同和はこわい考通信 No.55 1992.3.14. 発行者・藤田敬一

《 往復書簡───被差別部落民とはなにか③ 》
灘 本 昌 久 様
 被差別部落民の「内面的弱さ」について
住 田 一 郎(大阪・西成労働福祉センター)

 久しぶりにお便りを出します。しばらく中断している間に、柚岡ゆおかさんと藤田さんのコメントと積極的な意見が掲載され、私自身多くのことに気づかされました。それ以前にも、まわりの友人からの、「住田の手紙は部落民の資格を問うものになっており承服しがたい」「日頃のあなたの意見とも思えない」などの声を聞くにつけ、少なからず驚くと同時に、落ち込んでもいました。多分、私の手紙そのものに「資格」を迫るように受けとられる弱さがあったのでしょう。再度考えたことについて書いてみます。
 往復書簡であなたと深めたかったことの一つは、『「ちびくろサンボ」絶版を考える』におけるあなたの部落民宣言についてでした。しかしながら、その問題は藤田さんのまとめた意見(本誌No.54.5~7頁)につきるように思いますので、一応私自身はその意見で納得しています(あえて見解の一致が必要でもないので)。
 次に、往復書簡で明らかにしたかった「部落民とはなにか」の問題ですが、私自身は原則論的に展開しようとしたのではありません。ですから藤田さんの指摘───私が古典的な三位一体論の立場をとっているかのような──とは少し違っているように思います。ただ、今日においても部落差別問題を語るうえで地域の持つ意味は、のちに述べるように大きいと、私は考えていますが。書簡での私の主題は、部落民とはなにかを直接問うことではなく、歴史的・社会的に形成された被差別部落に住みつづける部落大衆の生活の中に今日もなお依然として色濃くみられる実態的差別(部落大衆の内面的な弱さ・マイナス要因)の現実を、部落差別問題としてどのように把握するかにあったのです。
 それは同時に、藤田さんが『こわい考』以後一貫して強調されつづけてきた「両側から超える」営みにおける、一方の当事者である被差別部落大衆の現状を、いかに捉えるかの問題でもあります。一言で言うならそれは、被差別部落大衆は現状において、その当事者(主体者)たりえるのかという、私の危惧だったのです。

 現在、大阪府連では教育改革運動の真っ最中です。20数年の同和対策事業で獲得された教育諸条件の充実が、部落の子どもたちの学力の定着にほとんど反映していないあせり、いらだちからきています。私には冷静に判断するなら、進学率・学力の著しい格差は確実に埋められており、成果がなかったとは到底思えないのです。着実に部落の子どもたちの低学力は克服されつつあります。もちろん、学力にも連なる子どもたちの“生活台”における課題の大きさを知っている私には、現状のままでよいとは決して思えません。ただ、東大に何人入ったとか、官界や大企業にほとんど入っていないとかの尺度のみでとらえる彼らの学力観で測るなら、現状に満足することはできないでしょうが、その尺度の有効性については、大きく議論が別れるところでしょう(改革推進者の中には今日の支配的な差別選別の能力主義路線に参入することをめざす人々も多い)。
 教育改革運動では、学校現場における加配教員などの諸施策の点検・総括と地域・家庭における子育て力(教育力)についての総括活動の二課題が提起されています。なかでも今回の目新しい指摘は、「勉強・学力保障は学校の責任」とする従来の立場を基本的に堅持しながらも、一方的に学校・教師の責任をのみ追及するだけでは、部落の子どもたちの厳しい事態はほとんど改善されることはないとした現状把握にあります。「子育ては最終的には親の責任」「子育てに強い親になろう!」が、これまでの方針についての真摯な総括なしに、あまりにも唐突に提案されているのです。残念ながら、これまでの同和対策事業は「強い親に」ではなく、「親が親になる葛藤(成長)の場」をも行政保障という名において、行政が肩代わりし、部落の親たちが成長する機会を結果的には奪ってきているのです(この事態を予測しえず、行政責任論の暴走を許した運動側の責任は、あまりにも深刻で大きい)。
 例えば、
(1)同和保育運動において、子どもたちの保育権を保障するためにスタートした、生後三ケ月皆保育施設は、確かに子どもたちの成長を促進した事実は疑えません。がしかし、子どもたちは24時間、保育所で保育されているわけではないのです。一日の大半は個々の家庭で育てられています。家庭で果たさねばならない子育ての役割を親が自覚的に担うことは大切です。絵本の読み聞かせや、子どもの目線に合わした親子の対話がなされるなら、保育所での行き届いた保育にも支えられ、子どもは多分、のびのびと成長できるでことでしょう。ところがこの家庭(父母)が本来担うべき役割をも、保育所や若い祖父母にまかせたり、朝食を喫茶店のモーニングですますなど、お金にまるごと肩代わりさせている(これは子育ての放棄に近い)場合も多く見られるのです。同和保育所では、他の保育所に比べ父母の負担は特別対策によって極力少なくなっています(シーツや遊び着の備品化、完全給食など)。他の一般保育所では二人も通わす親たちの経済的負担は言うまでもありません(家計のやり繰りを考慮せざるをえない=経済的観念がいやが上にも必要となる)が、それだけでなく髪振り乱して一分を争うような登降所の中からも、親たちは随分と鍛えられています。誤解のないように言っておきますが、私は現状の貧弱な一般保育行政をそのまま肯定しているわけではありません。そうではなく、私はその困難な状況下で矛盾を感じながらも、時間配分なり、生活の工夫をこらす親たちの知恵や覚悟が、必ず子育てに反映しているに違いない事実に注目しているのです。部落の父母たちの多くは、この工夫しなければならない場面から降りても、なんとか表面的にはやっていけ、思い悩むことを通して自ら成長する機会もないのです。親が手間暇かけて子どもに対する必要のあるときには手を抜き(他に依存し)、手を引かねばならないときに手をかけるアンバランスな状況があるのです。極端に言えば、行政依存によって被差別部落の少なくない親たちは、親を自覚することなしに親をやっているように見えるのです。多分、このような状況の中で被差別部落の家庭における教育力は、磨かれないまま放置されてきたように思えるのです。

