仲間に恵まれてきたことは事実です。無意味な議論はしないという性癖の持主が多く、それがわたしにはよかったと思っています。ところで、わたしは当初から不毛な議論はしたくないと考えていましたので、つまらぬ言いがかりに応えるつもりはありません。彼らの語るにまかせます。


その3.尊大なのは大きらいです

 …“両側から越える”という思想を、理解したくない人たちは、論理ではなくって、これまで依拠してきたものを壊そうとするものに対して、考えるよりも前に反発し、あるいは防衛意識が働いているのかな、と思ってみたりしています。
 “ちからにする”という詩、いいですね。尊大なのは大きらいです。なぜ尊大になれるのか。自分を絶対正義だと思っているからでしょうか。“考えるちからにする”という心が持てたら、きっともっとゆたかになれるはずなのに。それに、私は、人間って、そんなに立派でもないって思っているのです。“ちからにする”っていうのがいいんですよね。だから、自分も含めて人間を好きでいられるのだな、と思います。
 今の状況では、“対話”ということばもなにかとっても空しく感じられたりしますが、少しずつほんとうの対話ができるようになるといいですね。
 そう簡単にいくはずもないことをやっているのですから、あきらめずにどこまでも求めつづけます。
 人間って、やはり、いつか信頼しあえる関係にならなければ、と思います。そういう関係を求めるから、私もやはり“両側から越える”ということに、こだわりつづけるのです。…(東京・Sさん)

コメント.
「両側から超える」という金時鐘さんの意見に共感を覚えてから何年になりますか。以来、わたしなりに考えつづけて『こわい考』にたどりついたのでした。ところが部落解放同盟中央本部の『基本的見解』は、わたしが自らの「発想の『いびつ』をごまかすために金時鐘さんの発言を利用しようと」したものだと論難しています。しかし、どうもこの論難の裏には被差別者の相互批判はよいが、部落外出身者・差別する側に立つ者・差別者とされる、いわゆる“一般”による被差別者への批判は許されないという本音が隠されているように思われてしかたがない。もしそうだとすれば、これこそ『こわい考』で指摘した資格、立場の絶対化による「批判の拒否」の典型的事例ではないでしょうか。Sさんが「対話ということばもなにかとっても空しく感じられたりします」とおっしゃるのも無理はありません。事柄はやはり資格、立場、側の問題にゆきつきます。しかし、この点にかかわる議論がぼつぼつ出はじめました。津田ヒトミさん(『こぺる』88/11)とか、次に紹介するKさんの文章がそうです。焦らずにやるしかありません。


その4.何故に《両側から超える》と言わざるを得ないのか

 …差別意識というものは、観念の根底に焼き付けられている《幻想》と言えなくもありません。無いものがあるように見える。それも圧倒的多数の人間にとって少数の人間の存在が、《何か特別の存在》として映るとすれば、藤田さんのおっしゃるとおり、職業を替えても、住む場所を変えても、名前を変えても、差別は後を追ってくるのが現実です。《差別側は、被差別側を意識しなくても生きていけるが、被差別側は差別側に関わらずに生きていくことは出来ない》とは、地域のリーダーの言葉ですが、まさにそうであるが故に、圧倒的多数の人間にとっての問題でもあらねばならないのだと考えます。
藤田さんの言説には、いちいち納得致します。そして、現実に対して何をしていくのかが、私にも問われていると実感いたします。しかし、その上で、何故に《両側から超える》と言わざるを得ないのか、という感慨を消し去ることが出来ないでいる自分が居ることに気づきます。差別側と被差別側という関係のとりかたが、すでに、固定された意識の上に成り立っているかのように思えてなりません。《差別の本質が見えていないからだ》と指摘されそうですが、地域との関わりの過程でそのように考えてきました。敢えて《部落解放=人間解放》と表現する所以でもあります。まとまらない話で申し訳ありません。
 ともあれ、議論が議論として成立しないことほど無意味なことはありません。藤田さんの信念に基づいた言説の今後の展開に期待いたします。(京都・Kさん)

