同和はこわい考通信 No.41 1990.11.20. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
差別という言葉の意味をめぐって(上)
(第7回部落問題全国交流会第1分科会「差別と平等」の報告にかえて)
山 本 尚 友
1.
 いつ頃からだろうか、わたしが「差別」という言葉に違和感をもつようになったのは。それをはっきりと意識しだしたのは、10数年前に大阪の学校で徒競争のときに子どもに手をつながせて、横一列でゴールインさせているという話を聞いたころだと思う。だが、あらためて思いかえしてみると、わたしが差別問題にかかわりだした当初からその違和感はあったようだ。
 わたしが差別ということを対象化するようになったのは、1969年から70年にかけて政府が国会に上程していた出入国管理法案の反対闘争に参加したことがきっかけであった。この闘争のなかでは同時に在日朝鮮人・中国人に対する、植民地以来の差別と抑圧ということが問題となり、そしてわたしが出席するようになった日本人・朝鮮人・中国人が同席してその闘争のやりかたを相談する場所で一人の朝鮮人青年がなんども日本帝国主義の抑圧と日本人の差別をまくしたてるのを聞いた。彼がそれを語るのは、明らかに自分と違う意見をおさえて自説を押し通すためであったが、それが出るとまたかという空気が露骨に漂うものの、とりあえずの沈黙がしばらくはつづいたものであった。
 わたし自身は彼の言葉が語る現実に大きな衝撃をうけながらも、それを語る彼の姿にはかすかな嫌悪感を抱かずにはおれなかった。その嫌悪感のよってくる所在はなかなか確かめがたかったが、一つには彼の風姿と語る内容とのそぐわなさがあったように思う。彼は高校を出たか出ないかの年齢で、一見して商店の店員か職人の雰囲気をもっていた。それと彼の語るいかにも不慣れなインテリめいた言葉の不調和は、彼の愚かしさをいっそう強調するように聞こえた。またひとつには、なにかしら彼の行為に「虎の威をかる」という雰囲気がまとわりついくことからきた。その場での彼は、日帝に踏みにじられ虐殺された朝鮮人の怨念を体いっぱいに吸いこんで、巨人にようにそびえ立っているようにみえたが、日常生活にもどれば痩せこけた、まだ子どもらしさのぬけない一人の青年にすぎなかった。
 そして、わたしはこの嫌悪感を手がかりにして、彼の行為が彼自身にもたらすものに、ある危惧を抱いた。というのは彼自身の言葉をかりれば、朝鮮人であることを自覚することによって取りもどしたはずの自己が、彼が朝鮮人であることを演じれば演じるほど抽象的な朝鮮民族なるものに吸いこまれて、当の彼自身はどんどん消えていくように見えたからであった。力のかぎり朝鮮人として舞いあがりつづけた彼は、半年をへることなく運動の場から消えていった。
 このとき彼の行動を支え、そして彼自身の存在を足元からほりくずしていったものは、差別という言葉であった。帝国主義うんぬんは過去の歴史として一定の衝撃力をもちえても、それは歴史的経験として朝鮮人である彼からも、日本人であるわたしからも、等距離にあるにすぎない。しかし、それがいまもつづく日本の中の朝鮮人差別とむすびつけられるや、その事実とされたものの前に人々は沈黙する。そのとき被差別者として自己を規定した人の内部で、この歴史的経験をアイデンティファイしようという誘惑にあらがえる人が何人いるだろうか。このあまりにも見事に歴史と現在の、そして社会と個人の結節点となり、社会性の中に個人の主体を吸い取ってしまう差別という言葉の魔性とあやうさを、このとき感じ取ったのであった。

2.
