同和はこわい考通信 No.45 1991.3.23. 発行者・藤田敬一

《 寄稿 》
「部落」と呼ばれる側の「無回答」
福 田 典 子(広島)
「明瞭即決回答」を求めた「部落」……

 私は、藤田敬一さんに『荊冠』を今年から送り始めた。『荊冠』というのは①水平運動の歴史を総体として検証する事、②その歴史的総括から「部落解放運動」とよばれるものの内容を模索する事、を目的とした「微力な」研究会が発行しているものだ。その『荊冠』3月3日号送付の際に同封した私の手紙に対し、藤田さんから早速、葉書が届いた。藤田さんの葉書は、簡潔明瞭、「こわい考への共感と反発について、考えがまとまったら寄稿してほしい」というものだった。
 藤田さんの、この簡潔明瞭な葉書が私に届くには、それなりの「わけ」がある。私は藤田さんに『同和はこわい考』を何度も読みかえし、考え続けていると、一番最初の手紙の中に書いた。

この本の表紙を隠しながら電車の中で読む自分。
解放運動団体と自認する部分への問題を感じる時、自分自身の限界を噛みしめながらこの本と向かう自分。
私自身が語ってきた事に対する「責任の取りようの未来」に、絶望的な感情を抱きながら、この本を読む自分。
「関係性の緊張」の中に耐えきれなくなった時、反発と自戒の念をもってページをめくる自分。

そんな自分が何度もこの本を読みかえしている事を著者に書き、3月には、「『同和はこわい考』に対する共感と反発の中身が、漠然と見えつつある事も感じている」などと、私は手紙に書いてしまったのだ。
 『同和はこわい考』をめぐる議論が示す「部落解放運動の情況に励まされたり、がっかりしている」という著者としては当然の葉書だった。だが、この葉書を見て、私は自分の書いた手紙の傲慢さに、赤面した。『同和はこわい考』の内容が、「部落とよばれる部分」と「部落ではないとよばれる部分」両者への両刃で書き記されている事を承知しながら、私は、著者に、「簡潔明瞭な即座な反応」を促すような傲慢な手紙を送ってしまったのだ。
 混迷とあせりの中で、多くの人が格闘し続けている中にあって、「漠然とした感情」であったとしても、著者に、「共感と反発」の中身が見え始めたと言い放った自分の傲慢さに赤面した。
 おそらく幾多の「失望」を経験されている藤田さんにとっては、私の手紙の「何周か遅れた」内容は、励ましの一端にもならないだろう。むしろ、「部落解放運動の現状の苛酷さ」を追認させるだけかもしれない。中途半端な展開は、思考の過程を並べるだけで、何の力にもなりえないかもしれない。だが、少なくとも、「解放を求め続ける」ことにこだわりつつ、「同和はこわい」という6文字を「正面に据えて」考え抜いている彼に、前記のような手紙を書き送った自分の責任を問う意味でも、何か返事を書かなければならないと、私は思った。しかし、この「私の自己弁護の強要」も、考えてみれば、問題のある態度だ。
 「部落とよばれる部分」は、「部落ではないとよばれる部分」には、「過程の時間」を容認しなかった。「簡潔明瞭な即決回答」を要求し、その回答いかんによっては、「人の運命」を変えてきた。回答なき自分自身の「投影の場面」にすぎないかもしれないという自己確認もなく、「部落ではないとされる部分」に、即決回答を求めてきたのかもしれないのに……。その「部落のまぼろし」を、直接的な形で批判したのが『同和はこわい考』でもある。

