同和はこわい考通信 No.58 1992.6.6. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
「寄り添う同伴者」を拒否する───平田・調「往復書簡」への疑問
住 田 一 郎(大阪・西成労働福祉センター)
1.
 平田さんの調さんにたいする問題提起の根幹は、二度の糾弾会を通して学習し、自己批判したにもかかわらず、なぜ調さんは“差別図書”である藤田敬一著『同和はこわい考』から、平田さんがもっとも「カンに触る」文章を引用したのかにあった。調さんは、藤田さんの指摘を自らも陥りやすい弱点として受けとめ、普遍性をもつ考え方として引用したにすぎないと、私には思えるのだが。

自分の成育史や生活体験を絶対化してしまうと、他の人々にも程度と質の違いはあれ、それなりの苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さがあることへの配慮がなくなり「やさしさ」を失う。他者への共感のないところで人間解放への希求を語っても説得力はない。

この引用された文章のどこに問題があるのか、私にはわからない。これこそ、他者との共同の営みで成り立つ社会生活ではもっとも重視されるべき社会規範のひとつであるはずなのに。地域内での教育を守る会と学校側との教育懇談会で常に父母から発言されてきた内容のひとつに、先の「引用文」があてはまるような事態が起っている。

先生らは所詮学校時代はええ子で、勉強もできたし、生活もなに不自由なかったエリートや。そんな先生らに私ら部落民のしんどさはわからんやろ。

と、議論が伯仲したときに言い放ち、それ以上議論が途絶えてしまうこともしばしばであった。教育を守る会の反省会でこのことが話題になった。

先生たちをひとくくりにして俺らと違うエリートや、でいいのやろか。 私らに先生たちから学ぶことはないのやろか。 そやけど、考えたら私ら先生たちとじっくり話し合ったことがないし、先生の素顔をあまりにも知らなさすぎるんと違うか。

といった話し合いの結果、一度「先生の素顔を聞こうや」ということになった。一人の教師は

ぼくは親父が家業に失敗したので、行きたかった高校もあきらめ働いたんです。どうしても高校に行きたくて学費を自分で都合し、やっと翌年に定時制高校に入りました。大学は学資稼ぎのバイトに追われながらどうにか卒業できたのですが。

と話してくれた。ある意味ではどこにでもある話しであった。しかし、部落の母親にとっては新鮮で

へえー、先生って苦労してるんやねー。みんな暮らしの楽なぼんぼんばっかりと思っていたから、話し聞いてびっくりしたわ。

と自分の固定した考え方を素直に顧みて発言した。部落の親の多くはこれまで部落差別との関係で外の世界と「遮断」され、交わることが少なかった。そのせいもあり、話し合いの後で

いつのまにか自分たちだけを「悲劇の主人公」にしているのでは。
やっぱり外の人の生活も知らなあかんし、じっくり話しもせなあかん。外の人から話ししてくれるのを待つんではなく、自分たちからも話しかけていこう。
井の中の蛙では子育てもできんなあ。

という結論を引き出したのである。
 ところで平田さんは「引用文」そのものにたいする批判を巧みに避け、「被差別の立場、資格を絶対化する者の傲慢さになじめないとする論調」上に書かれているからけしからんというにすぎない。では、平田さんはこの「引用文」にたいしてどのような見解を持っているのか、その手紙からは伺い知ることはできない。同時に、藤田さんが具体的に指摘した部落解放運動・被差別部落大衆の中に残念ながら見うけられる「被差別の立場、資格の絶対化」による弊害状況についての見解もまったく見られない(平田さんは弊害状況を事実無根というのか、それとも事実は存在するが差別者である自分にはとても指摘することはできないというのか明確にすべきであった)。あるのは藤田さんのように部落解放運動・被差別部落大衆の弱さを指摘することは差別する側の人間の傲慢さにほかならないということだけである。ここからは部落解放運動にたいする人々の素直な疑問や批判的な見解を受け入れ咀嚼しようとする姿勢は生まれない。