(2)私の子どもが通う小学校でも次のようなことがありました。昨年、息子の6年生担任に転勤されてきた20年の経験を持つ中堅の先生が、今年は1年生の担任になったのです。この先生が子ども同士のトラブルの指導(1年生にしては地域の子どもの問題が大きかった)で、被差別部落の親に電話をかけたときのことです。年若い母親から開口一番「先生、この学校(同和教育推進校)に来て、何年になるんや」と問われ、「まだ二年目です」と答えると、「そんなら、まだ部落のことも学校のこともようわからんやろ。よう部落の実態を勉強したらええで」と言われたそうです。昨年担任した部落の親たちからはこのような対応はまったくなされなかったので、なおのこと戸惑ってしまったようです。結局、この親の防御(一発かます)の前で、先生は子どもが抱える克服すべき課題について正直に話せなかったとのことです。子どもの課題をすべて学校の責任とする考えに親が安住しているために、素直に子どもの課題を受け入れることはできず、親と先生との間における課題の共有も困難になってしまうのです。子どもを突き放して客観的に見ることが特に苦手で「身がちな」(真綿で包んでしまう)親が、被差別部落には多いのです。

(3)ある同和教育研究会のレジメに、家庭訪問での被差別部落の親の重い発言として、

先生、生徒会役員にすすめてくれたり、構成劇に選んでもらったりするのはうれしいんです。親も一生懸命協力させてもらいます。けどな、先生、地域の子どもを前に出すときに、まわりの子をしっかり変える努力をしてもらわんと、最後につらい思いをするのは、この子ら地域の子どもたちになりますねん。そこんとこ、よろしくお願いします。

を紹介し、発言に「胸をおもいっきり殴られたようなショックで、はっと息をのんだ」と、この若い先生は感想を述べています。
 私はこの使い古された言葉が、今日の時点でなお部落差別におののく被差別部落の親の声(部落差別の呪縛による)として語られ、受け入れられることに大きなショックを受けました。このように被差別部落の親から話しかけられ、納得してしまう・沈黙する先生は、部落の子どもにどのように対応するのでしょうか。部落の子どもが、クラスメイトとの間で「試練にさらされる場面=辛いめにあう場面」に出会うことは、日常茶飯事に違いありません。先生は、この場面から子どもを絶えず庇護し、傷つかないように遠ざけてしまうのではないでしょうか。このように先生や親に庇護されつづける過保護な被差別部落の子どもは、自らの進路を主体的に切り開けるだけの力を獲得できるのでしょうか。先生は、この親の発言に、安請け合いで応ずるべきではなかった。そうではなく、子どもが自分から一歩前に踏み出すことは、その分さまざまな困難に遭遇することであり、その困難と真剣に立ち向かうことなしに、子どもは成長することはできない。親はそのときこそ、子どもを励ましてほしいと答えるべでした。もちろん、先生や親は側面から援護するのですが、あくまでも主体は子ども自身であることを話してほしかった。部落差別の呪縛から抜けきれないで、結果的に過保護になっている親にとって、現在、子離れこそが最大の課題でもあるのですから。
 研究会に同席した先生の一人は「レジメを読んだとき、正直なんとひ弱な甘い親なのだろうか、と感じたのです。しかしこの種の感想を発言するのは、なぜか躊躇してしまうのです。あなたの指摘ですこし気が休まりました」と、私に語ってくれました。

