同和はこわい考通信 No.50 1991.9.23. 発行者・藤田敬一

《 往復書簡 》
被差別部落民とはなにか ①

編集子から:全国交流会二日目の全体集会で住田さんと灘本さんが交わした上掲テーマにつながる議論は、参加しておられた大方の人びとにとって唐突だったかもしれません。しかし事柄は、部落差別問題の基本にかかわっています。そこでお二人に往復書簡形式の討論をしてもらうことにしました。もちろん飛び入り、割り込み0K。わたしもそのうち参加するつもりです。

灘 本 昌 久 様
住 田 一 郎
 連日、猛暑が続きますが、いかがお過ごしですか。私の方は少々バテぎみで、先日の全国交流会の折りに約束した「部落民として生きるとは」(仮題)についてのあなたとの往復書簡も、最悪の状況下で書くことになってしまいました。一回きりということでもないので誤解を恐れず、気軽にあなたへの私の疑問なり、こだわりについて思いつくままに書くことにします。
 そもそも今回の往復書簡の発端は、『「ちびくろサンボ」絶版を考える』(こみち書房、1990年8月)の竹田青嗣氏・岸田秀氏との鼎談でのあなたのつぎの発言

血統の話が出てしまいましたのでつけ加えますと、僕のおじいさん、おばあさんまではみな被差別部落に生まれ育って、僕は部落民三世です(笑い)。血統は正しいんですが(笑い)、いまは部落の外におります。

