同和はこわい考通信 No.6 1987.11.18. 発行者・藤田敬一

《 感想 》

その1.「こわい考」には、もう「二つの前提」の否定がある

 これまで発表された「こわい考」に対する書評をみると、賛否両論あるにしても、「二つのテーゼ」に対する批判が問題となっている。たしかに、「こわい考」は二つのテーゼに対して、疑問を表明している。批判していると言った方が正確だろう。…(しかし「こわい考」は二つのテーゼを)全面否定しているのではなく、背景とその意義を具体的に認めながらも、弊害を指摘している。
 これが一つの議論のテーマとなっているわけだが、今一つかみあっていない気がする。そこで気づいたのだが、二つのテーゼ批判には、もう二つの前提の否定があることだ。すなわち、「部落解放運動は、部落民が主人公だ」「部落差別は政治的に作られた」の二つが否定されている。これは、実に重要な問題で、このことを抜きにしては二つのテーゼをめぐる議論は進展しないと思う。
 具体的に検討してみよう。
 部落解放運動は、誰によって進められるのか、という問題。水平社結成の意義が、部落民の自主的解放運動の開始であったことに異議をはさむ人はないだろう。しかし、「同特法」(と狭山闘争)以降の、差別撤廃というヴェクトルを持った部落問題の社会化という状況は、事態を大きく変えた。行政の取り組み・労組や市民団体などの取り組みは、従来予想もできなかったほど拡大している。無論、イヤイヤやっている人、「差別事件が起きた時の保険」と公言する人もいる。それらの人を除いても、なお無視できぬ多くの人々が部落問題に取り組んでいる。部落民が主人公なら、彼らは脇役であろうか。はっきり言って、僕はそう思ってきた。おそらく、同盟の他の活動家も同じだろう。「国および地方公共団体の責務」「国民的課題」の文言で、たやすく人が動くのである。快感を感じることはあっても、そこに立つ人々の思いを感じることはなかった。昔から反面教師に恵まれ、反省する機会が幾度となくあったにもかかわらず、である。
 部落差別を撤廃する社会運動の総体を部落解放運動というのであれば、それは<差別・被差別>の双方の人々によって担われている。これは現実であって、運動論はそこから構築されねばならない。
 次いで、部落差別は政治的に作られたという問題。これは、「近世政治起源説」を核として、様々なヴァリエーションがある。日共の封建遺制論が元祖であるが、人民分断支配論や「しずめ石」論などが挙げられる。全て「徳川幕藩体制確立時に於いて、階級支配という政治目的を持って、意識的に作られた身分制の最下層」が起源と位置付けられ、そこから近・現代の部落問題を説こうとするのである。
 ところで、ここ十数年の「部落史研究」の進展は目覚ましいものがある。
(部落というのは明治維新以降の問題で、「賤民史研究」というべきと思うが)近世の賤民の姿だけでなく、中世賤民の研究も進んできた。その中で、近世政治起源説が描く「賤民像」と、次第に明らかにされてきた近世賤民の実像との矛盾が幾つか出てきた。何よりも、中世賤民研究など、近世政治起源説からすれば「無意味」であり、実際タブーであった。
 研究・学問の領域で近世政治起源説に批判的な人々が増えても、運動の現場は近世政治起源説に基づく差別論で進めてきた。奇妙なこととしかいいようがない。実際は、数年前の「大賀・沖浦・師岡論争」というのがあったが、現実の運動に還元するには、三氏の議論は噛みあっていなかったといえよう。
 この「こわい考」の特色の一つは、この近世政治起源説とそれに基づく差別論を、あたかも自明のことような「手軽さ」で否定しているところにある。少し長くなるが、引用しよう。[『こわい考』P29-40の引用は省略]…
 何気ない、サラッとした書き方であるが、旧来の運動の前提である「部落差別は政治的に作られた」という立場を明らかに否定している。これは今後の(拡大してゆくべき)議論の一大争点となるだろう。「こわい考」に対して「敵を利する」という批判では議論は成立しない。そのような批判が成立するためには、「利する敵」とは何かを明らかにしなくてはならないし、結局のところ、部落差別とは何であり、何が部落差別を再生産しているのか、というもっとも基本的なところが問題となってくる。この点について、民衆の日常生活のなかに、その鍵が存在すると思うのだが、詳細は、次号以降にしたい。(三重・R/Yさん)

