同和はこわい考通信 No.98 1995.9.16. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
長谷川初己さんの死去を悼む
師岡 佑行
 九月四日午後、長谷川初己はつみさんが心筋梗塞で亡くなったとの電話が旅先のわたしを驚かせた。五四歳だった。まだ若い。若過ぎる。いまの世界にいくまえから、糖尿病がかなり進み視野がせばまっていて、このままでは盲目になってしまうから気を付けたほうがいいですよ、と忠告したことを思い出した。心臓が悪いとは知らなかった。たぶん、余病がなければ倒れることはなかったはずだが、糖尿があったために支えきれなかったのだろうか。
 わたしが部落解放運動にかかわるようになったのは一九六〇年代末だったが、長谷川さんと知り合ったのもその頃だった。同対審答申が出、同和対策事業特別措置法が制定され、さらに狭山闘争が本格化した時期である。大衆闘争としての運動を築きあげようとしていた幹部のひとりに泉海節一さんがいたが、長谷川さんは泉海さんを局長、局長と呼んで師事していた。長谷川さんと改まって呼ぶことは少なく、初己さん、ハッチャンと呼ぶことが多かった。
 ある日、長谷川さんが青年といっしょに矢田部落の近くの市営住宅にあったわたしたちの住まいを訪ねてきた。本棚から一冊を抜いてしばらく目を通していたが、これなんのことですか、とたずねた。「棄材」という文字である。「世ニ棄材ナシ」、世の中にはどんなものでもなにかの役に立つはずであって、不要なものはないということです、萩生徂徠という学者の言葉ですよ、と説明した。ふーん、どんなものでもなにかに役立つことがあるということですか、ええ言葉ですなあ、やはり勉強せなあきません。自分自身にも青年にも言い聞かせるように初己さんは言った。よく運動家たちが訪ねてきた。だが、本棚の書物にこのような関心を示されたのはあとにもさきにも、このときだけであり、初己さんのことが思い出されると、自然に「棄材」の文字が浮かんでくるようになった。
 中国革命に共感していたわたしたちは、毛沢東の著作などの学習会をよく開いた。初己さんは難なく読みこなした。しかし、はじめからそうだったわけではなかった。義務教育も十分に受けていなかった初己さんは、一字、一字をひとつづつ覚えなければならなかった。そのために自分で自分用の辞書をつくった。そまつなノートでつくった手製の辞書を引きながら新聞や雑誌、本を読みすすめたのである。
 九月三日、旅先の隣保館の一室で、わたしは活動家や先生、保母さんたちが、子供会をどうつくるかについて熱心に議論するのを聞いていた。以前と違って子供会の集まりが容易にもてず、誰もがいらだっているようにみえた。そのとき、フトわたしはこの辞書のことを思い浮かべた。やりたいことが出てきたら辞書だって、自分でつくって本を読むようになる。そうした人を知っています、とわたしは発言した。子どもたちのほんとうにやりたいことが子どもたちにも、おとなにも見つけられずにいるように思えてならなかったからだ。だが、長谷川さんが辞書を自分でつくったことをこのような集会で話したことは一度もなかった。それにしても、どうして初己さんのことがひらめいたのだろう。このとき、すでに初己さんは瀕死の床にあって、生死の境をさまよっていたのだが、もとより知るべくもなかった。
 歴史を明らかにするとは、無作意か作意かを問わず、消え失せてしまいがちな記憶を記憶としてとどめ、蘇えらせることである。狭山闘争は戦後部落解放運動史の重要な一ページには違いない。この狭山闘争を底のところで支えたひとりが長谷川初己だった。東京高裁での有罪判決の日、怒った参加者が暴走したとしてもふしぎではなかった。闘争本部に直属する行動隊がかんどころを押さえたからこそ、あわやの暴発を防ぐことができた。現場の実際の指揮者は中央オルグだった長谷川さんであり、その統率のもとに長谷川さんの出身部落である浪速支部の青年部と行動隊の働きは大きかった。