(4)なが年、解放教育に携わってきた先生がたの最近の意見に、私たち被差別部落の親にとって見過ごせない重要な指摘があります。高等学校で推進教員をしている先生が、被差別部落の父母の集まるある集会で、遠慮がちながらこう発言したといいます。

実は、高校でも学力不振や不登校の子どもたちの家庭を訪問するのですが、そこで最近とくに感じることがあるんです。被差別部落の家はほとんど鉄筋の3DKで、内部は高価な調度品や電化製品できれいに整頓されています。ガラクタや落書き一つなく、この家には小さな子どもがいないのではと感じるほどなのです。昔のように足の踏み場もない、狭隘な住宅とは大きく変化しています。ところが、家庭訪問して気づくのですが、各家独自の生活の匂いがしてこないのです。ああ、ここに父親が、ここに母親、ここに子どもたちと、テーブルをかこんで一家団欒のひとときがあるとは、どうしても感じられない、冷たい雰囲気があるのです。一家がバラバラで、家庭として受け持つ役割を果たしていないと、強く感じるのです。

私はこの話を聞きながら、数年前に信頼する小学校の先生たちが話してくれた内容とほとんど同じなのに驚きました。多くの先生がたはすでに気づいていたのです。高価な調度品や電化製品は、両親ともに仕事保障されている現在では、十分に購入可能なのですよね。しかし、生活スタイルや独自の価値観までも、お金で買うことはできません。ちょっと唐突かもしれませんが、同和保育所では、なが年子どもたちの薄着保育を実践してきました。むかしの部落の親たちは必要以上に厚着させることで、かえって子どもを弱くしてきたのです。この現実から出発して「子どもは大人よりも一枚少なめでよい」を定着させるのに随分と時間がかかりました。いまでは多くの子どもが半ズボンに遊び着とスモックで登所しているのです(冬場の寒い日は防寒着を付けていますが)。
 実はこの実践から父母が学ぶべき知恵、他の生活場面や子育てに応用すべき内容はたくさんあったはずなのです。(2)(3)で指摘した親たちは、気づかないうちに子どもに厚着させているのではないでしょうか。子ども自身が体内にもっている調整機能を退化させ、親の子どもへの愛情とは裏腹に、関われば関わるほど、子どもの力を押し殺してしまっている現実があまりにも多いのです。

