同和はこわい考通信 No.91 1995.2.26. 発行者・藤田敬一

《 採録 》
書評・『部落の過去・現在・そして…』(阿吽社刊)
住田 一郎
 編集部からの書評の依頼に少し戸惑いをおぼえた。しかし、引き受けるなら躊躇することなく『部落の過去・現在・そして…』(1991年刊)にと決めることができた。しかも、詳しい内容説明や解説ではなく、何故読んでほしいのかのみに絞った一風変わった書評としてである。

日本人と在日朝鮮人との連帯を考えるうえでもっとも大切な課題は次の事柄です。双方の間に根強く存在している〈贖罪意識〉をいかに克服するかです。〈贖罪意識〉を前提に置いて人間対人間の対等な関係は作れるでしょうか。真の連帯は生まれるのでしょうか。私は不可能だと思います。対等な関係でしか人々の連帯は成り立たないはずです。真の連帯のためには、まず、在日朝鮮人である私たちが双方の間に横たわる〈贖罪意識〉から解放される必要があります。それは今日までの朝鮮と日本の関係を考えあわせるなら、〈贖罪意識〉の克服は被差別の側に位置する私たちが提起しなければ一歩も前進しないからです。

20数年も以前の在日朝鮮人作家金石範氏の講演「在日朝鮮人と日本人の連帯について」の講演の一コマである。当時、私は地域で部落解放運動に参加し、学校現場で多発していた差別事象に対する糾弾闘争に取り組んでいた。私はその体験から「差別された我々のほうが、なぜ譲歩しなければならないのか。金さんは在日朝鮮人のインテリだからそのようなことが言えるのではなでしょうか。しかし、他の多くの在日朝鮮人はそれで納得できるのだろうか。私の場合でも、部落のおっちゃん、おばちゃんに納得してもらうのはしんどい。その点はどうなのか」と質問した。部落問題にとって、この〈贖罪意識〉にあたるものは〈部落差別の痛みは踏まれた部落民にしかわからない〉との〈部落民である立場の絶対化〉でもあった。金氏はややあって一言「それしかないでしょう」と答えられた。私はその答えに正直戸惑った。「それしかないのだ」と自分自身に納得させるまでには時間がかかった。それだけにこの講演の光景は鮮烈に私の脳裏にいまも焼きついているのである。
 だが、72,3年当時の部落解放運動にはこの金氏の問題提起をただちに共有する余裕はなかった。それには69年の同和対策事業特別措置法施行以後、20年に及ぶ同和対策事業の実施を待たねばならなかった。
 87年に『同和はこわい考』(藤田敬一著、阿吽社)が出版された。藤田氏はこの著書で、従来から部落解放運動の重要なテーゼとされてきたものに疑問をなげかけた。すなわち、一つは「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」、もう一つは「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である」に対してであった。特に、前者は被差別の体験・資格・立場の絶対化をもたらし、被差別者以外との対等な対話を阻む要因ではなかったかとの指摘であった。さらに、藤田氏はこれらのテーゼを再考しつつ、差別・被差別の両側から超える共同の営みを部落解放運動の現場に提起したのである。
 87年12月、部落解放同盟中央本部は「『同和はこわい考』にたいする基本的見解」を発表した。「見解」では、藤田氏の著書は部落責任論・差別思想に裏付けられる図書として全面的に批判された。一部の地域では「焚書」扱いにされているとも聞く。また、この「見解」の波及効果は『「同和」推進フォーラム』(13号)掲載の「平田美知子・調紀両氏の往復書簡」にも及んでいる。
 平田(福山市教育委員会職員)氏は真宗大谷派同和推進本部長である調氏の同誌6号巻頭言「いま思うこと」に批判の矢を向ける。批判は調氏が文中に『同和はこわい考』から共感をもって引用した、

自分の成育史や生活体験を絶対化してしまうと、他の人々にも程度と質の違いはあれ、それなりの苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さがあることへの配慮がなくなり「やさしさ」を失う。他者への共感のないところで人間解放への希求を語っても説得力はない。

に対するものであった。彼女は真宗大谷派はこの間、部落解放同盟から二回も糾弾を受けてきた。教団は深く反省したはずである。なぜ中央本部が批判した『同和はこわい考』から好意的に引用したのかと厳しく迫る。
 さらに彼女は「見解」を全面的に受け入れながら、

差別者であるという認識の上に立った私たちは(略)やはり差別と闘っておられる人々の実践、理論に学ぶほかないと思うのです。その実践、理論がいかに普遍的であるかということに思いが至ったとき、初めて自分自身のエネルギーとなり、不合理、矛盾に立ち向かっていけるのではないでしょうか。

