「同和はこわい考」通信インターネット版
 部落問題(同和問題)について
■ 「被差別部落」とは
 江戸時代(1603〜1867年)の日本においての身分制で、賤民(せんみん)身分に置かれていた人々が居住していた地域もしくはその集団です。
 現在の被差別部落の直接の起源は、中世荘園(しょうえん)制の下での河原者(かわらもの)と言われていますが、1016(長和5)年の京都に「河原人(かわらびと)」と呼ばれる死んだ牛馬の処理を行う集団が、「牛黄(ごおう)」という非常に貴重な牛の胆石(たんせき)の漢方薬を取り出して持ち帰ったという文書があり、その時既に高度に専門化した技術者集団であったと見られています。
 それ以前の古代律令(りつりょう)制の下での「五色(ごしき)の賤(せん)」と呼ばれる賤民は、延喜(えんぎ)年間(901〜923年)の「奴婢(ぬひ)解放令」で公奴婢(くぬひ)は廃止されました。私奴婢は対象外でしたが、これらの身分制度はそれ以降崩壊(ほうかい)し、それ以降の河原者との関係を示す史料は見つかっていません。
 江戸時代の賤民部落には、穢多(えた)部落、非人部落、隠坊(おんぼう)部落、夙(しゅく)村など、様々なものがありますが、一般的には穢多部落を指すことが多いようです。
 江戸時代の非人身分は一般に、一代限りと言われていますが、隠坊(火葬場や墓の番人)部落、夙(街道の警備、寺社の清掃など)村などの中には、身分は非人だが代々隠坊を引き継ぐ世襲(せしゅう)制の部落もあったようです。
 当時の職業は、皮革業、死牛馬処理、寺社清掃、警刑吏(けいけいり)、葬儀、屎尿(しにょう)処理、伝統芸能など、多種多様でしたが、いずれかの専業はむしろ少なく、通常は農作業などで農民の仕事と変わらず、何か起きた時や年のある一定の期間、従事する仕事も多かったようです。
 寺社清掃、警刑吏などは年貢を納める変わりにそれぞれの部落の分担として行われたり、年末年始、まつりの時などに門付け芸能を行う部落もありました。
 当時の制度的な扱いは様々で、地域によりずい分違いがあったようです。
 また、江戸時代であっても、他の身分との交流、移行や通婚がかなりあったことも知られています。
 1871(明治4)年のいわゆる「解放令」の発布以降、制度としての「賤民」はなくなりましたが、実態としての「賤民」はなくなりませんでした。

■ 「同和地区」とは
 「被差別部落」と同じような意味で使用されることが多いのですが、「同和地区」とはいわゆる「行政用語」で、1969(昭和44)年施行の「同和対策事業特別措置法」(同対法)の「対象地域」を意味する言葉です。
 したがって、「対象地域」ではない「被差別部落」は「同和地区」ではなく、「未指定地区」と呼ばれています。
 「同和」の語源は、「同胞一和」「同胞融和」の略、あるいは昭和天皇の即位の際の勅語の「人心惟(こ)レ同ジク民風惟レ和シ汎(ひろ)ク一視同仁ノ化ヲ宣(のたま)へ」から来ていると言われています。
 「同対法」から「地域改善対策特別措置法」(地対法)、「地域改善対策特定事業財政特別措置法」(地対財特法)となり、期限延長で存続してきた法律が2002年3月末で期限切れとなって以降は、法律の「対象地域」はなくなったものの、「同和地区」だったところは存在しており、「旧同和地区」「元同和地区」では、現在は差別を受けない地域であるかの様な印象を与えるため、行政の統一した呼称は決まっていないようですが、何故か「被差別部落」という言い方は決してしません。
 「同和地区」の認定方法は、一般に行政の「被差別部落」の実態調査を元に、住民による申請で決まるようですが、住民申請によらず、行政が一方的に決めたところもあり、一定していません。
 法律の対象となる人(同和関係者)の認定方法も一定しておらず、「対象地域」に住んでいる人を対象にするものを「属地主義」、「実態調査」時点で対象となった人が対象となる(対象地域を離れても対象となる)ものを「属人主義」、「対象地域」に住んでいて「実態調査」の対象となった人が対象となるものを「属地属人主義」と言います。

■ 部落民とは
 被差別部落に居住したことがある人とその子孫、もしくは現に居住している人です。
 しかし厳密な基準があるわけではありません。
 現在の被差別部落でも、少なくとも明治時代から代々住んでいる居住者は、20〜30%に留まると見られています。
 日本では一般的に家父長制(男系男子が相続)がとられているため、被差別部落の女性が一般の家に嫁(とつ)いだ場合は部落民とみなされなかったり、被差別部落の出身であることを子孫に伝えなかったり、江戸時代の後期から明治時代にかけて、家系図の売買や養子縁組が多々なされていたことを考えれば、厳密な定義はほぼ不可能と言えます。
 先に述べたように、「同和関係者」の認定方法は、地域によって異なるため、「部落民」とは必ずしも一致しません。

■ 部落差別とは
 平安時代の日本では、仏教的価値観と結びつき、当時の法令「延喜式(えんぎしき)」に象徴的に見られるように、「ケガレ」に対する極端な恐怖がありました。特に死や病気に対する触穢(しょくえ)思想が広がり、それを避けるためもあって「ケガレ」に関することも、それを「キヨメ」ることも特定の技能者集団が行うようになりました。
 現在にも残ったそのような賤視(せんし)観念に基づいて、被差別部落や部落民を様々な社会生活で忌避(きひ)もしくは排除、侮辱(ぶじょく)することです。
 近代以降、誰でも平等に暮らせることを目指している社会では、部落差別がそのさまたげになることは言うまでもありません。
 しかし「部落差別であるかどうか」は、言動に対する評価の問題であり、「おいしい」「美しい」のように絶対的な基準があるものではなく、状況により異なる可能性があるものです。もちろん、かつて「部落民が差別と言ったら、ポストが赤いのも差別か?」と揶揄(やゆ)されたように、判断する資格を被差別民のみが持っているわけでもありませんが、差別を受けた人の痛みをわかる事は大切なことであり、平等の大切さを理解するために重要なことです。
 一般的には「部落差別かどうか」は、主観的な基準や現場での力関係で決められることが多く、定義がずれたまま論争されたり、誤った認識・言動があっても訂正を受け付けなかったり、不毛な論争や混乱を引き起こすことがしばしばあります。

2006.4.4.文責:管理人