「運動」も国に「保険」をかけている

 『同和はこわい考』には「地対協を批判する」と親切に副題にも書いていあるのに、「地対協補完書」のごとく批判の的にしている「運動団体」もある。広島県では、『同和はこわい考』は「差別図書」とされ、書店に本の引き上げを強要した。そうした解放運動を自認する部分の中に、「無回答」な自己への反省を感じている者が存在しているのかどうか判断しがたい。自分達の現状を直視することを避けるために、地対協路線と結びつけて批判する「運動的な計算」が働いているのかどうかも、また判断しがたい。
 だが、自称「解放団体」と、それに「保険をかけている人々」は、「差別を扇動し、部落の側に差別の原因を転嫁する」として、「こわい」という文字を批判している。しかし、よく考えてみると、「差別の原因と結果」を強制されたとする「部落とよばれる部分」は、その原因や結果の多くを、この間、国に回答せた事はあっても、自ら「正確に回答する」努力を放棄している。(こう書く私自身、水平運動の歴史的再検証作業が、やっと自分なりに納得する方向になってきただけではあるが。)
 もしかしたら、自称「部落解放」運動の中には、「国に保険をかけて」、部落解放を謳歌している部分がいるのかもしれない。
 『同和はこわい考』では、「部落とよばれる部分」に対する「イエスマン」が、「保険をかけているごとくに」と表現されている。これら「イエスマン」の中には、無責任・無内容さを補う「保険」を意図的にかけている部分も確かに存在する。だが、私は、この「保険」の勧誘を促した「部落とよばれる部分」のほうが、はるかに、その責任を負わねばならないのではないかと考えている。「部落だ」「部落解放団体だ」と言われてしまった瞬間に、それでも反論や批判をする人間は、希少な人だ。「絶対的に理解した」という言い方が、他者との関係で成立しないという事実の上に、さらに「部落内外」という言い方をされれば、多くの人間は、語る言葉に「ためらい」を覚えてしまう。「沈黙」か「分かったような演技」か、はたまた「全面的承諾」の対応しか取れない。また「部落とよばれる部分」も、相手に「いかなる関係を求めているのか」が自分自身も不明なために、明瞭即決回答、「差別はいけない」という回答しか求めていない。
 言うなれば、回答を互いが作るという作業の過程ではなく、「あるべき模範回答」を想定して、採点をしあっているに近い。しかも、その「あるべき模範解答」は、国によって承諾された「法律」であったり「理念」であったりする。国の理念や方針に保障された「保険の契約」をチラツカセて、相手と交渉しているようなものだ。

「わからない」という事が、「わかった」だけ

 私も、過去に於いて、「部落民でない者に、気持ちがわかってたまるか」という言葉を吐きすてた。正確に語れば、現在だって、何度か、この感情がのぼりつめてくる時がある。その感情を、「ラブコール」とまで書く藤田さんの表現は、部落解放運動の将来に、「十分すぎる」配慮を加えたものだ。この表現ひとつ正確に評価せず、運動の「敵対者」と批判する自称「解放団体」の限界は明確だ。
 だが、残念な事に、藤田さんの表現は、「無内容なイエスマン」も心得ていて、「部落とよばれる部分」に「保険金」のように差し出している。また、「部落とよばれる部分」も、「激しくやりあった後の関係継続」のための「保険金」として、「部落ではないという部分」に差し出す術として心得ている観もある。こうした情況の中では、藤田さんの表現も妥当な評価を与えられないのは、いたしかたないのかもしれない。
 私は、「わかりあえないのがわかっただけ」と、ストレートな表現を加えたい。
 「被差別の人の痛みをわかろうとする」という言い方の中の残酷さを、思いしらされる毎日である。「部落とよばれる」人どうしでもわかりあうという言い方が成立しないのに、わかりあえるかもしれないという幻想だけが拡大され、具体的な内容が何ひとつ埋められない「運動」のありかたに疑問を抱いている。
 「差別」「被差別」という構図の中だけでなく、それはあらゆる人間の関係につきまとう「厳然たる事実」だ。「わかりあえる」と思い込んだ瞬間に、「関係性」への緊張感も薄れてしまう。幻想を引き合い、期待し、失望し、互いに消耗していく。その幻想の引き合いで消耗しないのは、幻想に気づかないのか、幻想をうまく利用して「利益」を得ているのか、または、幻想と知りながら幻想を捨てきれないかだろう。
 「わかりあった」という言い方が成立しないという事を、まず、理解しあわなければならないのかもしれない。そうした意味で、「部落とよばれる部分」「部落ではないとよばれる部分」両者を、「迷路の入り口」に立たせる既成の「同和」教育は、決定的な過ちをおかしていると言えるかもしれない。
 わからないから、わかりあうために、背景や語りを重視するという言い方もあるが、それが、本当に、両者の間を埋めているのか疑問である。