 石川一雄氏にたいする判決は無期懲役、闘争は敗北に終わった。
 それにしても解放運動として長谷川さんの労に報いて当然であった。当時、長谷川さんは大組織である解放同盟浪速支部の書記長であり、ハッチャン、ニイチャンと呼ばれて信頼を集めていた。だが、狭山闘争の山場である高裁判決を前に、全国行進に参加したり、狭山現地での集会やあいつぐ公判闘争に暇がなく、地元でトラブルがおこっているという知らせが入っても、長谷川さんはゆっくりした状態で戻ることはできなかった。東京から帰ったその長谷川さんを待ち受けていたのは紛争であり、とどのつまりは除名処分であった。
 住居を京都に移し、有志でつくった部落解放中国研究会の事務局を担当することとなった。七〇年代後半から八〇年代にかけて同和対策事業が本格的にすすみ、莫大な予算が投下されるに及んで、さまざまな問題が発生した。各地の有志から相談の電話が時間を問わず事務局に入った。どんなにおそい時間でも長谷川さんは自分で電話に出た。どうでっか、お元気でっか。まず相手の心をほぐし、落ち込まないようにする気遣いいっぱいの声。いまも耳によみがえってくる。そして、すぐに車を走らせた。組織問題が起こったある県にはわたしも同行した。深夜、山中で休憩のために車をとめると無数の星が手にとどくところでキラキラと光っていた。別の県では、長谷川さんは藤田敬一さんといっしょに無法者に襲われて暴行を受け、あやうく難を逃れるということもあった。
 中国研究会は「紅風」という機関誌を発行した。財政難から経費節約につとめた。印刷を自分たちでやることになった。ワープロやパソコンという便利なものが生まれる前であった。タイプライターを改良した簡易タイプライターを使うことになり、ほかの誰でもない、初己さんが自分がやるとかって出た。マニュアルを読み、使用法を覚え、原稿を見ながら印字していった。黙々とキーをたたいている初己さんの大きな肩が思い出される。「紅風」のバックナンバーのうち何号かは初己さんがうった。
 バブルに浮かれた時代、数兆円にのぼる予算が部落に投下された時代、部落解放中国研究会はその流れに立ち向かい、部落解放運動の利権、腐敗に抵抗した。ついには挫折を余儀なくさせられたが、この中研が数年にわたって続き、「紅風」を発行することができたのは若い有志たちの献身によるが、そのカナメに長谷川さんがいたことを忘れることができない。
 一九八〇年、解放同盟中央統制委員会は長谷川さんの除名問題を取り上げる運びとなった。統制委員長の米田富さんは除名は正当でないとの心証を固めたように見受けられた。全国の有志、そして青年たちが長谷川さんを支持して動き出した。京都岡崎の京都会館で集会が開かれた。ここも除名の不当性を訴える場であり、有志や青年がつめかけた。ところが、このとき長谷川さんがとった手段は奇襲であり、ある力を動かして除名処分に付した幹部を襲わせた。状況は一変し、除名は確定的となった。魔がさしたとしか言いようがない事態。なぜこんなことになったのか、河原町三条の喫茶店で藤田さんとわたしとは言葉もなく長い間、座っていた。
 いま、わたしは思う。除名を解くか、除名を最終的に確定させるかの二つの力が競い合って頂点に達した緊張に、長谷川さんは、それが自分にかかわるだけ、耐えられなかったのだと。万が一にも、有志や青年の間にけが人が出たら、おわびのしようもない。あのとき、長谷川さんの気持はこの一点に収斂していたに違いなかった。非情に徹しきることができなかったのである。
 藤田敬一もよく泣くが、長谷川初己はいっそう泣いた。あの大きな目を真っ赤にして涙をボロボロこぼす姿は忘れられるものではない。情の人なのだ。
 初己さんは、かつて振り捨てた世界に戻っていった。一度はとめることはできたが、今度は駄目だった。呆然としているわたしに、まだ健在だった妻笑子が言った。「初己さんがわたしたちに尽くしてくれたように、誰も初己さんに尽くしたものはいなかったわね」。

