同和はこわい考通信 No.59 1992.6.28. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
「差 別 者 の 自 覚」に つ い て
  ──調・平田「往復書簡」を読む──
畑 辺 初 代(京都・真宗大谷派僧侶)
1.
 私は今の大谷派と部落解放同盟とのねじれた関係には暗澹たる気持ちをずっと抱いております。差別云々という次元からの感想というより、差別問題への対処ということを理由にして、宗教団体として最も大事な事柄が不明にされていくことに対する危惧を持ち続けています。それゆえ調しらべ・平田「往復書簡」についても、同和推進本部の『同和推進フォーラム』No.13(91/11)で読んで、すぐに私なりの感想を書いて投稿したのですが、「現状では担いきれない」との理由で、掲載を断られました。感想はおおむね、次のようなものです。

調さん(同和推進本部長)は、謝るべきでない事柄について、謝るべきでない人に謝っており、そうすることで、一つの行動の典型を作ってしまっています。『同和はこわい考』について、平田さんは「解放同盟中央本部見解」を「総体的見解」とし、禁書扱いを大谷派にも要求しておられますが、これは『こわい考』に対する『こぺる』誌上の論議の経過からみても不当です。調さんは、どうかこうした圧力に屈してタブーの拡大に手を貸すようなことをしないで下さい。現在のねじれた関係を是正するために、もう一度、土俵をしきりなおして論議をしてほしい。そのためには、まず平田さんご自身の『こわい考』の読みを表明してもらうことから始めるべきであると思います。今回のような組織の権威をふりかざしての論議は、部落解放同盟にとっても、大谷派にとっても、人間解放という点では役に立たないと思うからです。そして、これからの論議は平田さんと調さんとの間のみに止めるのではなくて、できれば公開でやっていただきたい。その時は私も積極的に参加したいと思います。

私としては、「往復書簡」に先立つ小森さんの「大谷派へのメッセージ」(『同和推進フォーラム』No.11.91/1)の中で語られている親鸞像にも疑問があり、また親鸞のめざした人間解放と、部落解放同盟と大谷派との現在のゆがんだ関係との関連についても、できれば『フォーラム』誌上でじっくり論議したいと考えての上のことでした。この感想が掲載されないことになった経緯から見て、今後、同誌では「往復書簡」に疑問をさしはさむ論調のものは禁止となり、ますます自己閉塞的な「差別者の自覚」が強調されていくことになるのは必定かと思われます。いっそ浄土真宗という旗を降ろしてくれれば、それなりに名実一致してすっきりするのですが、困ったものです。

