同和はこわい考通信 No.37 1990.7.10. 発行者・藤田敬一

《 網野善彦さんの本を読む 》 ④
網野さんの講演を聞きたいと思った理由
藤 田 敬 一
1.
 本との出会いは、人との出会いにかかっていると、つくづく思う。たとえば阿部謹也さんの『ハーメルンの笛吹き男──伝説とその世界』(平凡社 1974.ちくま文庫)も、実は京都の友人から教わって読んだものだ。
 しかし、ある本に関する情報やヒントを得たからといって人は必ず読むとはかぎらない。1975年のことだったろうか、同僚で日本中世史研究者のKさんから「ナントカさんの蒙古襲来という本はどうですか」と尋ねられたことがある。著者の名前に思い当たらず、そういう本が出ていることも知らなかったから、「さあ」とかなんとかいってごまかしてしまった。今から考えると、わたしが部落解放運動にかかわっているがゆえの質問だったのだが、不勉強のためにその意味が理解できなかったのである。
 それが網野善彦さんの『蒙古襲来』(小学館『日本の歴史』10)だとわかり、冒頭から「飛礫(つぶて)・博奕(ばくえき)・道祖神」の話が出てきて読み手を引き込んでゆくその筆力、「海に生きた人々」「『殺生』を業とする人々」「交通と流通にかかわる人々」「道々の細工」「交通路と関所」「悪党・海賊の躍動」「天皇と差別」といった、これまでの概説書とは一味も二味も違う歴史叙述に感心させられたのはずっとあとになってからのことである。興味深い本を教えてくれる人がいくら近くにいても、こちらに読んでみようとする関心、興味、気力、余裕がないとなんにもならない見本のようなものだった。
 網野さんの『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』(平凡社 1978.増補版 1987)を誰から教えられたのか、定かに覚えてはいないけれど、子どもの遊び「エンガチョ」から縁切り、魔力、まじない、アジール(避難所)、そして縁切寺へとすすむ論旨展開に瞠目させられたばかりでなく、その視点、人間に対するまなざしに、わたしは強く惹かれた。

罪人と牢獄同様、社会から縁を切られた、あるいは自ら縁を切らざるを得なかった人々が、江戸時代、陰惨な境涯を強いられたことは事実であろう。遊女と遊廓、博奕打(ばくちうち)と賭場、河原者といわれた役者と芝居小屋、そして「えた・非人」と被差別部落、さらに宿場以外には落着く場所すらもたぬさまざまな漂泊民等々。われわれの「常識」は、そこに暗い頽廃の一面を思いおこさせる。/しかし、このような場合についても、さきの牢獄と同じような意味での、逆転し、裏返された「自由」が存在したことは事実なのではあるまいか。(増補版 28~29頁)
中世前期の「職人」を全体として蔑視された、地位の低い階層とみるのも、また、近世以降の「常識」の中で育った独断と偏見をもって、歴史のすべてを割切ろうとするところから生れた誤りである。(196頁)
古代・中世における土地私有はどうして呪術的宗教的な形態をとらなくてはならないのか、なぜ中世が宗教の時代といわれるのか、前近代の人民の反乱が 「原始」への復帰をめざす宗教的な反乱として現われるのはなぜか等々、中世 固有の根本的問題も、こうした見方(ある種の「科学的歴史学」のこと──藤田)にとっては、人民の「蒙昧」「幻想」等々として片づけられ、所与の前提とされるだけで、それ自体を問題とすることも不可能であろう。(222頁)

