同和はこわい考通信 No.42 1990.12.25. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
差別という言葉の意味をめぐって(下)
(第7回部落問題全国交流会第1分科会「差別と平等」の報告にかえて)
山 本 尚 友
7.
 このように人々の被差別部落への視線つまり被差別部落の観念上の位置をあとづけなおしてみると、部落差別という言葉には差別の通常の意味である上下の関係における下という意味よりも、社会の内外の関係における外という意味あいが濃厚にふくまれていることがわかる。わたしが部落差別というものを知って以来、これになにかしら他の差別とは違うある重みを感じつづけていたことの正体を知ったという感じであった。このような感覚は一人わたしだけのものではなかった。1975年に部落解放同盟中央本部書記局名でだされた「差別語問題についてのわれわれの見解」(『解放新聞』 9月29日)につぎのようなくだりがある。

被差別部落は人為的・社会的につくられた賤民身分に起因する差別をうけており、身分が世襲的であったということもあって、明治以後百年を経過してもなお、差別のまっただなかにある。
これに対してたとえば、胸部疾患者に対する差別は、新薬や、治療法の進歩で、今日、ほとんど問題にされなくなっている。病人や体の不自由な人たちは、子々孫々にいたるまで差別されることもない。

これは「特殊部落」が差別語であることを述べたあとに続く文章で、これに続いて同見解は、身障者にたいする差別は「めくら」を「盲人」におきかえてもなくならないと結論づけるのである。この一文のいうとおり、部落差別と身障者差別は異なる質をもっているが、だからといって一方の名辞、言葉が差別語となり、もう一方がそうならないという類いのものではない。「特殊部落」を「未解放部落」におきかえても、それですぐに差別がなくならないという点では同様といえる。にもかかわらずこのような主張が、おそらく発表前に何人もの人間が眼を通したであろうこの文章に(実はかくいうわたしも眼を通した一人なのだが)載せられているのである。ここで「見解」の筆者が表現したかったのは、被差別部落民が自らへの差別を他と異なる重みをもったものと感じているという事実であろう。その異質観の根底にあるのが社会外という部落の位置であると考えたのである。
 わたしは1987年より京都市内のある大学で部落問題の講義を担当するようになったが、2年目の講義の冒頭で差別問題という言葉の説明をこの観点からおこなった。すなわち、差別というのは普通、人や物を上下関係において価値づけ序列づけることをいうが、現在使われている差別という言葉には社会外のものとして排除するという意味もふくまれている。そして差別問題というときには被差別部落をはじめ在日朝鮮人や心身障害者など社会の周辺に位置する人々の問題、つまり差別の意味のうちおもに後者の意味あいものをさし、チビ・ブス・バカといわれるようなものとは同一には扱えない、という内容であった。この説明で、わたしなりに差別という言葉の説明は一応つけえたと思っていたのだが、その年の学期末におこなった試験の答案の中に、考えさせられる一文があった。「先生は(つまりわたしは)差別問題のなかにチビ等々はふくまれないといったが、わたしは同じ問題と考えるべきだと思う」、正確な言い回しは忘れたが、こういう内容であった。それ以上のいいつのりはなかったが、わたしの裡のなかにこれはふれた。言葉の意味をもう一度検討しようと辞書をひいてみた。

 [広辞苑]1955年 第1版
さべつ ①仏 しゃべつ。②区別。弁別。ちがい。けじめ。
 [日本国語大辞典]1974年 第1版
さべつ ①けじめをつけること。差をつけ区別すること。ちがい。分別。しゃべち。②特に現代において、あるものを正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと。③→しゃべつ(差別)