長谷川初己さんを送る
藤田 敬一
 長谷川初己はつみさんと言ってもご存じないでしょうが、『同和はこわい考』を注意深く読んでくださった方なら「あとがき」の次の箇所を覚えておられるはずです。

「部落民でもなく、現場も知らない大学教師、評論家、サロン談義家になにがわかるか」という人もいた。しかし、わたしは、わたしなりに部落解放運動の現状を打開し、全水創立宣言の思想をなんとか復権したいと念じ、大阪・浪速の長谷川初己さんなどと夢中になって各地をまわり、運動にかかわる文章を書いた。いま当時のものを読むと、えらく気持ちが高ぶっていて恥ずかしいけれども、一途な思いにとらわれていたことだけはたしかである。

ここに出てくる長谷川さんが、その人です。この10年は、顔を合わせることもなく、人づてに様子を聞くだけの間柄になっていましたが、70年代から80年代にかけての10年あまりは、いっしょに部落解放中国研究会の機関誌『紅風』の編集・発行にたずさわったり、各地をまわって運動の現状と課題について議論する集まりに出席するなど、長谷川さんとは一時期濃密な日々を過ごしたことがあるのです。
 『こわい考』の82頁に出てくる、山田和文「テレビ『ある問いかけ』を見て」は、長谷川さんが語ったものを、わたしが筆記して『紅風』48号(81/8)に載せたものです。『こわい考』に収録した沢井達造名の「運動の置き忘れてきたもの」(49号)「『とぎれる対話』をつなげるために」(52号)、今村謙次郎名の「部落外出身者としての私の思い」(50号)「対話が成り立つ条件とは」(56号)も、長谷川さんがパンライターでうってくれました。最後のものを書き上げたのは、82年4月初めの明け方近く。「このテーマは将来必ず議論の対象になるにちがいない」との確信を抱きつつ、岐阜中央郵便局まで車を走らせ速達で長谷川さんのところへ送ったことを、いまも鮮明に覚えています。長谷川さんは原稿を読んで、「ほんまや。ケーチャンの言うとおりや」と同意してくれました。思えば、長谷川さんからは「部落民でないものに、なにがわかるか」と言われた記憶がない。二人がある会に出席していたところを十数人の男たちに襲われ、村の長老の仲介で難を逃れたとき、帰りのフェリーの上で、「部落民であろうとなかろうと、闘うべきものとは闘わんとあかんなあ」とつぶやくと、目に涙をためてわたしの手をきつく握りしめてくれました。「両側から超えた共同の営み」を、長谷川さんとわたしとは、知らず知らずのうちに実践していたのです。
 二人は、よく似た性格で、感情の起伏が激しいだけでなく、一種完璧主義的なところがあり、また、自分と同じように感じ、同じように考えるよう人に求める性癖も共通していましたから、ときに気まずくなったこともあります。しかし、二人が一致していたのは、このままでは部落解放運動はダメになるという危機感であり、運動を中国革命で言うところの大衆路線に引き戻さなければという思いでした。だから、『紅風』には、同和対策事業をめぐる利権・腐敗・堕落を指弾し、右翼融和主義を批判する文章をたくさん載せました。それは、あの頃、長谷川さんもわたしも、運動の現状にたいする倫理的な批判に急で、運動が総体として同和対策事業に骨の髄までしゃぶられてしまいかねない情況にあることへの認識が薄かったことを示してもいると、いまにして思うのです。遅かれ早かれ挫折は避けられなかったと言えるかもしれません。
 その後、わたしは部落解放運動の枠組みを一から考え直すべく岐阜に閉じこもるようになりましたが、長谷川さんの運動と組織への失望は大きく、それは次第に絶望に変わっていったようです。絶望の淵で、長谷川さんが頼ったのは若い頃、足を踏み入れていた、ある「組織」でした。人間が好きでたまらない長谷川さんに残された場所が、そういう「組織」であったことに、わたしはいたたまれぬ気持になったものの、なんの支えにもなってあげられなかった。
 あれは1年ほど前でしたか、突然研究室に電話がかかってきたことがあります。ある人の電話番号が知りたいとのことでした。そのとき、「通信は、ちゃんと読んでます。がんばっとくれやっしゃ」と励ましてくれたのが、長谷川さんの声を聞いた最後でした。
 師岡さんもわたしも、長谷川さんが部落解放運動に戻ってくれるよう願い、師岡さんは手紙や電話でじかにそのことを長谷川さんに伝えたはずです。わたしも『通信』を送り続けました。しかし、長谷川さんには長谷川さんの事情があったのでしょう、とうとう運動に戻ることなく亡くなってしまった。ほんとに残念としか言いようがない。
 人の一生がすべてきれい事で満ちているわけがない。長谷川さんも同じですが、運動を離れたあと、わたしにはついぞナマの部分を見せたことがないのです。それが、長谷川さんの美学、わたしへの配慮だったかと思うと、切なさと悲しみがこみあげてきます。
 さようなら、そして、ありがとう、初己さん。