2.
 それにしても「往復書簡」は、考えれば考えるほど、驚きです。私が驚き、どうしても論議しなくてはならないと思ったのは、調しらべ本部長が『こわい考』から引用し、平田さんの抗議で放棄してしまった「自己の成育史や生活体験を絶対化してしまうと、他の人々にも程度と質の違いはあれ、それなりの苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さがあることへの配慮がなくなり「やさしさ」を失う。他者への共感のないところで人間解放への希求を語っても説得力はない」(『こわい考』65-66 頁)が、真宗の教えの根幹にあたるものだったからです。『こわい考』のタブー視が他ならぬこの箇所をめぐって出てきたことに、なんとも言いがたい象徴的意味を感じないではおれません。「『こわい考』からの引用だから、けしからん」といって、この文章の意味まで否定してしまった平田さんは、人間解放という、人間にとっての普遍的課題をどのように考えておられるのでしょう。また、平田さんの不当な抗議に屈して、この文章の精神自体をも簡単に投げ捨ててしまった調さんは、被差別部落民には自己の絶対化からの解放は不要とでも考えておられるのかしらと驚いてしまったのです。ですから、この文章の意味を不問にしたまま、あたかも踏み絵を踏まされるように行われた「往復書簡」が、差別・被差別の壁をより強固なものにすることに結果したのは、当然だったように思えます。
 しかし、よくよく考えてみますと、大谷派の歴史の中にはいつもこの類の自己閉塞的信心が存在していました。今日では、自己閉塞的側面が差別問題とからんで、異常なまでに肥大化していますが、もともとの流れはずっとあったのです。私は真宗異安心(宗教上の異端者のこと)の歴史を専攻していますが、大谷派の異安心史の中には、超越を説いたがゆえに異安心者として宗門から追放された僧侶がたくさんおります。「両側から超える」なんて説く藤田さんは、見事な異安心者ということになるわけです。でも、おかしいです。自己を超え、自己を生みだす世界を言いあてることができない宗教が宗教だなんて。状況の外にたたずんで考えている分にはそれでいいかもしれませんが、それでは、生きられる宗教とはいえません。浄土-自我意識から人間を解き放つとともに、自我意識を育てる世界-が生活の中で把握できなくなっているという悲嘆すべき傾向が長く教団を覆い、こうした傾向が、差別問題とかかわることによって、より助長されているのです。
 たとえば僧侶には教師の資格を得るための教師修練という合宿が二回義務づけられているのですが、テーマは、前期は「同和」、後期は「靖国」です。前期修練の場合、20年前の「難波別院差別事件」の際の糾弾テープを聞かされ、「差別者の自覚」を得ることが僧侶としての基礎条件であると強いられます。もし、「あれは当時の輪番が起こしたことで、自分の内をいくら顧みても、部落民であるかないかで結婚を左右するような心は存在しない」とか、「20年前の部落差別を画一的ににぎって坊主懺悔しているよりも、今の部落問題を学習すべきではないか」とでも言おうものなら、「差別者の自覚を持たない最も始末の悪い差別者」と定義され、改心を迫られるのです。「差別教団の中に差別者でない者は一人もいてはならない」というのがその理由です。教団に属しているというだけで、個人個人の差異は認められないわけです。まあ、まったく見事な「坊主懺悔」の強要なので、私などは目をぱちくりさせてしまうのですが、でも事実なのです。
