同和はこわい考通信 No.5 1987.10.20. 発行者・藤田敬一

《 感想 》

私は「王様」になっていたように思います
鈴木 三千代

  これを読む前は自分のことではあるが、正直にいえば間接的な気持ちで読みかかりました。しかし、読みすすむうちに、それどころか、これこそ自分をさして言われているのだと想い、真剣になってしまったものです。それと、日ごろなんとはなく考えていた在日韓国人のことや、その他いろいろと問題提起がされていて、よけいに興味深かったのです。
 若いころから私は、「障害者である前に人間なんだ」と肩肘を張り、ことあるごとに差別だと言ってきました。しかし、振り返って見ますとき、「人間だ」と言って人に噛みついていた頃の私は人間ではなく「王様」になっていたように思います。
 人が、被差別より目覚めたとき、おおかたは、人間を越えて一挙に「王様」になろうとするものでしょうか。そういう意味において自分は障害者であることを踏まえて、つまりマイナス面も含めた自分を見なければ真の人間にはなりえないのではと、想いつつあります。
 しかし、ここでも言われていますが、被差別者のみの責任と言って片付けられることとも想いません。が、糾弾することのむずかしさを思うと、つい黙ってしまうのです。
 それが悪意から出た言葉なり、行為であればまだたやすいのですが、差別する側は無意識か、もしくは好意として言っているので、よけいに困ります。例えば、私はクリスチャンで、教会に行くのですが、「あなたに会うと忘れているものを想い出さされて有難いわ」とか、「あなたがいるから障害者問題も身近になった」とか、いろいろおっしゃって下さいます。これは他の教会の人で したが、「あなたって頭が良いんやてね」と初めて会った人から言われたこと もありました。
 これらのことをいちいち糾弾すると、かえって疎外されてしまいます。ですから、心の中で溜め息を吐きながら、私は笑顔で「ありがとうございます」と言っていますが、もう一歩自分を突き詰めれば、なぜ頭が良いと誉められて、溜め息を吐かなければならないのか、ということです。それは私の中に「知恵遅れとは違う、彼らとは違うんだ」という想いが、溜め息となって出てくるのだと想います。
 その差別という実に厄介な得体のしれない怪物は、一体どこまで私達に付きまとうのか、そら恐ろしい気になってきます。ですから、人の差別のみならず、自分の中の差別に対しても糾弾していかなければならないと思っています。

コメント.
 この感想文は「差別問題を考える四日市市民の会(準備会)」発行の『会報』創刊号(1987.9) に載ったものです。鈴木さん、市民の会のご了解をえて転載させてもらいました。市民の会は毎月一回の例会をあしかけ7年つづけておられます。現在は『同和はこわい考』をテキストにして交代で報告し、討論をするという形式をとっているよし。鈴木さんは障害がありワープロで感想を述べられたと聞きました。なお見出しは、藤田がつけました。
 ところで『会報』創刊号によりますと
   
