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《 採録 》
部落解放運動-1994年(『平凡社百科年鑑95』)
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師岡 佑行
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細川・羽田両内閣が倒れ、自民党、社会党、新党さきがけ、三党連立の村山内閣が成立したように、政局はめまぐるしく動いた。この政情の下で、部落解放運動は、依然として部落解放同盟(解放同盟)と全国部落解放運動連合会(全解連)との対抗を主軸とし、全国自由同和会(全自同)が独自の取組みを進めるというかたちをとった。いずれも政党を背景にしているが、1990年代の部落がかかえている生きた課題から離れた運動形態に、一種の倦怠感がつきまとっているとさえ言える。
【基本法制定は見送りに】
解放同盟(上杉佐一郎委員長)は94年3月2-4日、福岡で開かれた第51回全国大会において、書記長に上田卓三を選出した。小森龍邦前書記長が再任されなかったのは、かねてから部落解放基本法制定を運動の中心にすえていた解放同盟主流が、細川護煕首相の政治姿勢に批判的な小森では、せっかくの機会を失うと考えたためであった。大会では細川内閣支持を決定し、基本法の制定を解放運動の最大に目標に置いた。
基本法制定を求める中央行動を数次にわたって進め、制定促進のために地方議会に対して部落差別撤廃、人権擁護の宣言、条例を制定する運動などを進めたが、与党三党が合意に達せず、見送られることになった。 解放同盟が主要な課題としてきた狭山事件では、6月に入って中井洽法相が石川一雄が仮釈放の手続に入っていると答弁、新聞にも報ぜられたが、12月21日、実現するに至った。 全解連(中野初好委員長)は93年12月に<憲法を守り、部落問題の解決を>と題するアピールを発表、引き続き解放同盟の求める条例、宣言の制定阻止の方針を示した。3月4-6日に開かれた第23回定期大会で確認し、運動の中心にすえた。全解連は、すでに解決しつつある部落差別を基本法や条例、宣言が固定する役割を果たすとの認識の上に立っている。 全自同(山田重則会長)は5月19日、自民党本部で第9回全国大会を開催、誰もが人権を尊重されることを目ざして人権基本法の制定を決議した。 解放同盟の主導する国際的活動は、反差別国際行動(IMADR)を国連のNGOとしての認定にこぎつけ、12月7日に大阪においてアジア・太平洋人権情報センター(金東勲所長)を設立するに至った。IMADRの認定をめぐる攻防で、解放同盟が全解連を告訴して始まった京都地方裁判所での裁判(1992年版参照)は、全者が告訴を取り下げ、終了した。
【基本法制定より新たな運動の展開を】
93年11月に解放同盟中央理論委員会が採択した<新たな解放理論の創造にむけて>と題する提言は、全国大会で決定した運動方針のなかに取り入れられ、かねてから大賀正行が主張してきた<特別措置法依存型の運動からの脱却>を目ざす第3期運動論が基調に置かれることになった。これによって部落の現状認識も、これまでの貧困の強調から改善を認める方向に大きく変わった。
この方針の具体化には、同和対策事業特別措置法施行以後の膨大な予算投下による部落の変化、その功罪の検証、解放運動にとってどのようなプラスとマイナスを生み出したかを明らかにし、当面している問題を見いだし、新たな運動の課題をすえるかが必要である。しかし、その動きはほとんどと言ってよいほど見当たらなかった。理由は、解放同盟が運動の中心を基本法制定にすえて、その取組みに血眼になっているところにある。数年にわたって最重要課題としてきた法制定の問題点は、法の性格を見きわめることなしに動き出しているところにある。 全解連の主要な活動は、基本法の制定を主要な課題とする解放同盟の運動に反対し、妨害することにあるとみられる。このため、ともに運動団体を名のりつつも、現在、部落がかかえている問題を見きわめ、課題として取り組んでいるとはとうてい言えない。解放同盟中央の路線に反発した部落解放同盟全国連合会は、部落の労働者を基礎に置く運動の構築を掲げているが、90年代の状況をはっきりととらえて運動の課題を設定する姿勢は見られない。 藤田敬一の《同和はこわい考》(阿吽社)は、差別する側、差別を受ける側の双方から部落差別をなくす取組みが必要だという、従来になかった見解を示していた。これに対して、解放同盟中央本部は運動に敵対するものとしてきびしく指弾してきた。その藤田と部落解放運動第3期論の提唱者大賀正行とが《こぺる》(94年8,9月号)誌上で対談を行って注目された。どのように運動を構築していくのかについて重要な提言がなされているが、法制定に目を奪われている幹部たちは、その意義を見落としている。
《 随感・随想 》
いま、部落解放運動のなにが問題なのか-雑誌『創』の匿名座談会を読む-②
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藤田 敬一
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1.