2.
 次に、平田さんの論理がよって立つ『同和はこわい考』への中央本部見解について見ることにする。『同和はこわい考』は、その論理展開が地対協のそれに類似しているという理由から非難され無視されているが、問題提起を受けた解放同盟側は、本来なら指摘された内容が事実なのか、そうでないのかについて具体的に見解を述べる義務があった。ところが「見解」では、そのような指摘は地対協(=悪)レベルでの矛盾・弊害の指摘にすぎず、認められないというにとどまる。では、地対協レベルではない矛盾や弊害の指摘は認めるのだろうか。しかし、こうした疑問も、そのような詮索自体が「利敵行為」として葬り去られているのである。要は、被差別者側の矛盾には目を向けるなというにひとしい。つまり、その原因のすべては為政者が負わねばならないのだからという理由である。これでよいのだろうかと、私は日々の解放運動の実践を通して悩んでいる。
 平田さんは、私たちのこの困難な作業を自らに課すことなく、「見解」の内容を金科玉条のごとく扱っている。さらには、自らの主体的な思考を完全に停止させ、「見解」にすり寄っている。平田さんは「見解」の権威をお墨付きにして意見を述べるのではなく、自らの社会教育実践を通して藤田さんの指摘内容について誠実に答えるべきであった。中央本部や私たち末端の支部員にとっても不本意であるが、長年の同和対策事業の実施から、各地の解放同盟の運動に矛盾、弊害が生まれているのも事実である。現に、その矛盾によって周辺地区住民の部落問題認識の一部が残念ながら「歪められている」のも事実なのである。同和対策事業の著しい進捗が見られる現在だからこそ、解放同盟の一員として、私は矛盾や弊害を客観的な事実として認めることにやぶさかでない。私たちは「裸の王さま」であってはならないのである。もちろん、「歪み」の原因をすべて被差別部落民に求めることを私も拒否する。しかしである。20年にわたる同和対策事業実施で獲得された一定の成果を踏まえるなら、これらの「歪み」の責任を現在もなおすべて政府・地対協に課すことはできない。「見解」は、「政府の政策の『欠陥』に目を向けるということが、第一義的でなければならない」という。運動を推し進める側の矛盾・弱点の指摘が第一義的でないとして、ではいつどこで指摘の場は保障されるのであろうか。推し進める側の矛盾・弱点に頬かむりしたまま、あくまで責任を政府や国民にのみ課し続けるなら、部落問題の解決をめざして闘ってきた全国水平社以来の部落解放運動における被差別部落大衆の主体性はいったいどうなるのか。部落解放の課題は決して誰かによってなされるものではなく、部落大衆自らの力によって達成すべき課題とされてきたのではないか。ところが平田さんは、

差別者であるという認識に立った私たちは、まず何によって自己を検証していくかということを考えますと、やはり差別と闘っておられる人々の実践、理論に学ぶほかないと思うのです。その実践、理論がいかに普遍的であるかということに思いが至ったとき、初めて自分自身のエネルギーとなり、不合理、矛盾に立ち向かっていけるのではないでしょうか。(真宗大谷派同和推進本部発行『「同和」推進フォーラム』No.13,6頁.91/11)

と語り、さらに

差別者である己に気づいたとき、とても被差別者に何一つとしてのぞめることのできない自分であることを思えば、その自己の差別性を克服していく以外方法のないことに気づかされるのではないでしょうか。(同上)

と駄目を押す。確かに、平田さんのこれらの言葉は、被差別部落出身者に快く響くかもしれない。しかし、私は平田さんのように「寄り添う同伴者」を拒否せざるをえない。なぜなら、これでは人と人との対等な関係(ともに成長しあう関係)が、平田さんとの間には築けないからである。また平田さんは部落差別と闘う被差別部落大衆の実践、理論が常に「正当であり、普遍的である」とも主張しているようだが、この無謬性はいったい何によって確認(客観的な事実としてか、それとも単なる思い込みによるのか)されるのか明らかでない。平田さんは被差別者の側に立って、橋渡しをしているつもりであろうが、実際は「贔屓ひいきの引き倒し」でしかない。その姿勢は、思惑とは逆に被差別者の主体性を曖昧にし、自立を阻むことになっているのである。