と書き、

差別者である己に気づいたとき、とても被差別者に何一つとしてのぞめることのできない自分であることを思えば、自己の差別性を克服していく以外方法のないことに気づかされるのではないでしょうか。

とも指摘する。確かに、彼女の指摘は被差別部落大衆に快く響くかもしれない。しかし、私は彼女のように解放同盟への一切の批判精神を欠いた「寄り添う随伴者」を拒否せざるをえない。人と人との対等な関係が彼女との間には築けないからである。しかも、彼女は差別と闘う被差別部落大衆の実践、理論が「正当であり・普遍的である」と主張される。しかし、この無謬性は何によって確認されるのか。この問いへの彼女の答えはみられない。この無謬性の諾否こそが現在、部落差別問題を解決するうえで最も重要な課題であるはずなのに……。
 最後に彼女は、同情、融和からきた傲慢な思いのあられである「両側から超える」という藤田氏の提起も、彼自身が差別する側にある自己の立場に立ち帰るなら言えることではない、と駄目を押す。
 しかし、である。
 詩人金時鐘氏は、

今でも、私の周辺にいるかなりな数の人が日本人へやみくもに正義をひけらかす。朝鮮人というだけで……。(略)心ある日本人ほど在日朝鮮人を、いたわるんだよな。つまり、向き合う関係でなくて、ごもっともと言い分を認めちゃうというのか……。エゴイズムは差別する側のものだけでなく受ける側にもある。むしろその度し難さは受ける側にこそあるというのが私の持論だ。(略)  (「京都新聞」)

と大胆にも指摘する。
 両金氏の提起は被差別の立場と彼ら自身が厳しく向き合うなかから生まれたものに違いない。この二人の提起を平田氏はどのように受けとめるのか。たぶん、彼女が前記の持論に固執するなら、思考停止に陥らざるをえないだろう。しかし、両金氏の問題意識は、藤田氏の提起によって真剣に受けとめられた、と言えないだろうか。
 『部落の過去・現在・そして……』は藤田氏の提起を共有する人々によって編まれたものである。これまでの部落解放運動で論議されること少なく〈自明〉とされてきた視点・課題の再考が各分野からめざされる。同和対策事業、「差別語」と表現、被差別部落民衆の〈内面的な弱さ〉、差別-被差別の関係性等が具体的に検討されている。
 私は部落差別問題について〈立場の優劣・諾否〉を安易に問うまえに、まず、本書を繙く人々による対話の拡がりを望む。
  (真宗大谷派同和推進本部編『身同』13号,94/12)