 [部落外の者にとって、個別利害、損得勘定から考えるかぎり部落問題が  「自分自身の問題」になることはまずないといってよい。](p.22) の箇所 について議論が集中しました。「こう言い切ってしまうのは悲しい」「わか る気がする」など、それぞれが自分の問題として考えたことを語りました。 山口さよさんは「前に、障害者解放運動をしなければいけない、いけないと 煽りたてるように近づいて来た人がいつのまにか消えていなくなり、その人 ばかりか他の人まで信じられなくなったことがある」と話してくれました。
とあります。たしかに、わたしの言い方には断定的な感じがあり、それが「悲しい」という感想を生んだようです。わたしの真意は「自分の問題として考える」とはどういうことなのか、自らに問いつづけたいというにあります。わたしの経験からすると、理屈、概念、理論(これに「思想」を加えてもよろしい)が「自分自身」と「問題・課題」との距離を必ず埋めてくれるとはかぎらないように思えるのです。
 もちろん中山武敏さんのおっしゃるように(『こぺる』87年7 月号)、「誰も人は、人の世の冷たさと共に、人の世の温かさの体験をもっているはず」ですし、「人には、強さも弱さも、冷たさも温かさもある」と、わたしも思います。また「被差別部落外出身者で、部落問題とのかかわりを売り物にし、運動、組織、幹部に対しては身をすりよせ、他の人々に対しては傲慢、軽兆浮薄な態度で差別問題を論じている人もいる」一方、「心から被差別部落民の苦しみ、痛みに思いをよせ、誠実に同和教育にとりくんでおられる教師や、その他の多くの活動家の人達」がいることを、わたしも否定しません。しかし、わたし自身どうであったかといえば、一貫して部落解放を「自らの問題、課題」としてきたとはとうていいえないのです。
 岐阜における狭山の取り組みを振り返ってみましても、あまりえらそうなことはいえません。新岐阜駅前のターミナルで毎月23日、狭山情宣をやっていまして、この10月から13年目に入りますが、当初は20人ぐらい参加者があり、
「かもい」の模型をならべたり、写真パネルを貼ったりしました。現地調査をもとに76年にはスライド、77年には8ミリ映画をつくって上映会を開いたこともあります。石川一雄さんと定期的に面会し、手紙がくると喚声があがったものです。
 いま手元にある記録によりますと、76年10月30日「最高裁事実審理要求!狭山完全勝利!岐阜県民総決起集会」には80余名が集まったとあります。80余名で「岐阜県民総決起集会」とは笑止千万などとおっしゃらないでください。それが岐阜の実状だったのです。翌10月31日、「寺尾差別判決糾弾2周年・最高裁事実審理要求!狭山完全勝利!中央総決起集会」には岐阜から60余名が参加。77年にはハンストを二度やり、それなりに盛りあがったものの、最高裁の上告棄却以降、狭山デーの参加者は目にみえて減ってゆきました。
 「生産点」の闘いが重要で街頭情宣などは意味がないといって来なくなる人もいましたし、他の課題に移っていった人もいます。就職、結婚、子育てなどの人生の節目ごとに忙しさが増し、心ならずも来れない人もいます。いまは部落解放同盟岐阜県連早田支部のみなさんと一緒にワイワイいいながらやっていまして、なんとかつづけられているというのが実態です。
 人はやはり情況に左右されやすいものです。のぼり調子のときは、ひとりでにウキウキするものですが、まわりが静かになるにつれ、声を出すのもおっくうになる。大勢の中にいるときは安心だけれども、一人、二人だと元気が出ない。いくら「一人は万人のために、万人は一人のために」と自分に言い聞かせたとて、なんとも空しい。こうして「自分自身の問題」だったはずの「闘争課題」がいつしか遠くなってしまう。要するに「ヤル気がなくなる」のです。こうしたありさまは、けっして人ごとではない。それだけに、わたしは「問題・課題」の奥にあるものを凝視するとともに、それと「自分自身」とのかかわりを問いつづけたいと考えているのです。

《 再録 》

『同和はこわい考』番外編(1) 二つのテーゼをめぐって
藤田 敬一
1.さまざまな反応から

 『同和はこわい考』が出版されてから、およそ五か月が過ぎました。波紋の一端は6月から出している“『同和はこわい考』通信”に載せていますので、ここでは波紋を見聞して、わたしが感じたり、考えたことどものいくつかを書きつけることにします。
 さて『こわい考』が出版されて、その存在が次第に知られるにつれ、さまざまな反応が聞こえてきました。一部の地域では注文をうけることも店に置くことも断る書店があったといいます。書名に「同和」とあるのがよくないらしいのです。「同和」にかんする本は扱わないというわけでしょう。その他、運動内部には批判、不満、不快感、違和感、戸惑いもあるようです。とくに『こわい考』が客観的に果たすマイナス作用を心配する人、部落解放運動の成果を正当に評価していない、「部落解放運動への信頼、信用がこの十余年のあいだに低下した」というのは正しくないとおっしゃる人もいる。多いのは、部落解放運動の当面する課題にたいして具体的提案がないという意見です。糾弾闘争や同和対策事業、部落解放基本法について、どうせよというのか不明だとお叱りをうけています。さらには差別判断(規定)の資格と基準をめぐる二つのテーゼ批判は間違っている、やはり被差別部落民にしか「痛みはわからない」し、「不利益は差別だ」というテーゼはあいかわらず正しいという意見も、もちろんあります。

