同和はこわい考通信 No.36 1990.6.23. 発行者・藤田敬一

《 案内 》
人間と差別をめぐって──第七回部落問題全国交流会開催要項
 交流会は、人間と差別とを根底において議論することを願い、差別についてそれぞれが考えていること感じていることを率直に出し合い、わたくしたちの関係総体を変えるために障害になっているものを明らかにしていく場となることを願っています。そしてこれまで「自分以外の何者をも代表しない」という確認のもとに、「結論を急がず」「組織や運動の方針を求めず」「多数をめざさない」ことを目標に集りがもたれてきました。みなさんの参加をお待ちしています。

日 時  1990年 7月21日(土)午後 2時~22日(日)正午
場 所  京都・本願寺門徒会館(西本願寺の北側)
     京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町(Tel.075-361-4436)
交 通  京都駅より市バス9 ・28・75系統 西本願寺前下車
費 用  7000円(宿泊費込み)
     3000円(参加費のみ)
申込み  〒603 京都市北区小山下総町5-1 京都府部落解放センター3F 京都部
     落史研究所 山本尚友(Tel.075-415-1032)あて、葉書か封書に住所・
     氏名・電話・参加希望分科会・宿泊の有無を書いて申込んで下さい。
締切り   7月10日(火)
日 程
  7月21日(土) 1時 受付け  2時 開会
   講演 網野善彦氏「日本中世における聖別と賤視の諸相」
    参考:「中世の『非人』をめぐる二、三の問題」立命館文学509 号
         「遊女と非人・河原者」(『大系:仏教と日本人8 性と身分』
         春秋社)
   分科会:第1「差別と平等」 第2「差別とことば」
       第3「啓蒙・啓発と部落のいま」 第4「わたしの解放運動」
   懇親会
  7月22日(日) 9時 分科会(つづき) 11時 全体会 12時 閉会
*例年通り、各地で発行されたビラ・パンフ・新聞などを多数ご持参ください。
  また第一日目夜の懇親会への名産・特産品の持ち込み大歓迎ですのでよろしく。

○分科会の紹介
 ☆第1分科会:差別と平等(山本尚友)
 もう、何年も前からチビ・ブスといわれるような差別と、部落差別や朝鮮人差別などをひとくくりにしていいのだろうか、という疑問が人々の間に生じている。この疑問は、いわゆる○○問題に取り組んできた人に強いようである。たしかにこの両者は差別という言葉でくくりうるものであるが、それが感覚的に伝えてくるものには両者の間に異質感があることもいなめない。
 そのような疑問から歴史をふりかえってみると、近代120 年の前半60年の間は、部落問題を語るのに用いられたのはもっぱら排除という言葉であった。部落問題を差別問題として語るようになったのは、米騒動のおこった翌年の1919年(大正8)頃からで、第1次世界大戦の講和条約をめぐってヨーロッパの人種差別問題が日本国内で問題になっていたことにからんで、国内の差別問題として取り上げられて以来のことである。それ以降、部落問題は排除と差別の問題として語られるようになったが、戦後も1960年を過ぎた頃から排除について語ることは稀になり、もっぱら差別の問題として純化していったのである。そして、その文脈のなかで他の差別問題との共闘が問題となり、さらにあらゆる差別をなくすことが語られ、そして運動会の徒競争で子どもたちが横一列に手をつないでゴールインする姿をわれわれが眼にするようになるのである。すると不思議、わたしたちの近代社会が神聖な観念としてあがめたてまつる平等という観念も、前近代社会における差別という観念と同様、病理的な強迫観念にすぎないのではないかという疑問がわいてくるではないか。当日は、このあたりのことまで論及できたらと思っている。

