同和はこわい考通信 No.49 1991.8.13. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
「サンボ」を通して差別と言葉を考える
灘 本 昌 久
はじめに
 私に与えられたテーマは、今回の『ちびくろサンボ』問題を差別問題の観点から論じるということである。私は元来部落問題の研究、主に歴史研究で禄を食んできたので、児童文学や絵本については門外漢である。しかし、このサンボ問題には、1988年夏に問題提起があって以来重大な関心をもってきた。というのは、現在部落問題を考えようとする人にとってはサンボ問題で陥っているのとまったく同様の難題が立ちはだかっているからである。一言でいうと、世の中にあまりにも多くの差別語が存在しており、それをどう扱えばいいのか見当がつかないということだ。あらゆる表現行為から差別語を消し去ろうとすれば際限がないようであり、かといって「差別語」はないというのも現に感じる言葉の不快感とはかけ離れた結論に思える。差別語だけでなく、差別的なイメージ、ステレオタイプなども同様の難問だ。出版や表現にかかわる人たちにとっては最近もちあがったやっかいな問題だろう。ここでは、「サンボ」を通して差別と言葉の問題の難問を解く糸口にしたい。

1.部落差別と表現-島崎藤村『破戒』の歩み
 部落問題を語る際に、「私は藤村の『破戒』で部落問題を知りました」といっても、とがめだてする人はほとんどいないだろう。確かに、部落問題を扱った文学が少ない中で、この『破戒』を越える文学作品はそう簡単には見あたらない。現在、多くの出版社から上製本や文庫本などさまざまな形で出版されているのも『破戒』の文学的価値がそうさせているのであろう。しかし、この『破戒』も好意的評価をうけつづけていたわけではなく、1906年の出版以来、絶版や改訂、再刊とたびたびの波乱を経験している。
 『破戒』は、1906年に自費出版され、16年後の1922年に『藤村全集』第3 巻として刊行。さらに、1929年に新たに新潮社より刊行されたが、関東水平社(部落解放団体であった全国水平社から分かれたグループ)の糾弾により絶版となった。その後、藤村と全国水平社との話し合いが行なわれ、1939年に大幅な改訂を加えて新潮社より再刊されている。そして、戦後の1953年に再び初版本に復して筑摩書房より刊行された。1)
 この絶版や改訂がなぜなされたのかについては、関係者の証言自体が分かれていて必ずしもさだかではない。ただ、ここて押さえておきたいことは、部落民団体の抗議により戦前に一度は完全に絶版になったこと、および戦後筑摩書房が復刊したことに対してだされた部落解放全国委員会(現在の部落解放同盟の前身)による「『破戒』初版本復原に関する声明」でも、「日本文学史上における『破戒』の歴史的意義にもかかわらず、藤村の被圧迫部落民に対する差別観の故に、『破戒』が差別小説の域を決して脱していない」と極めて否定的評価がなされ、現在までその評価を引きずっているということである。戦前、抗議の対象となった理由はおもには、「穢多」「新平民」などの差別語が多用されていることであり、戦後の否定的評価は、主人公の丑松が生徒に部落民であることを隠していたことを土下座してわびたり、テキサスへ逃避してしまうストーリーが卑屈であるといったことであるが、ともかく文学研究者や一般読者の高い評価にもかかわらず、被差別者の側では否定的評価が先行している。
 では、この『破戒』は出版された当初から部落民により批判されていたのであろうか。確かに、部落問題自体を正面にだした小説に違和感や不快感をいだいた部落民がいたであろうことは容易に察しがつくが、私はむしろ出版当初は部落民からの好意的評価がかなりあったことを重視する。島崎藤村は、1928年、つまり最初に絶版になる前年に、「融和問題と文芸」と題する一文で次のように述べている。2)「私の家ではある部落の出の客を迎へたことがある。その人は私の『破戒』を読んであれ程、部落民に対する同情を寄せて書いた位だからこの作者は必ず部落民に相違ないとさう思って私の処へ訪ねて来たことがあった。事情が解って見るとお互ひに笑い出したことだつたが、その客などもあゝいふ作を手にしたといふことが刺戟になつて部落民の救済を志す様になつたとの話もある。それから、私にとつて一面識もない人で私が『破戒』の様な作をしたといふ丈で、私の処へ来て、それとなく素性を打明け、人に知られぬ深い悲しみを語らうとして来た人は今日までまことに数多くあつたのである。」
 このエピソードは、藤村が水平社関係の人たちから糾弾されていた時期であるので、自己弁護の回想と見ることもできないではないが、私には、作品発表当時の実体験を素直に語っていると感じられる。そして、『破戒』が同時代の被差別部落民にとって、自分たちへの同情者による作品と映ってもなんら不思議ではない。
 後の時代の人たちが、差別語の使用をもって差別なりと断じ、また戦後の部落解放全国委員会が「差別と貧乏の中で死ぬほどの苦しみを受けている部落民は、藤村の『破戒』の根底に横たわっている封建的差別観を鋭く、本能的に見ぬいたわけである。もし、藤村がこの封建的差別の本質を深く認識し、それに抵抗し、新しい近代的人間像を創造するためにどこまでも人間追及をすすめる精神を貫いていたならば、それがたとえ成功しなかったとしても、部落民もまた、当然半封建的社会制度にたいして闘ってゆく藤村に共感し、協力していたはずである。しかし、藤村の『破戒』は、彼の差別観に貫かれた、その差別性の故に国民感情をいたずらに刺戟し、部落民に対する差別を、更に拡大することに重大な役割を果たしたのである」3)と断罪しているが、差別という切口から文学を見るにしても、何か時代と切り離した非歴史的、非文学的評価であるとの感を深くする。
 こうした『破戒』評価の背景には、差別語や差別問題の理解のしかたがあることはいうまでもない。すでに別稿で整理をこころみたように、4)差別語に対する向きあい方ひとつとっても、差別語は存在せず差別的な意図のみを問題とすべきであるとする立場から、差別は差別語から派生するといった対照的な考えを両極として、その間を揺れ動いてきたのだ。