 差別という語は仏語の「差別界」に由来しており、呉音で「しゃべつ」とよんだ。仏の慈悲が万物をあまねく包みこむ来世たる浄土のことを平等界とよぶが、差別界とはこれに対応する言葉で、諸物が個別に我執のままに存在している善悪・高下の相をしめす現世をさす言葉であった。仏教は万物が一如であるところにその本然の姿をみ、現実に万物がとる個が個として個別に上下・善悪の価値づけをもって存在するありようは迷いの姿とみたのである。しかし、明治以前の前近代社会においてはその迷いの姿こそが現実であった。近代社会が平等を善とみなす社会理念に支えられているのとは対照的に、前近代社会にあっては上下・善悪にしたがって人間をはじめ諸物を遇することこそが現世的倫理であったのであり、まさしく現世は差別的原理に織りあげられた差別界であった。
 つまり、差別の原義は、区別、弁別にあり、『広辞苑』はそれのみを差別の語義としてとりあげている。そして『日本国語大辞典』が②としてあげている「特に現代において、あるものを正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」という意味はそこから派生したものであり、これは明らかに部落問題もふくんだ差別問題が社会問題化している現代的状況の反映であった。『広辞苑』の初版の刊行は1955年であり、『日本国語大辞典』の刊行年1974年との間にはこのような記述の差をうむ社会状況の変化が存在していたのである。

8.
 つまり差別という言葉に即してみる限り、チビ・ブス等こそが差別問題と呼ばれてしかるべきといえる。となると、「特に現代において、あるものを正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」、あるいはこれまでのわたしの論述にしたがえば「正当な理由なしに社会より排除すること」という意味はどのような過程で、どのような現実の反映として派生してきたのだろうか。このような問いのもとにあらためて近代以降の部落問題の歴史を振り返ると、それが差別問題とされたのは意外と新しく、それ以前はもっぱら社会よりの排除の問題として語られていた。
 たとえば1888年(明治21)に中江兆民が『東雲新聞』に「新民世界」を書いて、平民主義の説く平民の内より旧穢多が除かれていることを攻撃したとき、それに反論した鴎村漁客は「居士は頻りに新平民が社会より排擠せらるるを説けども」と記し、また部落改善運動の先駆である岡山の備作同族廓清会(平民会)の1902年(明治35)の設立趣旨書には「其社交上に於いてすら常に世の嫌厭と擯斥を受けつつある」とあり、そしてなによりも近代で部落問題をあつかった著作の嚆矢であった柳瀬勁介の著書は『社会外の社会 穢多非人』と題されていた。大正期にはいっても、京都の有力な改善運動家であった若林弥平次は1913年(大正2)に部落に対する「社会の排斥」(『明治の光』2-8 )を語り、1918年(大正7)に米騒動への部落民の参加をとりあげその改善を主張した『中外商業新報』は、「彼等は一般社会より排斥せらるゝ」ところに米騒動への参加の原因を求めた。つまり、前近代社会から続いていた社会外という被差別部落の社会的位置を、端的に表現する言葉がこの頃までは使われていたのである。
 部落問題に関連して差別という言葉が使われるようになるのは、第一次世界大戦の戦後処理の過程でうまれた国際連盟の規約委員会に日本代表が人種的差別待遇撤廃の提案を行ったことをきっかけに、このことが国内で論議されるようになったことを通してであった。1919年(大正8)に西本願寺派寺院の僧侶であり禁酒・禁煙、廃娼運動に従った高島米峰は、『中外日報』(2月27日)によせた「同族の差別的偏見を如何せん」のなかで、人種的差別撤廃を主張する世の論者に対し「自己の同胞の間に於ける人種的差別の存在を撤廃しやうとはしないのであるか」と問いかけている。わたしの知る限りでは、これが部落問題を差別問題としてとりあつかった最初の文章ではなかろうかと思う。もちろん、それ以前にも仏教者の部落問題をあつかった文の中に差別という言葉が使われることはあったが、それは散発的でありかつ差別問題というような明瞭な意識化はなされていなかった。しかし、これ以降は部落問題はもっぱら差別問題として語られるようになるのである。
 同じ1919年7月に個人雑誌『民族と歴史』の発刊の辞を書いた喜田貞吉が「一般社会より疎外隔離せられ、最も気の毒なる状態の下に、不遇な生活を送り居り候事、……現時人種差別撤廃を世界に対して呼号する我が同胞間にありてなほ此の差別撤廃の実現せざる事は」と書いたのをはじめ1920年(大正9)『西陣労働新聞』(4月25日)に「特殊部落の娘」を寄せた水谷長三郎が「何故、我等は平等な人間の仲をこんな階級で区別するのだらう」と書き、同じ年の『中外日報』(9月16日)に京都市社会課主事森賢隆が「特殊部落管見」と題した文章に「彼等を『人間外の人間』、『社会外の社会』と云ふ様な残忍無道の差別待遇」と記すなどである。そしてその後に本格化してゆく融和運動、1922年(大正11)に開始される水平社運動ともに、差別撤廃・差別糾弾を合言葉として取り組まれてゆくのである。