コメント.
1月26日、部落解放京都地方共闘会議主催の部落問題基礎講座で「同和はこわい考-地対協を批判する」と題して講演をしたさい、出席しておられた方です。
 「差別側と被差別側という関係のとりかたが、すでに、固定された意識の上に成り立っているように思えてなりません」とのご意見、ひじょうに重要だと思います。ぜひ『通信』誌上でも討論したい。感想をお寄せください。


《 再録 》

中央本部見解を読んで
須 甲  卓
 昨年12月21日付の『解放新聞』に同盟中央本部の「『同和はこわい考』にたいする基本的見解」が発表された。副題に「権力と対決しているとき-これが味方の論理か」とあることからすぐにわかるように、見解は『こわい考』をまっこうから否定するものである。以下、見解にふれていささか書いてみたい。
 見解には《(著者は)部落解放運動を正当に評価しえないところにのめりこんだ》とか《藤田敬一氏が、ここぞとばかり、自らのいびつな姿勢からくる運動にたいする偏見を噴出させている》といった記述がある。だから、『こわい考』を読んでもいず、藤田さんも知らないという人だったら、この見解を読んで、おそらく、藤田敬一とは何といびつな意識の持ち主だろうと思い込むに違いない。このようにして、藤田さんや『こわい考』が多くの人たちに曲解されるのは困ったことだと思うけれども、困ったことが具体的にどうあらわれてくるのかはまだわからない。
 だが、このことはさておいて、見解をあらためて読み直してみると、具体的には、『こわい考』の中から2箇所が取り上げられ、それぞれが「部会報告」の文章と対応させられて、《どこが違うであろうか》とされ、そこから『こわい考』が「地対協」路線と同質のものだと決めつけられている。ただし、見解の文章の展開は奇妙なものとなっている。例えば、『こわい考』から引用された箇所の一つ(『こわい考』4 ページの、「こわおもて」にでて私的利益を引き出そうなどとする被差別側の人がいることや自称「同和団体」の横行が、被差別部落外の人びとの「同和はこわい」という意識を補強もしくは再生産していると述べている箇所)についてみるとこうなっている。引用にすぐ続いて、《こうなってくると、「地対協」路線の典型的文章である「部会報告」のつぎの論理とどこが違うであろうか。》として「部会報告」の中の二つの文が示される。そして、続いて、何の説明もなくて、《こうなってくると、「地対協」路線が一番力点を入れて攻撃している糾弾闘争についても『同和はこわい考』は批判していることになるし、政府・警察権力に弾圧の口実を与える「えせ同和」についても、その責任が、部落解放同盟にあると主張していることになる。》と文章はつなげられている。ところが、引用された箇所には、このようなことが導き出されることは書かれていないのである。そもそも『こわい考』の中に、糾弾の否定や「えせ同和」の責任が同盟にあるという主張が述べられている箇所などはどこにもないのだが、見解の文章の奇妙な展開は、述べられていないことを述べていることにしてしまうのである。そこで、文章の展開にはこだわらないことにして考えてみるに、見解としては、『こわい考』の表現は、「部会報告」の論理と通じ合っている、「部会報告」を肯定しているものである、だから「地対協」路線と同じように敵だ、というふうに筋道を立てているようだ。そう考えると、先に述べたような文章のつながり方も納得できる。だが、見解をこういう内容のものとしてとらえてみても、まだ大きな疑問が残る。それは、見解が『こわい考』の論理を批判していると言えるのだろうかという疑問である。副題に「これが味方の論理か」とあるように、見解は『こわい考』の論理を批判するという体裁になっている。だが、見解は、実は、『こわい考』が提起している問題には何もふれてはいないのではないだろうか。今、例にあげた箇所について言えば、そうした記述がなされる所以、この場合だったら、「部会報告」などが、行政機関や企業はもとより、一般市民の、一定の共感をうる背景があるという状況認識に立つ運動の呼びかけ、を問題として突かなければならなぬのではないだろうか。ところが、そうはなってはいない。このような引用箇所の取り上げ方などをみると、見解の文章は、『こわい考』に対するなじめない思いを吐露しているのに過ぎないものだとみなした方がよいのではないかと思われる。
 今、ここで見解の文章に対していちいち詳しい反論を述べる必要はないと思うので、そこまでは立ち入らないが、ただ見解の中のわからない部分についてはふれておきたい。実は、わからない部分というのは幾つかあるのだが、その中で一つだけふれておきたい。それは、《(藤田敬一氏が)はからずも「いよいよ国が音頭をとって『啓発に乗り出してきました。熊代室長はこの『研修』をやりきって、厚生大臣官房人事課長に転出しました」と、本音を吐くことになるのである。》というくだりである。このかぎかっこ内の部分はどこからの引用か示されていないが、「『同和はこわい考』通信 No.5」(1987年10月20日付)に添えられた藤田さんの便りの一節である。(ただし、《厚生大臣官房人事課長》ではなく、便りでは《厚生省大臣官房人事課長》となっている。)便りには見解に引用された部分に続いて、 《それを左遷だという人がいますが、とんでもないことです。誰かアドバイスする人はいないのでしょうか。見てられない感じです。》とあるが、見解の執筆者は、この便りから、藤田さんが熊代をたたえていると読みとったのであろうか。だとしたら、それは完全な誤読だということになるのだが、執筆者はそうは思っていないのか。これがどうにもわからない。

