同和はこわい考通信 No.99 1995.10.19. 発行者・藤田敬一

《 論考 》
部落を名乗る意味-畑中敏之著『「部落史」の終わり』を読んで
住田 一郎
(1)
 被差別部落を校区に持つ小中学校での部落問題学習において、被差別部落や部落出身者の「特定」は避けることはできないとされ、これまで部落解放教育の中心に被差別部落と出身児童・生徒がえられてきた。部落差別問題の顕在化である。ただ、顕在化のみがあたかも至上命令のごとく教育現場におろされた結果、教育的配慮にかけた、あまりにも稚拙な教育実践(「部落民宣言」や差別・被差別の機械的色分け、部落出身児童・生徒の別格化等々)が横行したのも事実であった。しかしながら、このような弱点が見られるとしても、地域社会に生き続ける部落差別問題(私は決して差別・被差別状況を絶対化する立場をとらないが)は、基本的には顕在化することによってしか解決しないと考えている。生き続けている部落差別の現実(主として被差別者が背負いこまざるをえなかった)を、三代もすれば解決すると静観したり、無視する(積極的に関わらない)ことが部落問題の解決にとって望ましいとは思わないし、そういう立場をとらない。
 私は被差別部落住民が自ら「部落を名乗る=カムアウトする」ところから部落問題との主体的な対峙が始まるとすら考えている。特に、特措法26年の同和対策事業実施後の現在ではますますこの感が強い。なぜなら、特措法によって、おおむね物と物との関係(劣悪な生活環境等)は大きく改善されてきたが、人と人との関係から生み出される部落差別問題の解決には程遠く、むしろそっとしておく、積極的には関わらない課題とされ、人々の内面におりのように張りついてしまっているように思えるからである。澱のように張りついているかぎり、部落差別問題は素通り可能な他人事であるが、澱が撹拌されない保証はないのである。澱は撹拌されなければならない。そのためにも、地域社会における部落差別問題での対等で自由なコミュニケーションの場が途絶されてはならないのである。
 大阪市内の被差別部落は判で押したように、解放会館や他の公共施設、住宅がすべて鉄筋化された外観を持っている。「今日における被差別部落の象徴になっているこの事実を、あなたはどのように考えているのか」と、運動を始めてまもないある被差別部落の活動家に聞かれたことがある。彼の疑問は、一目でわかってしまう住環境・景観に地区住民は異を唱えないのか、というものであった。彼の居住している被差別部落は都市近郊の住宅街として混住が大幅に進み、被差別部落住民の生活も安定していることからか、被差別部落であるしるし(象徴)を目立たせないように苦心しているらしい。彼自身も大阪の有り様に反対なのである。わざわざ部落を明らかにする必要はないとの理由から。だが、この地域でも同和対策事業に関わる個人給付も含めた施策はすでに長年実施されているのだが…。ここでは、「部落を名乗る=カムアウトする」ことなど問題にもならず、先の質問となったらしい。私たちにとってあまりにも「自明」とされてきた被差別部落の街づくり計画への根源的な疑問だけに、私は一瞬戸惑ってしまった(質問者が活動家であったことも大いに関係しているが)。彼が言うように、我が町住吉は結果的に被差別部落を「強調する」かのような外観を呈している。もともと居住面積が著しく狭い被差別部落の街づくりで、分散居住をいさぎよしとしないなら、鉄筋の集合住宅の建設以外に快適な居住空間を確保することは不可能であった。たとえ結果的にそれが被差別部落のしるしとなっても、である。しるしは、あくまでもしるしでしかない。しるしをしるしたらしめてきた被差別状況を打開することなくして、しるしを攻撃しても意味がないのではないか。一目で私の住む地域が被差別部落とわかったとして、それがなんなのか。むしろ、私はしるしを部落差別が解決してもなお大切にしたいとすら考えている。「ああ、あの地域はつい最近まで被差別部落として差別されてきた街だよ」と、人びとの話題となる形で。過去の歴史的事実を抹殺することができないように、人びとの記憶もまたむりやり消すことはできず、徐々にしか消えないものであろう。
 銀行に勤める解放同盟支部の女性幹部が自分自身の職場での体験として、支部大会で次のように語ったことがある。