「部落ではないとよばれる部分」に強制した心情の疑似体験として

 『同和はこわい考』への批判は、「社会的予断と偏見としてある、部落は恐いという差別意識を煽る」という批判がある。「社会的予断と偏見としての差別意識」については、私自身、明確な「全否定」の根拠ができていないので、語れない。そんな事も否定できないのかという批判を受けそうだが、それが私の現状だ。
 『同和はこわい考』という本に対する私の執着は、著者には大変失礼な言い方だが、内容以上に、「表題を隠して読んだ」自分自身の行為そのものにあった。なぜ、この本の題名を意図的に隠して読んだのかという問いに対する自分への「回答」が執着させた。
 「こわい」という文字は、「ひらがな」であるにもかかわらず、私には、「恐い」という文字がすぐに思い浮かんだ。「恐い」「おそろしい」というストレートな解釈が、成立した。
 題名を隠して読む自分。
 自称部落解放運動が「恐怖を下敷きに利権」を吸っている中で、「自分も同じだと思われたくない」と思ったのも事実だ。
 いまだ自分の中に結論が出ていない「社会的予断と偏見としての差別意識」だと一応はよばれている「部落はおそろしい」という周囲の感情も意識した。
 部落解放運動と自認する部分への「ねたみ」や「やりすぎ」という感情をもっている人間が、この本の題名を見たらニンマリするだろうとも感じた。
 「部落」というものがある事を知っている人間が、内容や意見の違いを越えて、瞬間的に記憶しそうな題名にも気がひけた。
 「部落解放…」「同和問題…」と、題名を見ただけで、明らかに「部落差別はいけない」という内容が展開されていることが分かる題名でない事が、周囲の人間にどう感じられるかと「心配」だった。
 「部落解放運動に反発を抱いている人間」「部落とよばれるものに否定的な意見の人間」と自分が思われ、また、その誤解にもとづいて、本を読んでいる私に「共感」を覚える人間達もいるだろうと思った。
 「部落」「部落解放運動」「同和地区」という言い方に整理されない「恐い」という感情で、自分が否定されそうな感情になったのは事実だ。
 今、思えば、それは、『同和はこわい考』で著者が書いた「部落ではないとよばれる人達」の「しどろもどろ」の状態と同じだった。「自分は部落の人間だ」と明らかにしていない所で、「同和はこわい」という感情の中で勝手に「評価」される事の「不安」ばかりが高まった。
 「部落解放」という前提を、周囲に確認させた上でないと、本を読む自分が、どういう評価をされるかわからないという「不安」がつのった。
 おそらく、こうした感情をめぐって、「部落解放運動」という部分は、常に、周りに「明瞭即決回答」するよう迫ってきたのだろう。『同和はこわい考』は、ある意味で、私に「糾弾される人々」の疑似体験をさせた本であった。
 解釈しだいで、相手に「評価」を断定される不安。私という「個」に対して、周囲という「不特定多数」が、判断し、断定する不安。
 「差別はいけない」という注釈つきの「外観」がなければ、「誤認」されてしまうかもしれないと、先走る感情。
 こうした「感情」を、運動側は、「部落とよばれない部分」に、常に強制してきたのだろう。そして、その中で、国が発行した「保険」に乗じて、運動を進めてきたと自称しているのかもしれない。

