同和はこわい考通信 No.53 1992.1.6. 発行者・藤田敬一

《 往復書簡───被差別部落民とはなにか───割り込み編② 》
自分のなかの“被差別部落民”像を見つめることの意味
  ───住田・灘本「往復書簡」を読む①───
藤 田 敬 一
1.
 ある読者から往復書簡について

(前略)驚きました。こうまで部落民でるということはこだわらなければならない問題なのだろうかという疑問を抱きました。…こうした個人の内面に深く関わる問題は、公開討論という形とは不相応ではないかしらと思います。親しい者同士で酒でもくみかわしながらしみじみと声で以って伝達し合う方がはるかに相応ふさわしいように思いました。文字はどうしても固定化し気どるものですから。二人の間に何かを産み出すというより、相手の心臓にじかに矢を射っているように感じられ、しかもその全体が、私のようなものにはわかりにくいのです。…こだわりと負い目が奇妙に入り組んでいるような論議で、読むほどにつらくなりました。

との感想が寄せられました。
 たしかに往復書簡は一見したところ、被差別部落に生まれ育ち、いま現に被差別部落民の「内面的な弱さ」を正面に見すえ、その克服を課題として活動している住田さん(1947年、大阪市生まれ)と、被差別部落の外に生まれ育ち、十余年来近代部落史研究に従事しつつ、いくつかの大学で講義もしている自称「部落民三世」の灘本さん(1956年、神戸市生まれ)との、「被差別部落民としての正統性」をめぐる議論のようにみえます。そのように受けとれる文章もありますしね。それがなにか読む人を息苦しくさせるのかもしれません。
 わたしがお二人に『通信』で公開討論するようお願いしたのは、正統性を争ってもらうためではもちろんありませんでした。いわゆる差別する側に立つ者・差別される側に立つ者双方が「被差別部落民とはなにか」を自己の内面を通して問うことは、各自の資格・立場を対象化・相対化し、ひいては差別-被差別関係の呪縛じゅばく =“とらわれ”から自らを解き放つためには不可欠の作業だと考えてきたからです。それは、わたしがこれまでくりかえし強調してきところです。

*「いま解放運動の存在根拠が問われている」(『同和はこわい考を読む』阿吽社、1988年)
  179頁以下。
*「自らの課題をまさぐる一つの試み-第五回部落問題全国交流会から-」
  (京都部落史研究所『こぺる』No.133,1989年1月) 9 頁以下。
*「差別-被差別関係の現在を凝視ぎょうしする」
  (『部落の過去・現在・そして…』阿吽社、1991年)

2.
 しかし、わたしの考えはなかなか理解してもらえないようです。たとえば、この読者の方はお便りのなかで

中学校に勤めていた私の友人はこの一学期末で教師を辞めてしまいました。解同の幹部のお子さんが弁当を忘れて、お母さんが後から学校にいつも届けに来られるそうです。すると教頭先生が走り出て「ありがとうごいます」と最敬礼をして受けとるそうです。一事が万事こんなふうで「もう教育は成立しない」と言って辞めたとのことです。又、解同の幹部の息子さんを「やーい、アトピー」といってからかったある私立高校生はそれだけで停学一週間の処分となりその子の両親は「部落だけはさわりたくない」と言っています。両側から越えるどころか、ますます溝ばかりが拡大してくるようで何となく不気味です。

と書いておられる。
 このような話を聞くたびに、わたしはなんともやりきれない気持になってしまいます。その“やりきれなさ”は、事象の表面だけがとりあげられて、背後にあるものが顔を出さないことからきている。この例でいえばこんな疑問がわくのです。