 以上、私の指摘は、藤田さんが『通信』で紹介した朝田善之助さんの「部落の実状をありのまま書くと、それは差別の拡大・助長につながる」意見そのものですね。しかも、現役の解放同盟のリーダーのなかにも、この朝田さんの意見に賛成する人が多くいるのです。しかし、この意見に私は賛成できません。現実に客観的事実として存在する「被差別部落大衆の内面的弱さ」は、指摘さえしなければ、人々にはわからない、存在しないものではないはずです。この現実は「裸の王様」の寓話に通じるのではないでしょうか。もちろん、「内面的弱さ」をあげつらうだけならば、部落差別に通じるでしょうし、それだけでは部落差別問題における「内面的弱さ」の意味を理解することはできないと思います。
 四年前の全国交流会の講演で横井清さんは、自らの体験を通して「被差別部落のおばちゃんやおっちゃんを、私は彼らの会話や立ち居振る舞いから、なぜかわかるんです」と話されました。また、私の近所に住む友人からも「きれいに着飾っており、表面的には全然わからないんやが、子どもへの叱り方・対応・立ち居振る舞いから、この人は同和住宅の方に曲がるやろうと予測すると、ほとんど当たる」と聞いたことがあります。藤田さんも『通信』(No.54.2頁)に「崇仁の子がつけている鉢巻きやランニングシャツが紫色であることから、紫色は被差別部落の色なのだという「しるし」づけをしたのです。実在が「しるし」を求め、「しるし」が実在を表わしたというべきかもしれません。いつしか被差別部落民は、畏怖・忌避の対象であり、実体をもつ存在に変わっていました」と指摘しています。
 多分、これらの事実は、被差別部落との直接的な接触のない人々にとっては、不可解な現象かもしれません。しかし、被差別部落民である私は、横井さんや友人の「部落民がわかる体験」や藤田さんの指摘に共感することができるのです。なぜなのか。私が部落民を感じるのは、あれこれ考えてみても結局は「部落民の低位性」にもとづいているように思います。多分、このような感じ方は偏見と紙一重に違いありません。しかし、偏見による差別をなくそうといくら観念的に努力しても、被差別部落に現存する「内面的弱さ=低位性」の事実を認め、それとの取組みなしには解決できないのです。
 私には、部落民に対して部落出身者以外の人々が抱くこれらの意識(ある種の不可解さや畏怖など)や“まなざし”は、逆に前述したように被差別部落大衆自身の行動様式をも規定(マイナスに)していると思えるのです。このようにお互いに部落差別に呪縛された関係を維持し続けるかぎり、「両側の溝」はますます深まってしまうでしょう。
 次に、私が指摘した事実が、被差別部落への差別によってすべて説明できるのかという問題があります。確かに(1)~(4)の内容は、歴史的な部落差別の表れ・結果と言うよりは、69年以降の特別措置法にもとづく同和対策事業による部分・歪みがより大きいようにも思います。しかし私にはこれらの事実を、ここまでは「部落差別の結果」であり、ここからは「対策事業の歪み」と厳密に腑分けすることは困難です。むしろ私はその必要はないとすら考えています。対策事業がここまで被差別部落大衆の生活を歪めてしまった原因として、当然部落解放運動(解放同盟)が担うべき課題は大きいに違いありません。しかし、より本質的には歴史的社会的な部落差別によって被差別部落大衆が背負わされた生活文化の脆弱ぜいじゃく性=低位性(内面的弱さ)を明らかにする作業を抜きにして、今日における部落差別問題の認識を深めることはことはできないと、私は確信しているのです。歴史的・社会的な部落差別によって被差別部落大衆は自らの生活・意識のどの部分を損われてきたのかという問題でもあるのです。
 映画監督の小栗康平さんは、数年前の『同和教育』に「クローズ・アップ考」を書いています(のち同『哀切と痛切』径書房に所収)。彼が助監督時代に喫茶店で、ある監督から「君、クローズ・アップっていうのはどういうものだい」と突然問われ、あまりにも当然のことなので、彼は言葉がつまった。監督は「二つある。一つは近くで良く見ること、もう一つは他を見せないこと、わかるかい」と言った。小栗さんはこの話から、「差別は、それが人為的、歴史的に形成され、隠蔽されているからこそ、きわだって考えねばいけないことだ。が、カギ括弧に入れてきわだたせたぶん、自分自身の感情からあっけなく離れてしまっている言葉がたくさんある」「引きというのは、クローズ・アップの反対で全部が写っているものだ。ここが大切なんですとばかり、寄っていっては駄目なのだ。本当に大事なことは相互の位置関係が見えるところで語れという思想だ」「クローズ・アップとは、見せないでも見ないでもなく、自分の内部で見ろといっているのだ。対象に近よるのではなく、私に近づくのである」と、文章を展開している。この文章から、被差別部落民である私たちの部落差別認識が、自らの「悲惨さや優しさ」のみを、出身者以外との関係性をほとんど無視して強調する「クローズ・アップ」に陥っている事実に気づかされました。この事実は、なが年の部落差別によって、出身者以外との没コミュニケーション状況による制約が被差別部落大衆にもたらした、一面的な部落問題認識(クローズ・アップ)と言えないでしょうか。