コメント.
 この文章は三重の友人たちが、本「通信」を配布するだけでは芸がないといって、「『こわい考』で提起された問題をめぐる議論を、ローカルな形で発展させることを目指す」べく、この8月から発行している『同和はこわい考』通信(海賊版)創刊号に載ったものです。
 拙文が二つのテーゼだけでなく、二つの前提も否定していると、R/Yさんはおっしゃる。いわれてみると、なるほど、そのとおりなのです。第一の前提については「地対室の正体みたり枯尾花−『啓発推進指針』を読む』」(『紅風』92〜94号)でより詳細に展開しましたので一読していただければ幸甚です。
 第二の前提「近世政治起源説」の問題については、『こわい考』では深く立ち入ってはいません。R/Yさんが注でご指摘のとおり、横井清さんの「『部落史研究』と『私』」(『人間雑誌』79年12月号)をぜひ参照していただきたいと思います。なお、「海賊版」にはSさんの「現在の感想・現在の心境−手応えあり」と題する文章も載っていて、大切な論点を出しておられます。

その2.風穴を通って吹き込んだ一陣のカゼ
師岡 佑行

 …部落民でないものに何がわかるか、学者先生、評論家に現場の状況がどうしてとらえられるのか。一種の切り札のようにして出されるこれらの言葉に、いつの間にか免疫ができて、すこしもたじろがないようになってすでに久しくなりました。なんと言われようと、言っておかねばならないと思うことは主張する。すべてをというわけではありませんが、最少限度のところはそうでした。この点は貴兄も同じだったと思います。
 この間、たまたま古い日記−淡路にいた頃の−がでてきて、目を通していたら、この切り札をつきつけられて憤慨しているくだりがありましたから、当時はまだまだ気にしていたのですが、ここ数年は効き目を失ったジョーカーがまた出たことよと、全く気にしないようになりました。貴兄にとっても私にとっても、この言葉はもはや有効ではなくなっています。
 この点ではいっしょなのですが、つぎの瞬間から違いました。
 私はそれでよしとしたのでした。だが貴兄はこのことにこだわりつづけました。それを時には、私はなぜなのかと、いぶかしく思ったこともありました。そのことが私にとってかきでなくなったことに安住していたわけですが、貴兄はそれが貴兄や私にとってどれほどのことでもなくなっていることでヨシとせず、そこに二つの側をさえぎる高い牆壁をみとめ挑みつづけてきた。このことをこの本によってやっとつかむことができたのです。
 部落に対する関心は高まったとか、深まったとかは言えないにしても、いろいろな角度において拡がったことだけは確かです。その中で様々な思いが積もってきている。積もってくれば表現したいのが人情ですが、そうはいかないのが現状です。多くの人びとの鬱屈した思いを吹きださせる(そう簡単に吹き出すことはないでしょうが)風穴をあけたのが、この本です。
 風穴を通って吹き込んだ一陣のカゼが、それなりに蘇らせるものがあったからこそ、これだけの読者を得たのではないでしょうか。誰にも必要だった酸素がこの本によって届けられたのだと思います。
 ここで、こわいと思うのは政府筋です。地対協は84年6 月の「意見具申」のなかで「同和問題についての自由な意見交換のできる環境づくりを行うこと」をあげ、去年の部会報告、具申でもくりかえしていますが、本来、人間の解放をもとめる運動の側がつねに留意せねばならないことだったはずです。その自由な環境を運動の側から、この本はつくり始めたと思います。
 たしかに本の中では部落差別とは何かについて朝田さんのテーゼを取り上げて批判し、批判するだけでななく、貴兄の見解も提示されています。これは運動史の上からいって画期的であり、状況を越えるためにもっとも重要な問題提起にちがいありません。けれども、このテーゼは運動の根っこのところにあって、その枠組みをつくってきており、問題の所在が示されただけで、すぐに放棄することはなかなかにできることではないはずのものです。
 いまの運動のあり方をよしとしない人たちも批判の眼差しは官僚主義的な応対、腐敗ぶり、マンネリ、無責任さと様々ですから、一挙にこの問題提起を受けとめることにはならないのではないでしょうか。
 いま大事なことは、この本によってあけられた風穴を通じて、様々な鬱屈が語られ始めることではないでしょうか。…まだまだ、この本を基礎にして運動論を構築するまでにはいたっておらず、この本をしっかり読みあげることが大切だと思えてなりません。焦らずにといえるような状況ではありませんが、やはり焦らずにという他ありません。