9.
 もちろん言葉が変わったからといって、その意味するものがただちに変化したわけではなかった。喜田あるいは京都市社会課主事森賢隆の一文に明瞭に現れているように、「人間外の人間」ということが差別の具体的内容として意識されており、当初は差別という言葉を使いながらもその意味内容は旧来のままであった。しかし、水谷長三郎の「特殊部落の娘」は、平等との対比で部落問題をとらえようとする視点で書かれていた。すなわち、差別という言葉が部落問題を説明する言葉として選択されたことによって、部落問題をとらえる新しい視点がはやくもほのめかされているのである。水谷は当時は社会科学研究グループであった労学会の中心であり、のちに社会運動専門の弁護士として活躍する人物である。2年後に結成される水平社をはじめとして、左翼的な社会運動の関係者は部落問題を階級関係の問題として取り扱おうとする傾向をもったが、その前提には差別という言葉の選択がまずなければならなかったといえる。つまり、初めは原義とは異なる意味内容をふくみながらも、とりあえず部落問題を説明するものとして差別という言葉を選択したのだが、そのことにより逆に差別の原義が部落問題に刷り込まれ、さらにはその原義がもとの意味を徐々に押し退けていくという事態が進行したのである。
 ところでこの時期に、差別という言葉が選択されたのはまったく偶然のことだったのだろうか。国際連盟規約委員会への人種的差別待遇撤廃の提案がきっかけとなったことは偶然の事態に属すだろうが、その後この語が定着してゆく流れはそれだけでは説明できない。このことは1919年(大正8)とは、部落問題にとってどんな時期だったのかを問うことにほかならないが、わたしは前に「同和事業総括の一視点(下)-戦後同和事業略史をつうじて」(『こぺる』No.136 、1989年4月)の中で、部落差別を居住・教育・結婚にわけてそれぞれがどのような経過をへて解消していったかについて述べたが、その部分をすこし長いが引いてみたい。

 就職差別の問題は、日本の労働市場の特異性に規定されて、現在でも根本的には解決されたとはいえないため、明治いらい同じように差別が続いていると考えている人が多いが決してそうではない。明治期の部落改善運動期に官吏への登用の道が開かれたのをかわきりに、水平社の闘い、融和事業期および戦時下において順次就職差別の壁はやぶられ、戦後においてはかっての状況にくらべれば大幅に改善されていたのである。(中略)
 他の諸差別についてここで触れておくと、もっとも早く改善がはかられたのが教育の面であった。明治初期には各地で部落民の修学を拒否する動きがあったが、国家の出先機関である郡当局の指導により、京都では明治30年代末にはこの問題は解決していたが、学校における席次の差別などの問題は水平社の糾弾闘争により初めて解決をみた。つぎに、取り組まれたのは居住の面での差別で、1882年(明治15)に現在の亀岡市の土地を京都市内の部落民が買おうとして村民の反対にあい、結局村当局が買いとることで解決をみた事件にみられるように、明治初期には部落民が土地を買うこともままならず、いわんや移住はさらに困難な状況にあったが、1900年代の部落改善運動を通じるなかでそれが実現された。(中略)
 最後に結婚の面における差別は解決のもっともむつかしい問題で、水平・融和運動初期にはこれを運動が課題として正面にかかげえない状況があり、戦後もしばらくは同じ状況が続いたが、最近になってようやく変化がみえはじめ、1984年の「京都府部落解放実態調査報告書」によれば、70年代に入ってからの結婚では部落と非部落の間の結婚が40%に達している。同じ調査の全体での部落と非部落の結婚は23%であるので、この変化が急激なものであることをうかがわせている。