 あなたは多分、これらの内容に戸惑われているのではないでしょうか。これまでの往復書簡の内容とは随分違っていますものね。ここでも私がこだわり続けているのは、やはり被差別部落大衆の「内面的弱さ」だったのです。それはこの手紙の最初にも書いた「両側から超える」営みにおいて、被差別部落大衆は「内面的弱さ」を抱えたままでは、一方の当事者たりえないだろうという問題なのです。あなたが手紙で指摘したように実態的差別としての「内面的弱さ」は、都市部の被差別部落の一部に残っている、単なる量的な問題に過ぎないとは、私には考えれないのです。
 実態としての「内面的弱さ」には、私は二つの意味があると考えているのです。一つは、出身者以外の部落差別意識を支え、そこから汲み上げる貯水池の役割を、二つは、出身者の行動を部落差別の呪縛の範囲内に縛りつける役割を果たすというように。ここから「内面的弱さ」の克服は、私たち被差別部落大衆の課題であると同時に、出身者以外にとっても重要な課題となるのではないでしょうか。もちろん、それぞれの立場からのアプローチが求められるのですが……。
 私の問題提起に対する柚岡さんのコメントに、次のような文章が見られます。

……差別・被差別の悪循環の背後、この悪循環の克服を阻んできた基礎的要因として、歴史的に形成された被差別部落大衆の否定的現実としての「実態」を想定することは、部落大衆自身がこの悪循環を断ち切り自らを解放し、自立する運動にとって、決定的に重要な理論構成ではないでしょうか。
……「心理的差別」と「実態的差別」の悪循環を経済主義的に指摘したのは、同対審答申でしたが、この時にもすでにこの表面化した悪循環の背後に、この悪循環を支えてしまうものとして、部落大衆の「実態」=「内面的弱さ」が、自ら克服すべき課題としてあったのではないでしょうか。(本誌No.53.3頁)

この文章には、私自身の問題意識のエッセンスそのものが指摘されていると考えています。
 たいへん長い手紙になってしまいました。しかも、私の一方的な意見の吐露に終ってしまい、申し訳ありません。また、意見をお聞かせください。(1992.3.4.)



《 採録 》
黒川みどり「近代日本と部落問題研究の状況」
  (小林茂・秋定嘉和編『部落史研究ハンドブック』雄山閣、1989)

 (前略)差別意識の問題は、(中略)1970年代後半になって急速に関心を集めるようになったが、しかし、それ以前は長い間、歴史学の研究対象としてはほとんど顧みられなかった領域であった。その原因は、次の点にあろう。
 第一は、かつては、資本主義体制を変革することによって、部落の完全解放も実現する、つまり意識もまた、体制が変わればおのずと変革されると考えられていた。したがって、意識を問題にするなどということは戦前の天皇制融和主義への逆行であり、マルクス主義からの逸脱であるとする風潮があった。
 第二は、同和対策事業が実施される以前の被差別部落は、先に述べたように、生活の低位性を解決することが急務であったため、そうした現実を前に、研究者の目も、差別を生み出す政治・経済構造へと向かいがちになった。
 第三は、差別・被差別の問題に切り込むことは、いずれの側に立つにせよ、いうまでもなく自己との厳しい対決を要する。意識せずとも、それへの抵抗が、差別意識研究から研究者を遠ざけていた側面もあるのではなかろうか。
 にもかかわらず近年、ようやく被差別部落にたいする差別意識それ自体が対象とされるようになってきた理由として、一つは、かつてに比べて部落の住改善ママ も進み、一方では、活発な差別糾弾闘争が行われてきたにもかかわらず、いぜん、根強い差別意識が隠然として存在していることは否定できず、いまやその問題を直視せざるをえなくなってきたことがあげられる。(中略)
 すでに見た「天皇制と部落問題」研究も部落差別に物質的基礎がないとする以上、究極、政治支配のなかで残存させられてきた差別意識に帰着していくはずである。ただしそこでは、やはり差別・被差別の主体はほとんど上にはのぼっていない。
 その意味で、歴史学という枠からはずれるが、藤田敬一『同和はこわい考ー地対協を批判する』(阿吽社,1987年)は、自己と向き合いつつその問題に切り込んでいった問題提起的な書といえよう。(中略)
 最近の研究は、今日の解放運動が直面している困難な状況を反映して、確固たる解放理論を喪失し、一言でいえば、混迷の状態にあり、新たな方向性の模索途上にあるが、それでもその中で、これまでになかったいくつかの新しい視点が付与されてきていることも事実である。(中略)藤田『同和はこわい考』(前掲)は、現在さまざまな反響を呼び、なかでも京都部落史研究所の発行する『こぺる』などで、差別・被差別の壁を越えようとする正面切った対話の試みがなされはじめている。このことは、今までになかった大きな前進といえよう。(中略)今こそ組織の枠にとらわれない主体的な個人としての自由活発な論議が必要なのではなかろうか。