 わたしは数年後、縁あって京都に居を定めることになったが、そこで一個の職業としてかかわることなった部落解放運動の中で、差別という言葉の魔性がいかんなく発揮されている場面に何度となくつきあわされるはめになった。例えば、まずわたしが勤めはじめた部落解放同盟の機関誌「解放新聞」社でのこと。当時、新聞社には4人の社員しかいなかった。編集長と主筆の二人が編集を担当し、事務はわたしともう一人の女性社員だけであった。人手不足のために仕事が忙しく、わたしは午後10時11時はあたりまえ、週に家に帰れる日が何日という殺人的なペースで仕事をしていたが、もう一人の部落出身の社員は支部活動を理由に定時退社をつづけ、当然にその担当している仕事が大幅に滞っていた。そのことで主筆が注意したところ、それが差別ということになったのである。
 わたしは当初あまりの意外さに事の次第を理解できなかったのだが、彼女の主張をつづめると、生れながらに教育の機会均等をうばわれている部落民に一般人と同等の仕事を要求するのは差別であるというのだ。形式的平等からみても彼女は大卒、わたしは高卒で、彼女のいいつのりは理を欠いたものであり、主筆は納得しなかった。部落解放同盟の中央執行委員であった某氏が彼女に泣きつかれて間に入ることになったが、某氏も彼女の主張を非とすることなく、当時の中央本部の事務局員の中でも彼女の主張に正面から反対するものはなかった。この事件そのものは、主筆が差別であることを最後まで認めなかったためにうやむやに終わったが、これ以降わたしは、わたしの理解と周囲の常識との乖離に当惑し、そこで起こっていることを理解するために沈黙した。
 この後、同様の体験を自らもし、人からも聞き、このような理屈が部落解放運動の一部では通用するのだということを知ったが、最後までわたしはなじめなかった。そしてこの頃、同様に頭を悩ませたのが、最初に述べたような文字通りあらゆる差別を許さない式の実践が学校の中でおこなわれるようになったことである。例えば、三月のひな祭りのとき段があるのは差別だとして、どの人形もおなじ平面においたとかいう話を聞く度に、そんな馬鹿なと思い、そうした実践は部落差別の撤廃とは無縁のことだと思うのだが、それがなぜ無縁なのかについて説得力のある理屈は考え出すことはできなかった。
 このような、なにを差別と見るかについての意識のゆらぎは、一人わたしだけのものではなく、1975年頃から人々の間で顕著になっていた。このすこし前から放送各社は禁句集をつくって差別語・侮蔑語・不快語なるものを公共の電波から追放しようという動きを示していたが、これを部落解放同盟の暴力的糾弾によってもたらされたものとして批判する動きが起こった。差別でないものまで差別だとし、表現の自由を抑圧しているというのである。これは、1969年より部落解放同盟と対立関係にあった日本共産党が解放同盟批判の一環として起こしたものであって、このような事態は決して解放同盟の糾弾によってのみ起こったものではない。しかも批判者自身がなにを差別とみるかについては解放同盟とは異なるものの、差別語なるものが存在するという点については同じ立場をとっていたために有効な批判とはならず、禁句集はその後ますます収録語彙を増やすほうに動いていった。

3.
 その後わたしは部落解放同盟を辞め、1年間の失業期間をへて現在の京都部落史研究所で仕事をするようになったが、最初に自分でテーマとして設定したのが部落差別とそれ以外の差別の違いはなにかということであったのは、このような差別という言葉へのわだかまりがその底にあったからである。諸差別のなかで部落差別の占める位置の特殊性がわかれば、その解決の処方も書けるし、なにを差別とするかという混乱も整理しうると考えたのであった。そのわたしの問題意識にまずふれたのが、『シンポジウム 差別の精神史序説』(1977年、三省堂)のなかでの山口昌男の一連の発言であった。山口は被差別者というものを日常生活から排除された社会的周縁に位置する存在であり、そのことによって社会の輪郭をかたちづくり、日常生活をおびやかすと同時にそれを活性化する、多義性をもった存在と語っていた。このシンポジウムでは野元菊雄(言語学者)の司会で、井上ひさし(作家)や横井清(歴史学者)など多方面の人々が集まって、差別についてさまざまな側面から論じていた。山口は文化人類学者であり、社会制度などが変化しても影響をこうむらないような安定した社会構造を重視し、それを対象とする構造主義という立場に立っていた。構造主義は、こうありたいという願望や、こうなくてはならぬという理念から離れて、社会をなるべく記述的にそして無価値的にみようとした。このため山口は、被差別者が歴史的に担ってきた社会の周縁を構成するという役割は、社会が社会として成り立つためにはなくてはならないもので、良いとか悪いとかの価値判断をこえて、そのような社会的存在を消滅させることは不可能だと、シンポジウムのなかでほのめかした。