最敬礼して弁当を受けとる教頭や、息子をからかっただけで生徒を停学処分にする学校側に、この幹部や家族はどのような対応をしたのだろうか。そしてこんな遇され方から感受される人びとの“まなざし”、あるいは人と人との関係を幹部や家族はどのように考えたのだろうか。
一事が万事、最敬礼して弁当を受けとる教頭のごとき遇し方をする中学校の教員たち、それに絶望して退職した教員、幹部の息子をからかった生徒を停学処分にした高校の教員たち、処分された高校生とその両親、そして「両側から越えるどころか、ますます溝ばかりが拡大してくるようで何となく不気味です」と書くこの方、それぞれの被差別部落民像、あるいは被差別部落民との具体的な関係はどのようなものだったのか。

いずれも実は「被差別部落民とはなにか」「被差別部落民であるとはどういうことか」との問いに深くつながっているはずです。

3.
 前川む一さんはわたしとの往復書簡で次のような事例をあげています。

ある学校で秋の運動会の日、マイカーでの参観、物売り禁止を、職員会議で決定した。ところが当日、校庭内に一台のタコ焼きの車が侵入してきて、堂々と営業を開始した。驚いた学校当局は、それを注意したところ、その学校の用務員のMさんが飛びだしてきて、こう叫んだという。「俺の弟じゃ。俺の学校で、俺が許可して、俺の弟が商売して何が悪い!」この人、解放同盟員である。
(『同和はこわい考』80頁)

前川さんはこれを「正当な権利主張とはいえない逸脱した横車の例」といっているんですが、わたしの受けとめ方はこうです。

この事例を読んで、私はいろいろ考えさせられました。Mさんの発言もさることながら、この学校におけるMさんの遇され方が、まず気になります。遇する方にも、遇される方にも、目くばりをしたい、そんな風に感じます。/Mさんは「俺の弟じゃ。俺の学校で、俺が許可して、俺の弟が商売して何が悪い!」といったといいます。日ごろからMさんが、この学校でどのように振る舞い、それを校長はじめ教職員が、どのように眺めていたか、この発言は物語っています。「うるさいから、文句はいわずに、見て見んふりをしておこう」という遇し方と、「ある程度、好き勝手にやっても、校長らは、よう文句はいわんやろう」という、Mさんの「見通し」とが、うまく合致し、その上でのMさんの振る舞いがあると予測されます。(同上書、90~91頁)

つまり、この事例の背後には学校の教職員なら教職員の被差別部落民像とMさんならMさんの被差別部落民としての自己像があり、それぞれの像が交叉するところに特異な遇し方・遇され方が生じ、それらが全体として差別-被差別関係を成り立たせているのだと、わたしは考える。もしそうだとしたら、いわゆる差別する側に立つ者・差別される側に立つ者それぞれが、それぞれの被差別部落民像を見つめ、人と人との関係を凝視することからはじめるしかないのではありませんか。片方だけではダメなんです。住田さんと灘本さんにお願いしたのは、お二人が被差別部落民であることを自認しているからであって、当然お二人の議論に対しては、被差別部落外出身者からの意見が突き合わされることが求められます。住田・灘本「往復書簡」は、被差別部落民同士の議論ではなく、いわば「両側から超える」論議の発端としてある。少なくともわたしはそのように考えてこの連載を企画したつもりです。