 明治40年代から大正の初頭にかけておこなわれた部落改善運動が、いずれの面においてもひとつの画期をなしていることがわかる。これまで部落改善運動については、官主導で部落民へ一方的に風俗の改良を強いるのみで実際の効果はなかったという評価が定着しているが、それは明治期の社会がいかに部落を忌避し排除したかという実態をあまりに過小評価した見解である。部落民が部落以外の土地に住もうと思っても住めず、学校への通学を拒否され、仕事を捜そうにも部落以外にそれを求めがたい現実が厳然としてあり、その状況に対し官主導の部落改善運動は一定の効果を発揮したのである。とくにそれは、居住と公教育の面でその権利を保障したこと、さらに官公吏への優先採用の道を開くという面に特に効果があり、1871年(明治4)の解放令で政治的な面での平等がかちとられたが、社会生活の面においては依然として排除と不平等が続いていた状態を突き崩す大きな一歩がここにしるされたのである。
 部落改善運動というのは明治の40年代より大正の初期にかけ取り組まれたものであり、1919年(大正8)にはすでにその停滞状況にあったが、1919年は改善運動でかちとられたものが定着していく時期にあたっており、この変化に呼応するかのように柳田国男の「所謂特殊部落ノ種類」が書かれ、意識の面においてもまた部落を社会外とする見方が崩れ始めたのであった。そして一時停滞状況をみせていた部落改善運動は、1918年(大正7)の米騒動をきっかけに融和運動として再生され、さらに4年後の1922年(大正11)には社会主義思想の影響のもとにあらたに水平社運動が起こってこの変化は加速された。また、1919年(大正8)には喜田貞吉が部落史研究を本格的に開始して、融和運動との連携のもとに部落を異人種とする考えをあやまりとする啓蒙運動がこののち本格化していくのである。
 つまり、部落問題と差別という言葉が結びついた時代は、部落が実態においても意識の面においても従来の社会外という位置から、徐々に社会内の位置に移っていこうとする時であり、まさしく忌避と排除の問題よりも差別の問題へその重点をずらしつつあった時なのであった。しかし、その変化は日本社会の常でゆるやかにしか進行せず、部落の社会外の位置も就職・地域・結婚などの主要な側面で残存していたために、人々の意識の中で部落を社会外とする見方は容易に変わらず、差別という言葉を使いながらもその意味内容は社会外というところに力点がおかれ続けたのである。

10.
 とはいえ、実態の面において徐々に進行した部落の社会外から社会内への変化は、部落問題を一社会における上下の問題へと変質させていった。その変化がだれの眼にも顕著に映るようになるのは戦後に入ってからのことであった。例えば戦後社会においては公教育からの排除ということはもはや問題とならず、教育の分野でももっぱら問題になったのは部落の低学力であり、就職の面では従来からの部落民という理由での排除が消滅したわけではないものの、重点は明らかに低学力により就職口がせばめられていることに移っていた。戦後の部落の中では部落差別はすでになくなっていると考えるものが多かったが、これは部落問題の質的変化を敏感にとらえた見解であった。しかし、戦後の部落解放運動の理論的支柱であった朝田理論は、このあらたな状況をも差別とみる見方を提出し、それにより戦後の運動は再構築された。これは差別という語の本来の意味からは正しい見方であったが、しかし異なる状況を同じ言葉でくくったために、戦前の部落問題がおもに社会外という点にあり、戦後にはそれが上下の関係に転換するという質的変化をみえなくするる結果となってしまった。
 そして、この混同は思わぬところに波及して、本稿の冒頭でのべたような事態にたち至っていくのである。被差別部落・身障者・在日朝鮮人などの諸問題をひっくるめた差別問題というカテゴリーが社会的に認知されるのは1970年代に入ってであるが、その差別という言葉には社会外という意味あいが色濃く投影されていった。それが、数年をへずしてその他のいわゆる一般差別に差別問題の内容が拡散されていく経過は初めに述べたが、その拡散の過程であらたにつけ加わった意味が旧来の意味に影響を与えるということが起こったのである。さきに引いた『日本国語大辞典』にもどれば、後に加わった「特に現代において、あるものを正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」という意味の「正当な理由なしに」が、あらゆる差別に拡張され、差別はすべて不当なものだという認識に変化していったのである。別の言葉でいえば、現代のわれわれからみて不当とみえることがすべて差別という言葉に結びつけられるようになったのである。差別といえばなんでも通るような状況が現出し、猫も杓子も差別をいいつのり、かつて天皇陛下の一言が日本人を硬直させたように、差別の一言が日本人を凍りつかせるようになった。
 もちろん、以上のような変化がただ言葉の中でのみ起こったわけではない。一方で現実の変化があり、それに言葉が輪郭を与えて事態を明瞭化し、さらに現実の変化を加速させた。その現実の変化とは一言でいえば、資本主義社会の内部で進行した一種の社会主義化である。すでに、何人かの論者が指摘しているように、現在の資本主義はかつての産業資本主義の時代とはその様相を大きく異にしている。それは、ひとつには株式会社制度の定着による資本の社会化、そしてアメリカのニューディール政策を端緒とする経済の国家的統制の徹底、さらにスタートにおける平等から結果における平等の保障という平等主義の深化という側面においてその変化は顕著であり、全体としては社会主義の挑戦に対応した資本主義社会の部分的社会主義化と特徴づけることができる。このうち平等主義の深化はヨーロッパ社会においては福祉国家として現実化したが、アメリカおよび日本においては反差別主義の運動がそれを押し進めたといえる。アメリカでは公民権運動が、日本では部落解放運動がその発火点の役割をはたしたが、両社会ともそれに続いて反差別主義の拡散状況が共通してみられたのである。
 つまり、その多くは前近代社会から引き継がれた差別的諸関係と差別的制度の絶滅をはかるような動き顕在化し、それが社会的に一定支持されるという状況が訪れたのである。そして、現在ではそれからさらに進んで、あらゆる人間的悪が差別として指弾されるようなところまでいきつつあるといえる。もうここまでくれば、その出発点であった諸差別問題の問題性とは異なるところまできているといわざるをえない。現在、差別として問題になっているものをみると、チビ・ブス・バカという連語にしめされるような人が人として生きようとする限り多かれ少なかれ直面せざるをえない人間的諸悪である。おそらく現在の事態の根底には、近代化がもたらした人間の精神的衰弱があるとみざるをえないのである。そしてそのような人間精神の衰弱状況が、現在の諸差別問題の質を規定しているといえる