3.
 平田さんには被差別部落大衆が歴史的・社会的に差別され続けてきた状況へのリアルな認識がないように思う。もはや、私たちは部落差別にあらがい続けてきた被差別部落大衆の素晴らしい生き方、「光」の部分を強調するだけでなく、部落差別によって負わされてきた被差別部落大衆の弱さ、「影」の部分への言及を避けて通ることはできないのである。とくに同和対策特別措置法下、23年間に及ぶ対策事業実施後の今日、この「影」の部分にたいする部落大衆自身による取り組みが必要なのである。この時期にあって、平田さんは差別する側の人々は、被差別者の「影」の部分への指摘はできない、差別者にできることは被差別者の「光」の部分から学ぶことだけだと主張する。
 平田さんは最後に、

「両側から超える」などということは、差別する側の同情、融和からきた傲慢な思いのあらわれではないでしょうか。/差別する側の、その「立場」にきちっと帰ってみれば、言えることと言えないことの理解がそこでできてくるのではないかと思うのです。水平社宣言にある「人間を勦るかの如き運動」の「勦るかの如き行為」は、もう二度と許せるものではないはずです。(同上)

と述べ、さらに

部落解放へ向かって前進していける意見であるかどうかということで「自由な意見」といえるのであり、差別に拍車をかけるような、あるいは足を引っ張るような意見は真に「自由な意見」とは言えないと思うのです。(同上)

と締めくくっている。部落解放運動にすり寄った平田さんのこのような姿勢こそ、一見被差別部落大衆に心地よいが、「人間を勦るかの如き運動」そのものであり、決して乗せられてはならない「立場」であると、私は肝に銘じている。平田さんはその意味で水平社宣言のエッセンス(自らを律する自己解放の思想)を読み違えている。自分たちの恣意的な価値判断でしか評価しない「自由な意見」云々にいたっては何をか言わんやである。要は、「被差別者の立場の絶対化」を認めさせたいだけなのだから。
 最後に────。理不尽としか言いようのない平田さんの反論について“納得” した調さんの返信をどう理解すべきか、私は戸惑うばかりで、何かを述べる元気もない。しかし、調さんが引用した金時鐘さんの深い内省の言葉は、「在日」の自覚の極限からしぼり出されたものであることを思えば、それは「被差別」を自覚した我々被差別部落大衆の出発点にほかならないということが見えてくるのである。