 このように被差別者を社会的周縁とみる考えは、じつは歴史学の分野ではすでに黒田俊雄によって提起されていた。黒田が1972年に発表した「中世の身分制と卑賤観念」(『部落問題研究』33号)は、中世の賤民身分である非人身分の特徴を、社会生活から脱落したものにより構成され、公私にわたり人格的隷属性をもたず、種性観念に媒介された不浄視により、身分外の身分とされたことにもとめていた。この黒田の所説に対しては、大山喬平が「中世の被差別身分は侍・凡下・百姓・下人・所従のうちの凡下の一つの特殊的形態であり、その組織形態は商工業などの座と全く共通している」(「中世の身分と国家」『岩波講座日本歴史』8.1976年)と、その社会的実質においては賤民が商工業者の一部を構成していたことから、また網野善彦は「彼等は『清目』という職掌をもつが故に『職掌人』とよばれており、広い意味ではこれも『職掌人』の身分に入れることは、決して無理ではない」(「中世前期の『散所』と給免田-召次・雑色・駕輿丁を中心に」『史林』59-1.1976年)と、賤民が権門の支配体制の一部を構成していることをもって、共に身分外の身分とみる説に異論をとなえている。
 事実の指摘としては大山・網野のいう通りなのだが、非人身分はもとより「副次的・虚構的・観念性の濃厚な身分」(黒田前掲論文)であり、階級関係あるいは社会的分業の実態とは直接関係なく形成された身分であることを両者は見落としていた。例えば、祇園社の清目として有名な犬神人は平安末期より、祇園社境内の生き物の死骸の取り片付けや刑罪の執行などにあたって、実質的に祇園社の執務機関の一部を構成していたが、最後まで正式には祇園社の社人や神人とは認められず、その神社の執務体制の外にある存在としてみられていた。このような関係は、江戸時代に刑警吏役を勤めた穢多の場合にはもっと明瞭にみられる。京都の市内に接した5カ村の穢多村は役人村とも呼ばれ、刑罪の執行や犯人の捜索そして牢番などをほぼ専業的に勤め、江戸時代の警察機構を実質的に担っていたのだが、明治維新にさいして新しい警察機構をつくろうとするとき、かつてそれにかかわっていた武士をいかに処遇するかが議論され、一部の武士が優先的に登用されたのに対し、穢多の場合は全くの逡巡なしに一方的にその職を解かれたのであった。その実質に反して、穢多は警察機構を構成する者とはみなされていなかったのである。つまり、彼らは現在のわれわれの眼からすれば一個の職業に従事し、支配体制の重要な一部をなしていたにもかかわらず、当時の人々は彼らが従事したものを職業とはみず、いわんや体制の一部を構成するものとはとうていみずに、社会外・身分外・人外の存在とみつづけたのであった。
 もちろん、中世非人をその身分を成立させた観念的性格、つまり彼らに対して社会が与えた観念上の位置を重視して一身分としてみるか、あるいは階級関係・社会的分業の契機を重視して彼らが従事した職業により凡下なり職人なりの特殊的形態とみるかは、中世身分制論を全体としてどういうものとして構成するかという問題にかかわる議論で、ここで扱っている主題とはすこし位相がずれており、大山・網野の両氏も中世賤民が観念的に如上の位置にあったことには異論はないものと思う。

4.
 被差別部落のこのような観念上の社会的位置は、前近代を一貫したものであった。中世社会にあっては、端的に非人は種性の異なる存在としてみられていた。種性とはその人の生まれをさす言葉だが、「種性の別」といった場合には良い家柄であるとか、出身・生まれとかいう意味あいだが、異なるといった場合には端的に人ではない種性であることを意味していた。中世社会においては二つの種性の異なる存在があった。一つは、やんごとなき神にも近い存在であった天皇であり、一つは人ではなく禽獣にひとしいものと見られていた非人であった。もともと非人という言葉自体が、人に非ざるということを意味していた。
 人であるものを人でないとみるというのは、いまのわれわれには理解しがたい感性といえよう。しかし、それに接近するいくつかの手がかりがある。まず、人の世界を秩序だてる原理そのものが、近代と前近代では大きく違っていたことである。いまのわれわれは、人というのはその性格や能力や生まれや社会的地位において異なっていることを知りながらも、人としての共通性において、とくに他の動物との対比を念頭において、ひとつの類としてまずみようとする。ところが、前近代社会において人はまずさまざまな身分に所属する存在であり、その類としての側面が現実化する場はきわめて限られていた。
 このような身分の別によって人をみようとしたことに一見反するようであるが、実はそれとパラレルな形で、前近代社会においては人をふくめて生きとし生けるものを生類というもう一つのカテゴリーでとらえようとする見方が優勢であった。この生類の概念にいては、塚本学『生類をめぐる政治』(1980年、平凡社)に詳しいが、塚本は犬公方とよばれた将軍徳川綱吉の政策をとりあげて、従来犬や馬などの生類を憐れむあまり、それを傷つけた人を罰するという悪政の典型と考えられてきたものが、実はその時期に進行していた従来の共同体的秩序の解体を押しとどめようとする権力側からの対応のひとつであったことを明らかにした。そして塚本によれば、綱吉が生類として保護の対象としたのは犬や猫などの動物だけでなく、捨子・行旅病人・囚人などの人にもおよんでいたのである。塚本は、「ひとを中心として、ひとに近い感覚でむかえられる諸生物が、生類概念」と規定しているが、このような人を生きとし生けるものの全体に連なる存在としてみる見方が、かつては生き生きと感得されていたのである。
 人をその類である以前に、まずはさまざまな身分に属する存在であり、しかもそれを類としてみようとするときには、広漠たる生類の一部としてイメージする人間観が、人であって人でない存在にリアリティーを与えていたのである。

5.