11.
 現在、わたしの住む京都やその周辺の諸県においては、公的な場においてすべての差別をなくすということが自明のこととして語られ、そのために多くの差別・差別問題のリストが作成されているが、そもそもすべての差別をなくすことなどできることなのだろうか。かつてはこの反問に対しては、なんでもかんでもということではなく、部落差別のような不当な差別をなくすのだという答えが返ってきたものだが、すべての差別が不当なものとなりつつある現在、あらためてこのことが問われねばならないだろう。
 このことを検討するために、もう一度「差別」という言葉にもどってみたい。辞書には「さべつ」の読みのほかに、「しゃべつ」という読みも立項されている。『広辞苑』第2版(1976年)の「しゃべつ」の項をみると、差別の意味にはこれまで問題としてきたような否定的なものだけでなく、肯定的なものもあるのが眼を引く。「分別」というのがそれである。用例として『好色一代男』から『まだ差別有るべきとも思わず」という一文が引かれているが、『日本国語大辞典』には「いとけなき人。七つの年迄は多くの物の差別なし」、「きゃつは其日やとひのにんそくにて、しゃべつもしらぬ下らうなれは」と同様の用例があげられており、慣用された表現であることを示している。かつての日本社会は差別すること、差別を知ることは、人としての最低限兼ね備えねばならない条件と考えていたのである。同じく『広辞苑』に引かれている「心と万物のしゃべつを置かずば、鳥類・畜類に同前ぢゃ」という表現は、差別するということがかつては肯定的行為であったことを端的に示している。
 前近代社会にあっては差別することが人の道であると考えられていたことは、なにもここで事新しく述べるまでもないことであるが、すでに多くの人々がかつての社会が身分社会であり、同じ百姓の間でも村内での身分が違えば結婚できなかったということを忘れ、あたかも被差別部落民だけが差別を受けていたかのように錯覚をしだしている現在では、そうもいえまい。前近代社会とは単に差別的であったというような社会ではなく、すべてを差別的関係において取り扱わねばならぬ、差別的原理こそがかくあるべき社会的理念であった社会なのである。仏教が現世を差別界と呼んだのもそのためである。そしてそのような現世的理念と拮抗する宗教的理念として、例えば仏教的理想世界が平等界と呼ばれたように、来世での平等世界が構想されたのである。つまり、差別という現実的理念に対し平等という理想的理念が拮抗するという、観念世界における緊張関係がそこには内包されていた。
 そして、その理想は差別的関係で覆われていたはずの前近代社会の各所をほころばせ、例えば一揆という非常の場において、誓約書の署名を傘が開いたようにすえることで、そこに一味同心した者たちが日常の身分をこえて一つになったことを表現しようとした。また、茶室という空間が身分を超越した場であったこと、さらに寺院という組織が僧伽として俗世間の身分をこえた秩序を実現しようとしたことも同様の衝動からであった。さらに、江戸時代の中期にそれまて村の上層にのみ許されていた神社の祭礼に参画する権利が、平等の扱いを求める下層農民の要求によって村民全体に広げられたように、歴史はたえまない平等への希求とその部分的実現の連鎖でもあったのである。このように前近代社会においては、観念世界において差別と平等が拮抗していただけでなく、現実の秩序の中にも注意深く平等的関係が隠されていたのである。