《 各地からの便り 》
 先生もご存知のとおり、そしてぼく自身の同推校における経験を通じ、この四半世紀、同和教育のメインテーマは「低学力の克服」でありました。こんどの第52回全国大会での解同の「解放教育確立の闘い」の方針を見ましても、「いぜんとした低学力の情況にみられる部落の教育実態を総合的に明らかにし今日の課題を解決するための制度保障を国・自治体に求めます。」の文言が見られ、この間、教育行政や、学校現場は何をしていたのか、のいらだちが言外にあらわれています。

なぜ、この間、低学力が克服されなかったのか。
多数の同和教育加配教員は何をしていたのか。
促進、補充学級、子ども会学習会、進路指導は無駄であったのか。

などなどのコトバが解放同盟の地元支部からぶつけられてきた二十数年間であり、いまもそれは変わっていない、との印象をうけています。
 ぼくのただいまの結論は、このような認識は的を外れていたのではないか、ということです。親や家族の生活が崩れて、あるいは地域の教育環境が崩れていて、はたして子どもたちは意欲に燃えて勉強するだろうか。
 公務員となって、のんびり生活している親や大人の姿を見て、子どもたちは、さらに向上心に富んだ人間になるよう努めるだろうか。
 「部落の子どもを中心に、部落の子どもに寄り添って」の同和教育の方針が、自立心に富んだ子どもをつくることになったのか、自らの力を信じる子どもに育てることになったのか」も、問われなければならないと思います。
 肝心なことは、高校進学率に数値的目標を置き、その内容の如何が根源的に議論されなかったことにあったと思うのです。新設の高校を解放同盟を中心とした運動でつくり、その教育内容を教職員と運動サイドの双方で自由に、対等に議論しつくり出した先例は別として、いわゆる大学進学率の高い高校をよしとするような風潮がなかったかどうか、そこが問題だと思うのです。
 「低学力克服」のメルクマールをどこに置くのか、新しい高校とは何か、高い人権意識を育てる高校とはどんな学校か、など新しい価値観をつくり出し、これを目標とした議論が必要であったように思うのです。
 部落解放運動のための人材づくりを目ざして、高い学歴をつけるよう馴育し、かえって運動から離れていく青年をつくり出してきたのではないでしょうか。
 それから、子どもたちひとりひとりを独立した、意欲を十分にそなえ得る人間であることを無視し、学習の時間を十分に保障し、教員が夜間も出かけて指導してくれれば「学力」は確実に上がるという「神話」が横行してきたことも「低学力」の現実克服への大きなブレーキとなったとの説に注目する必要があるように思います。
 また、さらに解明すべき問題として、「教職員人事と解放同盟の影響力」にも目を向けることが必要です。「ご無理、ごもっとも」「(何でも)ハイハイ」の面従腹背分子をつくり出し、それが校長、指導主事、あるいは同和教育研究会の事務局員となり、出世していく姿をつくり出して、これまで真面目に、まともに、要領は悪いが一生懸命やってきた教師たちを失望追い込んだことも、きちんと解明されなければなりません。
 いま、学校教育に対する改革の要請は、日に日に強くなっていますが、そのためにも、同和教育の内容、実践方法、教職員意欲の組織の仕方などが、大いに議論されなければなりません。
 勿論、同和教育の取り組み四半世紀の中には“光と影”の部分があり、影だけを大きくとり上げることは、不公平のそしりを招くおそれがあります。しかし、「低学力」の現状を克服するためには、なぜ20数年間もそのままでやってきたのか、失敗の原因を明らかにしなければなりません。その原因が明らかにされてはじめて、克服と成功への道すじが明らかになるのです。
 ぼく自身の根源的な自己批判もこめ、全国交流会への期待をこめて思いを綴った次第。書き殴りの乱筆、おゆるし下さい。  (京都 I.Sさん)