《 随感・随想 》
阪神大震災管見
師岡 佑行
 神戸には叔母、宝塚には従姉が居て、ともに娘、養女との二人暮らしである。やっと通じた電話で無事だとは知った。だが、女だけの生活。心配でならないので20日には宝塚、26日には神戸に行った。
 宝塚では大劇場前の“花の道”とよぶ華やかなメイン・ロードに面した商店街が壊滅している。回り道をしたら、たちまち全壊家屋。どぎもを抜かれたが家のあとをとどめない木片の山。文字通りの木っ端微塵である。従姉の家は屋根瓦の大半がずれ落ち、門柱、ブロック塀は倒れ、応接室のマントル・ピ-スの重い石が崩れ落ちるというより、壁から飛び出してひっくりかえっていた。電話でも落ち着いていたが、「まあ、命だけだけでも助かり、壊れたけど、家かてこうして残っただけましや」と、従姉はほほえんでいた。その後、茨木に避難したが、このときは屋根の壊れた家で頑張るつもりだったのである。
 阪急電車で帰ったが、車内は避難する人やわたしのように見舞いにきた人たちでいっぱいだった。その多くが沈んではいるが、まるで憑き物が落ちたようにスッキリした顔だったのが印象に残った。
 神戸にはJR福知山線で三田まで行き、私鉄を乗りついで新神戸まで出た。宝塚でおにぎりなどの基本的な食料は配られているが、野菜類が足りないのを見届けていたので、ホウレン草、人参をゆがき、洗ったピーマンやもやしんの類を用意し、ビタミン剤、かぜ薬、イソジン(うがい薬)といっしょにリュックにつめた。86歳になる叔母は昨年秋、蜘蛛膜下出血で倒れ、予後はよ快かったものの、退院後、それほど日がたってないのである。そのほか、山科駅近くのよく寄る花屋でバラ一本を買った。
 思いのほか叔母は元気だった。12月に見舞ったときは起きあがり玄関まで出てくるのが精いっぱいだったのが、普通に歩き、手のまひも消えていた。ここでも「命があっただけでも結構やと思うわないかん」と、しみじみと話した。近くの医大病院前の喫茶店が崩れかけていたので気がかりだったが、叔母の家は瓦一枚落ちず、外塀の亀裂もほとんどなかった。「近所の方が親切にしてくれはって、ポリタンクを使うてというて、持ってきてくれはったり、水くんできましょかとしょっちゅう声をかけてくれるねん。これまで顔見たらあいさつする程度で、あんまりおつきあいしてない若い奥さんまでがね。ご近所のみなさんに救われてますねん。」
 その叔母が一番喜んだのは、思いついて買ったバラだった。一輪ざしのなかで、花びらと葉がピンとのびた。なんども、きれいね、きれいねと小さな喚声をあげた。 新神戸からは、県庁のある中山手通りを西に、大倉山公園近くの叔母の家まで約4キロを歩いた。中山手通りに曲がる角の民家、ビルが崩れていて息をのんだが、県庁近くのレンガづくりの栄光教会が崩れ落ちていた。教会といえば下山手カトリック教会もまた崩壊していたし、大倉山のそばの八宮神社の鳥居が幾つにも折れて道路を塞いでいた。休もうと思って県庁のロビーに入ったが、ここも避難所になっていて、多くの人たちが毛布にくるまっていた。それでも、通りでは70歳を過ぎたと思われる老婦人が白と赤をあしらったベレー風の帽子をかぶりて、きちんと口紅を引いて犬を散歩させていた。たぶん、それほどの被害に会われなかったのだろうが、さすが神戸だと思わさせられた。
 帰りはこの道をとらなかた。
 三宮、元町が気がかりで、湊川神社の東側を南にさがって、そちらに回った。裁判所の近くの路上で夫婦が日替り弁当を売っていたが500円、平日の値段である。道路がゆがみ、波打っている。五階建のビルが横倒れになって底をみせている。JRの高架下がくぐれるので元町商店街に出た。神戸のしゃれたファッションを代表する目抜き通りだ。驚いたことに街頭がこうこうとともり、半分くらいが店を開けている。果物屋にはいろいろと並べられているが、大きなリンゴ三つ400円。そんなに高くない。カバン屋にはリュックサックが積み上げられ、1 割引の札があった。テレビや新聞では、ソーセージ1本5,000円など暴利をむさぼっていると報道されていたが、そうしたところもあったかも知れない、わたしの見た限りでは違っていた。
 驚いたことに、海文堂が開いていた。わたしも神戸で労働運動史の編纂にあたっていたころ、よく行った大きな本屋だ。店内は明るく、客はいつものように入っており、何人もが立ち読みしている。ここは、いくつもの巨大ビルがかしぎ、ひしゃげている三宮から500メートルも離れていない。心を打つ光景だった。会う人はだれもがキリッとしていた。

《 各地からの便り 》
 その後、藤田先生にはお元気でお過ごしのことと拝察いたします。
 いろいろ思ったり、感じたことが多くあるんですが、書いてみるということは、なかなかできない事のようです。この三日間の休みでやっとお便りをしてみようという気持になりました。
 先生と初めて出会ったとき、お話のなかで“Sさん”“Kさん”と名字ではなく名前が出て来たことは驚きでした。部落のなかでみこしを先生もいっしょにかつぐというお話が出たと思うのですが、ここのところも違う驚きでした。所変われば歴史が違うのかな?
 日本の文化とか伝承をテレビ等で見たり聞いたりすると、そうなんだ、そうなんだと素直に入って来るのですが、暮らしの中で身近かな事で言えば“神事”、“祭事”に関して仲間にいれてもらえなかった歴史に関して素直になれない、こだわりが出て来るのです。元来、日本人なら祭り的なことが好きな筈だったと思うのです。喜んで参加したかっただろうと思うのです。しかし、それはあくまでも願望にすぎなかった。
 現代では、そんなことはないですよ。皆さん、「参加してください」とたてまえとしては言われます。でも……。
 ふり返って見た時、私の記憶に、懐かしさのかけらみたいなものさえないのです。あっても打ち消してしまっているのかなあ?
 人に言われるのが嫌いで、意地でまね事でも同じ様にする人がいる。私達のところは小さい上に混住地区です。本当は、人と同じ様にしていけば問題ないのでしょうが、十軒ばかりの家庭でも様々だと思うのです。
 私の父は、おとなしく、きつい事もいっさい口にしたり言葉に出さなかった人です。対策事業についても、理解が得られないと黙って働きかけをしていたと思います。人が知らないまに回りがちょっとずつきれいになって行っても、恩にきせない。でも、人はあまり協力的でないし、迷惑だったかもしれないし。父のしてきたことはなんだったんだろうかと、疑問に思います。ガマンして、「おとなしくし悪い人間じゃないんだよ」と人に思われる様にだけしてきただけの人生!?身体が不自由になって来た父を見ていると、心の中に秘めていたもの、執念みたいなもの、切ないものを継がないではおれない気持になります。
 ところで私は柴田道子さん(お亡くなりになられたと、なにかの本で知ったんですが)の『被差別部落の伝承と生活』という本を持っています。この本は24,5年前に出会いました。私のささえは、父が同和会に出席して持ち帰る資料と、唯一私が歩いてめぐり会えたこの本でした。20数年来の宝物みたいな存在です。
 「部落」復刻版(1~100 号)が家にあります。先生の名前を見つけて読みました。とりつかれた様に読む事もありますが、暗く思ってしまうこともあります。
 今回、通信No.89を読ませてもらい、あーでもない、こうでもないと考え、なにか返事を書こうと思いながらつまってしまって。メモって、あとで読むとバカみたいに見え、いつも思っていることと違ってきてしまうのです。
 放恣・放埒な生き方ときちんと向き合い…自らを問う発想…そうでなければならない!!私には痛い言葉です。しかし、私はどんな風に思われ様とも、この問題を放って置いて、自分の人生はあり得ません。今まで、いつも自分の前にその問題があるから、放恣・放埒な生き方を含んだまま一歩も前へ進む事ができない。でも、少しずつでも自分が変わって来ていると思うのですが。
 文章になっていなくて読みづらいと思います。申し訳けありません。
 通信、読みます。むずかしく、わからないことがたくさんありますが、辞書片手に読み返ししています。
 自分の考えがまとまったりすれば、またお便りしたいと思っています。  今日はこの辺でペンを置きます。
     かしこ  (島根 Y.Sさん)