《 往復書簡───被差別部落民とはなにか───割り込み篇③ 》
考えつくままに羅列してみると……(上)
津 田 ヒ ト ミ(熊本)
1.被差別部落民としての存在の仕方
 「部落民とはなにか」というテーマでの往復書簡と割り込み篇、大変興味深く読ませていただきました。しかし、さて何かをもってこの往復書簡に分け入るとなると、論争の行方の不透明さの中で整理のつかないことも多く、ますます混迷の途をたどることになりはしないかと危惧しているところです。が、私なりにこの間考えてみたことを羅列することで割り込ませていただくことにします。
 住田さんは「呪縛(差別を受けるかも知れない不安)は、彼らの出自が被差別部落として存在させられ続けていることによっているのではないか」(『通信』50号P3)と地域にこだわり、一方灘本さんは「部落民であること、穢多の末裔であることをまっすぐに(卑下もせず誇りもせずに)受け入れ、整理されていれば呪縛から解放される」(同P6)と言っています。つまり個々の在り様、心の問題だと言うようです。とりわけ住田さんの言う「地域が被差別部落として存在させられ続けている」という言い方の中に灘本さんとの認識の仕方の違いを垣間見た気がしました。その点について私は、「被差別部落として存在させられている」と言う時の、「存在させられている」という側面は否定しませんが、ある地域が「存在させる側」によって「存在させられている」という受動的側面によってのみ存在することはないだろうと考えます。ここでいう地域とは、地理的なエリアではなくて、そこに居住する人々によって成立している共同体を指していますから、そこに居住している人々によって(望むと望まざるとにかかわらず)そのように、つまり被差別部落として存在することを選びとっている側面もあるのではないかということです。もし住田さんの言うように「本質的には被差別地域を形成する共同体に対する差別問題」であり、それが「存在させられ続けている」という受動的存在の仕方であるならば、多少の摩擦が生じても物理的にその共同体を上からの力で強行的になくすことは可能だと思います。しかし被差別部落としての地域共同体がブルドーザーでならされるようにして消滅させられることはもとより、他地域への融合などの方向での地域の崩壊、解体をも私たちが望んでいないとしたら(結論めいたものが先行しますが、実はこの点は今後の部落の存在の仕方という意味で非常に重要だと思えるので、もっと細かに議論されていくべきだと考えています)、それはまさに過去に被差別部落として存在させられてきた地域共同体が、地域共同体としていま存在しようとしているということになるわけです。ともかく「存在させられている」だけでなく、そこに能動的に存在しようとしている側面を見逃せないのではないでしょうか。
 そして、この能動的な存在とは、二つの仕方が考えられると思うのです。一つは、かなり現実的なものがその動機としてあると考えられます。これは山本尚友さんが提起されている「特異な階層的傾向を持つ人口流動により貧困層が部落内に滞留する傾向を持つ」場として存在しているということ(『部落の過去・現在・そして…』阿吽社、P45)にかかわります。このような存在の仕方は、対策事業における属地主義によって促進されている面は否定できません。もう一つは精神主義的な面における積極的存在の仕方です。「困難な状況(実態的差別)に向かって主体的な第一歩を踏み出した」(前掲書P181)住田さんらの「教育を守る会」などは、まさに積極的に部落に存在しているわけですが、その精神主義的存在の仕方においては、灘本さんの言うように「卑下もせず誇りもせず、プラスの価値もマイナスの価値も見いださず」にはいられないのです。
 論争の発端となった『「ちびくろサンボ」絶版を考える』での灘本さんの「部落民宣言」について、灘本さんと住田さんとの間に見られるズレは、何の価値も置かずに存在している灘本さんと、積極的な意味を持って存在している住田さんとのズレであったと思えるのです。
 精神主義的、積極的存在の仕方とは、「『低位性』という近代的差別がとりまき、からみついている現実のもとでは」(灘本、50号P6)、マイナスをマイナスのままで存在させずに、それを克服するものとして自分の中の価値観を入れ換えることによって、それをプラスにしてしまおうとします(これは社会における価値観としては入れ換えられない矛盾として抱え込むことになるのですが)。つまり積極的存在の仕方は、そのように存在させられている(受動的・マイナス)を、そのように存在する(能動的・プラス)へと転換することなしにはあり得ません。灘本さんのように何の価値も置かずにとはいかないのです。そこにプラスの価値を見いだすことにこそ意味があるのです。あの過剰なまでの「部落民の誇り」は、まさに自己の内部でのマイナスとプラスの価値の入れ換えの手法として登場してきたのだと思います。社会一般に言われる「卑下されるべきこと」は、見るに値しないのです。「卑下されるべきこと」は差別の結果であり、差別の結果と言うときには、すでに自己の内部においては見るに値しないものだという価値観の入れ換えが行われています。いや、行われているはずなのだと言っておきましょう。ともかく、結局ところ、そうしなければ現実の低位性を自己の内部で整理できないのです。