2.黒人差別と表現-「サンボ」批判の歩み
 ところで、本特集の本題でもある『ちびくろサンボ』の場合をみてみると、上記の『破戒』とよく似た現象をみることができる。すなわち、作品が現れた当初、被差別者に不快の念を起こさせるどころか、一定の支持を受けており、その後の時代の流れの中で差別に対する見方の変化に伴って作品への批判が生じていったということである。
 『ちびくろサンボ』の歴史に関するもっともまとまった出版物であると思われる『サンボ詳解』5)は、黒人のための出版物リストの中で、『ちびくろサンボ』がどのように扱われているかについて触れている。その中で、1911年から1973年までの推薦図書リストをあげ、黒人を否定的な存在として登場させている当時の他の本と比べた場合、『ちびくろサンボ』は、黒人の子どもにとってフレッシュで能動的なイメージをもつ模範的モデルとされていたことを例証している。そして、特にここで注目されるのは、1935年段階では黒人運動団体によっても『ちびくろサンボ』は排撃されていなかったということである。1935年に出版された『ニグロ:学校図書館のためのアフリカ、アメリカ系ニグロを扱った本のリスト』6)にも、『ちびくろサンボ』が推薦図書として掲載されている。しかも驚くべきことにこのリストには古くからの黒人運動団体である全国都市連盟の調査部長がアドバイザーとして名前を登場させている。さらに、黒人女性図書館人の草分けであったオーガスタ・ベーカーは、1943年に著わした論文でこのリストにつき、「黒人生活のあらゆる側面についての、かたよりのない、正確な、均整のとれた絵を子どもたちに提供する本を収集すること」を目的とし、「言葉」「テーマ」「イラスト」の3点に留意して選択されたとコメントしている。後年、『ちびくろサンボ』が批判されるに際しては、サンボという「言葉」が差別語であり、落ちたバターを食べるという非衛生性・けばけばしい色彩感覚・169枚ものホットケーキを食べる異常な食欲等々といったものがこの絵本の差別的「テーマ」であり、「イラスト」自身も、黒人へのステレオタイプなイメージを増幅させるとされたわけであるから、その評価のしかたにおいて非常なへだたりがあったといわねばならない。7)
 他にも『ちびくろサンボ』が成立の当初から黒人にとって無条件全面的に受け入れ難いものとしてあったわけではなく、かなり遅い時期まで好ましい読物としても存在し得たことを思わせる例がある。すでに、径書房よりだされた『「ちびくろサンボ」絶版を考える』の中で指摘したことであるが、児童文学者の渡辺茂男氏は、1955年から2年間ニューヨークの公共図書館に留学していた時に指導を受けていた黒人の図書館員自身が、『ちびくろサンボ』をすすめ、子どもたちにいっしょに読み聞かせていた体験を記している。また、同じく『絶版を考える』の中で、在日の黒人音楽家ハイ・タイド・ハリス氏は「私はずっとこの本が好きでした。今でも好きです。」と証言している。8)