にありました。以前にも、この点についてあなたと話し合う機会があり、私から、

なぜあなたはあの鼎談で部落出身であることを冒頭に、どのような意図で発言したのか。

との疑問を呈してきました。私の誤解なのかもしれないが、日頃のあなたの「部落出身者ではあるが、ことさらに部落民としての自分自身にこだわることはないし、部落民であることを売り物にすることもない」との姿勢からすれば、なおさら私はこの場面であなたが「部落出身者である自分を積極的に(?)明らかにすることはない」と考えていたところから生じた疑問だったのです。それに対し、あなたは「自分が部落出身者であることを語ったことについて、実はそんなに深い意味があったわけではない。本当はあのようなかたちで発言する予定ではなかった。」「すぐ前で竹田氏が自分自身を在日朝鮮人であると発言したことに触発されたのだ」とも話されていましたね。
 しかし、実際にはあなたの本意とは裏腹に残念ながら「部落出身者灘本」の発言は灘本個人の発言とは違ったニュアンスで受け取られてしまうことも、今日の部落問題をめぐる一般的状況ではないでしょうか。特に、この種の論議の場合には「免罪符」ともされかねないのです。たしかに、もう一方で「被差別部落の身内」意識に消耗を強いられる論議から解放される「利点」もありますが……。私にはあなたの部落出身者発言はあの場合(問題の本質的な議論を深める立場からとらえるなら)必要ではなかったと、いまも考えているのですが、いかがでしょうか。
 同時に、あなたは部落民三世で、現在まで被差別部落に住んだことはなく今も住んでいないと語っています。私はこの事実の方にこそ「部落民とは何か」を問う課題としてこだわるのです。あなたは、あなたが云う「血統の正しさ」から、一般的には部落出身者に違いないのでしょう。しかし私のように被差別部落に生まれ、育ち、今もその中で生き続ける部落出身者と同じように「部落民」としてひとくくりにできるのだろうかとの疑問を強く感じているのです。俗に云う「丑松が何を云うかと対話を打ち切る立場」と混同しないでくださいね。ましてや私が「正統の部落民」であり、あなたはそうでないとしているのではありません。そうではなく私はあなたと私との間にある客観的事実の相違が現実の被差別部落民としての生き方にも大きく影響しているし、むしろせざるをえないのではないかと考えているのです。 あなた個人が客観的に被差別部落民として存在し続ける根拠は、あなた個人のうちにあるのではなく、あなたたち家族を生み出し同時にあなた方が帰属する現在の被差別地域への差別が依然として存在していることによって成り立っているのではないでしょうか。まさに井上清氏が30年前に被差別部落を規定した「三位一体論」の「地域」の意味に通ずる問題なのです。被差別地域として「客観的」に規定された地域(部落)への部落差別が解決されることなくして、被差別部落出身者個人として地域から出ることでの「解放」は本来ありえないのではないか、と私は考えているのですが、いかがでしょうか。もちろん、個人として部落差別の呪縛から「解放」されるあなたのような被差別部落出身者が存在する事実を否定しているわけではありません。しかし、部落問題は被差別部落出身者の個々人への差別としても現われるが、本質的には被差別地域を形成する「共同体」に対する差別問題ではないでしょうか。私の弟も含め、被差別部落出身者であることを隠すのではなく自然な形で被差別部落から出て生活している出身者はこのところ急速に増えています。たぶんこれらの出身者にはこれまでの日常生活における「低位性」や「部落民として忌避される」要因は見られないのではないか。にもかかわらず、出身者の少なくない人々が「被差別部落出身として部落差別の呪縛」(部落差別を受けるのではないかとの不安)から解放されないのは、彼らの出自先の地域が被差別部落として存在させられ続けていることによっているのではないでしょうか。
 あなたもご存知のように私は最近部落問題について発言する機会があるたびに、被差別部落大衆の日常生活に現われた「内面的な弱さ」を具体的に指摘しつつ、これも部落差別の実態的な差別なのだ、と問題提起してきました。ただ、この提起は「内面的な弱さ」自体を丸ごと部落差別の結果なのだと開き直り、克服の責任をすべて他(行政)に転嫁するためではありません。同時に、被差別部落大衆の「内面的弱さ」をたんにあげつらうためでもなく、私自身その渦中に生活し、子育てしながら部落大衆と共に「内面的な弱さ」を弱さとしてまず確認しあいながら、克服の手立てを見いだそうとする立場からの指摘なのです。
 ところが、被差別地域にではなく、他の地域に生活基盤をおく出身者にとって、私の内部からの問題指摘はどのように受けとめられるのでしょうか。たぶん、理解はできるが日常生活において具体的に被差別大衆と課題を共有していない、できないのであるから、「まあ、内部で頑張ってください」と答えざるをえないのではないでしょうか。もちろん、共有していなければ部落問題と取り組めないというものではけっしてありません。がしかし、一人でも多くの「内面的な弱さ」を確認し合える出身者が地区内で生活を共有し、共に対話を深めていくならば克服の道を見いだすことは現在より数段容易になるのではないでしょうか。
 私が全国交流会の折りにも発言したように、現在の被差別部落の凄まじい否定的な実態は生活を共有し、共に「内面的な弱さ」克服に向けて活動しうる出身者を一人でも多く必要としていると断言できるのです(それ故、被差別部落外で生活している出身者は地域に帰るべきだなどと、私はナンセンスに考えているわけではありませんが……)
 今日のところはこの辺で筆をおきます。御批判をお聞かせください。(1991.8.2)



住 田 一 郎 様
灘 本 昌 久
 ご多忙の中、さっそく問題提起の手紙を頂戴してありがとうございます。友人たちが注目している中で、往復書簡をかわすというのは気恥ずかしいものですが、よろしくお願いします。
 『「ちびくろサンボ」絶版を考える』については、既に京都部落史研究所で不定期にもたれている差別論研究会で友人亀岡哲也氏が1990年秋に報告をおこない、その際住田さんの奥さんが竹田・岸田・灘本3人の対談につき(部落民宣言だけでなく、「セックスが強いことはマイナスか」の出だしの部分も含めて)不快感をいだかれておられることは発言から充分感じておりました。しかし、住田さん「夫婦そろって激怒」されておられるとは夢にも思っておらず、先日の交流会でそれを知ってたいへん驚いている次第です。
 お手紙を拝見したところ、住田さんのおっしゃりたいことは複数の論点にわたっており、私には意味のとりにくい部分もありますので、すこし答えがくどいかもしれませんが、ご容赦ください。