2.なぜ二つのテーゼを取り上げたか

 現在の部落解放運動に問題はなく、かりにあってもそれは部分的なものであって根本的なものではない、これまでの理論や考え方を検討しなければならない理由はないというのなら話は簡単です。
 しかし、ほんとにそうでしょうか。部落差別とはなにか、その実態はどうなっているのか、どうすれば部落解放は達成されるのか、といった基本問題について議論しなくていいのかどうか。地対協・地対室の自然解消論、部落責任論、部落更生論、運動・啓発不要論が、「そっとしておく」「同和地区の人々が自らを高める努力が必要だ」とする市民の意見を励まし、五年後の同和対策事業打ち切り決定とあいまって「部落問題ばなれ」を促進することがほぼ予想できるいま、部落解放運動に再検討すべき課題はないといってすますことはできないはずです。
 そこで、わたしは差別概念をめぐる問題状況を取り上げました。なぜこれに焦点を当てたかといいますと、第一に「エセ同和」つまり便宜供与要求事象や不祥事件の背後に差別判断(規定)にかんする二つのテーゼが陰に陽にちらつくからですし、第二に「差別−被差別の両側の対話」がとぎれる、あるいはとぎれがちになる要因の一つに、やはりこの二つのテーゼの問題が伏在すると思ったからです。その結果、部落解放運動の当面する具体的課題に触れるところはほとんどありませんでした。それらは部落差別とその実態、部落解放の道すじにかんする議論をふまえなければならないからです。部落差別とはなにかについて共通の認識がなく、糾弾闘争や同和対策事業が部落解放に占める位置を明確にしないで、あれこれ議論してもあまり意味はない。そしてなによりも部落解放運動が「差別−被差別関係総体の止揚にむけた共同の営み」であることの確認がいま求められている。その確認の上に立ってはじめて具体的課題についての「開かれた議論」が可能になるのです。
 もしその確認がなされず、二つのテーゼについての議論も必要ないと門前払いするなら、地対協・地対室の打ち込んできた「くさび」の影響は確実に拡大してゆくと思われます。「隔絶された関係」のもとで、体験・立場・資格の差異によって「なにもいえない」と感じている人はけっして少なくなく、地対協・地対室の見解が「差別−被差別」の断絶意識をあおる効果をもたらすことは目にみえています。

3.「差別認定権」について

 ところで誤解のないようにいっておきたいのですが、わたしは被差別者あるいは当事者にしか「みえない」ものがあることまで否定しているのではありません。多数者には少数者(被差別者)の体験や思いが「みえない」ところがあります。たとえばせんだっても、ある大学教授が文部省の科学研究費をとってアイヌの人びとの戸籍調査をしようとして抗議をうけた事件がありました。被差別部落の調査にかかわってきた経験を振りかざして、「調査される側」のアイヌの人びとの思いなどまったく気にかけない、この大学教授の振る舞いに知識人、多数者のおごりのようなものを感じたのは、わたしだけではないと思います。
 わたしがいいたかったのは「被差別者でない者に、なにがわかるか、わかるはずがない」という「体験・立場・資格」の絶対化に伴う批判の拒否、共感の喪失、自己免責・自己正当化についてでした。また被差別者にしか「みえない」事柄を具体的に指摘したり、あるいは「賤視観念にもとづく忌避・排除」を批判、指弾することに反対しているわけでもありません。
 しかし、たとえば「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」というテーゼにかんする次のような意見に、わたしはどうしても賛成できないのです。
   
 今度の地対協基本問題検討部会の「報告」をみて一番気になるのは、差別だという認定権を部落民から奪おうとしているということ。これは差別反対運動の体系を崩壊させるものですよ。法的規制に制裁規定を入れるのに僕が反対しているのは権力側に差別認定権をゆだねるようなものだからでね。これはやはり絶対ゆずることのできない運動の根本のあり方の問題ですよ。…僕は糾弾そのものよりも、差別だと認定するのは誰かということがもうごまかされてきている。(部落解放中国研究会『紅風』85号.P.10.  86年12月)
要するにこの論者は「差別かどうか判断できるのは部落民だけ」ということを「部落民に差別認定権がある」と表現し、それを差別反対運動の「体系」「根本のあり方」と位置づけておられる。これこそ「体験・立場・資格」の絶対化でなくてなんでしょうか。
 被差別者の体験や思いに鈍感な人にたいしていだく不信、絶望がときとして「部落民でない人には、この気持ちはわからないだろう」という言葉をはかせることがあっても、いたしかたない面があると、わたしは思います。しかし
「部落民でない者に、なにがわかるか」といってしまったら多くの場合、対話はとぎれてしまうのです。ましてこの論者のように「差別認定権」が被差別部落民にあるとまで主張されると、「両側」の間には超えられない溝が設定され、関係総体の止揚とか、共同の営みとしての部落解放運動の創出など問題にもならないことになります。