開店と同時に入ってきた一人の男性客が、お辞儀をして迎える女性行員が何かの弾みでボールペンを落とし拾おうとした、その瞬間をとらえて大声を張り上げた。「そのお辞儀の仕方はなんだ。おまえは俺が部落民と知って手を抜いたのか」と怒鳴ったのである。一瞬店内は沈黙、いち早く駆け付けた上司が平謝りに謝り、その場はなんとか収まった。しかし、納得しないのは当の女性行員やその同僚たち。休憩室で「なんで私にあの人が部落民だとわかるの。ただ、ボールペンを落としただけやないの。いいがかりもいいとこよ」と話しながら、そばにいた、日頃から部落出身であることを明らかにしている私を見た。私は彼の理不尽さが恥ずかしくて何も言えなかった。

聞きながら、私はなぜ彼女は一言も話せなかったのか疑問に思った。彼女は同僚の女性行員に「なんと理不尽な人がいるものね。部落と名乗っていたけど、部落か部落でないかはまったく関係ないのに、なんであの人は部落と名乗ったんやろ。部落と名乗れば、ことが思うようにいくと思ったんやわ。部落=こわいを利用したとしか思えない。もしあの人が部落民なら、私は部落民として恥ずかしい」ぐらいは語ってほしかった。このような場面でこそ避けるのではなく部落問題についての自然な対話を維持してほしかった。
 我が家では、子どもたちと比較的自然に部落問題についての会話がなされている。この会話を土台に子どもたちが部落差別問題への自らの処し方を形成してくれることを、私たち夫婦は願っている。また、子ども自身が友人に自分が部落出身である事実を機会を見つけて明らかにし、その上で部落問題についての自らの思いや考え方を積極的に提起し話し合ってほしい。誰に強制されるのでもなく、自らの内面からの〈突き上げ〉に応えるかたちでカムアウトすることを、私たちは子どもにつよく望む。それは30数年前の、私が中学3年時の体験に基づく見解でもある。我が家の狭い中二階部屋で他地区の二人の友人に自分が部落出身者であることを語った。何がそのきっかけであったか今は思い出せない。深刻な告白でなかったことだけは確かであるが、カムアウトし、稚拙な部落問題認識を駆使して彼らと差別問題について真剣に語り合ったすがすがしい体験が私にはある。解放教育は言うまでもなく、同和教育すらまったく行われていなかった時代であった。その後、部落差別問題を考える上でこの体験から貴重な事柄を学んだと、私は思っている。私のカムアウトに真剣に応じてくれた他地区の友人がいることから、「部落民以外はすべて差別者である」との根強い呪縛から解き放たれたのである(もちろん、当時の私がその意味を完全に知ることなど思いもよらないが、確かに一条の光をそこに見たのも事実なのだ)。
 私の勤める西成労働福祉センターは日雇労働者の街釜ケ崎にある。現在の仕事は彼ら日雇労働者を建設現場に紹介する業務である。窓口のカウンター越しに紹介業務の合間をぬって彼らとたわいない世間話や身の上話をかわし、建設現場のレッスンを受けている。ある時、初老の労働者に「あんたと俺とは兄弟や」と名乗られた。まったく面識のない労働者なので驚いた。私が部落出身者であることは狭山再審棄却時に抗議の意味をこめて一月間、職場に手製のゼッケンを付けて通勤したことによって明らかになっている。その後、明らかに被差別部落出身者と思われる数人の労働者から親しく声をかけられたことがある。つい最近、彼は自分の出身地である愛媛の被差別部落について初めて語ってくれた。ところが、カウンター越しに語りながら彼は絶えず周囲の様子をうかがい、落ち着きがない。他の労働者が仕事のことで割り込むと不自然に口をつぐんでしまう。何回となくそれを繰り返す彼の態度に、「この人は自分が被差別部落出身であることを他の労働者に知られるのがいやでそれで再々口をつぐむのだ」と私は考えた。確かに、それも事実かもしれないが、彼の本音はセンター職員である私が被差別部落出身である事実を他の労働者にさとらせたくないというところにあった。彼の気遣いの現れであった。彼にとって「部落を名乗る=カムアウトする」ことはとことん追いつめられた上での選択(窮鼠、猫を咬む式の)であり、決して自ら積極的に名乗るものではなかったのである。私にとっては何をいまさらという感じであるが、彼は真剣なのである。彼のこの行動を規定しているのは、被差別部落を数十年前に飛び出してきながらも、飯場(大半は在日韓国・朝鮮人や被差別部落出身者が経営している)生活や建設現場での会話や人びとの態度から被差別部落出身者である自分と絶えず向き合ってきたことによっている。彼にとって被差別部落はマイナスイメージでしかない。まさに部落差別の呪縛から彼は抜け出せないでいるのである。