網野さんのいう「これまでの常識」とは、わたし自身がなずんできたものにほかならなかったから、その内容は衝撃的だった。
 ほぼ時を同じくして、わたしは部落解放運動の中で語られる差別意識論(「偏見は実態の反映である」との反映論、「支配階級の分裂政策によって差別意識が人民に注入される」との政策・注入論、「社会意識としての差別観念を人は空気をすうように受けいれる」との空気論)に対して疑問を抱き、差別意識の問題をもっと深く掘り下げて考えなければダメだと思いはじめていた。そして啓蒙・啓発、教育・教化の場で語られる部落史の通説なるものや、アンケート形式の意識調査で正しい、望ましいとされる回答がうとましくて、我慢ならなくなったのである。
 そんなわたしにとって網野さんの本は、横井清さんの本(『中世民衆の生活文化』東大出版会 1975など)や阿部謹也さんの本(『刑吏の社会史──中世ヨーロッパの庶民生活』中公新書 1978など)とともに、差別意識・賤視観念・卑賤観の歴史や人間の歴史、さらには人間存在というものを考える上で格好の話し相手となった。

2.
 手もとの高校日本史教科書にはこうある。

幕府や藩は、支配を維持し強固にするために、社会秩序を固定しておく必要があった。そのために士農工商という身分制度を定め(注:公家は別格であり、神官・僧侶は武士に準ずるものとされた)、それぞれの職業をかえにくいようにした。さらに士農工商の下にえた・非人などとよばれる賤民身分をおいた。(中略)/えたとされた人々のうち、一部の人は農業にたずさわったが、多くは牛馬の屍体処理や、皮革製造・わら細工などの零細な手工業、行刑の雑役などの生活をしいられた。非人は種々の遊芸や雑業に従事した。ともに居住地を制限され、服装なども差別を受けた。幕府や藩が、彼らにさまざまの制約を加えたのは、農民や町人の武士に対する不満をそらすためであったと考えられている。(井上光貞・笠原一男・児玉幸多ほか『詳説 日本史(改訂版)』山川出版社 1985)

「考えられている」とは、なかなか意味深長ではないか。
 同じ出版社の高校生向け参考書、笠原一男『詳説 日本史研究』は、異人種起源説を誤りとし、職業起源説には根拠がとぼしいと記述したあと、

現代の被差別部落民は、やはり近世に領主の側から民衆の分裂支配のために政治的に設定されたとみるべきであろう。ただ、その成立期については戦国期説、太閤検地期説、元禄~享保期説などがあり、太閤検地の実施期あたりと考える説が今のところ有力になりつつある。いずれにせよ、こういった事情を考えるとき、被差別部落の存在は断固として廃棄されなければならぬことはたしかである。(242頁)

という。「いずれにせよ」以下には、思わず吹き出してしまった。ことほどさように教育の場では、いわゆる近世政治起源説、分裂支配政策論が有力、というより唯一のものなのである。差別意識の問題が入り込む余地などありそうにない。
 だが、横井清さんは最近、つぎのように述べている。

要するに、時間・空間(場)の認識のあり方とか、生命と死、あるいは生者と死者についての認識のあり方といった問題を、これまでより深く、広く考え合わせていく中でこそ、私たちのいう被差別部落の歴史はその真の姿を現すのだと思う。/あえて言っておこう。「部落差別とは、なにゆえの差別であるか。それは、まだだれにもわかっていないのだ」と。すべては、再び、ここから始まる。(中略)一口に部落の歴史といっても、その振幅はあまりにも大きいし、ひとえに「近世幕藩体制」の産物とだけ見ていては、被差別部落の起こり、部落を差別し続ける観念の根源は説き明かせないはずである。近年の学界では戦国期・一向一揆の段階まで視野に入れて部落の起源が考えられるようになってきているが、では、それ以前はどうだったのか……となると、まだまだ寡黙である。史料が僅少であるために、実証的な研究が容易にすすみ難いことも否定できないのだが、それにもまして、あまりに部落の歴史的起源をさかのぼらせて考えていこうとする試みに対する警戒心が、相変わらず根強いからである。確かにそれは大切なことだが、あまり固定的にしすぎたのも、反省を要する。この枠組みを少しずつでもゆるめて、長く、幅広い歴史と文化の視界の中で部落の起源、部落差別の根源を問い直すための大らかな議論が、すでに必要不可欠になっているのだと、私は考えている。被差別部落の歴史的研究の中で中世史(さらに古代史)が無視されてきたのでは決してないが、明らかにそれを軽視し、“前座”“脇役”の位置におき続けてきたことのツケがいま、一挙に回ってきているというほかはない。(福田雅子ほか『部落史をどう教えるか』日本放送出版協会 1990/4)