4.「不利益=差別」をめぐって

 第二のテーゼ(「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である」)の批判についてもなかなか理解してもらえないようです。人は生活の中でさまざまの不利益をうけます。問題はその不利益なるものが、その個人の責任によって引き起こされたものでなく、歴史的社会的な原因にもとづいている、つまりこの社会が前代から引き継ぎ、しかも今日なお生命力を保っている、人と人との関係や社会意識に起因するものであってはじめて、不利益の「社会的責任」が問われるのです。
 たとえば公営住宅の入居申請に所得証明がいるというのは、行政上の手続きとしては「問題はない」とされていたわけです。それが差別であるのは、行政が被差別部落の劣悪な生活実態の責任を被差別部落民におしつけ(すなわち勤労意欲・衛生観念のなさとか、いわゆる「自立・向上精神の不足」といった説明によって)、行政施策の対象からはずしてきたことの中に、まぎれもない
「忌避・排除」がひそんでいたからでしょう。
 それにたいして『こわい考』で取り上げた事例(「5 月11日、麦畑でスコップ発見」「いやしくも」「解放学級」「かわた」「士農工商」など)はどうでしょうか。もちろんわたしは「差別判断(規定)の恣意性」だけを指摘したのではありません。「両側の関係」の問題にも触れています。重要なのは「差別=不利益」という漠然とした概念規定と第一テーゼとがつながって「差別」が無限に拡大しかねないことです。
 部落解放運動はもうそろそろこのあたりのことに気づいてもいいのではないでしょうか。そうでないと、地対協・地対室のネライがまんまと的中するように思われてならない。これが、わたしだけの取り越し苦労ならよろしいが、わたしの見聞するところによると、そうとばかりはいえない。部落解放運動が二つのテーゼを批判することは、ある意味では「自己否定」になると心配する人がおられるかもしれません。しかし、その「自己否定」は運動の蘇生に不可欠の一歩だと、わたしは考えています。なじみがなくて、しんどい議論だけれども、避けずに向きあってほしいと切にねがわずにはおれないのです。

*付記.
 この文章は『天国つうしん』(岐阜・太平天国社発行)87年10月号に掲載したものです。『つうしん』の読者には重複しますが、あしからず。なお『同和はこわい考』番外編は随時掲載の予定で、そのつど『通信』に再録するつもりでおります。

《 採録 》

日本キリスト教団『教師の友』87年10月号.読書室
『同和はこわい考 地対協を批判する
藤田 敬一/著

 本書は、地域改善対策協会の「部会報告書」などに現れた部落解放運動つぶし−差別糾弾の否定・部落責任論・部落更正論を、状況−人々の意識の中にあるホンネとその原因の分析を試み、批判する一方、これまでの解放運動のあり方についても著者の運動とのかわりあいの中で考えてきたところをまとめた冊子である。
 差別する側と差別される側という関係の中で、著者のこだわりのひとつに、「足を踏んでいる者には踏まれている者の痛みはわからない」との結論がある。著者は、「自分の問題として考える」ことと「部落民でない者に何がわかるか」という「一種の対話拒否・断絶宣言」との間で、部落解放への「部落外出身者」のかかわり方、「支援・連帯」のあり方を模索する。
 今日の厳しい状況の中で、部落解放運動は、主体性のないままの「贖罪意識」から脱し、単にことばだけでなく、差別−被差別総体の「とぎれがちな対話」の止揚に向けた「共同の営み」として「両側から超え」なければならないと言う。
 「糾弾は、新たな差別を生み、自由な意見交換を阻害している大きな要因」であるとする地対協路線、それと軸を同一にする賀川豊彦のような立場に対し、教会は明確にみずからを対峙し、取り組んでいかねばならない。みずからの差別の根底を曖昧にすることなく、一読したい本である。
(貞弘範行さだひろのりゆき

《 あとがき 》

*「自著についてこういう形で議論を起こしていかれることに対して、その御苦労を思うと同時に、論争不毛の日本の論壇だけにユニークな試みと心から敬意を表し陰ながら声援いたします」(京都・Nさん)などと励まされますと、ついついハッスルしてしまいます*今号は拙文を収録したため、各地からのお便りを載せることができませんでした。申しわけなく存じます*『こぺる』10月号に山下力さん(奈良県連書記長)「ここちよい殻から脱け出すとき」、江嶋修作さん(広島修道大学)「同業者よ、そりゃーないんじやないかな」が掲載されています。一読されることをお勧めします*本『通信』の複製は大歓迎です。より多くの方に読んでいただければと考えておりますので*『同和はこわい考』通信の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向  藤田敬一です。

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