コメント.
 親しい上に、頻繁に顔を合せている間柄だから、あらたまって感想を書いてもらうのがむつかしいことは、十分承知していますが、そこのところをなんとかといって、無理におねがいして送っていただいた私信の一部です。
 師岡さんのお手紙には、部落解放運動は人間存在の中心への洞察に欠けるところがあったのではないかという、師岡笑子さんが遺されたドキッとするようなメモにも触れられていて、ぜひ紹介したいのですが、ここはその場ではありませんし、わたしの任でもありません。師岡さんに本冊子の書評もかねて書いてくださるようお願いしたいと思います。
 ところで、わたしにとって「部落民でもなく、現場も知らない大学教師、評論家、サロン談議家になにがわかるか」という言葉は、やはりいまでも有効といえば有効なのです。もちろんかつてのように、それで言いたいことを飲み込んでしまうようなことはありませんが、なんともいえない寂寞感におそわれたり、ときには苛立ち、焦ったりもします。師岡さんが「焦らずに」と忠告してくださっているのも、そのためでしょう。肝に銘じます。

《 各地からの便り 》

−藤田前白−
 多くの方からお便りをいただいております。『通信』を出してほんとによかった。前号はスペースの関係で載せることができませんでした。そこで今号はコメントなしで一挙に6通、掲載させてもらいます。

その1.
 ささやかな集まりのなかで活動していますが、去っていくひとたちを、きりすててしまわぬ運動をかたちづくっていきたいと思います。ひとの言葉をかりてしゃべるのではなく、つたなくとも、自分のことばで、話をすること。『同和はこわい考』の感想は、次回に書きます。(茨城・Sさん)

その2.
 3年程前、京都の解放センターで映画「部落ここに生きる」の完成上映会がありました。多くのスピーチがあった中で先生の「差別−被差別の両極構造を双方からのりこえる…」という言葉が印象的でした。「同和はこわい考」を手にとって著者名を見たとき思い出したのがその時の光景でした。そして読みすすむうちに、ますますあの時のスピーチのことを思い出しました。それ以来、私は一歩も先に進めていないようで、結局は日常の状況に埋没していたといわざるを得ないと思います。今、友人たちと小さなサークルをつくって足もとの点検をしようと話しあっています。そんな時、「こぺる」で先生が「同和はこわい考・通信」を発行されているのを知りました。…(京都・Mさん)

その3.
 私は、個人的には藤田さんとは一面識もなく、ただ「こぺる」や「同和はこわい考」その他で、藤田さんの考えを読ませていただき、考えている者です。説明は、今のところ省略させていただきますが、今後の自分自身の解放運動の在り方を深めるため、ぜひとも「同和はこわい考通信」を送っていただきたいと思います。自分自身をとりまく状況をみながら、自分なりの意見も述べさせていただきたいと考えています。しかし、今のところは、これだけの文面にてお許し下さい。…(東京・Kさん)

その4.
 『同和はこわい考』通信を読むたびに“お前も何か一言、言わんかい”と言われているようで、その義務感だけで筆をとった始末です。この本を紹介し、読んでもらったK・Nさんは一気に全部を読むことができず、しかしながら、今、自分が立っている運動のあり様と本の内容を確めながら読み続けています。「藤田さんは難しい文章を書いてからに、誰に読んでもらおうと思ってんねん」とボヤキながら、いろんな人にこの本をすすめて売りさばき、今も「同和はこわい考」の学習、討論をしたいと言っています。…ほとんどの人が今の運動に問題があると思いながらも、イザ何が問題か、何をどうすればいいかと問えば、二の足を踏んで止まってしまう。「部落解放」「人間解放」の思想や理念が薄らぎ、当面の利害関係だけを優先させてしまうからでしょうか。また小森書記長は「運動の欠陥は十分批判して貰う」というけれど、「総論賛成、各論反対」で結局何一つ改善されない。「いま地対協路線が最も喜ぶことは、このような形の部落解放運動への批判である」という言葉をそのままそっくり小森さんに返したい。…(兵庫・Kさん)

その5.
 一地域の末端にも、部落解放運動の現状を憂う者は必ずおりますし、解放運動の復権にむけての熱い思いはずっとあるものと思います。個人の力など何程にもなりませんが、幸い友人には恵まれておりますので、私なりのモサクを中と外で続けていきたいと思っています。(大阪・Mさん)

その6.
 「こぺる」誌上での論争の活発化は、解放運動にとって必ずや意義あるものと信じます。ただ気になるのは(これからの動きは知りませんが)「こぺる」に登場の人々が運動内外の知識人である点です。運動の第一線にある人たちの意見が知りたいところです。5年という執行猶予期間中に、法がなくなった時以降の運動をどうつくるか、といった論議は、あらゆる所で広げる必要があると思います。(東京・Hさん)