「こわい」は否定されるべき感情か

 「こわい」を「恐い」と直結した私には、もうひとつ問題があった。「恐い」という感情を否定的な感情として評価するというのが、それだ。「意気地がない」「弱気」「弱虫」「恐がり」「心配しすぎ」「不安」等々、「こわい」という感情にともなう言葉や、連想させる言葉は、たくさんある。どちらかと言えば、「こわい」という言い方は、「否定されるべき感情」として受けとられているようだ。
 著者は「同和問題」という言い方自体に、すでに解決しなければならない課題としての意味が含まれているとしていて、まさに「問題」の核心をついているが、あえて「同和問題」という表現を使わせてもらうと、「同和問題」にまつわる「こわい」という言葉のもつ否定的な度合いは、頂点に達している。「同和問題」に「こわい」という感情をもつ事自体が、すでに、「あやまり」とされる。
 だが、私自身の体験にもとづいても、「わからないもの」「わからない状態」について、不安や恐怖をもつのは、むしろ当然なのかもしれない。「こわい」という感情が功を奏して「準備」や「構え」ができる時もある。「こわい」や「不安」を、否定的な感情として「評価」する事が、全面的に正しいわけではないのかもしれない。むしろ、この「こわい」という感情が、どう克服されていくかによって、その「評価」が決定されてしまうのかもしれない。
 部落解放運動を自称する多くの部分は、「こわさ」は問題にしても,それが、いかに「克服されたか」を軽視しすぎてきたようだ。「こわい」という感情に対する注釈を一方的にしてきたが、正当な規定や解釈を怠っていたのかもしれない。
 私は、たいへんなこわがりだ。私がこう言うと、周囲の人間は冗談だと思って、吹き出す人ばかりだが、私は、並みはずれた、こわがりなのだ。そんな私は、「こわい」という感情にもいまだ明確な「評価」が出来ずにいる。だから「同和問題」にまつわる「こわい」という感情の「評価」に結論が出ていない。
 だが、少なくとも、「こわい」即「差別だ」と短絡的に結びつけて、『同和はこわい考』を批判するほど、あつかましくはない。国との「保険契約条項」に、「差別はいけません」という一文がある事に乗じて、「こわいも差別のうち」とする自称解放団体ほど、気が大きくもない。

問われる私

 藤田さんの「当然な葉書」に、何を責任をもって応えたか、自分でも疑問である。いや、もっと正確に語れば、「藤田敬一」という人物に対する以上に、関わりをもっている人々に、責任ある回答を出し続けてきたかという事にも、確証はない。
 「部落解放」運動を語ってきた私には、少なくとも「沈黙していた」人間以上に責任がある。「他人の生き方」を、ある意味で変えてきた自分の責任は、どこまで果たせるのかの問題は別にして、追及する努力は重ねたいと思っている。
 3年前、私は、ある人に「糾弾とは何だと思いますか?」と尋ねた事がある。その人は、私の無責任な言い方を「指弾」する事なく、「それは、あなた方若い人のこれからの課題でしょう」と答えた。
 私は、その時、自分の耳が、真っ赤になったのを今でも、覚えている。
 仮にも、運動に関わると「自称」する私が、「糾弾とは何か」に回答もなく運動を展開しているのか…と、おそらく、その人は胸の中で怒りがこみあげていただろう。「問い続けた者」達が、回答のないままに、国という「保険」を背景に、運動を展開している事に、怒りを感じたに違いない。
 私は、その人がいった「これからの課題」にも、まだ回答していない。
 私は、問い続けられている。
 私の『同和はこわい考』に対する共感は、荊冠のトゲで我が身を刺し続け、血を流す事でもあるべきものなのかもしれない。そして、『同和はこわい考』に対する私の反発は、「それでも、既成の自称解放運動と一緒にだけはして欲しくない」という思いの、裏返しなのかもしれない……。
 自称解放団体の、「国という保険」を背景とした「おごり」とだけは、一緒にして欲しくないという、勝手な願望が、反発という言い方になったのだろう。
 「部落とよばれる部分」に、「部落ではないとよばれる部分」の疑似体験をさせるこの本に、長い間、回答も出せない自分自身に、はがゆさを覚えながら、藤田さんにこの文章を出す。
 運動という部分が、「明瞭即決回答」を他者に要求してきた歴史を考えれば、このような中途半端な文章では、無責任と指弾されるだろう。だが、『荊冠』に添えた私の傲慢な手紙に返されてきた藤田さんの葉書が、私を問いただしているように思えたので、文章にして送付する。
 藤田さんは、「まとまったら寄稿してほしい」と、私に「猶予」を与えてくれた。他者に「即決」を求め続けた「運動」側に対するこの「猶予」に、あぐらをかいては、いけないと私は思う。
 生涯、一貫して、自分の主張に「責任」を貫けると言い切れない私だが、少なくとも、他人の人生や運命を「変えたかもしれない時間」に見合う責任の取り方は知っている。
 そして、「部落とよばれる側」と「部落ではないとよばれる側」が、近づき合う事の困難さを、再び思い知らされている。
 『同和はこわい考』という本に、共感と反発を寄せなければならない情況を創りあげた「部落解放運動」の現状と未来の困難さも……。