 しかし、このような種性観も江戸時代にはいると微妙にゆらぎをみせはじめたようである。その一端はさきに述べた貞享、元禄期に生類というようなことをことさら強調しなければならない事態にもうかがえるが、それを明瞭に示したのが1727年に荻生徂来(1666~1728) が将軍吉宗にその意見として提出した『政談』の中の一節である。

遊女・河原者の類を賤しき者とすることは、和漢・古今とも同断也。是等は元来其種性各別なる者故、賤しき者にして、団左衛門の支配にすること也。然るに近年は古法を取失ひ、平人の女を遊女に売り、又河原者より商人と成る、是不宜ことの第一也。平人の女を買取て遊女町へ売者を女衒とやらん言て、人をかどわかしても売也。其上我女を自親遊女に売事、下賤の者にも一向あるまじき事なることを、不構に売ることは、元来平人の女を遊女に売と云より起りて、歴々の者も遊女を妻にする類、不可勝計。是よりして又平人の女を弥遊女に売也。畢竟遊女にても平人と種性に替り無と了簡するより事起りたる事也。如此遊女・河原者平人に混ずるよりして、遊女・野郎の風俗平人に移り、当時は大名高位の詞使ひにも傾城町の詞を無遠慮使ひ、武家の妻娘も傾城・野郎の真似をして恥と云ことを知らず。(巻一)

遊女を河原者と同様に賤民とみる見方は、中国での賤民観にならったもので、日本の現実から遊離した見方であるが、徂来はここでは種性観の衰退と混乱を強調するために、中国の社会理念で日本の現実を裁断している。さらに、この論述につづいて徂来は「乞食・非人と言者は、元来種性に替りも無く、平人とより成る者也。然るに火をも一つにせぬ団左衛門手下にすること」を、同じく種性を混じ、風俗が乱れる基いとして反対している。徂来の眼からみて種性を混じているとみなさざるを得ないような事態が頻発するようになっていたのである。『政談』は元禄期よりあらわとなった徳川封建体制の危機をいかに打開するかを論じたものだが、徂来はこの主因を武士が農村を離れて都市に住みついたことにもとめており、その結果うまれた江戸などの都市の消費文明を強く批判し、武士を農村にもどし全体として旧に復することによってこの危機を克服しようという立場をとっていた。種性という身分制の要は、ぜひとも守らねばならないものであった。
 徂来の時代に、このような種性観念の稀薄化がどの程度に進んでいたのかを測る手段をもたないが、それから半世紀をすぎた天明期(1781~1789)以降になると種性観念の衰退はさらに明瞭になってくる。例えば、1801年(享和元)に石川正明は『年々随筆』に死を弔う忌みの忌服と穢れの忌みは違うのに最近の人は知らないと記し、1810年(文化7)の『消夏雑識』には革と肉を穢れたものとするのは仏説の影響による妄説と説かれるなど、触穢観念がほとんど儀礼化し、その実質を失っていることを示す言説が目だつようになり、1817年(文化14)にいたると、中井履軒はその『年成緑』の中で別火の制をおろかごととして退け、同じ頃、伴信友は『獣宍塩考』の中で、触穢儀礼の変遷と穢多身分の者がなぜ賤視されるにいたったのかを歴史的にあとづけようと試みている。この時期にはすでに穢れた種性であるという説明では、その賤視を人々が納得しえないまでに人々の意識は変化していたのである。

6.