3.差別語としての「サンボ」
 私は、上記のことをもって『ちびくろサンボ』をアメリカで問題化することを無意味であるといいたいわけではない。確かに、「サンボ」という言葉への黒人の側からする不快感は、明らかに存在する。例えば、1965年にアメリカで出版された、黒人を指す言葉に関する調査報告でも、「サンボ」は85%の黒人が不快と感じており、1位の「ニガー」の95%、2位の「ダーキー」の87%に次いでいる。そして、同じ調査でも逆に今日では差別的とされる「ニグロ」が19位で15%の黒人しか不快と感ぜず、今日普通に使われる「ブラック」は13位で59%と逆に過半数の黒人が不快と感じている。9)
 当時、アメリカの黒人が「サンボ」を不快と感じた大きな原因は、この言葉が、「サンボステレオタイプ」と呼ばれる「御しやすいが無責任、忠実だが怠惰、控え目だが常習的な嘘つきで盗みを働く。その行動は幼児的愚かさに満ち、子どものような大げさなしゃべりかた」10)という黒人のイメージを伴っていたからである。そして、こうしたサンボステレオタイプを温床として、次のような黒人女性の辛い経験を引き起こす。「そのころの学校の中で(1946-47、コネチカット州ウエストポート)私は唯一の黒人の生徒でした。その話を聞いたあと何人かのクラスメートが私のことをきまってサンボと呼んだことを覚えています。そして初めてもう学校などいくもんかと思いました。」11)しかし、これとて「彼ら〔白人生徒〕はソフィスティケートされていたので、ニガーとは呼ばなかった」という注釈からもわかるように、やや婉曲な差別であったことがわかる。日本でいえば、「穢多」と露骨にいうかわりに、「同和の人」といっても状況によっては部落民にダメージを与えるのと似ている。
 それはともかく、この「サンボステレオタイプ」は世界中にあったわけではなかったということに注意する必要があるだろう。この概念を提唱したS.Mエルキンスは、そもそもどうして「サンボステレオタイプ」の存在が北米に限られのかという問いを出発として、南米、北米の奴隷制の違いを論じている。12)したがって、アメリカにおける「サンボ」という言葉のもつ差別性と他の国々におけるそれとはもとから違うわけである。

まとめ
 以上みてきた日米両国における「差別語」「差別的作品」でわかるように、超時代的、超文化的に「差別語」「差別作品」の線引きができると考えてはいけない。確かに、ある時期ある地域である状況のもと、ある種の言葉や作品が、特定の人にダメージを与えることは厳然とありうることである。しかし、それは間を飛び交っている。単語やイメージを消し去ることではなんとも解決のしようがないものであるし、とりわけ文学作品に創作時から年月を経てなされる批判については、より意味するところを差別被差別両側から深く考えていかなくてはならないだろう。決して、ひとつの正しい答えが決まるわけではなく、差別の状況、そして、被差別者の差別への向きあい方で、その言葉や作品の相貌はとらえがたく変化するものなのである。