2.低位性にかかわって-(1)
 これは藤田さんの言う「しるし」(54号)や、住田さんが紹介している横井清さんの話、そして「表面的には全然わからないんやが、子どもの叱り方・対応・立ち居振る舞いから、この人は同和住宅の方に曲がるやろうと予測すると、ほとんど当たる」と言った人の話などの箇所から鮮明になってきたことなのですが、「私(住田)が部落民を感じるのは、あれこれ考えてみても結局は低位性にもとづいているように思います」(55号)と言うその延長上には、自分自身あるいは自分の身近なものの中に低位性なるものをいやがうえでも感じざるを得ないという現実があるようです。そしてその頻度に比例して、そのように存在させられている(受動的)側面も、そのように存在している(能動的)側面もひっくるめて、それに対するマイナスの価値あるいはプラスの価値が交錯するということが起こるのだと思います。低位性を身近に感じれば感じるほど、灘本さんの言うようにすっきりとは整理されない呪縛が存在するのです。
 『「ちびくろサンボ」絶版を考える』でのあの発言は、低位性の渦の中に、あるいは両義の価値の交錯によって呪縛されている人々によって違和感をもって受けとめられたのだと思います。つまり、論争の発端のあの「部落民宣言」について言えば、部落民ということにマイナスのイメージや、あるいはそれを克服して転換させ得たプラスのイメージが付着したものとして想起される者にとっては少なからず違和感を覚えさせ、当の灘本さんは(プラスもマイナスもないのだから)「そんなに重大事だったのかわかりません」(57号P1)というように、そこにかなりのギャップが存在しています。そしてそのギャップはどこからくるのかということです。率直に言ってしまうと、灘本さんが「穢多の末裔であることをまっすぐに(卑下もせず誇りもせず、プラスの価値もマイナスの価値も見いださずに)受け入れられ、整理されている」のは、灘本さんに近代的差別としての低位性なるものが存在していないということではないでしょうか。灘本さん自身がそう思っているか否かはこの際まったく無関係に、灘本さんは部落に低位性を見いだす対局としての優位の側に、しかもごく自然な形で存在しており、だからこそ「穢多の末裔であることを(何の価値も置かずに)受け入れられている」のだと思うのです。
 低位なるものが存在していなければ、それをプラスに転換するという作業もまた必要ないのですが、被差別部落民にとっての低位性の克服とは、例えば競争主義に貫かれた受験体制の強者となるということではなく(ある時期の運動はむしろそのことをはっきりと否定していたと思います。「解放の学力」とか「土方のままの解放」となどといった論の功罪でしょうか?)、そのように存在させられてきた被差別部落の側面を認識する(自分のせいではなく、そのように存在させてきた社会のせいなのだと)、被差別の自己に目覚めること(部落民としてのアイデンティティを持つこと)から始められてきました。したがってそもそも低位なるものが存在しない灘本さんにとっては、ことさらに卑下することも、また逆に誇ることも必要ではなく、認識しなければならない被差別の側面というものも、さしあたって存在していない、よってことさらに部落民としてのアイデンティティなぞ持つ必要もないのだと思います。
 たぶん灘本さん自身とご両親、それからその代に部落を出られた祖父母の方々にしてもその言動、立ちいふるまいというものから部落民としての「しるし」を感じさせるものはないのではないでしょうか。ですが、私はと言えば、自分の中に見いだす低位性は、ことごとく「部落」に帰結してしまいます。とくに住田さんの文章にあった「表面では全然わからないんやが、子どもの叱り方・言動・立ち居振る舞いから」部落民であることがわかるという部分は、もうまるで私のことを言われているみたいに感じました。例えば私の母はある意味では私にとって反面教師としての存在なのですが、母が子どもの私に接して来たある部分、ある場面やその他の言動や立ちふるまいに対して、あんなふうにはなりたくないと考えているにもかかわらず、いつのまにかすっかりそうなっている自分に気がつくと、もうこれは単純に生物学的な遺伝による性格の同一性などとは言い難く、それは母と私の共通の「しるし」のように感じられてしまうのです。また、学歴ということにしても、私にとっては低位性の反動としての大学であったわけですから、たかだか地方の三流大学であっても何の感慨もなしには存在しません。
 住田さんが私の感じ方に近いかどうかはわかりませんが、住田さんの言うことがそれなりに理解でき、灘本さんのように呪縛を整理できない私と、すっきりと呪縛を整理してしまう灘本さんとの間には、あきらかにそのような背景の違いがあると言えるでしょう。(つづく)