コメント.
太平天国社の中心メンバーの一人である須甲(すこう)さん(岐阜工業高校)のこの文章は『天国つうしん』1988年1月号(1/11) に掲載されたものです。『つうしん』読者には重複しますが、悪しからずこ了承ねがいます。


《 あとがき 》
*例年、2 月はなにかと忙しい時期ですが、今年はとくに激しいように感じました。しかし、なんとか元気にやっております
*『こぺる』88年1 月号に、吉田明さん(部落解放同盟京都府連委員長)の「率直な書に出会う」、本山勝美さん(広島在住)の「『地対協』路線を支えるもの」、2 月号に、師岡佑行さん(京都部落史研究所所長)の「批判は妥当性をもつか-部落解放同盟中央本部<『同和はこわい考』にたいする基本的見解>をめぐって-」が載っています。お申込みは〒603 京都市北区小山下総町5-1 京都府部落解放センター3F.京都部落史研究所へ。Tel.075-415-1032.郵便振替 京都5-1597.年間購読料3000円.1部200 円
*『朝日ジャーナル』2/12号に寄稿した拙文、『ジャーナル』のご了解をえて別刷にしました
*東京の友人から『朝日新聞』東京版88.1/22 夕刊の「堀内利夫君の国務大臣就任を祝う地域改善関係者の会」に関する記事を送ってきてくれました。「…堀内参院議員は、自民党の地域改善対策特別委員長として長く同和問題に精力を傾け、昨年四月施行された同和対策新法実現に力を入れた。/注目を集めたのは、自民党と連帯する全国自由同和会の堀川重明会長に続いて、あいさつに立った部落解放同盟の上杉佐一郎委員長。『同盟への弾圧、解体攻撃をかけて来ている』と政府・自民党との対決をうたっている解放同盟だが、『副委員長、書記長とうちそろって出席しており、全国の同盟員が心からお祝いしている』と、その人柄を称賛した。」
*もしこれが事実なら、基本的見解がいうところの「権力」とはいったいなんなのかと、たずねる権利が、わたしにはあると思うのですが、どうでしょう
*『こわい考』にかかわる感想、ニュースをお寄せください
*本『通信』は無料、複製は大歓迎です
*ご連絡は〒501-11岐阜市西改田字川向 藤田敬一まで。

『朝日ジャーナル』2/12号『部落解放同盟の「差別思想の上塗り」説に答える『同和はこわい考』論議の渦中から』藤田敬一