1) 刊行の事実関係については、川端俊英『「破戒」とその周辺-部落問題小説研究』(1984年、文理閣)が詳しい。また、部落解放全国委員会「『破戒』初版本復原に関する声明」については部落解放同盟中央本部編『差別表現と糾弾』で触れられている。北原泰作「『破戒』と部落解放運動」(日本文学研究資料刊行会『島崎藤村 Ⅰ』1982年、有精堂出版、所収)は、運動関係者としての証言である。
2) 中央融和事業協会『融和時報』3巻 1号(1928年)
3) 註(1)の「声明」
4) 灘本昌久「差別語といかに向きあうか」京都部落史研究所月報『こぺる』137,139号(こぺる編集部編『部落の過去・現在・そして…』1991年7月、阿吽社、に収録)
5) Phyllis J.Yuill,Little Black Sambo:A Closer Look,New York:Council of Interracial Books for Children, 1976. 残念ながら邦訳はまだない。
6) The Negro:a Selected List for School Libraries of Books by or about the Negro in Africa and America,1935.
7) 村岡和彦氏は、「黒人図書館員と『ちびくろさんぼ』-オーガスタ・ベーカーの苦闘」(『多文化サービス・ネットワーク』No.2,1990年7月)で、「黒人図書館員に『さんぼ』のような作品を選ばせた時代の不幸」を指摘されているが、ベーカー自身にとって当時『サンボ』が不快な作品だったとは思えないがいかがだろうか。
8) 径書房編集部編『「ちびくろサンボ』の絶版を考える』p44,162.
9) C.H.Smith,We Build Together:A Reader's Guide to Negro Life and Litera- ture for Elementary and High School Use,1967. なお、この文献は村岡和彦氏のご教示による。この後「ブラック・イズ・ビューティフル」のスローガンに象徴される黒人の意識運動の中で、「ブラック」の言葉が浮上し、逆に「ニグロ」の言葉は没落していく。この点に関してはN.グレイザー編『民族とアイデンティティ』(1984年、三嶺書房)p.96,110等を参照のこと。
10) 『アメリカ大陸の奴隷制』(1978年、神奈川大学出版部)p.62.
11) 註(5),p.22.
12) 註(10)に同じ。
 (『図書館雑誌』Vol.85, No.5(1991/5) から、同誌の了解をえて転載しました。)

《 再録 》
近代に生きる人々(24)   蛇 捕 り
藤 田 敬 一
 あいかわらずの健康食品ブームらしい。薬局・薬店の店頭にずらっとならべられた健康食品関係の粉末・錠剤・酒類を眺めていると、滋養強壮・精力増進・不老長寿は、古今東西、人間にとって永遠の願いなのだとあらためて感じ入ってしまう。人はいつまでも若く健康で、長生きしたいものなのだ。それを笑う資格は誰にもありはしない。
 それはともかく少年のころ、京都・新京極四条入り口の坂本漢方堂のウィンドーに、黒焼きの蛇がつり下げられたり、蛇やイモリが身体をくねらせてガラス瓶におさまっているのを見て、どうしてこんなものが薬になるのか不思議に思ったことがある。とりわけ蛇の姿と動きはなんとも異様で、近づきたくない生き物の代表だったから、蛇なんかを捕えるのを生業にしている人がいるとは想像もできなかった。
 ところが1974年、岐阜県で部落解放同盟結成の動きがおこり、その手伝いをしたのが縁となって、大垣の上田秋尾さん(66歳)たちと知り合い、蛇捕りの話を聞かせてもらった。蛇捕りという生業なりわいにむけられる人びとの視線について考えさせられたのも、そのときのことである。
 上田さんは、戦前からこの仕事にかかわり、現在も薬種原料問屋として蛇を扱っておられる。以下は最近、久し振りにお宅に伺ったときの話をまとめたものである。
 大垣若森の水神裏すいじんうらに滋賀県出身の人びとが移り住んでつくった24軒ほどの小さな被差別部落で、蛇捕りの仕事をするようになったのは、そう古いことではなく、1920年代の後半(大正末から昭和の初め)だった。揖斐いびのある人から蛇捕りにいかんかとの話があり、そのうち東京から買い付けにくるようになった。当時、春から秋にかけては魚・どじょう・うなぎの漁、冬は貝を捕るなどしてほそぼそと暮らしていたから、蛇捕りが金になるというので、みんながやり出した。最盛時には問屋が3軒。それぞれ専属の蛇捕り(という)がいて、捕ってきた蛇を買い取るかたちになっていた。取引先は、東京のほか三河、近江などにも広がり、問屋は肩で風きる感じだった。なにせ蛇の血と胆汁は結核にくというので、東京には300軒の蛇屋があったくらいだから。
 蛇捕りのシーズンは4月から6月までと、9月から10月まで、獲物はシマヘビ、カラスヘビ、ヤマカガシ、アオダイショウ、マムシである。あい間は今まで通り漁や貝取りをするという具合で、年中できる仕事ではなかった。
 上田さんは16歳から長兄一夫さん(元部落解放同盟滋賀県連委員長)のもとで蛇捕りの仕事に入る。戦後、独り立ちして問屋となり、一時は100人ほどの捕り子がいた。上田さん自身、蛇を求めて濃尾平野一帯の川や田圃、さらには奥美濃、養老の山々のほか、とくに奈良にはよく出かけたという。奈良は蛇が多かったからだ。買い付けに兵庫の加古川、遠いところでは熊本にまで足を延ばすこともあった。
 いま大垣で問屋は上田さんの店一軒だけである。捕り子は、5、6人に過ぎず、それもいわゆる部落外の老人が小遣い稼ぎにやっている状態だ。一年中やれる仕事ではないし、なにより蛇が捕れなくなったからである。ヤマカガシがここ7,8年の間に激減しているし、マムシも中国などからの輸入もので占められている。原因は農薬の普及と河川の改修、圃場整備事業の進展だと上田さんはみる。
 日本蛇族学術研究所(群馬)に招かれ、養殖の研究に打ち込んだこともあったけれど、とても採算ベースにまでいたらず断念。陶陶酒などのように企業化に成功した例もある。しかし蛇問屋商としての先行きは決して明るくない。