4.
 もっとも、この企画には被差別部落民を自認する人びとに「被差別部落民とはなにか」「被差別部落民であるとはどういうことなのか」を語ってもらいたいという、わたしの永年の願いが強く込められていることは否定しません。
 今岡順二・中島久恵・灘本昌久・山城弘敬・山本尚友さんたちの座談会「部落青年のアイデンティティー」(前掲『部落の過去・現在・そして…』所収)が示しているように、この2、30年間における経済の高度成長と同和対策事業の進展は被差別部落のありようを大きく変化させました。生活形態が多様化し、かつて強調されたような“共通利害にもとづく連帯感(同胞意識、キョウダイ意識、帰属意識)”が一段と稀薄になったことはまぎれもない事実です。被差別部落の共同体的結合の弛緩や被差別部落民意識の変様が注目されてすでに久しく、“古き良き時代”を懐かしむのではなくて新たな共同体意識を作り出さなければならないとも主張されてきました。一言でいえば、被差別部落民としてのアイデンティティー(自己確認)が問われている情況といえます。
 ところが被差別部落民意識の稀薄化は語られたことはあっても被差別部落民意識そのものが正面切って論じられることはこれまでほとんどなかったのではないでしょうか。わたしはぜひともこの点について本格的に議論したいと思い続けてきました。すでに山城弘敬さんの「被差別体験と部落民としてのアイデンティティー」(『同和はこわい考通信』海賊版、No.2,3.未完) 、中島久恵さんの「私のなかにある両側」(前掲『同和はこわい考』19頁以下)、津田ヒトミさんの「『ふまれた者の痛みは、ふまれた者にしかわからない』か」(同上書、40頁以下)などの文章や前掲座談会があるけれど、まだわたしの渇望はいやされていない。
 そこに住田さんと灘本さんのやりとりが交流会でなされた。わたしはお二人とも近しいし、これまでもたびたび一緒に議論しあってきた間柄だから、渡りに船と公開討論をお願いした次第です。お二人の議論がきっかけになって、差別される側に立つ者・被差別者・被差別部落民という資格・立場とその固定化・絶対化、もしくはその対象化・相対化について被差別部落民を自認する人たちと存分に語りあえたら嬉しい。「親しい者同士で酒でもくみかわしながらしみじみと声で以って伝達し合う」のはいいことですし、わたしも好きですが、個々人の被差別部落民像とそれにもとづく遇し方・遇され方が全体として差別-被差別関係総体を成り立たせているわけで、狭い範囲の仲間内の議論でおさまるはずがない。それに差別する側に立つ者・差別者・被差別部落外出身者、ときには「一般」「周辺」などと呼ばれ、自らも「部外者」「外の者」であることを自認し、資格・立場の差異という溝・壁の前でめまいを起こしている人も仲間に入ってもらって公開の場で論議したい。そう考えた上での企画です。
 もちろん、わたしの企図が簡単に実現できるとは思っていません。被差別部落民を自認する人といっても、そのありようも意識も多様です。とりわけ部落解放運動に加わっている人びとにとって「被差別部落民とはなにか」は、ほとんど自明のこととされていますから、こうしたテーマ自体なじみにくいものでしょう。他方、被差別部落外出身者といっても、同和対策事業や同和教育、部落解放運動にかかわり被差別部落(民)について「正統かつ正当な理解と認識」をもつ人や、既成の思想・理論・運動に批判的な人からはじまって、被差別部落の近辺に住み日常的に被差別部落(民)に関するあれやこれやの噂に接している人、学校や職場、地域で啓発・教育の対象にされている人、あるいは話には聞いたことがあるが被差別部落民に会ったこともないという人、かつて部落解放運動に加わったことはあるがいまではすっかり運動から離れ関心もなくなった人、直接的に部落解放運動にかかわったことはないけれど深い関心を寄せている人にいたるまで、これまた千差万別です。それらの人びとすべてに「被差別部落民とはなにか」を語れというのがそもそも無理な注文です。
 にもかかわらず、わたしは部落解放運動が共同の営みになるためには前述したような形態と内容の論議が必要で、それを抜きにしては資格・立場の対象化・相対化はとてものことではないが不可能であり、隔絶された差別-被差別関係の止揚しようなど夢のまた夢でしかないとかたくなに考えるものです。だから住田さんと灘本さんが、わたしの願いを聞きいれて往復書簡形式の公開討論をしてくれたことは画期的でした。読者からも「関心をもって読んでいる」とのお便りが少なからず届いています
 以上のような経緯からして、当然次はお二人の問題提起にわたしが応える番です。そこでまず被差別部落民を前にしてひるんだこともあるわたし自身のなかの“被差別部落民”像をたどり、その上でお二人の議論についての意見を書くことにします。しばらくお付き合いくだされば幸甚。(つづく)