 こういう教化(?)が門徒にも行われます。先日もある教区の通信を読んでおりましたら、そこに次のような問いと答えが載っていて唖然としました。問いは「自分は同和研修を受けて、自分が差別者であるということがわかりました。でも、どうしたらいいのでしょうか。何をしたらいいのですか」というものでした。この問いに対する答えは「そうです。私達は差別者であることから免れることはできません。どうしたらという質問ですが、まずは免れられないということを知ってください。そしてその次は、何はさておき、被差別部落に行くことです」でした。これで宗教者を名のれるのですから、楽なものです。「差別者である自分はけっして変わらない」という観念でしっかりと武装して被差別部落にいって、一体何をするのでしょうか。隔絶した意識の片側に身を縛って、壁の向こうを眺めよとでもいうのでしょうか。こんな人を馬鹿にした話はありますまい。この問答を読んでいて、「いつも同じパターンだなあ」と思いました。「業の報いから逃れることはけっしてできない」といって、浄土不在の教化、人間を業感の世界に閉じ込めるだけの教化をずっと続けてきたのですから。その焼き直しなのです。でも、これは「人ぞもし、真に自己を愛しとおもうなら、一度は目覚めよ」と叫んだ釈尊の精神とは、まったく異質なものです。ですから、私は今日の大谷派の無残な状態というのは、たんに部落解放同盟からの「外圧」が原因だとは考えていません。むしろ、なるべくしてなっているように思います。そして、こういう教化をどう否定媒介的に乗り越えていくのかが、これからの課題だと思っているのです。

3.
 次に、平田さんの論調についてですが、これも大谷派では常套語のようになっているもので、私は一瞬、「平田さんは真宗の僧侶かしら」と推測したほどでした。私自身も何回か言われたことがあります。平田さんの「とても被差別者に何一つとしてのぞめることのできない自分」というのは、大谷派の中では、たいていの場合、「何一つのぞんではいけないのだ」「何かをのぞもうとしているお前は、そんな資格があるとでも思っているのか。差別者にはそんな資格はないのだ」という形をとり、たんに自分の心構えに止まらず、被差別者にものを言おうとしている人間を封じ込める殺し文句となっています。人間と人間の関係をずたずたに断ち切って、人間を「自分は差別者なのだ」という思いの中に閉じ込めて、それで「部落解放をめざさない真宗は真宗ではない」(これも常套語です)と言われるのですから、ブレーキをかけたままアクセルをふかすことを強いられている感じです。何もいえない関係から友情なんて生まれるはずがないのに、なぜこんな論調がまことしやかに語られるのか、私はいくら考えてもわからず、「これって、一体何なのだろう」と思い続けてきました。本当に深くどこまでも対話していける世界を生きることが、信心の具体相の一つだと思うのですが、どうやら、意識してかせずにかわかりませんが、被差別者は信心の枠外とでも思っているようなのです。対を生まない宗教心に止まっているのです。