12.
 近代とはそのような前近代社会の鏡像たらんとして成立した社会だが、その鏡はすべての物をうすぺらく遠近感を欠いて映しだした。近代社会においては前近代において理想的理念であった平等が現実的理念となったが、かつて平等の対抗的理念であった差別が理想的理念の位置をしめることなく、平等は現実的理念と同時に理想的理念の役割をも果たさなくてはならなくなったのである。このような鏡像関係は人間の認識構造のもつ形式性に規定されたものであり、人間の認識が、一をわけて二となす形をとり続ける限り避けることができないものである。だから、差別と平等というのは、対象世界の関係性をこの対極構造においつかまえようという試みにほかならず、この二つの概念は相補的であり、たがいに参照することなしには意味をなしえないのである。
 だからひとつの平等を実現したとたん、その足元にはまたあらたな差別が忍び寄っている。前近代において人間社会は、ひたすら現実的関係を差別的にのみ織り上げることに汲々としてきた。この愚かしさをいままた逆のベクトルにおいて繰り返すことにどれほどの意味があるだろうか。しかも、前近代社会においては理想の領域に平等を追い込み、現実的関係はひたすら差別的なものに純化しようとしたのであるが、現在では現実においても理想においても平等を実現しようという病的ともいえる衝動が支配的になりつつある。ところが一方で、近代社会は個性化を進行させ、人が個としての我執をもって存在するありようを拡大させてきた。完璧に組織された抑圧機構をもつ超警察的国家ならいざしらず、人が人として自己実現する可能性を少しでも残した社会においても、差別を根絶することは不可能であろうことは、ここで事新しく贄言するまでもなかろう。
 理念=たてまえの領域で平等であることを強制する現在のようないきかたは、人間的苦痛は最小限に抑制され、除菌された真っ白な壁をもつ病院のような社会を作ってくれるだろう。しかしわたしはそのような社会ではなく、時には死をももたらすような病や苦しみとたたかわねばならないような社会を選びたい。そのためには、人間的諸関係に発生する差別的関係をありのままに直視して、平等の関係をよしとするところと、差別的関係をよしとするところとを腑わけしていくような方向を模索していかねばならないと思う。つまり、平等というものを理念的価値の座からひきずりおろし、差別も平等も同価値のものとみて選択的に対処するようないきかたをである。
 そのためには、あまりに多義的となった差別という言葉の内部に安住するわけにはいかない。差別という言葉によって、自分がなにを語ろうとしているのかを模索し、その差別を不当とする根拠を自ら確かめつつ、言葉をつむいでいかねばならないのである。(完)

<付記>
 本稿は、さきに京都においてもたれた第7回部落問題全国交流会の第1分科会「差別と平等」の報告を当初は意図したものだったが、わたしの問題提起を文章化する結果となってしまった。ただし内容は当日のものとは大幅にかわっており、分科会で出されたご意見をわたしなりに咀嚼してみたつもりである。本来ならば提起と議論はわけて紹介すべきものであろうが、当日のわたしの問題提起が時間の関係で充分でなかったため、それを補おうとしてこのようなものになってしまった。分科会参加者のみなさんには申し訳ないが、わたしの問題提起についてのご意見を本通信または『こぺる』(京都部落史研究所発行)に寄せていただいて議論をつくせればと思っている。

《 紹介 》
その1.横井 清『光あるうちに-中世文化と部落問題を追って-』
  1990.12.阿吽社(〒602 京都市上京区寺町通今出川上ル4丁目鶴山町14
  Tel.075(256)1364). 4・6 版、 368頁、2360円.