部落史研究が当面するもっとも重要な課題が指摘されているように、わたしには思える。
 横井さんは別の論稿でこうもいっている。

一般的にいって近世初頭に発し現代にいたるとされる部落の歴史、部落差別の歴史の表層からは、えてして落されやすい問題であるが、部落差別意識(観念)の歴史的分析が重視されるかぎりにおいては、この特殊視・賤視と畏敬・畏怖の念という両面にわたる問題は決してゆるがせにできない。/江戸時代における政治的・思想文化的操作に閉口するほど重点を置いて、部落差別意識の根源を理解・解釈しようとするのは、まさに「木を見て森を見ず」の比喩そのままで、いち早く反省を迫られているはずである。ちなみに、近時の日本中世史学界での一潮流は、その標的の一つに、部落差別の根源を探ることを据えつけている。(『部落解放研究所編『部落解放史』上巻99~100 頁 解放出版社1989)

横井さんの意見が学界でどのように受けとめられているのか知らないが、わたしは共感を覚える。
 たとえば横井さんのいうツケとは、わたし流にいえば被差別部落の生活実態が大きく変貌をとげ、啓蒙・啓発、教育・教化が広範に推進され、反差別の共同闘争がますます拡大していると声高に主張されているにもかかわらず、部落差別意識が根強く残っているのはなぜなのか、そしてその克服の道はどこにあるのか、皆目わからず、かくして部落解放運動の存在根拠そのものが問われる事態に立ちいたっているということにほかならない。それもこれも差別意識をめぐってあまりにも荒っぽい議論が横行してきたからではないのか。
 政治(行政)がつくったものは、政治(行政)が解決しなければならないと本気でいう人がいる。こうなると近世政治起源説は一学説の範囲をこえて行政闘争、同和対策事業促進の理論的根拠、つまり部落解放論の一翼を担っているといわざるをえない。もともときわめて政治主義的な意図をもって主張された近世政治起源説(この点については師岡佑行さんの『戦後部落解放論争史』第 2巻第Ⅳ章 柘植書房 1981を参照してほしい)が、経済主義的な意図のもとに継承されたのである。35年前の亡霊がいまだに生きているのも理由がないわけではない。
 ところが横井さんによれば「近時の日本中世史学界での一潮流は、その標的の一つに、部落差別の根源を探ることを据(す)えつけている」という。網野さんがその担い手の一人であることは、著書を走り読みした程度のわたしにも十分わかる。

3.
 ところで前述したように啓蒙・啓発、教育・教化の場では政策・注入論的色彩の濃厚な近世政治起源説が正当かつ正統な学説として流布されていて、これに異を唱えることはなかなかにむずかしいらしい。部落解放研究所編『部落問題概説』(解放出版社 1976)に、落合重信さんの論文「近世皮多部落の形成と庄園村落」が紹介されていて、こんなふうに書かれている。

これは、中世のきよめ村が近世皮多部落に連続するという学説で、このきよめ(荘園の雑役をしていた)が、戦国時代を迎えて、戦国大名が武具としての皮革を必要としたとき、従来の死牛馬処理を含む雑役の仕事から、皮剥・皮作への転換を強制されたのであるとされる。この見解は、「かわた」がどのようにして創出されてきたかを支配階級の動向とからませて考察するうえで、興味深いものがあるが、これをもって、氏が被差別部落がすでに戦国期に成立していたというのであれば、問題である。(98頁)