コメント.
 昨年12月のある夜、島根の被差別部落で開かれた懇談会で知り合った方からの便りです。便箋5枚のお便りからは、部落差別に真っ正面から向き合って生きていこうとなさっている熱情が伝わってきます。こういうお便りをいただくと、こちらが励まされます。そして、なんというんでしょうね、運動の原点みたいなものをあらためて考えささせられます。Y.Sさん、気楽にお便りを寄せてください。上手な文章を書く必要はないのです。大切なのは気持を素直に表現することですから。
 ところで『部落』のわたしの文章とは、おそらく学生時代に書いた雑文を指しておられるものと思われます。いやあ、お恥ずかしい。『部落』には、学生部落研ゼミナールの座談会記事があり、それにはわたしの若い頃の写真が載っています。岐阜大学の学生が見て、一瞬信じられないような顔をしましたっけ。自分ではそんなに変わったとは思わないんですが、Y.Sさんの感想はどうですか。

《 紹介・お知らせ・お願い 》
 ● 『こぺる』No.24(95/3)
  柚岡 正禎:筒井康隆氏の敗北
  ひろば(17)
  師岡 佑行:あいまいな日本
  第20回『こぺる』合評会から(熊谷 亨)

 ● 『こぺる』合評会と刊行会総会
  ☆3月25日(土)午後2時 京都府部落解放センター2階
  ☆2,3月号のメイン論文を中心に
  ☆合評会後、刊行会総会を開きます。ぜひご出席ください。

 ● 『こぺる』購読のお願い
  ☆年間購読料 4000円(郵送料込み)
  ☆申込先:〒602 京都市上京区寺町通今出川上ル4 丁目鶴山町14阿吽社気付
       こぺる刊行会(Tel 075-256-1364,FAX 075-211-4870)
  ☆郵便振替 01010-7-6141

《 川向こうから 》
★前号の「川向こうから」欄に意味深長なことを書きつけたら、さっそく「何に夢中なのか」との問い合わせあり。隠すほどのことではないのです。しばらく離れていたパソコンをいじりだしたら、止まらなくなったというわけ。阪神・淡路大震災という戦後最大の災害が起こったという大変なこの時期に、なにを寝ぼけたことを言っているのかなどと怒らんでくださいね。世の中には、みんな一斉に同じ気分にならんとあかんみたいなことを言う人が必ずいるので、念のため。

★最近読んだ本のことなど────雑誌『つくる』95年2月号「匿名座談会:部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」。一読、憮然たる思いがする内容だ。覗き趣味からではなく、部落解放運動の現状を明らかにしたいという真摯な意図に基づく企画だったのだろうが、いかんせん匿名の事情通たちによる話には緊張感がなく、内幕物の限界を超えていない。名を秘した人びとの運動の歴史と現状に関する認識について、わたしの意見を次号で述べることにする。

★本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)

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