目次
 はしがき
Ⅰ 中世文化の探求
 1 中世人と「やまい」
 2 賤視と救済
   付1/ 虎松とその祖父のこと
 3 「心理」と「時空」───『看聞日記』の世界
  付2/ 『看聞日記』と『看聞御記』の間
 4 民衆文化の開花
  付3/ 職人世界の心性史
  付4/ 「酒」-生活文化史の一面
  付5/ 中世人と“生きもの”
Ⅱ 部落史・部落差別への照射
 5 部落史研究の到達点と課題(中世)
  付6/ 書評『部落史史料選集 第一巻』部落問題研究所編
  付7/ 隠喩としての「七」「裸足」「皮買はふ時」
  付8/ いちばん小さな“中世部落史”
 6 部落史研究と「私」
 7 旅の人
 8 私たちは、新鮮か───部落問題を富山で考える
  付9/ 「部落差別の現状と歴史」講義内容概略(1985年度)
 9 心理と思想の狭間から───藤田敬一著『同和はこわい考』を読む
別篇 京都幻像───ある小宇宙
解題 中世文化と部落問題を追って

注 後記 図版一覧 初出一覧
☆書名『光あるうちに』は、巻頭に掲げられているオマル・ハイヤーム『ルバイヤート』の一節

ありし日の宮居の場所で或る男が、/土を両足で踏みつけた。/土は声なき声上げて男に言った───/ 待てよ、お前も踏まれるのさ!

とともに暗示的です。ぜひ一読されるようおすすめします。なお横井さんのこれまでの著作は次のとおり。
 『中世民衆の生活文化』東京大学出版会、1975.
 『東山文化-その背景と基層』教育社、1979.
 『看聞御記-「王者」と「衆庶」のはざまにて』そしえて、1979.
 『下剋上の文化』東京大学出版会、1980.
 『中世を生きた人びと』ミネルヴァ書房、1981.
 『現代に生きる中世』西田書店、1981.
 『まと胞衣えな-中世人の生と死』平凡社、1988.

その2.網野善彦「日本中世の聖別と賤視の諸相」上(『こぺる』No.156,1990/12)
☆今年の全国交流会における講演に加筆されたものです。『こぺる』の申し込みは〒603 京都市北区小山下総町5-1 京都部落史研究所 Tel.075(415)1032まで。年間購読料3000円、一部 200円。郵便振替 京都 5-1597

《 あとがき 》
*いよいよ1990年も終りに近づいてきましたが、いかがお過ごしですか。本年最後の『通信』をお送りします
*山本さんの論稿、なかなか刺激的な内容で、結論部分だけでなく、異種と異人種・上下と内外・「差別」という言葉の意味内容の変遷などについても議論したいですね。ご意見をお待ちしています
*工藤力男さん編集・発行の『第二次修羅 授業「言葉と人間」通信』が「岐阜大学教育学部における人権を考える教育の実践記録」として発刊されました。いくらか残部がありますので、ご希望の方はわたしまでご連絡を。ただ残念なことに教員免許法の改正にともなうカリキュラムの変更により工藤さん主宰の授業「言葉と人間」は続けられなくなり、この9月をもって閉じられました。わずか二年間、それも前期だけでしたが、授業者と受講生との人間の問題を媒介にした交感は忘れがたいものがあります。いつの日にか復活できるよう念じてます
*第8回部落問題全国交流会の日程がきまりました。1991年7月27日(土)、28日(日)の両日、京都・本願寺門徒会館にて。講演は山下 力さん(部落解放同盟奈良県連書記長)です。今から予定表に書き入れておいてくだされば幸甚
*この一年、なにかと励ましていただき感謝にたえません。みなさんとの絆の確かさをかみしめています。来年もよろしく
*11月17日から12月14日まで三重、大阪(2)、東京、愛知、京都、岐阜の7人の方から計53,744円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

≪ 戻る