同和はこわい考通信 No.54 1992.2.24. 発行者・藤田敬一

《 往復書簡───被差別部落民とはなにか───割り込み篇② 》
わたしのなかの“被差別部落民”像をたどり、人と人との関係を考える
     ───住田・灘本「往復書簡」を読む②───
藤 田 敬 一
1.
 自分のなかの“被差別部落民”像をたどるとは、とりもなおさず、過去における被差別部落民との出会いと、そのさいに結ばれたイメージを、未来と対話しつつ、現在の時点で意味づけることにほかなりません。それは、いわゆる被差別部落民を自認する人にとっても基本的には同じでしょう。被差別部落民であれ、被差別部落外出身者であれ、それぞれに“被差別部落民との出会い”があるからです。わたしの場合は、もちろん被差別部落外出身者としての体験になります。
 1939年1月、わたしは京都市下京区に生まれました。松原通り千本西入るの生家を中心に半径一里、4キロの円をかくと、東七条と西三条の二つの被差別部落が含まれます。しかし小学校に入るまで、被差別部落について、なにか聞いたり、体験したという記憶はありません。
 45年4月、空襲を避けるために、わたしは滋賀県木之本町の国民学校初等科一年に入学します。3歳年上の姉と一緒に、父親の商売上のつてをたよって縁故疎開したわけです。疎開先の家には、わたしと同い年の少年がいました。仮にK少年としておきます。あるとき学校から帰っていつものように三人で遊んでいると、近所の悪童連中が「ひろせー、ひろせー」といって石を投げつけるのです。「ひろせー」がなにを指すのか、わたしにはさっぱりわからない。あとで知ったところによると、近くの被差別部落を意味する地名でした。悪童連中は、わたしたち姉弟をあずかってくれた家のおじさんが、その被差別部落の出身であることを家族などから聞き知り、K少年とわたしたち姉弟きょうだいをいじめたに違いない。これがわたしと部落差別問題との最初の出会いでした。姉などは警戒警報が発令されて学校裏の防空壕に入ろうとすると、同級生の女の子から「あんたは、ひろせの子やからあかん」といわれ、入れてもらえなかったといいます。
 「被差別部落民とはなにか」を考えるたびに、わたしはいつもこの出来事を思い出し、考えこんでしまうのです。被差別部落出身者の家に疎開して石を投げつけられたというのは、たしかに特異な体験ですが、同じく石を投げつけられても、わたしたち姉弟とK少年とでは、体験の意味がまったく違うのではないか。少なくともわたしたち姉弟にとっては、それはエピソードにすぎなかった。しかしK少年にとっては、忘れることのできない、あるいは意識の奥深いところにとぐろを巻き、いつなんどき意識の表層に現われるかもしれない、まわしくて恐ろしい原体験だったのではないか。それにしても、なぜわたしたち姉弟はこの体験をエピソードとして忘れることができたのか。姉が防空壕に入れてもらえず、うるしの木の下で警戒警報の解除を待ち、おかげで漆にまけたことが部落差別問題と関係していることになかなか気づかなかったのはどうしてなのか。どれもこれも、自分たちの家がそのような仕打ちを受ける可能性のまったくないことを親から教えられて安心したからではないのか……。
 わたしにとって被差別部落民とは、なによりもまず「石を投げつけられるような仕打ちを受ける家や地域の人びと」としてあったということです。人と家と地域は分かちがたくつながっており、それらが丸ごと、「わたしたちの家」と「K少年の家」との違いを意味していました。このような“被差別部落民”像が前提になり、家族や親戚、知り合いなどから、まことしやかな噂話を聞くうちに、「なにか世間とは違った風習をもつ、こわい人びと」といったイメージが形づくられていったように思います。
 ですから小学校時代、戦前・戦中の伊東茂光校長の同和教育で有名な崇仁すうじん小学校の生徒と徒競走をしたとき、紫のスクールカラーになんともいえぬ恐怖を感じ、しばらく紫色が被差別部落民の色のようにみえたのでした。崇仁の子がつけている鉢巻きやランニングシャツが紫色であることから、紫色は被差別部落民の色なのだという「しるし」づけをしたのです。実在が「しるし」を求め、「しるし」が実在を表わしたというべきかもしれません。いつしか被差別部落民は、畏怖・忌避の対象であり、実体をもつ存在に変わっていました。