(2)
 前置きがあまりにも長すぎた。私がこだわっているのは、今日ただ今の被差別部落住民の部落差別問題との向き合いかたである。先に記述したように、向き合いかたは様々である。だが、好むと好まざるとにかかわらず、被差別部落住民が自らの生き方を通じて部落差別問題と向き合うことを強いられている点では共通の土俵上にある、と私は考えている。
 ところで、畑中さんは著書『「部落史」の終わり』(かもがわ出版)で系譜論につながる被差別部落「史」把握の間違いについて大胆に問題提起する。近代の部落差別問題は近代社会そのものが生み出したものであり、明治以降の被差別部落は決してそのまま近世社会のエタや皮多身分の系譜ではない。被差別部落が近代社会において差別される原因を彼らの祖先が生きたそれ以前の生活の有り様に求めるのはナンセンスである。封建社会には部落問題はなかった。にもかかわらず、連続した被差別部落の歴史として「悲惨さの強調史観」や、それと闘った「輝かしい抵抗史観」、それらと違った「文化的栄光=誇り史観」が提起され続けてきた。しかし、それらを系譜的に追ったところで近代社会における部落差別問題の理解と解決にはまったく結びつかない、と彼は言い切ってしまう。同時に、これまで根強く受け入れられ、今日もなお影響力を持つ部落差別問題=封建遺制論にも鋭い批判を浴びせるのである。非常にすっきりした論理立てで納得するところも大なのであるが、一体系譜論を抜きにした被差別部落問題はそもそも存在するのか、との疑問が残ったのも事実である。
 彼は系譜論にしがみついているかぎりダメだと強調するが、私たち被差別部落住民にとってのルーツは決してどうでもよいことではない。もちろん、祖先のあれこれの有り様に一喜一憂するために探るのではない。私たちのたかだか三代前の祖先が明治時代の始まりとともになぜ被差別部落を形成させられたのか。近代社会の構造そのものにその原因を見いださねばならぬとして、我々の祖先が被差別部落とされた必然性は何か。降ってわいたり、まったくの偶然にすぎなかったとの答えでは何も明らかにしたことにはならない。皇族・華族制度の貫徹された明治の社会は近世社会における身分制を大転換しながらもそのエッセンスを維持した点では異ならないのではないか。その重点のおき方に近代社会の構造的特徴が見られるだけではないのか。近世社会と近代社会との関係が完全な断絶でないかぎり、我々にとって理解しやすい説明は旧エタ・皮多身分につながるとの系譜論に違いない。歴史的客観的事実としてこの系譜論がまったく成り立たず、歴史の歪曲だと言われるならまた話は別なのだが…。少なくとも私にはそれが歪曲であるとは思えない。たとえば、早い話が古地図におけるエタ・皮多村の記述が部落差別として激しく糾弾された事実があった。糾弾の根拠はまぎれもなく古地図の記述と今日の被差別部落の居住地との一致にあったのであるが、この事実を畑中さんはどのように解釈されるのか。こうした疑問が、私にはある。
 この小論では著書全般について私の感想を展開することはできない。そこで、私の問題意識に引き付けながら、被差別の側から見た系譜論なり、「部落を名乗る=カムアウトする」ことの現実的意味について意見を述べたい。