戦国期成立説を「問題である」と断定するところなんか、学説上の違いを政治問題化しかねない当時の雰囲気をそこはかとなく伝えていて、それこそ興味深いが、いまもこの雰囲気は残っているようにみえる。これでは旧来の「枠組みを少しずつでもゆるめて、長く、幅広い歴史と文化の視界の中で部落の起源、部落差別の根源を問い直すための大らかな議論」が困難であるばかりでなく、啓蒙・啓発、教育・教化はもとより、部落解放運動自体がひからびたものになってしまう。だからこそ交流会に横井さん、阿部さん、そして網野さんをお招きして、まずはわたしたちの頭を柔らかくし、心をしなやかにしたいと思ったのである。
 網野さんの著書は多い。しかも一般的な読者を対象にしたものでもレベルを落とすことがない。加えて生の史料がど~んと引用され、日本中世史特有の用語がフリガナなしで使用されたりするので、わたしなんかにはとても歯がたたないところがある。しかしキセル読み・トバシ読みしながら部落史にかかわって今回の講演でお聞きしてみたいと思ったことの二、三を記してこの稿を終えたい。

1)網野さんは単一民族・単一国家観にもとづく日本史像に反対し、かつて東日本と西日本が二つの民族、二つの国家の様相を示す時代が存在したことを強調する。これは部落差別問題とどのようにかかわってくるのだろうか。

2)中世の、たとえば遊女、傀儡(くぐつ)、白拍子(しらびょうし)などや、その他の「職人」について、「賤しい仕事」についていたとみられがちだが、古代から南北朝の頃(1333~1392)まではその社会的地位はけっして低くなかったとされる。だとすればなにが彼らの地位を変えたのだろうか。

3)それと関連して非人・河原者も畏敬(いけい)、畏怖(いふ)されていたのが、鎌倉時代後期(13世紀後半)から次第に賤視が強まってくるともいわれる。その場合の畏敬、畏怖、賤視の違いとその背景をどのように考えたらよいのだろうか。

いずれにしても網野さんには、被差別部落の起源、部落差別意識の源流について率直な意見をお聞きしたいのだが、わたし個人としては、石井進さんが「日本中世史学界の新しい波」「新しい歴史学への模索」と評した網野さんの学問が、人間存在の根源に対するどのような視点転換の上に成り立ったのかということを、いくらかでも聞かせてもらえればありがたいと思っている。
*網野善彦氏著作目録(追加)
 網野善彦責任編集『日本海と北国文化』(『海と列島文化』① 小学館 1990)

《 随感・随想 》
「指四本ポスター事件」顛末記
柴 田 則 愛(三重)
 まあ聞いてください。笑うに笑えない、だけど腹を抱えて笑ってしまう、なんとも恥ずかしいお話です。ぼくの勤める四日市郵便局で先日、全逓北勢支部青年部女性部のイベントのお知らせのポスターが、局内掲示版に貼り出されました。そのポスターには、いくつかのスポーツをする青年の姿が描かれていたのですが、よく見るとラケットを握ったり、スパイクをする手の指がすべて四本なのです。もっとよく見ると、どうも小指が省略されているようです。
 ポスターが掲示されて一週間ほどたったとき、単局の窓口(当局と組合の交渉の地ならしのために、労務担当者と単局担当執行委員の調整の場)で、労務担当者からポスターの件が出されました。さまざまな公示物に神経過敏になっている管理者は、小指のない「四本指」にも当然のように注目したのです。「四」という数字と、指による差別的しぐさ、差別的言葉が、かれの頭のなかで直結したのでしょう。
 しかしぼくは、労務担当者が絶対的自信をもって、ポスターをはずしなさいと言ったとは思いません。むしろ「誤解を受けるかもしれないという意見がありますが、どうですか」といった話だったのではないでしょうか。
 疑われただけでも許せないと考えた組合の幹部は青年部の役員S君にはずすよう命じ、同時に支部内全局に取りはずしの指令を出しました。S君と組合幹部との間で当然すったもんだがありましたが、幹部は差別ときめつけているので話しになりません。S君はとりあえずポスターをはずしました。イベントは二日後に迫っていて、はずしたところで実質的な影響はなく、ここははずして幹部の顔をたて、イベントのあとでなぜこれが差別なのかじっくり話し合うことの方が大切だと考えたからでした。
 その後、S君が何度か話しても、その幹部は「『指四本』を見て痛みを感じる人がいるのだから、ああいうポスターはよくない」という意見らしいのです。もっとも幹部にそれほどの自信があるわけでなく、そこを「下級の者」からもろに指摘されたことでよけいにかたくなになったきらいがあり、「痛み論」は、当局や「下級の者」との関係で引くに引けなくなった幹部の最後の拠り所にされたように思われます。
 ところでポスターに押してあった印鑑の名前が気になって、その本人にこの一件を話したんです。そうすると、ポスターを執行部として許可して押印したのは自分であり、ポスターを掲示版に貼ったのも自分だというんです。おまけにかれは「おれはあんなん差別と違うと思うのやけど、どうえ」と聞く始末です。ぼくの意見をかれに言い、執行部としてもよく話し合ってみるべきではないかと提案すると、かれは快く「そうしてみる」とうなずいてくれたのですが、「あまりアテにせんといて」といった顔つきをしたので、思わず励ましたくなってかれの肩をたたいてしまいました。
 以上が「指四本ポスター事件」のあらましです。どうも笑ってしまうんですが、笑ってばかりもしておれません。第一、ここには「指四本ポスター」を見て「痛み」を感じた人はだれもいないんです。「痛みを感じる人がいるかもしれない」「痛みを感じた人から抗議されたらどうしよう」「ともかく誤解を受けそうなことは止した方が賢明だ」という姿勢があるだけです。困ったもんです。
 ぼくは他者の「痛み」に対して、他人のことなんかわかるものかと開き直る気もないし、よくわかりますよと自分を誤魔化す気もありません。もちろん「表現の自由」で対抗する気もありません。さあ、ここからどう抜け出しましょうか。