《 あとがき 》

●福田さんから重い内容の原稿が寄せられました。春休み中ということもあり、思い切って発行します。感想はいずれあらためて書かせてもらうつもり
★前号No.44に誤記がたくさんありました。なんとも情けなくなってしまう。住田論文3頁上から6行目の「部落差別に連帯する」は「部落解放運動に連帯する」の誤りです。住田さんには申しわけないことをしました。他は御免蒙ります
◆野間宏さんがこの1月亡くなられたましたが、京都部落史研究所所報『こぺる』1991年3月号に、奈良本辰也さんと師岡佑行さんの追悼文が掲載されています。どちらも心のこもったいい文章です。ただ師岡さんの文章中、野間さんと『こわい考』論議に関する一節については、わたしに多少意見がある
◆野間さんは1988年3月、差別とたたかう文化会議の総会(実際は全体討論会)で『こわい考』について話された。それがあたかも文化会議の意見であるかのようにメモされて部落解放同盟中央本部に伝えられ、小森龍邦中央本部書記長が『部落解放』誌上で喧伝なさった。その後、文化会議の事務局から一応の説明はあったものの、もうひとつ事情がはっきりしないままになっている(本『通信』No.13,19,22参照)
◆師岡さんは、野間さんが新幹線の切符をキャンセルしてまで『こわい考』をめぐる討議に参加なさったことをもって野間さんの誠実さの表われと受けとめておられるようです。そのことにとやかくいうつもりはありません
◆しかし、すでに述べたことがあるように、その経緯からして事柄は大げさにいえば、一つの組織の自立性・主体性、部落解放運動における自立と連帯の問題にかかわり、ひいては個人と組織、組織における個人と個人との関係の問題にかかわるのではありますまいか。野間さんがこれらについてどのような考えをもっておられたのか、わたしとしてはやはり関心がある。そしてそれは戦後知識人のありようの問題とも関連しているはずです。師岡さんの射程がそこまで届いているか、こんどお会いしたら聞いてみようと思ってます
■3月13日夜、今春の岐阜市議会議員選挙に立候補予定の友人戸田二郎さん(障害者自立センター“つっかいぼう”代表)の「共に生きる社会をめざすコンサートと講演のつどい」が開かれました。障害をもつ弁士の堀利和さん(参議院議員)と戸田さんがそろって子どもの世界では共に遊ぶうちに新しいルールを作り出したとの幼い頃の体験談をなさったのが印象的で、小室等さんの歌とおしゃべりもよかった。いわゆる組織らしいものをもたぬ戸田さんのがんばりにどう応えたらよいか苦慮してるところです☆3月1日から3月8日まで、三重、岐阜、京都(5)、兵庫、大阪、福岡の10人の方から計60,960円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
☆本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向187-4  藤田敬一です。(複製歓迎)

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