(1) 『絶版を考える』の対談で「灘本=部落民」をいう必要はなかったのではないか───について。

 まず、あの『絶版を考える』において私が部落民である(厳密には対談で述べているように「部落民3世」、もしくは「穢多4世」とすべきでしょうが、とりあえず「部落民」としておきましょう)ことを述べているのは、32ページの執筆者紹介にもありますので、あの本を読む人には「灘本=部落民」という印象が植え付けられることは私としても計算済みのことです。
 たしかに『ちびくろサンボ』問題を論じるのに部落民であるかないかが何の意味もないことは私自身充分に承知しております。しかし、この間日本において語られる『ちびくろサンボ』糾弾の語り口は、「差別の問題を論じられるのは差別された痛みを知っているものだけ」という差別の痛み論が基調となって『ちびくろサンボ』が差別本であることに議論の余地を与えない姿勢が感じられ、差別に敏感で「良心的な」人たちは、その論調に口をつぐんでいるのが現状だと思います。しかも、その際の「怒れる被差別者」は黒人に限定されず、全「被差別大衆」に拡大されてイメージされています(解放同盟関係の機関誌がサンボ糾弾の大合唱になっているのもその原因のひとつでしょう)。そこで、私が『絶版を考える』で意図したことは、そうした「差別を糾弾してやまない被差別大衆」の前で、口を閉ざしている良心的な人に、「あなたがイメージしているのとは違い、被差別者がうって一丸となってサンボを糾弾しているわけではない」ということを知らせ、さまざまな意見を聞き、精神を自由にして主体的に考えてもらおうとしたわけです。この点に関しては、対談の中でも竹田氏が述べておられます。ただ、私の当初の考えでは、本の冒頭の著者紹介で書かれておれば充分であり、対談ではむしろ自由な立場で徹底的に議論しようと思ってました。決して安全装置として「部落民宣言」をしたわけではないのです。しかし、対談において、竹田氏は私が考えている以上に、被差別者による対談ということに戦略的とでもいうべき重みを与えておられ、少しそれに引きずられる形で対談でも「部落民性」を正面に出したということです。この点に関しては、朝鮮人を内面でもっている竹田氏と、部落民性を内面でもっていない灘本の違いがあるように思いますが。
 ともかく、部落民宣言自体はまったくあの本の中では意図されたことではありますが、強調しておきたいのは、サンボ問題を語るのに被差別者であるかないかを資格要件として考えていない人にはもともと意味のないことであり、無視していただければいいわけです。しかし、逆に資格要件として重大視している人には、被差別者であるからといってサンボを糾弾する人ばかりではないということを理解してもらうことが重要で、「灘本=部落民」ということを頭において考えてもらうことが差別問題に主体的にアプローチしてもらうのに早道であると思ったわけです。サンボを語る資格に強いこだわりのある人(被差別者のみにその資格があると考えている人、およびそれに反論できず沈黙している人、両方を含めて)に言葉をとどかせるためには、多少なりとも意味のあることという判断です。決して「免罪符」をねらってのことでないことをくれぐれもご理解いただきたいと思います。ただ、ひとつ考えておいていただきたいことは、「被差別の立場」でない人が語ったとき、いかに「こだわり派」には言葉はとどかず、無意味な中傷が繰り返されるかということです。それは藤田敬一氏の『同和はこわい考』の例でも明らかでしょう。その点を考慮しての、敢えてかってでた「被差別者」たる竹田・灘本なわけです。もっとも、速効性のある「被差別の立場から」という問題提起のやりかたは、その無根拠さが伝わった途端、意味を失うわけですが。
 ところで、ここで住田さんに質問をさせていただきたいのですが、住田さんは竹田氏の朝鮮人宣言にも不快感をいだかれているのでしょうか。もし、私に対するのと同じ不快感をいだかれたなら、その趣旨は非常に明瞭にわかるのですが、不快感をいだいたのが私に対してだけであり、竹田氏の朝鮮人宣言は別に不快でないと感じられたのなら、私に対する批判は、どう理解すべきでしょうか。