《 紹介 》

 小森龍邦さんによる『同和はこわい考』批判

 部落解放同盟中央本部書記長の小森さんが京都部落史研究所所報『こぺる』7月号で拙文を批判されたことは、すでにご承知のとおりですが、その後もひきつづき批判のペンをとってくださっています。
 この10月、明石書店から出された『行動のための解放思想−地対協路線が生みだすもの』などは、『こわい考』批判にわざわざ一章をさいておられますし、小森さんが編集兼発行人の『解放運動と同和教育』(毎月15・30日の二回発行。B4判)第415 号、1987.9.30.の「地対協路線と、それに類似する理論が表面化」でも触れておられます。前者は直接、本を手にとってみていただくことにして、後者の関連部分を、ちょっと引用しておきます。

 …政府権力との間における、われわれのきびしい対立は、さらにその度を強くしている。「部会報告」の恣意的部分の特徴的なところを、封じこめにかかり、「意見具申」で後退させたと思っていたところ、今度は残念ながら、その名も奇をてらう『同和はこわい考』という著作が出版されるに及んだ。
 著者は岐阜大の先生である藤田敬一氏。狭山闘争にかかわり、青年活動家の間では少しは知られた人である。
 この人が、「部会報告」に「同和はこわい」と主張しているが、故なきにあらずとし、しかも、自分も殴られたことがあるというのである。「部会報告」と、多少違うところがなければならないとして、著作は部落解放運動の味方だという立場に立って、運動に忠告するというスタイルをとっている。
 今日の部落解放運動の反省しなければならないところとして、普通の出版物が販売される一般的状況にとどめないで、この著作に対する議論を、さらにニュースにして、流すという一種のキャンペーンがはられるといったものである。 ある者は、これを運動内部からの自己批判のごときものとうけとめて、これに賛辞をおくったものもいた。さらにあるものは、運動周辺のものの言うことだから、うまく利用できるとするものもいる。
 マスコミの若干の反応がそれである。しかし、著者及び、このキャンペーンにかかわるものは、その動きが、自分達の論理そのものの正しさを証明するものと思い込んでしまっているようである。
 だが、先の師岡氏の「規制法」反対論が、蓋をあけてみると「部会報告」に述べられていることと全く同じものであったのと同様に、藤田氏の『同和はこわい考』も、法務省の「えせ同和」退治のキャンペーンに完全に呼応するものであった。
 先般、部落解放同盟の幹部に対して、「藤田氏の『同和はこわい考』でもわれわれ(法務省)の考えていることと同じことを言っているではないか」とうそぶいたようである。
 藤田氏は、この冷厳な事実をどうみるかということである。どうして、こうも、政府筋が師岡氏であれ、藤田氏であれ、この人たちの言うことに同調するのかということである。
 京都部落史研究所の出している『こぺる』という理論誌には、私も乞われて、『同和はこわい考』の書評というか、批判を掲載した。藤田氏の展開される論理が、「地対協とどこが違うのか」というものであった。
 できれば、そこに真正面から応えるものが、次の号あたりに出てくればよかったと思う。『こぺる』誌上に、藤田氏に同調する論理が、いくら書きならべられても、宣伝にはなっても、論理の発展には効果が少ない。
 私の願うところは、論争をもって、藤田氏の論理と、これを「地対協」路線の悪(亞?)流というか、援護だと考えているものに対して、そうでないと、その「誤解」をといて、統一と団結が、見事に再構築されることである。…
(P.4 〜 6)

 『解放新聞』広島県連版、856 号、87.9.23 付の「主張」も、その文体、内容からして筆者は小森さんだろうという人がいますが、近いうちに、まとめてお答えするつもりでおります。いましばらくお待ちください。

《 あとがき 》
*『同和はこわい考』より『通信』の方がええという人がおられます。なんかおかしな感じですが、まあ、いずれにしても、ありがたいことだと思っております*『こぺる』11月号の“特集『同和はこわい考』を読む”は中村大蔵さん(阪神医療生協)「『別れても共にうつ』と思い直して」、津田ヒトミさん「『ふまれた者の痛みは、ふまれたものにしかわからない』か」です。一読されることをお勧めします*10月31日は岐阜の狭山集会に参加し、少し話をさせてもらいました。写真パネルと「かもい」の模型をもって各労組をまわった県連の取り組みに、わたしの方が励まされました*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。

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