4.
 疑問と批判ばかりを述べてきましたが、正直言いまして、2年前は疑問ばかりでした。「何かちがう」と思いつつも、どのようにちがうのかが、自分の中で明瞭になっていく方向がわからず、重たい気持ちだけが持続していました。「信心イコール部落解放運動イコール部落解放同盟への支持」とでもいうべき宗派の方針に疑問を感じつつも、どうしたらいいのかわからず、立ちすくんでいました。イコールで直結させることはどうしても自分にはできず、さりとて完全に別とも言えないような意識の中に立ち止まっていました。こうした問題について、それぞれが見ている状況を出し合いながら、対話ができる相手を求めましたが、なかなかかないませんでした。「いろいろあるから」とか、「今はこうするしかないやろう」という声がほとんどで、多くの人が本心を語ることを注意深く避けているように見えました。 そんな数年間の後、思わぬところから活路が開けました。二年前、私が「差別発言」をしたのです(私は当時も今も「差別発言」だとは思っていないのですが)。それが端緒となって、「差別者の自覚」が強調されている状況のまん中に「差別者」として位置づけられることになりました。その際、「自分は被差別部落民だ。差別されてきたんや。だから、差別のことはわかるんや。お前は差別者だから、とにかく俺のいうことを聞けばいいんじゃ」と語る人にも直面しました。そんな中で、いくつかのことが見えてきて、いくつかのことがやっと腑に落ちました(この二年間の歩みについては、7月末には『「馬鹿でもチョンでも」発言に対する私達の歩み』という冊子が発行される予定です)。そこで見えてきた「差別者の自覚」について、少し問題点を指摘したいと思います。
 まず第一は、「差別者の自覚」が空洞化した言葉だけのものに終わっているということです。内実が何もないのです。この言葉を語ることによって、被差別の側と同一化する、そういう魔力を持った言葉(もっとも魔力の効く人と効かない人がいるのですが)として機能しているだけなのです。この言葉に魔力を与えるものは何かと考えますと、それは多くの場合、教団内における自分の立場の保全にあるように見受けられました。たとえば、私が遭遇した事件の中での「馬鹿でもチョンでも」という言辞についていいますと、同和推進本部は話し合いの最後になって、「自分たちは一度も直接、在日韓国・朝鮮人の意見を聞いたことがなかった」と認めながらも、なお「『馬鹿でもチョンでも』は使われている文脈や意図がどのようなものであれ、在日韓国・朝鮮人への差別語である。差別語として使われた経過を持つからだ」と表明しました。そしてこの表明の理由として、「『馬鹿でもチョンでも』を解禁したと思われると困る」とのたまい、私を唖然とさせたのです。はっきりいえば、在日韓国・朝鮮人が何をいい、どう考えているかは二義的であり、「差別を許さない」自分を保持することが第一義だというわけなのです。そして言葉を禁止する権限が自分たちにあるということは、疑ってもみようともしないのです。この時、私ははからずも枯れ尾花が幽霊と化す瞬間を見てしまったようで、とても悲しく感じました。この人たちは本気で、差別から自他ともに解放されることなど望んでいないのだと思いました。私はこれを、あながち悪いこととして非難しようとは思いません。自己保身が悪いとは思いませんから。けれども、それをもって真宗の要であるというのは、あまりにもお粗末だと驚いたのです。自分の立場を拝んでいるような姿勢を宗教と名のらないでほしいと思いました。
 第二は、こうした「差別者の自覚」をふりまわす人は、なぜか非常に対話を嫌うということでした。私を「差別者」として「糾弾」した人が最後まで事件の経過を公表することを妨害したのは、私にとって予想外でした。もっと堂々と主張できる信念に立って生きておられるのだろうと想像していたからです。しかし予想に反して「差別者の自覚」は少しもその人の生きる力となっておらず、かえって生活への自己責任を見えなくさせているようでした。
 こうした点から、私は現在の大谷派で語られている「差別者の自覚」は、真宗の信心とは異質なものであるという確信を持つにいたりました。
 では、どのようにし異質なのかといいますと、「差別」という言葉は、仏教においては、自他差別の意味であり、自我の本質を指し示す言葉であって、「差別イコール社会悪」という図式での認識ではありません。「差別者としての自己」が教えられることは、差別意識としての自我意識から解き放たれることであり、関係のただ中に着地することです。関係の成立を遮断していた意識の自分を越えることであって、そこには当然ながら新しい自分と他者の発見があるものです。結論的にいえば、本来の「差別者の自覚」は、個の誕生と不可分であって、束縛のただ中にあって束縛を越える世界を見出し、立ち上がる姿勢表現なのです。しかし今日語られている「差別者の自覚」は、解き放ちの場をあらかじめ封じ込んだまま、「差別イコール社会悪」という観念でかえって身(関係)を縛っていこうとするもので、まったく逆の作用をしています。この「差別者の自覚」の最大の問題点は、自分から出られないということです。ちょうどガンを患っている夫の前ではらはらし、「私は無力だ」と嘆いている妻に似て、弱さという罪から解放されておらず、関係の一方である自分に立つことができません。行き過ぎた従順は、行き過ぎた支配欲と同腹の子だと思うのです。こうした「差別者の自覚」は、自己というものをすでにある実体的なものとして立てるところから必然します。仏教は無我論でもなく、有我論でもありません。無いということにこだわっても、有るということにこだわっても、失われていくものがあるからです。それは「共生の立場」自体なのだと思います。調さんは「結論から申しますと、被差別者と差別者の両側から越える共同の営みとしての運動の創出がいわれるとき、それがどういうものか私自身具体的に見出だせません」といっています。「運動」になるか、ならないかはさておいても、これでは仏教の法印を捨てたにひとしいのでしよう。情けなく思いますが、ここから出発するしかないようです。ゆっくり、じっくり、問題を浮かび上がらせてゆこうと思っています。
 とりとめなく、書きました。今回はこの辺で。また、藤井慈等さんの文が掲載されてから書かせてもらうかもしれません。