《 案内 》
岐阜大学公開講座『ことば・人間・社会』
 ヒトは、ことばで考えることによって人間になり、人間は、コトバで意思を伝えあうことによって社会的な存在になる。昨年からわたしたちは、ことばと人間との関わりを軸にして、差別と人権を考える学際的な授業『言葉と人間』を開講しているが、今回その一部を公開することにした。たんに知識の伝達に終わることなく、受講者と講師がこれを自分の問題として考える交流の場にしたいと思う。(開講にあたっての文章から)
 日 時 1990年 8月 1日(水)~ 8月 2日(木)
 場 所 岐阜大学教育学部 講義棟 3階  301号室
 日 程 8/1 (9:45~16:10)
        工藤力男:性差別と日本語
        小川克正:障害者と人権──点字に学ぶ
        神田光啓:ことばと教育関係
     8/2 (10:00 ~16:30)
        梶山雅史:「教科書的世界」考
        藤田敬一:部落差別問題から考える
        総合討議(司会:栗山義信)
 費 用    3,290円
 問合わせ先 〒501-11 岐阜市柳戸1-1 岐阜大学教育学部 庶務係
           (Tel.0582-30-1111 内線3008・3009)

第七回部落問題全国交流会案内
日 時  7月21日(土)2時~7月22日(日)正午
場 所  京都・本願寺門徒会館(西本願寺の北側.〓075-361-4436)
費 用  7000円(宿泊費込み) 3000円(参加費のみ)
講 演  網野善彦氏「日本中世における聖別と賤視の諸相」
分科会  第1「差別と平等」 第2「差別とことば」
     第3「啓蒙・啓発と部落のいま」 第4「わたしの解放運動」
連絡先  〒603 京都市北区小山下総町5-1 京都部落史研究所内 山本尚友
     (Tel.075-415-1032)

《 あとがき 》
*またもや右手を痛めてしまいました。交流会の案内を早く届けねばと無理をしたのがいけなかったらしいのです。それなのに今号も心がせいて。お笑いくだされ。学生のK君が助けてくれるので、思い切ってこれから印刷にかかることにします
*岐阜在住の詩人吉田欣一さんの詩集『日の断面』が東京の小川町企画(Tel.03-294-0471 )から出版されました。75歳の熱情に圧倒されてしまう。一読をおすすめします
* 6月19日から 6月28日まで、岐阜、神奈川、三重の 3人の方から計13,138円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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