この仕事はわたし一代かぎり。商売としてたかだか5,60年のものだったですねぇー。

マムシにかまれて少しまがった左手中指をさすりながら上田さんはこう語る。商売上の難しさもさることながら、この述懐は蛇を扱うことへの人びとの視線と無関係ではあるまいと、わたしは思った。
 蛇捕りが被差別部落民の専業でなかったことは、大垣での経過からみても、また上田さん傘下の捕り子の半ば以上が部落外の人であったことからも明らかだ。蛇は古来、薬用・医用として重宝されてきたから、かつては農家の軒下に蛇をつるして乾燥させている光景がよく見られたという。しかし蛇は同時に神聖な、そして呪力をもった生き物として畏敬・畏怖されていたので、蛇捕りを生業とする人びとを敬遠・忌避するのは、それなりの背景があったともいえる。
 上田さんは、昔、奈良に出かけたさい、ある被差別部落の近くで蛇を探していると、「蛇捕りやぞー、蛇捕りが来たぞー」と叫ばれ、子どもたちが後をついてまわり困ったことがある。その地域の人びとにとって蛇捕りは、やはりむべき仕事と感じられていたのだろう。同じ仲間でありながら…。上田さんの思いは複雑だった。
 ところで実は今回、上田さん以外にもうお一人、滋賀のある方に話を聞かせてもらおうとしたのだが、蛇捕りのことは絶対に触れてくれるなと拒否されてしまった。蛇を扱っていることが差別意識を生んでいるのだからというのがその理由である。長年この仕事にたずさわり、現在も組合の長老であるこの方に、どのような体験があったのか、わたしには知るよしもない。ただ、蛇捕りにむけられる視線が村への賤視に直結していると考えておられることだけはわかった。

町を縦貫する国道の両側に「赤まむし直売」の看板が立っているのがいかん。町にある食肉センターも山ぎわに移転させたいんや。

話はえらい方向にまで発展しかけたが、興奮気味の口調に、むしろ困惑と苛立ちが表出しているようにも思われたのである。
 蛇に霊妙不可思議な力があると信じられているからこそ、秘薬の原料として現代でもなお人びとに受け入れられているのだが、上田さんの話によれば、蛇捕りは衰退の一途をたどっているという。このままでは、いずれ蛇は輸入ものに取って代わられるかもしれない。そのとき蛇捕りは歴史のなかに埋もれてしまうのであろうか。
 (『こぺる』No.163.91/7より、一部の語句を増訂して再録)

《 あとがき 》
★庭の紫 式部ムラサキシキブに実がなりました。撫子ナデシコが咲いたとのお便りもあり。秋はもうそこです
★夏休み中にすましておきたい調べものがあるため、今号は少し早めに出します。論稿を寄せてくださった灘本さんには感謝あるのみ
★交流会は埼玉から熊本まで140余名の方が参加してくださり、山下力さんの講演も感銘深く、いい集まりになりました。次号に簡単な報告が載せられるはずです
★7月25日から8月7日まで、愛知、島根(4) 、神奈川、滋賀、大阪(3) 、岐阜、東京の12人の方より計43,788円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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