2.
 1958年初夏、大学一回生のとき、部落問題研究所の常任理事だった木村京太郎さん(1902~1988)に「部落問題の勉強をするには、本を読むのもいいけれど、未解放部落に行って話を聞かせてもらうことが肝心」と教えられ、名刺の裏に書かれた紹介状をたよりに京都・田中の朝田善之助さん(1902~1983)宅をはじめて訪れた夜のことも忘れられない。会議が終わって十人あまりの青年たちが車座になり、酒盛りがはじまりかけていました。わたしも招じ入れられたのですが、湯飲みをとりに階下に行くのは面倒だから、おうすの茶碗でまわし飲みしようということになりました。ところが茶碗が順次まわされて近づくにつれ、わたしの身体が震えはじめたのです。とっさのことで、なぜ震えるのかわからなかった。それが「けがれ」意識によることに気づいたときには、われながら驚いてしまいました。被差別部落で、飲食を共にするという状況が、わたしのなかの「けがれ」意識を目覚めさせたとも、あるいは日頃は気づかない「けがれ」意識が、その意識の対象とされる人びとの存在を仲立ちとして自覚されたとも考えられます。わたしは必死になって震えを押さえこもうとしました。
 いつぞや朝田さんがこんな話をしてくれたことがあります。京都市役所の嘱託かなにかしているとき宴会があり、一人の課長が朝田さんの前にきて酒をついだ。そこで返杯といって杯を差し出しながら