 この種性観念の衰退に対応して、あらたに穢多身分の者の存在を説明するものとなったのが、穢多を異人種とする見方であった。穢多あるいは賤民を異人種とみる見方は、室町時代初頭の応永年間に成立したと推定される『貞観政要格式目』にすでにみえる、種性観念が根強いあいだは異種観を補強する以上の意味をもたなかったものと思われる。しかし、近世末にいたると、衰退しつつあった異種観に代わるものとしてあらたな意味あいをおびるようになった。文化・文政期以降に穢多とその賤視につき論じようとするものは、ほとんど穢多を異人種の末裔とみる見方を前提とするようになる。特に注目されるのは、帆足万理『東潜夫論』や千秋藤篤『治穢多議』など近世末のいわゆる賤民解放論のはしりとされているものも、この立場をとっていることである。人ならぬ異種の存在を人の範疇として認めるためには、異人種という迂回路をとらねばならなかったということだろうか。
 さきにすこしふれた伴信友『獣宍塩考』が「そは食料にする鳥すら、其屠るに血あへたるはきたなきものなるを、獣はことにきたなくみゆるものなれば、良人はさら也。大かたの人も、庖厨にて屠るに堪へず。又其皮などをはぎつくりて用るにつきては、其を業とする賤民のおのづから出来たるなり」と、穢多身分が社会的分業を契機として成立した一身分であることを明確に述べ、また近世におけるもっとも優れた賤民研究の書といえる本居内遠の『賤者考』も同様の立場をとっているほかは、いずれの論者ももと異人種であったところに賤視の渊源をもとめており、近世の中期から末期にかけて異種観から異人種観への大きな展開があったとみることができる。この異人種観は近代に入っても存続して、明治・大正期の日本人の常識的な部落観でありつづけるが、1913年(大正2)に柳田国男が「所謂特殊部落ノ種類」(『国家学会雑誌』27-5)を著して賤民が日本社会の一身分であることを明確に主張し、またその見方をうけついだ喜田貞吉の研究によって歴史学界の定説となった。そして、昭和初年から一〇年代に展開された融和運動の啓蒙・啓発活動の中で、異人種起源説の批判が中心にすえられ次第に払拭されていったが、一部の人々の意識の中では戦後にいたっても生きつづけた見方であった。(未完)

《 討論 》
梅沢利彦氏の批判への申し開き
柴 谷 篤 弘
 本誌38、39号に掲載された梅沢氏の「構造主義は解放理論になりえるのか」は、わたしの『反差別論』に関する限り、有効な批判となっている。わたしはこの本の欠点を補うために、もう一度改めて別な本を書き下ろしたいが、いろいろな事情でそれは心にまかせない。次善の手段として、これまでに書いた断片的な文章を集め、それにいまの時点でだせる観点を注のかたちで補ったものを出版するように準備中である(『科学批判から差別批判へ』-仮題-明石書店)。これは、1991年の初め頃に出版できそうである。しかしそれとは別に、この誌面をかりて、梅沢氏の批判のうちのいくつかの点について、お断りをしておきたい。
 梅沢氏が指摘するとおり、『反差別論』では、恣意性についての記述が混乱している。社会における恣意性については、まず初めにカストリアディスに依拠して出発し、それが、いまの段階で、あらためて、簡単にこの問題を整理してみれば、およそ次のようになるとおもう。
 構造は基底からより複雑なものへと、構造列をなして、うえすぼまりの、「疑似的」階層をつくる。この各階層ごとに、諸構造はすべて、恣意性あるいは無根拠性をおびる。ということは、それとはことなる、他の構造でもよかったのであるけれども、そうはなっていない、ということである。一番基底にある構造は物理法則であるが、一番うえにできる構造は人間の脳のなかにある。ここには、おおくのたがいに排除する構造が一人の脳のなかにも成立しうる。差別する構造はその一つである。さらに差別することは生得的で、学習なしにでもあらわれてくる(一次差別構造)。この構造は、他のすべての構造と同じく、無根拠なものであって、他の構造に還元できない。したがって、ある差別現象(たとえば部落差別)を、その無根拠性によって批判することは、同義反復(トートロジー)にすぎず、批判の意味をうしない、実践的にも成果を期待しえない。不毛だ、と私が書いたのはこの意味においてである。