(2) 部落の中に住んでいる「部落民」と、外に住んでいる「部落民」の「部落民性」について。

 住田さんの議論はここでややわかりにくい感じがします。それは、「私のように被差別部落に生まれ、育ち、今もその中で生き続ける部落出身者と同じように「部落民」として(部落外に住む部落民を)ひとくくりにできるのだろうか」という疑問を提出すると同時に、「被差別地域として「客観的」に規定された地域(部落)への部落差別が解決されることなくして、被差別部落出身者個人として地域から出ることでの「解放」は本来ありえないのではないかと、私は考えている」という結論をもってこられているというところなのです。前者は、部落に住む部落民と外に出た部落民はかなり違うという結論のようであり、後者は、部落に住む人も外に住む人も、ともに地域に対する差別に拘束されるという意味で同じであるといっているように聞こえます。
 住田さんの立論のベースには、部落差別は地域に対する差別であるという出発点があるようですが、その点はかなり私の認識と違います。地域に対する差別であるとの外観を呈しているのは、部落民が外見では区別できないため、やむなく地域で判断しているということでしょう。私の考えでは、部落民に対する差別は、前近代以来のけがれ意識を核とする忌避・排除が中心であり、そのまわりを低位性という比較的近代的な差別感がとりまきからみついているとみています。そして、部落差別が弱まるにつれて後者に比重がかかってくると思います。
 住田さんは、部落外に住む部落出身者が「被差別部落出身者として部落差別の呪縛」を受けるのも、上記の部落差別は地域に対する差別であるということに原因をもとめておられるようですが、私は違うと思います。「部落差別の呪縛」の核心は、部落民自身が、部落民であること、穢多の末裔であるということをありのままの事実として、卑下するでもなく誇るでもなく、まっすぐに受け入れられているのかどうかということだと思います。その点さえ自分の中で整理されておれば、部落の中に住んでいようと、部落の外に住んでいようと基本的に解放されていると思います。逆に受け入れられていなければ、まるで患部がレントゲンに映し出されるように、自分の中のマイナスの部落民性が映し出されるのです。
 自己認識が明確になったあとは、地域の低位性や問題点を部落の中にいて改善していこうとするか、そういうことには関わらずに別の道を選択するかという個人的な志向性の問題に還元されるわけでしょう。もっとも、穢多の末裔であることがなんの違和感もなく受け入れられるようにすることは、かなり困難なことであり、単にそう認識すればいいというわけにはいかないというところが難しい問題ですが。

(3) 「内面的な弱さ」を確認し合える出身者が地区内で生活を共有し───ということについて。

 それは、あくまである地区内に生まれ育った部落民がそこの地区で考え働きかけ続けるということが重要なのであって、私のように部落の外に生まれ育った人間が「内面的な弱さを確認」し、「生活を共有し」ても、中の人からはよそ者のお節介でしかないのではないでしょうか。もし、私にそんな資格があると考えるなら、それはあまりにも血統主義というものではないでしょうか。
 最後につけくわえるなら、住田さんは私がとっているスタンスを誤解されているように思えます。私自身は、「部落民」ということにプラスの価値もマイナスの価値も見いだしておらず、「部落民」ということに意味をもたせるつもりのない人との間では「部落民性」ということは無意味なことで、自分が部落民であるかないかを考える必要もないと考えています。しかし、同時に、「部落民性」になんらかの意味づけをしている人にとって、私はまごうかたなき「部落民」であり、そう規定されることをまったく拒否しておりません。したがって、部落民に対する差別は自分に対する差別であるという認識に立っています。決して、「部落民性」にほおかむりしているわけではないのです。たかが無根拠、されど無根拠というところです。 以上、とりあえず住田さんのお手紙を拝見しての粗雑な感想です。(1991.8.22)

《 書評 》
構造主義と反差別論
梅 沢 利 彦
1.構造主義の反差別論
 『科学批判から差別批判へ』(明石書店、1991/2)が柴谷篤弘さんの新著の題名である。「まえがき」には89年10月に刊行された『反差別論』に先立つ論文の集成のように読み取れる部分がある。だが各論文の執筆時期をたどると「Ⅱ 新しい国際関係のなかで反差別を考える」と、「Ⅲ 背景に見えるもの」の二章が『反差別論』後の展開である。
 ぼくの感じではⅡにふくまれる「6 生物学から『反差別論』へ」に、柴谷さんの「構造主義反差別論」がより明快に定式化されているので、この論稿から柴谷さんの問題提起に向き合っていこうと考えたのが以下の文章である。
 まず柴谷さんが提示した重要な文章をテーゼ風に書き抜く。