コメント.
 事情がわからないと理解しにくいかもしれませんが、「(部落)解放教育」に直接かかわってこられた方からの問題提起として貴重です。いま必要なのは、おのれの実践をふまえてこれまでの取り組みを検証することではないでしょうか。教員自身があっちやこっちに気がねしているようでは、話はいっこうに進まない。問題は、壁を打ち破る気概ですかね。

《 お知らせ 》
『こぺる』合評会
  9月30日(土)午後2時 京都府部落解放センター2階
  9月号(師岡佑行「古地図の復権」)を中心に。
  柏書房刊『慶長・昭和 京都地図集成』をご覧にいれます。

《 川向こうから 》
★長谷川初己さんが亡くなったと聞いて、お通夜に駆けつけました。わたしより2つ若い54歳。隣で師岡さんが「若すぎる。早すぎる。ハッチャンが、あんなところ(祭壇)にいたらあかん」と怒ったはる。師岡さんの気持が痛いほどわかりました。あの頃、初己さんといっしょに『紅風』をつくったなつかしい人びとと挨拶をかわすのですが、「こんなときにしか会えないなんて」という言葉しか出てこない。唯一のなぐさめは、4人の子どもさんたちが立派に成長しておられたことです。お孫さんがいて、初己さんがオジイサンだったことを実感。そんなわけで、今号は長谷川初己さんを追悼する内容になりました。

★8月20日、部落解放同盟大阪府連矢田支部主催の「敗戦後50年、平和を求め差別と闘った人々の意志を受け継ぐ集い」に招かれ、1時間ほど話をさせてもらいました。思いっきり話して、ということでしたが、1)豊かさの中味を考える 2)自分のことを、人のこととつなげて考える 3)人と人との出会いとつながりを、人間らしい血の通ったものにする 4)内にこもらず、開かれたつながりを、の4点を強調しました。そのあと、「ふれあい温泉矢田」に久しぶりにつかり、おいしいお酒をよばれたことは、言うまでもなし。

★9月2,3日は、奈良県連(山下 力委員長)主催の奈良県部落解放研究集会に第2分科会のコーディネーターとして参加。県連三役はじめ、これまでの取り組みのどこに問題があったのかを、率直に話しあいました。「暮らしをよくし、対等につきあい、対等に話ができるようになることが、みんなの願いだった。幹部はその先に部落解放を考えたが、そこにズレがあったのではないか」「運動に、人間としてという視点が必要だ」との意見もあり、「解放とはなにか」をめぐり、やっと自分の言葉で語る人が出てきたなとの印象をうけました。

★第12回部落問題全国交流会は、8月26,27日の二日間、百余名の参加者で開催しました。交流と討論という二つの性格をあわせもつ集まりだけに、不満を抱いたり、消化不良を起こした人もおられたようですが、「いろんな考え方をする人と会えてよかった」との同盟の活動家の感想が、わたしには一番うれしかった。

★最近読んだ本のことなど───近藤二郎『コルチャック先生』(朝日文庫)。新聞の記事によれば、この本をもとにした加藤 剛主演の演劇が評判らしい。医者であり作家であり、そして教育者であったヤヌシュ・コルチャック(1878?-1942)は、1942年夏、救出の申し出を断り、200名の子どもたちとともに強制収容所に送られた。人としてどう生きるかを、あらためて考えさせられる。/V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)。『夜と霧』の著者フランクルが1946年、強制収容所から解放された翌年、ウィ-ンの市民大学で行った三つの連続講演。「人間には、自由があります。自分の運命に、自分の環境に自分なりの態度をとるという人間としての自由があるのです。(中略)強制収容所で抗しがたい力をもつと思われた心の法則性のために『典型的な強制収容所囚人』に性格を変えられ、その法則性のいいなりになってしまった人にも、その人がそうしたのである限り自由があったのです。つまり、環境の力と影響を逃れて『法則性』に服さず抵抗し、『法則性』に盲目的に服従するかわりに『法則性』から逃れる自由があったのです。」運命・環境と人間の自由。あなたは、どう思われますか。

★本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)

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