 このような生得的な差別する構造は、適当な差別対象をとらえて具現化するが、その対象に差別するに値する属性があるかどうかは、任意にしかきめられない。それは社会によってさまざまにかわりえて、正反対の差別行動があらわれることもある。農耕集団が屠殺者を差別することもあれば、牧畜・屠殺集団が、農耕者を差別することもある(亀井トム『部落史の再検討』三一書房.1978) 。この被差別集団の析出(二次差別構造)は、個人ごとにおこるけれども、(言語におけるラングのように)個人間の「ひきこみ」によって社会的に拘束性をもつ。支配者の操作はここではいりうる。それは、歴史的・地理的・気候的その他の要因に媒介されるが、しかしある集団や個人が差別の対象になるのは、本質的には無根拠であり、単に一次差別構造の具現化のきっかけをあたえるにすぎない。歴史とともに、被差別集団の属性や意義、存在などは変化するかもしれない。しかし一度差別対象として記号化されたものは、そのような変化をこえて差別の対象としてとどまりうる(これを三次差別構造と呼べるかもしれない)。これは、脳のなかに、差別の一次構造があるからである。ここのところは、したがって、梅沢氏の分析とおなじことになる。
 差別する構造とともに、差別とたたかう構造も、人間には生得的に、いわば「無償で」あたえられている。したがって、梅沢氏がいう、「個々人が自分の心を変革する運動」もまた、社会的な引き込み、拘束性をもつつ。それはわれわれの望みであり、救いである。
 池田清彦の「構造主義生物学と多元主義」(『フォーラム90s』1990年7月号)は、構造主義差別論をてぎわよくまとめてあって、いちばんわかりやすいのではなかろうか。池田は構造主義に実存主義をつなぐという「不義密通」(柴谷編『構造主義をめぐる生物学論争』吉岡書店.1989.P48,米本昌平の発言)をめざしている。『反差別論』の最終にある「革命のパラドックス」はサルトルの『方法の問題』と共通の主題をあつかっている、という指摘をうけている。梅沢氏は、サルトルの「投企」にたいして、構造主義には「決意」しかないといわれるが、その「決意」とは、生得的に実在する諸構造のなかから一つえらびだす、個人の自由にもとづきながら社会的に媒介される行動である、と私はいま考えている。このあたりの論理は、ちかく出版される新しい本の内容とあわせて、ご検討いただければ幸である。
 「同和」の表現については、反差別運動の側では、必ずしもこれを受け入れず、むしろ「解放」の表現をもちいてきたことを、私は本を書いてからはじめて意識するようになった。しかし今日「同和」の語は、運動の側でも受け入れている、という事実もまた存在する。これはある意味で権力の側による現状の経済的な改善の論理にのせられてきた結果なのであろうが、「同和」が差別表現と同様な糾弾をうけなかったことを問題にしてはいけないのであろうか。

《 あとがき 》
*ごらんのとおりワープロをかえました。ルポ95HPという最新式のやつです。ルビや文字の縮小・拡大が簡単で、印字が速いといった機能にひかれたのですが、まだ使いなれていません。前の字体が気にいり、なかなか買いかえようとしなかったのに、いまはもう新しい機種に淫して友人に笑われてます
*山本さん(京都部落史研究所)の論稿は、話をもう一度現代にもどして次号で完結する予定
*柴谷さん(京都精華大学)の著書-梅沢さんの批判的見解-柴谷さんの再説明と、議論がつながりました。丁寧に討論できるのは嬉しいことです*この10月で岐阜にきてまる20年になりました。ようもったなあというのが正直なところです。ただ8月に、京都から岐阜へきてずっと面倒をみてくれていたおふくろが亡くなり、10月には岐阜へくるきっかけをつくってくださった方がわずか54歳という若さで亡くなられて、とても20周年の感慨にひたっておれず、酒もほどほどにおとなしく清末中国の噂話をめぐる駄文を書いてました*それでも学園祭で史学科の学生たちと一緒に「みこし」(今年はインドのタージマハル。残念ながら連続優勝はなりませんでしたが)をかついだり、長良川河畔で恒例の「喧嘩みこし」を応援するなど結構楽しいこともあり、元気にやってますので、ご放念ください
*10月1日から11月3日まで岐阜(2)、滋賀(2)、三重、京都(2)、福岡、大阪の9人の方から計30,104円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

≪ 戻る