部落解放運動の路線転換が話題になっている。雑誌『創』の編集長・篠田博之さんも匿名座談会の企画意図について、
と語っていて、関心のありかがうかがえる。 路線とは社会運動の用語で、進むべき道筋、進め方といった程度の意味なのだが、幹部がテレビで物わかりのよいおじさんを演ずるのは論外として、部落解放同盟中央本部がこれまでの路線を転換させようとしていることは疑いない。 ところで1988年、わたしは少々落胆気味にこう書いた。
それから7年、ようやく部落解放同盟が動き出したということであって感慨深い。昨年、大賀正行さんと対談できたのもこうした動向と無関係ではありえないだろう。だから、わたしとしては最近の動向は歓迎こそすれ反対する理由はなにもない。もっとも、いまだにわたしを目の敵にしている人はいるけれども、いずれ真意はわかってもらえるものと考えている。 ただ、部落解放同盟が表面的なパフォーマンスの転換ではなく、運動の発想、理論、思想を大胆に転換しようとするのなら、これまで部落差別とは劣悪な生活実態だと主張してきた経緯から言って、被差別部落の実状をどう捉えているかがまず明らかにされる必要があるのだが、一昨年の理論委員会の『提言』にしても、昨年の運動方針にしても、そのあたりのことがアヤフヤで、腰が引けているように見え、路線転換の前途を楽観するわけにはいかない。 この2,30年のあいだに部落は住環境・仕事・教育などの面で大きな変貌を遂げた。生活文化、生活意識に変化が起こっている。かつて強調された共通利害に基づく共通感情、つまり共同体意識も稀薄になってきている。こうした変貌、変化のなかには、運動が追い求めたものもあれば、意図に反するものもあり、また時代の趨勢によって生じたものもある。いずれにせよ部落は経済の高度成長と同和対策事業の進展という未曾有の状況下で揺れ動き、変貌、変化してきた。ところが、この変貌、変化をかたくなに無視、軽視して、30年前の姿のままで現在を語る人がいる。これでは、路線転換など夢のまた夢でしかない。 さすがに座談会の出席者はそんなことは言わない。それどころか、Cさんは
と述懐している。活力とは運動のエネルギーのこと。それが枯渇してきているというのである。 運動には波がある。いつも高揚しているわけにはもちろんいかないが、自発性や集中性、緊急の重要問題に直面して発揮される瞬発的反応力は、その運動の活力を測るバロメーターだろう。しかし、当面の中心課題とされる部落解放基本法・反差別国際運動・狭山再審・綱領改正などをめぐる取り組みと論議の低調さを見ていると、Cさんならずとも運動に活力があるとはとても思えない。大人数の集会をいくら開いても、そんなものは運動の活力を意味しない。むしろ空洞化の象徴ではないかとすら考えるわたしは、Cさんの述懐に同意する。問題はその背景、原因である。
2.
Cさんはこう語っている。
そしてAさんもそれを補足して
と述べる。つまり人口の流出と活動家の高齢化が活力減退の原因だというのである。 安定した仕事についた層が部落から流出していくのは近代以来の傾向であって、なにも目新しくはないが、経済の高度成長と同和対策事業がそれを加速したと言える。最近では青年層だけでなく、中高年層、ときには幹部活動家のなかにも部落外に住む人が多くなりつつある。なによりも印象深いのは、部落から出ていくことに以前のような決断というか踏ん切りが必要でなくなり、出ていく人に非難のまなざしが投げかけられず、出ていく人の方でもそれほど後ろめたさがないように思われることである。明らかに部落の内と外の境界への人々の意識に変化が起こっている。 生活文化、生活意識の変化が、たとえば集会や会合のこと(いわゆる公)より、家庭や趣味のこと(いわゆる私)の方に関心が向くといった形で運動に影響を与えていることは否定できない。そして青年層の流出、青年活動家の減少は運動の将来を考える人にとっては重大な問題であるはずだ。しかし、それが運動の活力減退の原因になっていると断定するのはいささか安易な見方ではないか。その意味でDさんが
と指摘しているのは見逃せない。活力減退の原因を人口流出や活動家の高齢化などに求めるのではなくて、辛くても運動のなかに探すしかないのではないか。そうでなければ活路は見い出せないだろう。 Cさんが挙げているもう一つの原因は生活の安定である。
1950年代末から70年代中頃まで、みんな貧乏でハングリーだったので、空きっ腹の馬が鼻先にぶら下げられたニンジンに食いつくように施策に飛びついたら、その先に部落解放運動、部落解放同盟があった。ところが、「だんだん腹がふくらんできて」(106上)「生活レベルも上が」ったために(108下)、活力がなくなってきたというわけである。そうかもしれぬと思う一方、この説明に、わたしはどうしてもひっかかるものを感じてしまう。運動の進展と活力の減退の原因をあまりにも単純化、戯画化してはいないか。 わたし自身の反省を込めて言うのだが、特別措置法成立後の70年代初頭に運動に立ち上がった地域で、Cさんが指摘するような施策ほしさに組織を作ったところがあったことはたしかであるし、それが現在の運動に困難をもたらしていることも認める。しかし、食えないから、ハングリーだったから施策ほしさに運動に立ち上がったと言い切ってしまっていいのかどうか。よしんば家が欲しい、金が欲しい、仕事が欲しいという面が強かったとしても、そこには差別と向き合って生きようとする自覚への契機があったはずで、問われるべきは、そのような自覚への契機が生かされなかったことなのだ。では、なぜ生かされなかったのか。
3.