「エッタの杯やけど、ええか」というたったら、その課長、まっさおになって震えだしよった。

朝田さんは、いたずらっぽく笑いながらこういいました。しかし、とても一緒に笑う気にはなれなかった。その課長がどんな気持だったか、およそ見当がついたからです。
 わたしの「けがれ」意識が、被差別部落民を「不浄な人間」として遇するような人びとを親戚にもつ父親の差別的な意識や心理、それらをはぐくんだ風土と深いところでつながっていたことはいうまでもありません。その後、部落解放運動などを通して、「けがれ」意識は、次第に弱まり、けて消えましたけれど、かつて歴史のなかに濃密にみられ、現在も息づく「けがれ」意識に強い関心をいだくのは、このような体験にもとづきます。
 朝田さんの家を訪れて自らの差別意識に気づかされたわたしは、自分を変革せねばならないと考えました。大学で部落問題研究会をつくって活動する一方、田中子供会を手伝ったり、大阪・矢田の実態調査に参加したり、京都の錦林きんりんで子供会をやったりして、被差別部落の人びとの生活と思いにふれることができました。亀井文夫監督作品『人間みな兄弟-部落差別の記録』(1960年3月完成)には、当時の錦林や矢田が出てきて懐かしい。貧しく苦しい生活のなかにも、人びとには「どっこい生きている」たくましさがあり、飾り気がなく、あけっぴろげな人柄に魅せられました。箸と茶碗をもった姉妹が近所の家へ食事に行く『人間みな兄弟』の一シーンは、被差別部落の温かさ、優しさを象徴するものとして随分と感動したものです。
 それに学生のあいだにはブ・ナロード(人民のなかへ)の雰囲気が残っていて、インテリゲンチャと人民大衆との結合の必要性と重要性がまだいくぶん信じられている時代でした。それはインテリゲンチャを自称する人間の思い上がりともいえますが、ただ、わたしはそんな雰囲気のなかにあって、被差別部落こそ自らの意識変革の場だと、一途に考えていたようです。中国革命や中国共産党の大衆路線にかれていましたしね。とくに60年7月、安保闘争の敗北からまもなく、2週間にわたり、関西の10をこえる大学部落研が参加して実施された矢田地区総合実態調査は、わたしにとって忘れることのできない体験でした。調査票をもって各戸をまわる面接方式で、学生口調のためもあって、「お前ら、税務署のまわしもんか」と追い返されるメンバーもいました。部落解放同盟矢田支部のみなさんに叱られたり教えられたりして、なんとか調査を終えたとき、自分のなにかが変わったように感じたものです。わたしのなかの“被差別部落民”像は急速に転換しました。
 しかし、そこに大きな落とし穴が待ち構えていることには気づかなかった。被差別体験や、被差別部落民であることのしんどさ・つらさ・不安・恐れを聞き知るにつけ、ある型にはまった“被差別部落民”像が出来上がり、被差別部落民をそのような紋切り型の人間類型にはめこんで理解するようになったのです。そこに金時鐘さんのいう、戦後民主教育のなかで育った先進的意識、あるいは被差別者を庇護しようとする意識がなかったとはいえず、被差別体験、被差別の立場への過度の思い入れや感情移入があったことも否定できない。そんなわたしにとって「差別の結果」論や「反社会をも社会性としてとらえる」見方は、まことに快刀乱麻のごとき理論でした。
 また朝田さんはよく「部落の実状をありのまま書くと、それは差別の拡大・助長につながる」といっていました。差別意識の充満する社会で、被差別部落の劣悪な生活実態とそこにくりひろげられる人間模様、被差別部落民の弱さらしきものを少しでも言ったり書いたりすると差別につながるというのは、恐ろしいほど説得力があり、わたしは永いあいだ朝田さんのこの言葉を自分自身に言い聞かせたものです。被差別部落民のマイナス面や弱さを言ったり、書いたりするのは論外で、感じたり、考えたりすることすら差別だと思うようになったとしても無理はなかった。
 ところが70年代から80年代にかけて、『同和はこわい考』に述べたような体験をするうちに、わたしの“被差別部落民”像があまりにも固定的で、それが、わたしの人間理解を偏ったものにしていること、その根本のところに隔絶された差別-被差別の関係が伏在していること、そのような人と人との関係は幻想としての“被差別部落民”像と不可分で、それらが一体となって差別-被差別の両側の人びとをつなげ、とらえ、縛っていること、そして他ならぬわたし自身が、被差別部落民・部落解放運動・部落解放同盟にすり寄り、「主体なき同一化」を追い求める随伴者にすぎないことに気づかされます。
 かくて、言うも愚かな悪戦苦闘があり、疲労困憊したあげく、自らの“被差別部落民”像を対象化・相対化することを通してはじめて、幻想としての“被差別部落民”像の呪縛じゅばくから逃れられる、そう思いいたったのです。
 とはいうものの、ことは、わたし一人の問題にとどまらない。重要なのは、いまもって幻想としての像、イメージが人びとをとらえ、縛っているという事実であり、部落解放運動が共同の営みにならないという現実なのです。被差別部落民を自認する人も、被差別部落外出身者として自己を規定する人も、人と人とのこのねじれた関係を変えるために、「被差別部落民とはなにか」を自らに問うことが求められている。それは避けて通れない課題です。
 加えて、わたしは、人と人とが個々の人間としてではなく、それぞれの帰属する集団を前面にだしたり、属性の一つをもって自己を代表させたりして出会うことの空しさを感じています。もちろん個人はどこまで帰属する集団や属性、歴史や社会から自由かという問題があり、人間一般など存在しないとの議論があるにしても、いわゆる反差別運動やその組織についていえば、帰属意識があまりにも過剰すぎる、もう少し自らの帰属意識を突き放し、自己を深く掘り下げることがあってもいいのではないかと思っているのです。
 以上、わたしのなかの“被差別部落民”像を、だらだらとたどってしまいました。整理しすぎたかなという気もしますが、ともかくこのような変遷があって、“被差別部落民”像をめぐる、わたしの現時点での問題意識がある。
 さてそこで、現在のわたしに住田・灘本「往復書簡」はどのように映るか、です。

3.
 発端は、『「ちびくろサンボ」絶版を考える』(こみち書房、1990)所収の座談会における灘本さんの次のような発言でした。

血統の話が出てしまいましたのでつけ加えますと、僕のおじいさん、おばあさんまではみな被差別部落に生まれ育って、僕は部落民三世です(笑)。血統は正しいんですが(笑)、いまは部落の外におります。(238頁)

これに対して住田さんが率直な疑問を呈したことから議論がはじまったわけです。その疑問とは、日頃「部落出身者ではあるが、ことさらに部落民としての自分自身にこだわることはないし、部落民であることを売り物にすることもない」と語っていた灘本さんが、なぜここで部落出身者であることを明らかにしたのかというものです。そこから被差別部落に生まれ育った者と、祖先が被差別部落民であっても被差別部落の外で生まれ育った者との違いが、部落差別問題のとらえ方、あるいは生き方に影を落としているのではないかとの問題提起につながっていきます。これに灘本さんが応え、さらにお二人の議論があった。論点は多岐にわたっていますが、ここではわたしの関心に引き寄せ、「自らを被差別部落民として他者に呈示することの意味はなにか」「被差別部落民とはなにか」の二点にしぼります。
 第一点について。
 灘本さんは、以前にも「血統的にはサラブレッドのような『賤民の後裔こうえい』なんです」と語ったことがあります(前掲座談会「部落青年のアイデンティー」。『部落の過去・現在・そして…』3頁)。だから、この「僕は部落民三世です。血統は正しいんですが」も、軽妙けいみょう 洒脱しゃだつな灘本さん一流の口調なんでしょう。在日朝鮮人二世をもじって部落民三世(つまり被差別部落の外に居住するようになってから三代目)を名乗ったり、わざわざ血統の話を持ち出したりしていることからもうかがわれるように、灘本さんはそうした表現をとることによって被差別部落民の概念規定や部落差別問題、部落解放運動に対する自らのスタンス(構え方)をそれとなく示そうとしたのだと、わたしは受けとめています。
 しかし実をいうと、わたしもこの箇所でオヤッと思いました。灘本さんが屈折した形であれ、自らを被差別部落民として呈示する内的な必然性がよく理解できなかったからです。もっとも竹田青嗣さんの