《 往復書簡───被差別部落民とはなにか───割り込み篇③ 》
考えつくままに羅列してみると……(下)
津 田 ヒ ト ミ(熊本)
(承前)
3.低位性にかかわって-②
 さて、ではここで言う近代的差別としての低位性とは一体どういうものなのでしょうか。これまでは進学率の低さ、所得の格差というものをその顕著な例として挙げることができましたが、考えてみるとそれらは結局のところ進学させるお金がないというように貧困が原因だと見ることができました。しかし、近年は(促進学級などの取り組みをしてもなかなか克服できない)低学力に目が向けられています。つまるところそれらは住田さんの言う「今日の実態的差別」である「内面的弱さ」「主体の欠落」「自立の疎外」にその要因を見ることができるというもののようです。住田さんは「困難な状況」という言葉を使ったりてしていますが、仕事保障というかたちで勝ち取った公務員という職によって貧困は克服したものの、それでもなお克服し得ない低位なるものがあると言うのです。例えば喫茶店でのモーニングサービスの朝食、あるいは夫婦公務員共働きの家庭がもたらす所得が堅実さを欠いた浪費に回ってしまうという家計管理、他地域とのコミュニケーションがうまくはかれない、家庭における教育の放棄等々と言います。私も同様に部落の中にいて、例えばゴミ出しの日を守らないとかという自治意識の低さを感じていましたが、しかしこれらの低位的な状況は被差別部落特有のものでしょうか。また逆に被差別部落以外のところにはこうした現象を見ることができないのでしょうか。
 私が現在住んでいる地域は被差別部落ではありませんし、部落に隣接した地域というわけでもありません。しかし、地域の中学は「ガラが悪い」「水準が低い」と言われています。事実関係はともかくとして、中学での“問題児”、“ガラが悪い”子たちは地域にある低所得者向け市営住宅の子だと語られています。生活保護の家庭、片親の家庭、親が障害者の家庭も少なくありません。個々には保護が必要とする層が低所得者向け市営住宅という居住空間を求めて流入し、さらに、お粗末な一般福祉の保護政策であっても、保育料は無料か、あるいはごく少額だし、所得が上がれば住宅を出て行かなければならないので所得をセーブして子どもは保育園に預けて、あとはパチンコで稼ぐなどという人もいるとという話が聞こえてきたりしますと、部落における低位性と感じてきたものと同様のものが(現実の貧困とそれからの保護に甘んじる「内面的弱さ」も含めて)個々に存在していると思えます。
 確かに、部落における低位な状況の背景にこそ部落差別があるという朝田理論の画期的なテーゼをもって部落の低位性と一般地区との低位性を区別してきたのですが、この類似した低位の状況の一方だけを被差別部落の歴史的、社会的関係における差別の結果であり、住田さんの言うような「被差別部落として存在させられてる」=「実態的差別」ということで説明される合理性がどこにも見いだせないのです。むしろ「所得の低さ」ということをネックに、保護とそれを必要とする層、あるいはそれを望む層との関係、それを媒介する空間としての地域との関係で説明される方が単純明快で理解しやすいという気がします。保護を必要とする、保護を望むという特定の階層にとって低位な状況はそれゆえ表裏一体となっているのですが、それがある地域に滞留していればその地域における低位性というように説明されるでしょう。ところが、さらに部落に限っては、そのような層が滞留する限り伴う低位な状況をもって部落差別が存在し続けるているということになってしまうのです。部落に特有とは言えない低位な状況のことごとくを部落に限ってだけ差別に結び付けて論じられるのは、決起局のところ堂々めぐりをしているにすぎないのではないでしょうか。ですから私は部落差別を説明するのに、そこに存在する低位な状況をあげつらっても仕方がないのではと思ってしまうのです。
 差別と言うときの問題は、むしろ被差別部落ではないにもかかわらず、そのような低位的な状況を見ると部落を想起させられる、つまり被差別部落特有の低位的状況というのではなく、一般的にもあり得る低位の状況が部落を想起させる、低位なるもの(低位とは、もはや貧困をとりまく状況というのに限らず、無秩序、暴力、破壊、異質といった「こわい」に想起される様々なもの)が容易に、あるいは安易に部落に結び付けられがちだということではないでしょうか。しかし、低位と部落との結び付けは、住田さんが「私が部落民を感じるのは…結局は部落民の低位性にもとづいているように思います」と言うように、また私が子育てにおけるあるふるまいについて否定的に思うとき、母と私の共通の「しるし」としてそこに部落を想起してしまうと言うように、部落民自身の中でも起こります。呪縛からの解放とは、なるほど個々の心の問題なのだと言えなくはないでしょう。しかし、低位なるものが絡みついて存在している部落の存在、それを身近に感じる場面があればあるほど、現実のそれを横目にして自分の心の持ち様だけを変えきれたとしても、何の意味があるのかという疑問が頭をもたげてくるのです。自己の内部における価値観の入れ換えをもって整理するもよし、しかし先に言ったように、それは社会的価値観とはどのみち相入れない矛盾として抱え込まねばならず(もちろん、その一般社会における価値観の方にこそ問題があるのだとして、それそのものも問うという壮大な展望を否定しませんが)、自己の内部で入れ換え可能な価値観からも逸脱してしまう少なくない場面に至っては、住田さんの言う「内面的弱さ」の克服のための「主体的第一歩」という提起に動揺してしまいます。
 ですが、私がだからといってそこへ身を置けないのは、現実問題として低位と部落が延々と切っても切れない関係として在る限り、そしてそのことごとくを部落差別との絡みで説明づけられる限り、低位と部落との結び付けは外からも内からも延々と次から次に起こってきて、結局堂々めぐりなのだと、ざるで水をすくうように無力感に襲われるからです。正直、灘本さんの言うようなブレークスルーを棚からぼた餅が落ちるように口を開けて待っていたいという気になりますね。でも、堂々めぐりということがわかれば、そこから抜け出すためのブレークスルーはそう遠くないところにあるのかも知れません。