《 論稿 》
気がつけば構造主義者
梅 沢 利 彦(東京.NHK勤務)
◎何が問題であったのか
 この「通信」の紙面を借りて、生物学者の柴谷篤弘さんの構造主義反差別論にいくつかの疑問を書き、柴谷さんから懇切な返答をいただいている。柴谷さんの返答で疑問が氷解したというわけではないが、その後、池田清彦さんの『構造主義生物学とはなにか』(海鳴社)など数冊の本を読んで、啓発されるところがあったので、ご報告する次第である。
 ぼくがこだわったのは、「歴史ないし変遷に関する部分はすべて表層構造に属することとし、深層にある差別構造の発現として説明可能」とされていることである。しかも「深層にある差別構造」とは、「脳にくくりつけになっているもの」とされているので、ぼくは「文化理論としての生物学的神秘主義になるのではなかろうか」と書きつけた(No.50)。
 正直言って、生半可な理解で見当はずれの物言いをしているのではないかという不安もあった。ところが、つぎの文章にぶつかった。「実存主義とマルクス主義は共同して構造主義にこの問題をぶつけ、構造主義は歴史的発見を説明できるか、と問うた。構造主義は現に在る構造(共時的構造)を解明できても、構造の移行(通時的発展)を分析する能力がなく…社会と文化の特定の共時態を分析する方法として構造主義を承認するが、社会と歴史の動態的運動の理解のレベルでは構造主義を切って捨てる」(今村仁司『現代思想の系譜学』P40)。

◎ 「構造」の定義がキー・ポイント
 この文章で、ぼくの疑問がピント外れではなかったことが明らかにされて半分安心した。と同時にこの文章の中に、ぼくを含めた批判者の読み違いがあったこともおぼろげながら解かってきた。躓きの石は、「構造の移行」(歴史の変遷としてもよい)である。この表現は、歴史・文化・社会・制度etc を「構造」と理解することを示している。イタリア共産党の構造改革論の「構造」とはまさにそうしたものであった。ぼくもそうした意味で「差別構造」などと使ってきた。
 しかし構造主義が「構造」と認めるものは、内部世界にあっては「脳(内の言語構造)」,外部世界にあっては「物理法則」などである。したがって歴史・文化・社会・制度などは「構造」ではない。人間の構想力の産物である。原因と結果という関係では結果であり、原因と現象というなら現象である。

◎ 構造から現象を説明することは可能か
 柴谷さんの文章に「構造主義は、現象を歴史によって説明する態度をすてて、歴史を構造によって(不変な構造の布置変化として)説明する」(『科学批判から差別批判へ』P138) とある。ここのキー・ワードは「構造の布置変化」である。意味するところは、脳の中の差別構造は、部落差別、障害者差別、女性差別、民族差別などの諸々の差別が重なり合っているだけでなく、「差別する」と「差別しない」の背反する構造も併存するなど、重層構造をなしている。そして差別の発現は、それらのどれが優勢になるか-布置変化-によって決定されるというのである。前回ぼくは、「差別する」方の構造が優勢だから「差別がある」と言っているようなもので、同語反復的であるといった意味のことを書いた。「構造から現象を説明する」の文言を字義通り受け取ったからである。どうやらこれはぼくの早トチリであった。
 柴谷さんの文章をよく読んで要約すれば、<人間の頭脳には差別と反差別の構造がどちらもあって、その強弱は社会的にきまる>。そして差別する対象として「部落」を与えられると、そこを「自分の差別感のはけ口してしまう」というのである。なぜ日本では部落に対して差別感が噴出するのかということについては、歴史的、地理的、あるいは民族的「経路」(『批判』P121) があげられる。あるいは「文化の拘束性」という表現もある。
 構造と現象の間に「経路」ないし「文化の拘束性」という回路が設定されていたのである。なるほど構造主義がより理解しやすくなる。しかし別の疑問が生じてくるから厄介である。この「経路」とは一体何物なのかという問いである。構造でもなく、現象でもない、定義されていないものである。柴谷さんは続けて日本の条件として、「浄・不浄」「穢れ」「みそぎ」の観念の存在にふれられている。しかしそれは状況説明であって、「経路」の定義ではない。
 トチリを恐れずに書けば、構造主義といえども、人文科学・社会科学(池田さんの定義によれば厳密科学ではない科学)に属する事柄では、現象と構造をストレートにつないで説明することは不可能で、回路を介在させなくてはならないことを示しているのではなかろうか。(構造主義生物学では、「生命現象と分子のレベルの間には恣意的に持ち込まれたある構造が入っている」との仮説が、「遺伝暗号」という構造の存在で裏付けられたと解説されており、ぼくもそうだと思う)
 ところが文化の基底構造である脳内の構造は、現在の段階では窺うことのできないブラック・ボックスのようなものである。「現象を説明するのに、歴史を捨て、構造の布置からする」とのテーゼは不可能である。「構造の布置」そのものが、差別の現象状況から想定される仮説に過ぎないと考えるのだが、いかがであろうか。