1965年、部落解放同盟第20回全国大会で決定された運動方針にはこうある。
いま読むと、文章が生硬で内容も公式的だが、これが要求闘争と部落解放との関連についての当時の考え方だった。人は要求闘争のなかで部落民としての社会的立場を自覚し、自らを解放の主体として形成するとされていたのである。 しかし、同和対策審議会の答申と特別措置法の制定、同和対策事業の実施という部落解放運動にとってこれまでに経験したことがない新たな事態の進行は、この定式を空洞化させるに十分だった。指導部はモノとり主義、改良主義、融和主義を警戒し、「解放が目的で、事業は手段だ」とくりかえし訴えたけれども、次第に「部落差別の解決は行政の責任だ」とか「同和対策事業の積み重ねが部落解放につながるはずだ」といった考え、発想が拡がるとともに、いつしか肝心の人間の問題は脇におかれてしまうことになる。 ある活動家が語った「部落解放運動は要するに差別と欲のともづれだ」という言葉は運動の思想を端的に示している。そこには人間を全体的に捉える視点は弱く、部落差別は物質的欲求を実現するための前置きの位置しか与えられていない。あたかも時代は高度経済膨張期にあたっていた。大きいこと、多いことはいいことだという風潮のなかで部落解放運動が事業の拡充を自己目的化し、気にはなりつつも人間にとって差別とはなにか、部落解放とはなにかを問い返す余裕をもたなくなったとしても不思議ではない。こうして部落差別と向き合って生きようとする自覚への契機を大切にする雰囲気が失われてゆき、気がついたときには、すでに克服されたはずの自然解消論、部落責任論、部落更生論が急浮上し、運動の存在根拠が問われるような事態に立ち至ってしまっていたのだ。 みんな貧しくハングリーだったから運動が高揚し、みんな腹がふくれ生活レベルが上がったから運動に活力がなくなったというのは一面の真実を含んではいるけれども、それでは部落解放運動の発想、理論、思想は問題意識の射程には入らず、窮乏化革命論(貧しければ貧しいほど革命が起きやすいという主張)と同じくニヒリズムに陥るだけだ。そうではなくて貧困と悲惨を前提にしてきたこれまでの目標、路線、方針、戦術が状況の変化に適合できなくなっていることにもっと目をむけるべきだと思う。 目標が定まり、その目標を達成するための具体的課題がはっきり見えるとき、身体に活力がみなぎってくることは、わたしたちの日常生活でよく経験することである。部落解放運動も同じで、活力がなくなっているのは、運動としての目標、課題が明確でなくなっているからである。目標は部落の完全解放だと言ったところで、解放の中身が不明確ではなにも語らないのに等しい。的が見えないのに矢をむやみに放っても消耗するだけである。活力減退の原因はここにある。 部落解放同盟中央本部は「新しい解放理論の創造」を掲げ、路線転換をはかろうとしている。それが状況へのすり寄り、小手先の計算にもとづく便宜主義やご都合主義のまぜ合わせであろうと、部落差別問題をめぐる変貌、変化への一定の対応であることだけは間違いない。甘いと言われようが、わたしはそこに部落解放運動の基本問題に関する開かれた論議が行われる可能性の芽を見つけたいと思っている。 ところが、いっこうに論議が起こりそうにない。中央本部の方針は組織の基層ではどのように受けとめられているのだろうか。
というのがDさんの見方である。基層の幹部たちが中央本部の方針を柳に風と聞き流しているとすれば、組織の求心力が弱まっているとしか考えられない。水平社以来73年の歴史をもつ部落解放運動だと言うのに、これはいったいどういうことなのか。(未完)
《 お知らせ 》
◇第23回『こぺる』合評会
5月27日(土)午後2時 京都府部落解放センター2階 5月号を中心に。 ◇第12回部落問題全国交流会「人間と差別をめぐって」 8月26日(土)午後2時~27日(日)正午 京都・西本願寺門徒会館
《 川向こうから 》
◆前号本欄に「面倒くさくなったのは老化の始まりか」という意味のことを書いたら「確実に老化は始まっている」と、わざわざ念を押してくださった方がおられます。もちろんよく自覚しています、ハイ。
◆先日、福岡県の京都郡に出かけてきました。下関の河豚を肴に一杯やりながらの歓談も楽しく、新しい友人とも出会え愉快でした。みなさんに感謝します。 ◆最近読んだ本のことなど──人に勧められて木村 敏『心の病理を考える』(岩波新書)を読んでいたら、恩智 理さんの原稿(『こぺる』5月号に掲載)が届き、それに誘われて中井久夫の『精神科治療の覚書』(日本評論社)や『記憶の肖像』(みすず書房)、さらには本棚に眠っていた笠原 嘉『精神科医のノート』(みすず書房)にまで手をのばしてしまった。精神分裂病を通して人間を考えようとする精神医学的人間学の魅力にひきつけられた。自己と他者を截然と分ける考え方をもう一度検討してみなければならないような気がする。 ◆本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎) |