同和はこわい考通信 No.7 1987.12.23. 発行者・藤田敬一

《 感想 》

藤田さんの提言に拍手するだけでは無責任だと思うのです

 「同和はこわい考」通信をお送り下さいましてありがとうございます。早速読ませて頂き、藤田さんが「同和はこわい考」を誠実に世に送られ、割りにあわない答え方でこのように、発言したことの責任を受けもって下ださることを感謝しました。本当は運動(?)というか、部落の内側にいるものがやらなければならない問題を、内堀(失礼な言い方かもしれません)でまじめに考えていられる人にまかせてしまっている責任のようなものを感じています。私自身は、運動の内側にいるといえる程、明確には言いきれない位置にいて、無責任なのですが、部落解放運動がまったく正義だと主張できない現実を前に憂いてみるだけで、何もできないことに、少々あせりのようなものを感じています。
 藤田さんの問題提起は、当然の指摘だと思います。「解放」を思い続けている者には、早くからつきあたった問題点ばかりという気もします。しかし、それをどうしていくのか、という所で立ち止り、迷ってしまい、結局、弱さゆえに超えられなかった課題だと思います。それをすっきり論証して頂いてよかったと心の片すみで安堵するような気持なのに、なぜか、ストレートに賛意を表明できないのです。
 結局、私のような平同盟員が何を言っても支部あるいは府連レベルでさえ、受けとめてはくれないのだからとあきらめているのです。村をよくしたいと素朴に考えている人たちは、「解放同盟」を腐敗のかたまりのように眉をひそめ「批難」しています。だけど、それを正面きって言えないのは、自分も又、腐敗の片棒をかついでしまったからかもしれません。批判をあげればきりがなく、純粋に差別から解放された社会を夢みる人たちは、その矛盾多い現実を目の前にした時、いったい何から手をつければよいのか、わからなくなるのではないでしょうか。
 「同和はこわい考」は七月はじめに読んだのですが、感想をお伝えできなるだけの考えがまとまりませんでした。それは、自分の足元の問題にどれだけ勇気をもって取り組んだかということにつきあたるからだと思います。藤田さんの指摘に拍手を送ることはたやすくても、じゃ、それをどう実行するのかとなると、理屈以前の問題で、わずらわしさに足がすくんでしまいます。
 私が具体的にかかわっていることといえば、識字教室の講師として十数年かかわっているということと、解放子ども会父母の会幹事の一人として加わっているだけです。支部は土建屋グループ、企連幹部が手足となるような若い人たちをかこいこんで結束していて、我々のように、口うるさい者は一切口をはさめないようシャットアウトされています。私と同じ年代の親が集まって話あっているだけで、分派活動をもくろんでいるだの、共産党のまわしものだの、あるいは赤軍派や過激派といった支離滅裂なレッテルが一人歩きして、私たちは反論さえできないのです。村は古い共同体の良さを失って、一人一人がテンデバラバラにさせられています。血縁のつながりも自由にものを言えなくさせる原因になっています。
 我家は二人とも大学を出ていますので、「インテリの理屈」といともかんたんに一蹴されるのがオチです。70年代に共に学びあった友人たちの多くが、運動に希望を失いました。団地入居問題や金にからんだ様々な問題点を青年の潔癖さで指摘していった私たち世代は、実質的に追放されました。それは運動側(同盟)だけの問題ではなく、私たちが先の展望について、それ程説得力をもたなかったせいだと思っています。それが結果的に運動の堕落に拍車をかけたと思っています。その責任をさておいて、藤田さんの提言に拍手してみせるのは、無責任だと思うのです。ただただ謙虚に耳を傾けるほかないと思います。
 しかし、手をこまねいているだけという訳でもありません。小さな、とるにたりない抗いは試みています。基本法一点ばりで、狭山はお荷物といった状況は、石川さんのたたかいに目をさまされた私たち(つれあいと)には、どれ程くっちょしいことかお察し頂けると思いますが、この十数年、動員ではなく、自腹で狭山闘争にをたたかってきましたし、職場や他の運動体の中でも小さいながらも声をあげてきました。二人合せれば、かなり高額所得になった頃から、自主的に、保育所費用を一般と同じだけ支払う、団地を返す、といったことです。
 これは、私たちが安定した収入を得るだけの位置にいて、運動を宝物のように大切に思っていて、その気持ちを節操としてあらわしていくために、自主的に判断したことで、誰にもそれを要求したりしませんでしたが、たとえ自己満足であったとしても、私たちが運動の中で結びつき一緒になった時、理想として考えたことを、生活の中で実現したいと思ったからです。つれあいとよく言いあった「お金と異性には潔癖でいること、権威にあぐらをかくようなことにだけは、ならないようにお互い気をつけていよう」という、しごく簡単な約束を守っただけです。二人の子どもの同就費、特就費も断りました。
 部落には貧しい人々が多いことは事実ですが、そうでない人も多いのです。獲得したものだという言い方で合理化できないようなわだかまりを感じているのに、平気な顔をするのは、私たちの性にはあわなかったのです。お金というのは、本当にこわいものだと思います。少しづつ、骨ぬきにされます。そうしたことが、利権屋を生みだしています。かつてお金に苦労したから弱いのだという言い訳は、運動の弱さからのすりかえです。部落大衆を馬鹿にしていると思います。誇らしく運動を守り育てていくつもりであれば、必要とするものは、堂々と受けとり、いらなくなったものは返上していくようなけじめが必要だと私は考えています。いずれにしても、差別の側を糾すことが正義として主張できなくなっていくような状況を作ってしまった事を何よりも運動側が本当に真剣に考えなければならないことです。その弱みを「地対協」は巧みについて、部落をまるごとかかえこんでしまうつもりなのかもしれません。そこまで運動はダメになっているとも思えないのですが、法によりかかる姿勢でいる限り、いつか足ばらいをかけられる日が来るような気がします。とりとめなく書いてしまいました。…(大阪・Yさん)

コメント.
 「解放を思い続けている者」として、今日の状況に立ち至らせた責任の一端が自分たちにもあると考えるYさんは、支部レベルでの組織的な活動ができなくても、自費で狭山集会に参加し、個人施策を返上し、そして職場などで声をあげてこれらたといいます。その強靱な志の持続に、わたしの方が励まされました。節操という言葉に出会って懐かしい気分になったのは変ですね。
 ところで、かつて狭山闘争の中で「自立・自闘」「自力・自闘」ということが強調さました。全国一斉に同盟員がカンパを出して代表を東京の中央集会に送るという取り組みが行われたこともあります。しかし、このスローガンは、いつしか消え、カンパで代表を送る取り組みも、たしか一回かぎりで終わったように記憶しています。その主な理由は、やはり動員方式が定着したからではないでしょうか。
 闘争の山場には多くの人を結集させたいと思うのは人情ですし、そのためには「あご・あし」つきの動員方式がてっとりばやい。他方、仕事をほって東京まで出かけるのだから、多少の日当がついて当然ではないかと考える人がいる。しかもそのための財源もある。となると、いくら「自力・自闘」、カンパ形式をといったところで、それは無理な話です。それに動員方式は、労働組合の方が先輩なのですから、部落解放運動がそれに学んだとしても、いたしかたなかった。あれやこれやで、自腹やカンパによる集会参加がほとんどなくなったと思われます。
 もちろん、こうした動員形式がまったく無意味だったとはいえません。岐阜でも74年、東京の集会に参加して、その規模の大きさに勇気づけられたり、生れてはじめてデモなるものに加わった人がいたのですから。しかし動員方式の定着によってマズイ面が出てきたことは否定できない。「志」の持続がむつかしくなったのです。 甲山裁判の傍聴に行くたびに、わたしは数も大事だが、その中身の方がもっと大事だと思わずにはおれません。100 人そこそこしか人は集まらないけれども、一人ひとりの「志」が凝集しているように感じます。そのせいか、Yさんが、自腹で狭山集会に参加しつづけておられると聞いて、嬉しくなりました。

《 紹介 》

その1.小森龍邦さんによる『同和はこわい考』批判(PART 2)

 小森さん(部落解放同盟中央本部書記長・広島県連委員長)は、引続き精力的に『こわい考』批判を展開しておられます。以下に紹介するものは小森さんが編集兼発行人の『解放運動と同和教育』(毎月15・30日発行.B4版.7頁)です。

*照魔鏡 (同誌416 号.1987.10.15.P2)

 …いま、岐阜大の教員をしている藤田敬一という人が、部落解放運動のあり方に提言を行なったことについて、ささやかな論争が行なわれている。
 つまり、糾弾についてとか、差別の認定についてとか、えせ同和についてとか、おおよそ、地対協が「部会報告」で問題にしているようなことが論点である。その論理的な流れは、「地対協路線とどこが違うのか」と私は反論した。この反論に対して、土方鉄氏(作家)は、「そのようにすぐ決めて、人の主張を押えてはいけない」という意見を述べてきた。だが、「地対協とどこが違うのか」の問いに対しては、すぐに、ここが、このような意味で違い、反動に与するものではないと討論に応ずべきである。
 藤田敬一氏擁護の論理は、大概、「反動呼ばわりするな」「決めつけるな」「批判を拒否するな」という主張のようである。最後の「批判を拒否するな」の論理は、これまで部落解放同盟が主唱している解放理論の立場から反論を試みると、この人たちは、「批判を拒否した」と受けとめているようである。
 『こぺる』十月号に、部落解放同盟奈良県連書記長の山下力君が執筆している。最後の「批判を拒否するな」式の論理をひとまず述べているようだ。「批判」に対する「反批判」は拒否ではない。「批判的論理」のあやまちを指摘したものである。彼は、「批判の拒否が生む『裸の王様』」と書いている。この論理によれば、山下君などに反対するものは、みんな「裸の王様」ということになってしまう。もう一つ、残念ながら指摘しておこう。次なる文章である。「日本人との関係で在日朝鮮人やアイヌ人、沖縄の人々にあるもので…」というもの、「感情の襞」を論じて、ついに「アイヌ人、沖縄の人々」を非日本人として扱っているようだ。

*主張『同和はこわい考』の出現が意味するもの (同誌418 号.1987.11.30.P3)
 岐阜大の藤田敬一という人が、『同和はこわい考』という冊子を出版した。内容は、地対協路線と部落解放同盟の間に割りこんで、地対協も悪いが、部落解放同盟も反省しなければならないところがある、とするものである。
 「えせ同和」の出現は、部落解放運動が「こわおもて」な態度をとることが、その原因だという。だから、地対協路線と部落解放同盟の中間に立っているというよりは、地対協路線に味方しているという方が正しいかもしれない。
 『こぺる』という京都部落史研究所の出版している小冊子に、こともあろうに、『解放新聞』(中央版)の編集長・土方鉄氏が、これを擁護する文章を発表した。
 これまで、しばしば『解放新聞』紙上において、「えせ同和」なるものは、右翼、暴力団、総会屋などの仕業であると主張してきた。そして、その悪業は、日本資本主義の生みだした「悪の花」だという意味のことを言ってきた。ところが『こぺる』誌という、小冊子を使ったとはいえ、『解放新聞』の編集長が、そんなことを言うということになれば、世間に不信を招くことは必至である。一体、部落解放運動はどうなっているのであろうか、と世間が不思議に思うのも、当然であろう。土方鉄氏は、私(小森龍邦)の『同和はこわい考』批判が、よほど気に入らないのであろう。書記長たる私を、書記長なるが故に批判するという文章を書いている。
 「魔がさした」のであろうか。中央本部の考え方は、これまでの運動方針をみても明らかである。小森個人の攻撃なら、まだしも、中央本部の攻撃をしていることになる。可能な限り我慢はしつづけるけれども。
 地対協の攻撃は、このようにして内部にくさびを打ちこんでくる。主観的にはともかくも、土方氏は、結局、地対協にあやつられることになっているのだ。

コメント.
 小森氏さんは『こぺる』12月号に“再び「地対協との違い」を問う”を寄稿しておられます。また『解放新聞』(1352 号.12/21) に部落解放同盟中央本部「『同和はこわい考』にたいする基本的見解−権力と対決しているとき−これが味方の論理か」が載っています。別刷にしておきましたので、ご覧ください。

『解放新聞』(1352号 1987年12月21日) 部落解放同盟中央本部「『同和はこわい考』にたいする基本的見解−権力と対決しているとき−これが味方の論理か」(この部分管理人が追加)

その2.『ひょうご部落解放』28号.(1987.9)「解放の視点」

 …藤田敬一著『同和はこわい考』が、今年六月に出版されて論議を呼んでいる。「地対協を批判する」という副題をもったこの本の内容をいま要約して紹介できないが、部落外出身者である藤田氏の本が、部落解放運動の組織内部で賛否をうんでいるのである。
 批判者の意見は藤田氏の論理は結局「地対協」の論理を肯定するもの、という点にあるようである。
 藤田氏への支持は、彼が、「その痛みを知っている被差別者」という「資格」の絶対化と、「部落民にとって不利益な問題は一切差別である」という「基準」に問題を投げかけ、部落解放運動の存在根拠をいま一度確認するためにも、対話不能やもたれあいの状況からぬけだして共同の営みとしての部落解放運動を構築するために新しい関係性をつくりだしていこう、という提言への共感にあるようである。
 私見をのべる場ではないが、ある意味では必然的にうまれた論議であり、その論議がおこった事自体が、部落解放運動そのものの成熟のあらわれであろう。注目している。(直原弘道)

コメント.
 「部落解放運動そのものの成熟」とは、意味深長な表現だとは思うものの、ちょっとわかりにくい。「部落解放運動もオトナになった。批判を受けても冷静に討論できる度量ができた」ということかもしれません。しかし、そう判断するには、もう少し様子を見る必要があるのではないでしょうか。
 「わたしの周囲では『こわい考』は評価されている本なのですが、それを公式に表明するのには、なかなか勇気がいることのようです。かくいう私にとってもそうですが。それを大きな声ではいえない現実があります。これではいけないんですが」(東京・Hさん)「『同和はこわい考』のことを話した所、藤田さんのやっていることは一匹オオカミだけれど、本当に大変なのは、いろいろな考え方の人の集まっている組織をまとめていくことなのだといわれ、水平社の出来た頃は、差別と正面に向き合うことが運動であって、組織を守ることが運動ではなかったはずではないですかと答えたところ、運動を長くしている人に限ってタブーが多いようで、そんなことを聞いたり、いったりしない方がいいといわれました」(三重,C・Kさん)といったお便りをもらっています。自立した個人どうしの「開かれた議論」は、まだまだむつかしいということでしょう。

その3.岸田弘「岐路に立つ部落解放運動に問いかけるもの」(『世界革命』1018号.1987.11.9)

 今一つの本が部落解放運動に小さな嵐を巻き起こしている。ある人は、「こんなのは地対協意見具申や、総務庁指針にくみするもの」と非難する。しかしそうだろうか。むしろ著者は部落解放の展望をかけて、本書を書いているようだ。藤田敬一氏の「同和はこわい考」は、一読の価値ありである。
 本書はその名が示すとおり「同和はこわい」という差別意識をまないたに乗せて、さまざまに輪切りにすることによって差別意識の断面を明らかにしようとしている。この本が静かなブームになるには、それなりの時代背景がある。…
 現在権力の攻撃は、「地対協意見具申」や「総務庁啓発推進指針」に見られるように、差別意識を動員して国民の多数合意を形成しようとしている。しかし運動側は有効に反撃していない。「こわい意識」と糾弾に綿密な検討が必要だ。…
 本書は差別の本質論を展開したり、部落解放運動の戦略的方向を明らかにしたりするものではない。「こわい意識」を題材に、「する側」と「される側」の意識状況と、克服の可能性を追求しようというのである。その意味で本書は「意識論」に徹底する。この論点もまた、今までの運動への反省と総括を含んでいる。…
 本書は差別のすべては語っていないが、すべてを理解する上で必要不可欠な一部を語っていると思う。そして差別意識論を活発にし、意識構造を明らかにすることによって、差別とは一体どういう人間関係、社会関係なのか、という本質論にアプローチできると考える。

コメント.
 岸田さんは“「存在が意識を規定する」として、差別を支配階級の責任にし、解放の展望を階級闘争に一面的に吸収しようという「エセマルクス主義的解釈」”や“「基底還元論」といわれる経済主義的マルクス主義”を批判しておられます。また、わたしの意見は「史的唯物論の原理原則」にかかわる問題だとおっしゃる方もある。わたしとしては、あくまで部落解放運動に即して思索を深めてゆくつもりです。その上で、いわゆる原理、原則なるものについても考えてみたい。

《 各地からの便り 》

何回も何回も読んでいます

 …本の中の前川さんと先生の手紙は実にいいですね。こういう関係がきっと先生のいわれる差別・被差別の両側から超える共同の営みだと私は思いました。私は厳しい指摘ができることが両側から超えることだと思いました。
 私はよく語りや生きざまを語ってくれとたのまれます。でも私は語れる部分と語ってはならぬという部分を持っています。きっと世の中の人たちを信用していないのでしょう。そしてその語りが先生の書かれているように、二度や三度になると自分は何をおしつけようとしているのか…自分はどれだけのものか、なんて考えるとどうしても断わらなければ…と思ってしまいます。だから、この本は私が「うん」とうなづき、「あたり」と思ったと考えられます。私の生き方を修正しなければならないこともよく分ったけれど、けど、先生、こんな本音で運動や部落のことを書いた人がいなかったのは、きっと「超えてない」いわゆる「同和問題の専門家」というか、「講師」というか、そういう人達が係わりを持ちながら、たてまえに終わろうとしているんだと知らされたと同じですね。…私もその意味では、地域の中で学習会などはしんどいけれど一人でも二人でもお互いに超え合った人と出会いたいと思います。そのことが私の解放運動なんですね。でも、大きな意味ではこのことは差別をなくすにはほど遠いいとなみだけども、たちどまることよりは進んでいることだととらえて、生きなければいけないんでしょうね。
 私は下書きもせずに思いつくままに書いているし、字も間違いだらけでしょうけどお許し下さい。私は先生の様に理論的には考えがまとまりませんから、こんなふうに書けるだけです。感想を楽しみにして頂いたのに、こんなことしか書かなくてすみません。でも先生、先生の本を何回も何回も読んで私は「生き方」を学ばせてもらえると思っています。今までに本を(同じ本)何回も(4回)読んだということは絵本以外にないように思います。…(三重,Y・Kさん)

コメント.
 Y・Kさんはこれから二週間後、つづいてお手紙をくださいました。それには「私はまたこの手紙を書くために6回目の『同和はこわい考』を読んでいます」とありました。なんとお答えしてよいか、言葉につまります。

《 あとがき 》
*年の瀬もおしつまってまいりました。87年最後の『通信』をお届けします*頂戴するお手紙が、次第に深いものになってきています。その一つ一つが部落解放運動の根幹にかかわるもので、かえってわたしの方が問われているように感じます。それなのに忙しさにかまけて、葉書ぐらいのご返事しかいたさず、申しわけなく存じます*全逓中丹教宣部「日刊ちゅうたん」4927号.1987.11.24. が本冊子の宣伝・斡旋をしてくださっています。ありがとうございました*ある方のお手紙の中に「これは全くの私信ですので、『通信』にとりあげるのは御用舎願います」とありました。実名のものは、もちろんあらかじめお断りしていますが、イニシアルのものは事後承認ということにさせてもらっています。それもかなわんという方はその旨、お知らせください*それでは、よいお年を迎えられますように*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。

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