◎ パラメーター概念の導入
 ぼくが魅力を感じたのは、遺伝暗号も生成的な側面をもつことに触れられた箇所で、「パラメーターを変えることによってえられるような、胚発生などのいろんな様式を生成しうる深層構造がある」(『批判』P242) と書かれているところである。パラメーターは媒介変数、助変数などの訳語があてられている数学の術語で、柴谷さんはそれを数式の因子として厳密に使用し、その数式が構造であると規定している。
 しかし、ぼくはパラメーターを<現象に変化をもたらす因子>というラフな規定で歴史の見方に導入したらどうかという考えをもつようになった。柴谷さんのいまの文章を読み変えれば、<パラメーター(回路)が変わることによってさまざまな生成がなされる>となる。そしてパラメーターとは、経済学における「所得、消費、投資、価格」のように、歴史において風土、民俗、宗教、法制などである。これらはもっと細分化されるだろう。そうすれば、<現代社会の部落差別は、歴史とは無関係で、人間の脳内にくくりつけになっている差別構造が発現したのだ>との誤解を生じやすいテーゼが、いささかわかりやすいものになるのではなかろうか。

◎共時的と通時的
 たしかに柴谷さんが運動論として強調するように、「『差別をなくそう』という概念」は「『言語をなくそう』という概念と同じように、現実性のない、むしろ空虚な試み」(『批判』P137。この言説がソシュールの言語理論に基づいていることに注意)であるかも知れない。その意味でーまた振り出しに戻るがー共時的(現在の)分析に強力な方法である。
 だが「経路」については、構造に還元するだけで解けるものではない。フーコーのような膨大な実証的研究のみがよくなしうるのではないだろうか。
 今回ぼくは柴谷さんとかけ離れた主張をしているとは感じない。柴谷さんの反差別論に関するこれまでの著書は、現在の運動への批判として「構造」に重きが置かれている。一方ぼくは、柴谷さんの断言的な言説にやや困惑を感じて、「経路」に傾斜した意見を述べた。ポスト構造主義にさしかかっているのかも知れない。

《 あとがき 》
★年末年始は、酒もほどほどに本を読んだりワープロのキーをたたいて過ごしました。何事もなく年が暮れ、何事もなく年が明けたというわけで、まことにおめでたいかぎり
★ある人への賀状に書き添えた「力まず、理屈をこねず、自分の言葉で思索したい」に自分で感心しているようでは今年も大きな飛躍は無理ですねぇー
★前号、印刷機の調子が悪くて汚かった上にミスも多く申し訳なし。柚岡ゆおか文中(3)の小見出し「新しい部落民意識の誕生」が落ちていたことのみ訂正させてもらいます。あとは御免
★91年12月10日から92年1月1日まで三重(2),京都(6),鳥取、愛知(2),大阪(3),兵庫の15人の方より計63,190円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。ただお一人、甘納豆などと一緒に切手を送ってくださった京都の人のお名前がわかりません。お心当たりの方はご連絡ください
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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