コメント.
黒川さんは、執筆者一覧に「早稲田大学大学院」とあります。
 先日、思い立って部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動』近現代篇(部落問題研究所、1986)と部落解放研究所編『部落解放史───熱と光を』中・下(解放出版社、1989)を、あらためて通読してみました。両書には、この間急速に深まった近現代部落史研究の成果が生かされていて、教えられるところが多かったのですが、いかんせん、いわゆる「解放令」が出されてから121年、水平社創立から70年たった現在もなお部落差別意識が根強く、差別事象があとをたたないのはなぜかという単純素朴な疑問に答えてくれそうにないのです。
 たしかに『部落解放史───熱と光を』の方には、水平運動や社会主義・共産主義の思想、理論を基準にした歴史評価からの脱却をめざす研究視角がうかがわれます。しかし過去の運動や施策、啓発や教育が、部落差別意識を媒介にした人と人との関係に、どのように切り込もうとしてきたのか、そしてどこまで切り込むことができたのか、もし切り込めなかったとすれば(切り込めなかったと、わたしは思いますが)、それはなぜなのかとの問いに答えきれていない。部落史研究にだけ答えを求めるつもりはないけれど、もう少し現代的関心に支えられた視角、視点があってもいいのではないでしょうか。現代的関心が過剰なのも困りもんですがね。
 ところで黒川さんは「今こそ組織の枠にとらわれない主体的な個人としての自由活発な論議が必要なのではなかろうか」とおっしゃる。つまり研究者が運動や組織から自立していないというわけです。それは戦後知識人の通弊、宿痾しゅくあ、運動や組織に身と心をすり寄せる随伴的知識人の問題でしょう。権威や権力に拝跪する研究なるものがいかに無残な姿を現わすか、実例にこと欠きません。部落史研究が、それこそ歴史に学ばず同じ轍を踏むなら、その行き着く先は明らかです。

《 紹介 》
☆京都部落史研究所編『京都の部落史』第2巻、通史篇(近現代),91/11.9167円.
1868年から1960年まで、京都府下の部落史を総合的に解明したもの。幕末維新期における被差別部落民の思いと願い、1900年前後の初期改善運動、1920年代末からの内部自覚運動、さらには融和事業・融和運動にもきちんと目配りがしてあって、図式的でない歴史叙述になっています。本書については、近く『こぺる』に、井上清・師岡佑行・藤田の座談会が掲載されます。
☆横井清『史話 中世を生きた人びと』福武文庫,91/9. 680円.
81年、ミネルヴァ書房から出た『中世を生きた人びと』のうち、「楠木正成と新田義貞」をはずして「伏見宮貞成のたたかい」を入れた文庫版。史話にふさわしく、人物を通して中世世界が語られています。とりわけ「千本の赤──権益争奪の地獄を生きた河原者」は、なんど読んでも興趣がつきません。赤坂憲雄さんの解説がまたいい。
☆阿部謹也『ヨーロッパ中世の宇宙観』講談社学術文庫,91/11.800円.
名著『ハーメルンの笛吹き男』『刑吏の社会史』のもとになった論文や全国交流会での講演も収められてます。鎌田慧さんの解説つき。
☆網野善彦『海と列島の中世』日本エディタースクール出版部,92/1.2400円.
わたしのおやじは、愛媛県越智郡、瀬戸内に浮かぶ大島の出身で、ここには、もと村上水軍の根拠地があったとか。本書を読んで、いよいよ網野さんの『日本海賊(民)史』が待ち望まれます。
《 あとがき 》
★寂しかった庭に沈丁花、畦にタンポポ、そして堤に菜の花が咲きました。もう春です。この間、岐阜にこもって読書三昧。田中克彦さん(言語学)の作品が面白くて
★要望に応え隔月発行に、とも考えたのですが、住田さんから重要な内容の「書簡」が寄せられたので、頑張ってしまいました。住田さんの文章は、灘本さんあてになっていますが、どなたが割り込んでくださっても結構です。感想を待ってます
★3月3日、水平社創立70周年の記念集会が京都で盛大に開かれたとか。わたしはといえば、その日は四日市の小さな集まりに出かけ、いまなにが求められているか議論していました。わたしなりの70周年記念として申しぶんなし
★2月24日から3月10日まで、新潟、大阪、愛知、兵庫、三重の5人の方より計10,880円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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