4.部落民としてのアイデンティティの希薄化をどう見るか
 住田・灘本「往復書簡」の中で気づかされた部落民としてのアイデンティティの持ち方のギャップから、少しばかり論を進める方向としてぼんやりと考えていることを最後に書き留めておきます。ただ、その前に一つ言っておきたいことは、住田さんが内面的弱さをも実態的差別として認識するべきだという言い方をしても、それは事業を引き出す「打ち出の小槌」のように使うというのではなく、むしろその逆であって、その点では両氏の考えにそれ程の相違はないのではということです。内面的弱さ、主体の欠落、自立の疎外という実態的差別はもはや行政の施策として克服されるべき性質のものではないということを、これまでの両氏のやりとりの中で確認できたと思います。
 さて、灘本さんは「部落民ということに意味を持っている人にとって自分はまごうかたなき部落民であるが、そうでない人にとっては何の意味もなさない」(50号P7)と言っています。だから灘本=部落民ということは、それが必要な人にとっては意味を持つだろうが、彼自身にとっては何の意味も持たないと言うのです。このようにすっきりと部落民と言うことを整理できてしまうのは、低位性に絡む自己の置き方のギャップであるということを感じているわけで、自分自身、あるいは自分の身近な者の中でいやがうえにも低位と見なされる現実を感じれば感じるほど、その低位なる状況と部落との結び付けが起こり、そしてこのような結び付けが起こってしまう以上、その低位なるものを放置できないのです。低位の中へ自分自身を置くのです。そして低位と部落が現実に切っても切れない関係として存在している限り、その中に身を置く置き方とは現実的側面としての保護を必要とする層、または望む層としてか、またはそこに居住することに精神主義的積極的意味を持たせ得ている者としてかでしょう(もちろんこの二つの存在の仕方が重なっている場合もあります)。
 保護の対象という意味では部落民というカテゴライズは、それが外からであっても内からであっても不可欠です。属地属人主義とは、対策事業にかかわっての規定の以外の何ものでもありません。その意味では部落民ということに意味を持たせることが必要な場面とは、一つは対策事業受給に関する場面です。ところがとりわけ精神主義的積極的存在の仕方という意味において明らかに対策事業受給とは切れたもう一つの意味づけ、カテゴライズが存在するのです。「吾々がエタであることを誇り得る」というものです。必要な人にとって必要とされるという意味でのカテゴライズとは若干ニュアンスの違うものとしてのアイデンティファイです。社会における構造としての被差別の側面を認識する、おとしめられてきた人間性(もういまはこんなものは存在していないという議論はちょっと置いておきます)を回復する、被差別の自己に目覚めるというものです。「穢多」にプラスの価値を置くことなしには成立しない存在の仕方です。
 古いタイプの「部落差別に目覚めた青年」としては、部落民としてのアイデンティティを持つことは何より必須のプロセスでした。部落民としてのアイデンティファイとは、外からやってくるのではなくて、まさに内からの作業です。部落民としてのアイデンティティを持つということは、いかに誇りを持てるかということだったと思います。もちろん誇れないものも存在しており、その意味では私自身はマイナスやプラスの価値が交錯する呪縛もまた悪くないなと思っていたのです。ともかく何の価値も置かれないというのより、何らかの価値(意味)を見いだそうとする、そのようなアイデンティファイを否定できません。部落に目覚めた古いタイプの青年の私としては、アイデンティティの希薄化とは憂うべき状況だという思いが正直まだ拭えません。
 しかし、灘本さんは「不必要なアイデンティファイ」(57号)と言います。さらに「部落民の存在感、地域の存在感が希薄化していくということをプラスとして取り込めるような運動のスタンスが必要ではないか」と、ずいぶん新しい発想で「主体」についての提起をしています。藤田さんは「他の人びとが“被差別部落民”として…描く多様なイメージの複合されたものぐらいにしておいたほうがいい」(54号P9)と言います。
 確かにアイデンティティの希薄化という状況を一つ超えて、例えば在日朝鮮・韓国人にとって民族や祖国に帰属していくことによってなされたアイデンティファイと、もはやそれに共感できない、違和感をおぼえてしまうという、むしろ民族や祖国にあるスタンスを持とうとする、姜信子の『ごく普通の在日韓国人』(朝日文庫)言うところの「日本人化された」在日三世などの新しい存在の仕方が探られているのだと思いますが(思えば彼女のスマートさは、灘本さんの呪縛の整理のつけかたと、かなり似ているような感じがします)。ともかく、少なくとも自己を「知らない」でいることと同じような意味での希薄化(寝た子を寝かせておくという)状況ではなくて、自己を「知る」、その知り方、そして存在の仕方です。そこに積極的な意味を置くのか置かないのかわかりませんが、過去被差別部落としてあった地域にいま存在しようとするその存在の仕方です。過剰な部落民としての誇りという手法は矛盾が多すぎることは、つらつら書き散らかしたところですが、このあたりのことが論じつめられると、もう少し何か見えてくるのかも知れません。
 半端な感じですが、このあたりでひとまず筆をおきます。割り込むほどの確かなものさえなく誌面をいたずらに拝借しましたことをご容赦下さい。