 まず系譜論である。私は前述したように客観的な歴史的事実としての系譜論は成り立つと考える。近代天皇制社会において、被差別部落は忽然こつぜんと生み出されたものでは決してない。何らかの近世社会からの〈引き継ぐべきもの〉なくして被差別部落の成立はなかったであろう。ただ、畑中さんが言うように近世社会に差別されていた自明の存在としてのエタ・皮多身分がそっくりそのまま近代社会に引き継がれたとは私も考えない。旧エタ・皮多身分だったことを原因として近代社会における被差別部落の形成を説明することは確かに本末転倒した議論である。近代社会における部落差別問題の原因は当の近代社会のなかに求めなければならないからである。たんなる封建遺制で部落差別問題のすべてを解釈できるわけではない。しかし、だからといって私たちのルーツとしての旧エタ・皮多を探ることすら意味がないとは言い切れないのではないか。畑中さんは系譜論に縛られるかぎり部落差別問題の今日的解決はないとも述べている。が、この場合は明らかに次元の違う事柄の混同が見られるのではないか。先の古地図を見るまでもなく、私の部落は近世後期の竹の皮の高騰をめぐる騒擾事件を示す古文書にエタ村として存在した事実が確認できるのである。社会の大激動がなかった明治維新後の近代社会ではエタ村はそのまま被差別部落として存在したし、それを取り巻く地域社会の人びとの意識のなかに確実に烙印らくいんされた現実なのである。たとえその烙印が共同幻想であるとしても、人(被差別部落)と人(他地区)との関係において生き続けてきたことは否定できないであろう。だからこそ、私は自らのルーツが旧エタであることを積極的に背負いこむべきだと考える。客観的事実の範囲において、エタであってなぜ悪い、と。旧エタの系譜に属するから差別されても致し方なし、と今日誰が部落差別を正当化することができるのか。私が被差別部落の系譜にこだわるのは、近世後期以後にしても150年に及ぶ被差別状況が当の被差別部落住民に与え続けてきた影響の大きさに気づかされたからである。それは一言で言うなら、被差別の閉鎖社会を強いられた被差別部落住民の不本意ながらも背負わねばならなかった〈文化的いびつさ(貧困の文化)〉である。差別されることの理不尽さとは、被差別者に〈文化的いびつさ(貧困の文化)〉をもたらす(強いる)ところにある。私はこの〈文化的いびつさ(貧困の文化)〉を、具体的に今日における被差別部落住民の〈内面的弱さ〉として捉え、それと真正面から対決することなくして部落差別からの解放はないと提起してきた。もちろん、被差別部落住民に〈文化的いびつさ(貧困の文化)〉の責任があるわけではない。がしかし、その克服の努力を被差別部落住民以外の人びとが肩代わりできないことも自明の理である。私が系譜にこだわるのは、この〈文化的いびつさ(貧困の文化)〉の正体を明らかにしたいがためなのである。
 次に、「部落を名乗る=カムアウトする」ことに移ろう。畑中さんは著書のなかで小笠原政子さんの手記から