《 各地からの便り 》
● No.57、拝受。いつものことながら率直な発言に感心しています。とりわけ今号は「自己否定」の意味、人間関係の意味、いずれも身にせまってうけとめられることでした。変革というのも、肯定を基礎としなければなりたちえないのではないでしょうか。…… (神奈川・Y.Sさん)

コメント.
 人様がどのように自己を否定なさろうと、わたしにとやかくいう権利もなければ責任もない。ただ、お一人でやってほしいと願うだけです。だいたい自己否定なんて公言するものではありません。重要なのは、解体と再生の契機を自らの内部にもち、それが人と人との関係のありようと具体的につながることなんですから。ところで「変革というのも、肯定を基礎としなければならぬ」とのご指摘に、わが意を得たりの感あり。人間の限界を見つめつつ人間を肯定しようとするところに変革への志は生まれると思いますが、困ったことにその志というのがあまりあてにならないのです。絶望と希望の間に揺れ動き、自他への失望の気分を抱きながら、大それた志などもたず、ぼちぼちやるしかないのでしょうね。

● 巫女役を演じる人がいること自体とっても残念です。組合の中にもそんな人がいます。大会で八百長質問する人がいて、そんな人が“活動家”としてその世界では評価されたりしているようです。それにしても“巫女”とはよく言われましたね。藤田さんにしては、いつになく激しい表現です。…… (福岡・S.Tさん)

コメント.
 たしかに「いつになく激しい表現」だったかもしれません。糾弾の場で異様に激昂する、いわゆる被差別部落外出身者がいて辟易へきえきし、ついで怒りを感じたことがありますが、平田さんの文章にたいしても同じ印象をもったからでしょう。

《 案内 》
第9回部落問題全国交流会───人間と差別をめぐって───

 呼びかけ:部落問題全国交流会事務局
 日  時:1992年9月5日(土)14時~6日(日)12時
 場  所:本願寺門徒会館(西本願寺北側)
      京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町(Tel.075-361-4436)
 費  用:7000円(宿泊込み)/3000円(参加のみ)
 申し込み:京都部落史研究所(〒603 京都市北区小山下総町5-1 Tel.075-415-1032)
      山本尚友あて葉書に住所・氏名(フリガナ付き)・電話・宿泊の有無
      を書いて8月25日までに申し込んでください。
 日  程:9 月5日(土)
       14時  開会
       14時半 問題提起 住田一郎・灘本昌久・土方鉄・藤田敬一
       「わたしたちは確かな一歩をしるしてきたか」
       16時  分散会.21時 懇親会.
      9月6日(日) 9時 分散会.11時 全体会.12時 閉会.

《 紹介 》
☆井上 清・師岡佑行・藤田敬一

  「過去と対話する感性(下)-『京都の部落史 2 近現代』をよんで-」
   (京都部落史研究所『こぺる』No.173,1992年5 月号)

《 あとがき 》
★卯の花について、お二人の読者からご教示あり。卯の花といってもいろいろあるんですねぇ。無知が恥ずかしい
★京都部落史研究所の『こぺる』が173号をもって廃刊となりました。誌名が所報から『こぺる』に変わった当初、「そうあつむ」のペンネームで短い文章を何回か書いたり、『こわい考』をめぐる論議が連載されたことなどが思い出されます。寂しいですなあ。別の形でなんとか復刊できないものか、あれこれ思案している最中です
★先日の「朝まで生テレビ-差別・人権と表現の自由」をご覧になりましたか。わたしも一応テレビの前に座ってがんばろうとしたんですが、1時間もちませんでした。差別・被差別の隔絶された関係があまりにも生々しく映し出され、見るうちに辛くなってしまったのです。部落差別問題をめぐる今日ただいまの情況が電波を通して知れわたったのだから、かえってよかったのではないかという意見もありえますが
★全国交流会の開催要項ができました。ぜひお出かけください。文字どおり交流の場にしたいと思ってます。恒例の懇親会、いまから楽しみです
★津田さんの文章、都合により二回に分けて掲載させてもらいます。申しわけありません
★5月28日から6月1日まで福岡と愛知のお二人から6000円のカンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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