僕がこの座談会に出てきたのは、一つは灘本さんが部落の出身で、僕が在日であって、そのところにも多少意味があると思ったからです。
(『絶版を考える』254頁)

という発言などを読み、竹田さんや灘本さんがこの本のなかで、発言者の立場・資格を云々する不毛な論議をあらかじめ封じるとともに、差別問題をめぐって「差別する側の者」といわれる人びとが感じている「異様な言いにくさ」を解きほぐし、あるいは被差別者から「差別だ」といわれるとすぐ論争から撤退してしまう人びとに、「もう少しがんばらなくては」と励ますべく、自らの被差別者としての立場を呈示したということがわかりました。ただ灘本さんの全発言を読み返しても、どのような内的必然性があったのかは不明で、わたしが読みとったかぎりでは、論議に及ぼす効果を考慮した上でとられた戦術、方法だったようにみえます。
 この推測が間違っていないことは、灘本=被差別部落民=被差別者の呈示は、差別者・被差別者、差別する側・差別される側といった立場・資格にこだわる読者に、「被差別者がうって一丸となってサンボを糾弾しているわけではない」ことを知らせ、「精神を自由にして主体的に考え」、「差別問題に主体的にアプローチしてもらうための早道」として「多少なりとも意味のあること」だとの判断にもとづくと、灘本さんが「往復書簡」で述べていることからも明らかです(No.50.5,6頁)。
 一読、納得しそうになります。にもかかわらず、わたしには釈然としないものが残る。それがなぜなのか、よくはわからないのですが、おそらく灘本さんが一方で「被差別の立場からという問題提起のやりかた」には根拠がないことを認めつつ、他方で差別問題をめぐる今日の状況下では意味があるので、あえて「被差別の立場」をかって出たところに、便宜主義、実用主義をぎとってしまうからではないでしょうか。
 また、「サンボを糾弾しない」被差別者の存在を認識することが、人びとの精神の自由と主体性の担保にかかわっているかのように述べているところにもひっかかってしまう。灘本さんのいいたいことがわからぬわけではないけれど、精神の自由とか主体性とかは、ほんとにその程度の認識で担保されるのかという疑問はさておくとして、灘本さんが被差別者としての立場・資格とその意見を過大に意味づけしているように感じられて仕方がないのです。
 被差別者としての立場や資格の呈示が、有効な一つの方法、戦術、闘い方だとする意見も当然成り立ちます。とくに部落差別問題の場合、その効率のよさは驚嘆するほどです。効率を高める人がいれば、効率を計算する人がいる。部落差別を媒介にした人と人との関係が存続するかぎり、このような人が出てくるのは避けられそうにない。しかし、自らの立場・資格を対象化・相対化して、人と人とのねじれた関係を変え、共同の営みを創出しようとするのであれば、少なくとも立場・資格に寄りかかったり、それをかかげて議論することには抑制的であるよう、おたがいに努めるべきです。その点、灘本さんは抑制がやや不足だったのではないですか。住田さんの疑問はそこを突いている。
 もちろん立場・資格の呈示の問題は、なにも被差別部落民・被差別者に限られるものではなく、誰もがどんなことで自分の立場・資格に足をすくわれるかもしれないのです。灘本さんに対して厳しいことをいうようですが、それは自戒のためでもあります。