私は地区出身という意識も地区出身でないという意識もなく、ひたすら人間らしくとねがって生きてきました。決して部落差別におびえ苦しんで卑屈に生きてきてはいません。(中略-住田)/私は私なりに人間としての誇りをもって堂々と生きて来ているつもりです。他人が一私人としての私の生い立ちを暴露しそれをもとにして私の生き方まで指図するということは絶対に許せません。

の箇所を引用し、「小笠原さんの父親は、いわゆる「被差別部落出身者」であるが、小笠原さん自身は、「部落」に生まれてもいないし育ってもいない。小笠原さんが「部落民宣言」を拒否したのは、そもそも自分が「部落民」であると認識していないからである。父親が「部落民」であればその子どもは「部落民」であるなどという不条理に対して、小笠原さんは闘っている」と指摘する。
 引用されている手記の後半部分については、私も基本的に賛成なのだが、前半部分については大いに異論がある。手記を素直に読み取るなら、彼女は部落出身である事実をまったく知らなかったことになる。父親が部落民である事実もまったく知らなかったのか、その事実は知っていたが、父は部落民だが自分は部落民ではないとの認識だったのか、明らかでないので批判は差し控えざるをえない。がしかし、彼女の父親がまぎれもなく被差別部落出身者であるなら、彼女に部落民・非部落民を選択する「自由(意味)」はない。部落差別問題はそもそも共同幻想に基づく人と人との関係性の上に根強く成り立って来たのである。まさに部落差別は主観を超えた客観的事実として存在しているのである。奴隷が奴隷である自らの立場を認識するとき、もはや彼はなかば奴隷でないように、被差別部落民は自らを被差別部落民として客観的に位置付け認識するとき、もはや被差別状況から解き放たれているのである。特殊な課題(部落民の解放)を普遍的な課題(人間解放)で覆い隠すことはできない。特殊な課題のなかにこそ普遍的な課題が見いだされるのである。小笠原さんの認識方法には逆転が見られるし、彼女の部落問題に対する〈無知〉は何によっているのか。現代社会における部落差別状況によっているのではないのか。また、畑中さんのコメントに、「「部落民」の子どもは「部落民」であるなどという不条理に対して、小笠原さんは闘っている」とあるが、小笠原さんはいったい何と闘っているのか。部落民の子は部落民という関係が不条理なのではなく、被差別部落民としての存在そのものが不条理の始まりなのである。彼女が真に闘う相手は被差別部落の存在を成り立たせている社会状況そのものではないのか。しかも「部落民」として。
 「部落を名乗る=カムアウトする」ことが、これまでの部落解放運動においてすべての場合有効であったとはかぎらない。むしろ、カムアウトすることによる弊害も大きかった。私的利益や運動側の実利を引き出すこと、対話を途切れさせることだけを狙ったカムアウトがそれであった。しかし、私が提起するカムアウトは被差別部落民としての自己の存在をかけた、人と人との相互理解を深めるためのものである。「部落を名乗る=カムアウトする」ことには、確かに手あかにまみれた部分が見え隠れしているが、その部分を止揚することでカムアウトの新たな地平を築かねばならないのである。
 人と人との関係の上に成り立つ部落差別問題の解決には藤田さんが提起した《両側から超える》真摯な営みが今ほど必要なときはない。しかも、誤解を恐れずに言うなら《両側から超える》営みの第一歩を踏み出すのはまぎれもなく被差別部落の側であると私は確信している。被差別部落民のカムアウトなくして部落差別問題について対話が成り立つのか、どのような展望が見いだせるのか。
 畑中さんの著書を読みすすめながら私の脳裏を絶えずよぎっていたのは、「部落を名乗る=カムアウトする」こととの関連性であった。彼の狙いである「部落史」の終焉や部落の起源論の不毛性の提起からすれば、私の問題意識がどのように関わるのか心もとない。しかしながら、今日ただ今の部落差別問題を考える上で、一方の当事者である被差別部落住民が自ら「部落民を名乗る=カムアウトする」ことの意味は重要である。この視点から改めて被差別部落の歴史をひもとくことも必要ではないかと考えるのである。

《 お知らせ 》
○『こぺる』合評会───いずれも午後2時、京都府部落解放センター2階。
 10月28日(土) 10月号の中村 勉さん「『綱領改正案』の議論に先立つもの」
         を中心に。中村さんも出席してくださいます。
 11月25日(土) 話題提供者:住田 一郎さん「部落を名乗る意味」

○「藤田敬一さんを囲んで───『同和はこわい考』通信百号おめでとう会」
  呼びかけ人:師岡 佑行
  日 時:11月25日(土)午後5時(『こぺる』合評会終了後)~7時
  場 所:がんこ三条本店(京都・三条通木屋町東入る北側。075-255-1128)
  会 費:5000円
  申込み:こぺる刊行会(〒602 京都市上京区寺町今出川上る4丁目鶴山町14
      阿吽社内 TEL 075-256-1364 FAX 075-211-4870)へ11月15日までに。

《 川向こうから 》
★今号は、住田さんの論考を一挙に掲載しました。「部落民とは何か」というテーマを含みつつ「部落を名乗る意味」へと思索が広げられています。じっくりお読みください。次号は、津田ひとみさんです。

★このところ、こらえ性がなくて。先日の『こぺる』合評会で、強引な合評会運営をやり、それを批判されるやカーッとなってトンチンカンなことを口走ってしまいました。出席しておられたみなさんには心からお詫びします。あとで住田さんにたしなめられて落ち込んでいたら、友人からこらえ性がなくなっているのは老化の表われと、これまたきつい一発。老化のせいもあるんでしょうが、ちょっと傲慢になっていたかもしれません。自戒せざるべけんや、の心境です。

★さて、『通信』も次号で百号。そこで師岡佑行さんが上掲「お知らせ」にあるような集まり計画してくださいました。いつもの“天狗の会”を横取りするようで心苦しく、また面映ゆくもありますが、思い切ってお受けしました。あしからず。形式ばった会にはならないはず。愉快にやりましょう。

★本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)

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