一、構造主義は、現象を歴史によって説明する態度をすてて、歴史を構造によって(不変な構造の布置変化として)説明する(P138)。

二、現代の部落差別を歴史的な動態として説明することを求めず、昔も今も人間の脳のなかに居座りつづけている同一の差別構造が、本来無根拠にえらばれかつ通時的に全体として変化する文化の布置のなかで生じてくる、拘束性を明らかにすることにつとめる(P138)。

三、われわれの内にあって、差別構造と背反的な(しかしおなじく無根拠な)、差別と戦う構造に光をあてることが必要であろう。いかに差別したかということではなくて、いかに社会が差別とたたかってきたかということを、万人の共通の知識にしたい(P140)。

いうならば「一」は構造主義歴史学の原理論、「二」はそれの差別史への適用、「三」は運動論ともいえる。
 キーワードは「構造」と「現象」である。例として物の落下現象があげられる。「手から物が落ちることは、手を離すということがきっかけになっているが、本来は重力の法則という、目に見えない不変の構造があるため」である。つまり構造を原因として生成するものが現象である。だから構造は不変であるのである。
 ただし、いまのは物理的な現象についての構造の理解である。人間の精神活動に関係する構造は、「脳にある物質系の基底の上に」(P132)「くくりつけになっている」(P137)。この構造は単一のものではなく、たとえば「差別構造」と「反差別の構造」のように背反するものが重層をなしている。だから歴史現象が示す様々な相は、その時代の文化状況によって、ある構造が具現化(構造の布置変化)したものと考える。
 ところで差別とは、「自分で選ぶ自由のない個人の属性の差[性、出自、民族、国籍、身体障害、性的好みと帰属性(あるいは性表現ともいうべきか)]などをもって、一次的な個人の標識、区別の原則とすること」(P75) である。したがって差別とたたかうということは、このような「差異」を「差別の記号にはしない、といったことを、社会のなかのたたかいの目標にする」(P141)ことであり、<脳にくくりつけになっている差別構造>そのものをなくすということではない、とされる。

2.いくつかの疑問
 a 生物学的神秘主義
 柴谷さんの理論がフランスのソシュール、アメリカのチョムスキーという二人の言語学者に発していることは、前著でもくりかえし述べられている。ここでは議論を単純にするためチョムスキーについてだけ触れる。チョムスキーの理論は、人間は言語獲得装置LAD(language acquisition devise) をひとつの臓器として内蔵して生まれてきている。ここには普遍文法(言語を組み立てる理論や文法)がセットされており、この普遍文法が変形規則にしたがって表現に至ったものが言語である。つまり普遍文法が民族・時代を超えた深層構造であり、民族・時代によって異なる言語が表層構造なのである。書くことを別にして、こどもたちが育った国の言語を難なく喋るようになることをみると、説得力のある理論である。ただしチョムスキー自身は言語獲得装置について明示的なことは述べていないので、人間の臓器として生物学的に神秘な存在になっている。
 ただ認知科学とよばれる分野での脳(神経)の構造と機能の研究が著しい進展をみせ、チョムスキーの生成文法理論が言語理論の強力な一翼となっている。いずれは神秘主義のベールが剥がされるかも知れない(N.A.スティリングス他『認知科学通論』新曜社など)