4.
 第二点、つまり「被差別部落民とはなにか」について。
 二度にわたる住田・灘本「往復書簡」が、被差別部落民としての正統性をめぐる議論のように受けとられる面があったことは、なんとも残念でした。しかし考えてみれば、お二人の議論そのものが、被差別部落民といわれる“存在”の曖昧あいまいさを示しているといえなくはないのです。
 住田さんは、被差別部落民を血筋(血統)、地域、共同体意識の三つを基準にして考えているらしい。血筋(血統)とは、祖先が旧賤民身分につながること、地域とは、その生活空間が歴史的に賤視の対象にされてきたこと、共同体意識とは、生活の共有と共通利害にもとづく連帯感、帰属意識を指すと思われます。
 ところが灘本さんは、「部落民であるかないかを考えるのは、差別したい人に100%まかそう」「部落民の範囲は、差別する人たちの基準にしたがって広くしておけばいい」「部落解放をめざすうえで、部落民の範囲を狭くする必要」はないという(No.51.5 ,6頁)。
 わたしのみるところ、住田さんの意見は、非常に古典的というか、オーソドックスです。しかし農山漁村と都市とでは状況が違い、一概にはいえませんが、都市の場合、血筋・血統といっても、明治維新以降における人口の流出入により、祖先が近世の賤民身分にまでさかのぼれる人は、そんなに多くはないでしょうし、結婚して入ってきた人、その子どもはどうなるのかという問題もある。
 またその地域に住んでいることを基準にすると、被差別部落から出た人びととその子孫は除外されてしまいます。しかし、これらの人びとが、忌避・排除の対象に絶対ならないという保証はありません。地域に住む・住まないを基準に、被差別部落民であるかないかの線を引くことはできないのです。ついでにいうと、忌避・排除の理由づけにしても、「けがれ」意識や生活実態の低位性だけでなく、現在ではもっと複雑でしょう。被差別部落の生徒が通う中学校を避けるための越境があとを絶たず、校下の土地価格が低いところすらみられる。歴史的に賤視の対象になってきた地域であることを核にしながらも、被差別部落の生活文化や部落解放運動、同和対策事業、同和教育をめぐる、あれやこれやの虚実とりまぜての風聞、噂話とも関連して、忌避・排除の心理・意識、言動が再生産されているとみなければなりますまい。それらの複合したイメージが、被差別部落の外に居住する人びとに押しつけられる場合も大いにありえます。
 三つ目の共同体意識は、生活の共有と共通利害によってつくられるものでしょうが、高度経済成長にともなう生活形態の多様化によって、被差別部落の共同体意識が稀薄になっていることは否定できません。コミュニケーションの場として重要な役割をはたしてきた共同浴場が、家庭風呂の普及によってすたれつつあるのは象徴的です。人によって、階層によって、その意識はさまざまであるにしても、被差別部落にだけ、これまで同様の共同体意識が強固に残るとは考えられない。1950年代と現在を比べてみれば、共同体意識の弛緩傾向は歴然としている。
 このようにみてくると、住田さんのあげる基準は、いずれも揺らいでいるといわざるをえない。というより、そもそも被差別部落民を一義的に概念規定しようとすることが無理なのです。なぜなら被差別部落民は法制的な存在ではなく、社会的な存在だからです。社会的な存在とは、この列島上に展開されてきた歴史に深く根ざしつつ、今日ただいまの暮らしのなかに生きる、部落差別を媒介にした人と人との関係においてイメージ化される存在だという意味です。
 つまり被差別部落民を、なにか実体として存在するかのように概念規定するのではなくて、たとえばサルトル風に「被差別部落民とは、他の人びとが、被差別部落民と考えている人間である」、それをさらに、わたし流にいいかえた、

被差別部落民とは、他の人びとが“被差別部落民”として、畏敬・畏怖・賤視・恐怖・忌避・排除・拒否・憐憫れんびん・同情・庇護・共感・連帯・期待する対象として描く多様なイメージの複合されたもの。