《 各地からの便り 》
● いつも「通信」して頂き有難うございます。藤田さんの営みに対し自分なりに感じたことを書きたいと思います。

人間は蛍のように発光しなければならない。
わずかな光であろうと自分で光りえる人間。
そういう人間に私はなりたい。
今の社会を見渡せば反射する人間の多い事。
カメレオンのような敏感さで周囲に同化し、その色を精一杯反射しようとする。
まるで反射の技量が人間の技量のように。
そんな人間の中で本当に小さな明りかもしれないが、自ら発光しようとする人間。
そういう人間に私はこうべをたれる。
なぜならそこに至るまでの困難さを私はつくづく味わっているからだ。
自ら発光する事の困難さを乗り越え、大空のように自由界へ自分を解放せしめた人。
そういう人間に私はあこがれる。

先日、京都でお会いした際、一歩先へ踏み出して振り返る勇気をおっしゃっていましたが、それこそが今まさに私が必要としている事でした。
 群衆の中に振り返って話しかける勇気。
それが私を自ら光りえる人間にさせるものだと思っています。
 藤田さんのこの「通信」は、自らを発光させる人間であることを高らかに裏打ちしています。私も小さいながらも光りえる人間であるよう努めます。
 この「通信」という営みに最大の敬意をこめて、お礼を申し上げます。
 (京都・M.Mさん)

コメント.
 ちょっと面映ゆい感じですが、えいッやあッと勇気を奮って載せさせてもらいました。

● 自己の立場や生き方を絶対視してしまうと他者への本当の理解は生まれようがないとということは、教育の場に糧を求める者が心していかなければならないことだと思います。平田さんのような主張をする人は、学校教育の現場には多く、あるいは私もその一人かと思うこともあります。自己の立場を絶対視しない、さめた自己も必要で、自己の既得権にあぐらをかかないことも大切です。そこにこそ心の通じあう世界ができるのではないでしょうか。まだまだ平田さんのような考えの持ち主は多く、それだけ藤田さんのいう「両側から超える」努力が続くことになります。私も自分のできる範囲で自分なりにやっていくつもりです。(兵庫・K.Yさん)

コメント.
 自他の立場・資格の絶対化が、人間らしい関係をつくるうえでどれほど障害になっているか、あんがい人は気づかぬようです。教員というのはその最たるものの一つではないかと、つねづね自戒しているんですけれど、ときに権力者的になっている自分にはっとすることがあります。あきませんなあ。

● 『こわい考』通信No.58ありがとうございました。今回はより充実した内容で楽しく読ませていただきました。住田さんの「寄り添う同伴者を拒否する」(文中には「拒否せざるをえない」とあるので、「寄り添う同伴者を拒否せざるをえない」の方がよかったのではないでしょうか)、なかなか説得力がありました。でも私の長い解放運動の中での経験からいうと、「寄り添う」ようになってしまったり、また「寄り添わざる」をえなくなったとして、むしろその原因を作った方が問題であり、そうしたことからすれば、考え方に対する拒否はあっても、同伴者を拒否することはできません。多分、住田さんも、そのようなお考えで述べられていることだろうと思っていますが、「両側から超える」とは、そんなことを大切にしていくことだと思って、いろいろ問題はあっても気長に話し合って行くことをモットーとしています。
 (京都・N.Sさん)

コメント.
 やはり問題は、被差別者やその運動・組織に身と心をすり寄せる随伴者の背後に、差別・被差別の隔絶された関係が隠されているということでしょうね。そのような関係を変えるべく気長に話し合うことに異論はもちろんありません。ただ、わたしがとりあげた差別判断の資格と基準についてもっと率直な論議ができないかぎり、話し合い自体成り立たないのではという気がしますが。

《 あとがき 》
★第9回部落問題全国交流会(9月5,6日、京都・門徒会館)が近づいてきました。新たな出会いを期待してワクワクしてます。ぜひお出かけください
★次号は交流会にむけて住田・灘本・土方・藤田の報告要旨を中心に特集を組む予定
★6月1日から6月27日まで岐阜、三重、京都(3)、愛知(2)、大阪、広島の9人の方より計56,105円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうごさいます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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