 b  文化理論への適用
 脳の中に差別の構造があって、時代に規定された発現が個々の差別事象だとされる。したがってその論理的な帰結として「現代の部落差別を歴史的な動態として説明することを求めず」となる。部落差別というものになにか歴史的な起源があるとする考えを否定して、その起源を断とうとする運動論を否定することになる。
 ここでちょっと注釈を加えると「脳の中にある差別の構造」という概念はチョムスキー的であり、「発現は時代に規定される」という概念はソシュール的である。どういうことかというと、深層構造に対応するチョムスキーのことばはコンピテンス(能力)であって、個体の中にセットされている、時代には関係のないものである。これに対するソシュールのラングはもともと個人を超えた社会に規定されるものとしてあるからである。
 ここで問題にしたいのは、深層構造と表層構造との関係である。言語の発現形態は音声として意味を帯びるだけである。しかし差別は意味のほかに価値観が込められる。たとえば「特殊部落」は言語学的には、「特殊」と「部落」という名辞を結合しただけのものである。そして意味論的には「特殊な部落」を言い表すに過ぎない。ところがこの言葉が使われた歴史的な経過をたどると、被差別部落への蔑称になる。どうしても歴史を捨象することはできない。あるいは「穢れ」概念の変遷過程がある。
 柴谷さんの理論では、歴史ないし変遷に関する部分はすべて表層構造に属することとし、深層にある差別構造の発現として説明可能である。とするとチョムスキーの言語獲得装置が未知の臓器として生物学的神秘主義になっているのと同じように、「脳の差別構造論」として、文化理論としての生物学的神秘主義になるのではなかろうか。たしかに差別の動因を求めて歴史をさかのぼると、社会的、政治的、宗教的、民俗的…ととどまるところがない。だから時代を輪切りにしてそこに顕出した差別を、時代の刻印を負った文化の相として考えることも有益だと思う。
 だからこそ、そこに歴史の連続と断絶を考えずにいられないのではなかろうか。阿部謹也さんの『刑吏の社会史』などを読んで驚くのは、中・近世におけるヨーロッパと日本の身分制が酷似していることである。そしてヨーロッパでは、その後脱賤化がすすむが、日本では現在に残っている。ここをヨーロッパでは深層の「非差別の構造」が優勢になったのに対し、日本ではまだ「差別の構造」が強いといっても説明にはならない。文化の違いをいうのなら、なにがどう違うのか明らかにする必要があろう。柴谷さんの理論はわかりやすいのだが、疑念を拭えないのは、個体レベルのものであるチョムスキーの深層構造論を無媒介に社会・文化の問題に適用しているところからくるのではないだろうか(ソシュールの理論を落としていると叱られそうだが、この節のはじめにソシュール的、チョムスキー的と書いたように、両者には社会性と個体性という背反する要素があると考える)。

 c  社会言語学への関心
 田中克彦氏の『チョムスキー』(岩波同時代ライブラリー)は、「社会言語学の挑戦」の一節を掲げ、チョムスキーへの批判学派のひとつを紹介している。この学派の問題意識だけを抜き書きすると、「同じコンピテンスと一般文法の装置をもって生まれた人間が」、「同じ言語のうちにも地方方言だの階層方言だの、さらに性差方言さえもが生じるのはなぜか」(P171)という疑問からスタートする。そして「言語の差異が維持されるため、そこから発生する社会的な差別、精緻で自立的な言語コードと、状況依存的な荒っぽい言語コードとの差異は…教育や貧困などの社会問題と深いかかわりを持ってあらわれてきた」(P172)という。ここの「精緻で自立的な言語コード」と「状況依存的な荒っぽい言語コード」とは、英語圏の話で前者が上層の言葉、後者が下層の言葉といった使い分けがある(社会言語学派に対してチョムスキー主義者は、「それは単に表層の問題だと言うかもしれない」、とのエクスキューズもつけられている)。
 ここで社会言語学を取り上げたのは、深層構造と表層構造との間に媒介項を導入できないかと考えたからである。もちろん社会言語学が視野にいれている「言語の差異」と「社会的差別」の相互関係は、「ことばの問題」に限られており、差別論としては不十分である。もちろんこれはぼくの思いつきで、なお考えをすすめたいと思っている。(91.6.1)

《 あとがき 》

★九月に入ってからの猛烈な暑さには閉口しましたが、台風一過、やっと秋らしくなった感じですね
★八月末、岐阜市黒野で同志社大学のみなさん(31名)の現地研修がもたれ、地元の学校や自治会、運動団体の人びととの交流・懇談会が開かれました。岐阜大学教育学部からも10名ほどの教員、学生が参加。数は少なくても、こうした地元との交流が深まってゆくことが肝心と思ってます。焦らずにやります
★8月9日から9月19日まで、岐阜、東京、大阪(2)、三重の5人の方より計12,286円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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