ぐらいにしておいたほうが、固定的な、幻想としての“被差別部落民”像から自由になり、立場・資格の対象化・相対化へとつながりやすいと思う。そんな規定では同和対策事業における属地主義(対象地域内の居住が条件)や属人主義(行政用語でいう“同和関係者”が条件)はどうなるのかと心配したり、自分が何者なのかわからず不安だという人がいるかもしれないけれど、その種の心配、不安を追ってゆけば、被差別部落民といわれる“存在”の曖昧さに、必ず突き当たります。社会的な存在としての被差別部落民は、曖昧であることを特徴としているからです。曖昧さを強引に除こうとすると、“同和地区”の線引きとか“同和関係者”の認定のような行政的方法に頼らざるをえず、行政機関が同和対策事業を通して、被差別部落と被差別部落民を決めるという〈歴史の逆転〉が起こってしまう。ところが、そんなことをしたって被差別部落民といわれる“存在”の曖昧さは消えず、自分が何者なのかわからない不安、自己の存在が確定できない不安は残ります。
 住田・灘本「往復書簡」、とくに「被差別部落民とはなにか」をめぐる、お二人のやりとりを読んで、わたしがまず感じたのは、やはり“存在”の曖昧さからくる戸惑い、心理・意識の揺れでした。住田さんは、灘本さんを被差別部落民として位置づけようとしながら、「被差別部落に生まれ、育ち、今もその中で生き続ける部落出身者」である自分(No.50.2頁)と、「血筋はまぎれもなく穢多の末裔まつえいに違いないのだが、生まれたときから部落民として被差別部落で育ったのではなく、それ故被差別部落に生まれ生活を共有する中で身につく被差別部落民としての共同体意識を持たない部落民」としての灘本さんとの距離に戸惑っている(No.51.1頁)。
 かたや灘本さんも、「学生時代には、まわりの期待にそむかないように部落民として行動しました。今、自他ともに部落民と認めているんですが」との発言(『部落の過去・現在・そして…』5頁)と、「自分が部落民であるかないか考える必要もないと考えています」(No.50.7頁)「部落民であるかないかを考えるのは、差別したい人に100%まかそう」(No.51.5頁)との意見とのあいだに、あるいは「部落民であることを知る前と後ではアイデンティティーになんの断絶もないんです」との発言(『部落の過去…』5頁)と、「れっきとした部落民の諸氏」への、県人会レベル的親近感の確認(No.51.5頁)とのあいだには、たしかに揺れがある。
 住田さんの戸惑い、灘本さんの揺れは、どちらも被差別部落民といわれる“存在”の曖昧さに起因し、自己認識、自己確定の困難さに根ざしています。だから“部落民性”についての議論がかみあわず、被差別部落民であることの引き受け方に食い違いがみられても当然です。
 そこで、わたしが考えるに、誰か他者を被差別部落民として見たり、遇したりする人、誰か他者から被差別部落民として見られたり、遇されたりする人それぞれが自らの“被差別部落民”像をたどり、部落差別を媒介にした人と人との関係をみつめ、おのれの生き方を選びとるほかないのではありませんか。そのときひょっとしたら立場・資格が対象化、相対化され、これまでのねじれた関係にもとづく出会いではなく、もう少しましな個人と個人との出会いが生まれるかもしれません。
 わたしには、被差別部落民であることが呈示されてひるんだという苦い経験があります。「なぜ怯んだのか。なにが、わたしを怯ませたのか」、これが“被差別部落民”像をめぐる問題意識の出発点でした。こうして住田・灘本「往復書簡」に触発され、あらためて考えをまとめてみたのですが、もうひとつしっくりしないところがある。しかしまあ、なにごとも一気にというわけにはまいらぬものです。とりあえずは「両側から超える」の「側」をとっぱらい、しかし現に生きている「側」にこだわり、部落差別の実状をみすえ、共同の営みをまさぐる、そんな人と人とのつながりを求めて、わたしなりに思索をつづけることにします。(完)

《 あとがき 》
★例年どおり1月から2月中旬いっぱい、多忙をきわめ発行が遅れました。読者から「内容がむずかしく、ついてゆくのが大変なので隔月発行で結構です」とのお便りあり。とすると案外これくらいの間隔がいいのかも
★拙文、長くなって申しわけなし。連載は二回が限度という友人のアドバイスにしたがったためです
★前号4頁にあげた中島さんと津田さんの文章は、『同和はこわい考』ではなく『同和はこわい考を読む』(阿吽社)に収録されています。お詫びして訂正します
★2月15日、部落解放研究京都市集会第1分科会「部落問題入門」に招かれ、1時間ほど話をさせてもらいました。京都で話すのは3年ぶりのこと。岐阜県製作の映画「川をわたる風」が好評だったうえ、新しい出会いもあり、愉快でした
★今年の第9回部落問題全国交流会は9月5日(土)、6日(日)の二日間、京都・西本願寺北側「門徒会館」で開きます。今から予定に入れておいてくだされば幸甚
★1月8日から29日まで、兵庫(2)、愛知(2)、神奈川、京都(2)、岐阜、大阪の9人の方より計52,060円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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