 ☆第2分科会:差別とことば(灘本昌久)
 1988年 7月22日に『ワシントン・ポスト』紙が「ほとんどのアメリカ人がもう何年も前に当然の死を遂げたと思っている人種差別的カリカチュアのちびくろサンボが、太平洋の向こう側で日本の玩具やビーチウェアなどの人気商品として復活している」と報じてから 2年が経過した。この間、堺市の黒人差別をなくす会などの抗議行動で、すべての出版社が電光石火のはやわざで『ちびくろ・さんぼ』を絶版にし、一方その安易な絶版を批判して子ども文庫の会が『ブラック・サンボくん』を発行し現在に至っている(これが現在我々の手にできる唯一のものである)。
 この一連のサンボ騒動を通して、現在の差別問題をとりまく、とりわけ差別と表現・被差別者の被害感情をめぐる問題が極めて鮮明になってきた。
 その第1は、「差別の痛み論」=差別の痛みは差別されているものにしかわからない、が多くの人により主張されたことである。1970年代に日本でサンボ問題が議論されたときは確かに黒人が嫌だといっているのだからサンボは良くない本だという議論はなされたが、自分自身が本を読み、絵を見ての判断であった。しかし、現在横行しているサンボ反対派の議論は、黒人が嫌だといっている限り議論の余地なく絶版にすべきであるというものである。すなわち、自分の感性を介在させることなく、被差別者の判断にすべてをゆだねるべきだというのである。『こぺる』126 ・128 号で指摘した、「被差別者のありのままの被害感情が運動の名において公然とまかりとおっている時代」の存在を世界的規模で証明してしまったのだ。
 第2に、こうした文学における差別表現の問題が提起された際、出版社や図書館などが安易に絶版や閉架処分にして恥じないというゆゆしき事態が、広範囲に現出したということがあげられる。 2ヶ月で10数社が次々と絶版にした異常さとともに、多くの図書館で子どもの目に触れないところにかくされてしまったことも、反差別運動の結果が我々をどこに導くかについての危険性を示唆している。
 第3に、この問題を通じて知ることとなったアメリカの黒人運動をはじめ、各国の反差別運動は、日本の部落解放運動の抱える問題を瓜ふたつに抱えているということだ。黒人の反ステレオタイプ運動が、なんと日本での言葉狩りとよく似た心性から生れていることか。自らの不快感・違和感・被差別感がなににもとづくかの探求を、自分自身のコンプレックスまで対象化できず外へ外へと向けたときの思想的衰弱が、決して日本固有の問題でないことをしめしている。
 今回は、絵本『ちびくろ・さんぼ』の成立経過、子どもたちへの普及、そしてヒーローから一転して人種差別主義の烙印を押される過程を検討し、差別問題が風船玉のように空虚な形骸として膨脹し続ける現在の大衆社会の病巣をえぐりだす。

 ☆第3分科会:啓蒙・啓発と部落のいま(山城弘敬)
 現在、部落問題の啓蒙・啓発活動が広範に行われている。これらの持つ意味を考えてみよう。
 まずこれらは、部落解放運動の側から直接的・間接的に要求され実現されてきたものである。糾弾闘争を外科手術に比喩するなら、啓発活動は予防接種と比喩できる。糾弾を否定する勢力ですら、啓発は否定しない。ところが、実際にそうした場に接した人々の実感としては、必ずしも肯定的イメージは出てこない。
 それは、単なる技術の問題であろうか。あるいは、あらかじめ核心とは離れたところでの取り組みという限界性なのだろうか。そしてそれらは、意味のない取り組みなのだろうか。様々な場で行われている啓蒙・啓発活動について、その実態の姿から問題を整理し、わたしたちの係わり方の展望を試みたい。

 ☆第4分科会:わたしの解放運動(住田一郎)
 昨年のこの分科会での議論の基調は部落出身者でありながら、地区外に生活する人々、部落出身者でない人々にとっての地区内外での部落解放運動とはなにか、彼らは部落解放運動の「主体」になれないのか、というものであった。
 「部落解放運動における運動団体の独占、あるいは寡占状況は、部落問題について『そうでないもの』が語ったり、疑問を口にすることを許さないものとなってきたし、また、差別か差別でないかを、論議なしに一方的に判断してしまい、そのことにおける絶対的権限をもっているかのように思わせてきた。」(昨年のレジメ)
 つまり、運動内部に根強くいまも存在し続ける、部落解放運動即地区内に居住する被差別部落住民による運動との「閉鎖的な」認識、差別・被差別の関係、立場の「絶対化」にたいする鋭い問題提起でもあった。それぞれの立場の人々によるあらゆる場所での創造的な部落解放運動は存在するし、しかも、このような運動へのかかわり方、運動の広がり方が、今日の部落解放運動にもっとも強く求められている。しかし現状は、残念ながらこのようには進められていないのではないか(形式的な被差別統一戦線、国際化のスローガンはみられるのだが)。
 今年はこられの問題提起を継承しつつ、部落出身者自身の地域における「主体的な」運動の現状を明らかにするとともに、「否定的なあり様」についても真摯に論議したい。なぜなら前述の現解放運動の指導的立場・認識と「不可分な関係」で多くの部落出身者の「閉鎖的な遅れた意識」も逆規定されているからである。
 部落内での出身者とそうでない人々による「内から外へ」の部落解放運動の模索と、部落外での出身者とそうでない人々による「外から内へ」の模索の、双方による努力の接点について本分科会では議論を深めたい。

《 網野善彦さんの本を読む 》 ③
わたしにとっての『無縁・公界・楽』
山 本 尚 友
1.
 『無縁・公界・楽』、「むえん・くがい・らく」と読む。この魅力的なタイトルをもつ本が発行されたのは、1978年のことである。著者の網野善彦氏は当時、名古屋大学の助教授で、数多く発表された研究論文と、1966年発刊の『中世荘園の諸相』(塙書房)および1974年発刊の『蒙古襲来』(小学館 日本の歴史10)の二著によって、日本中世史の研究者としてすでに学会での評価は高いものがあった。
 その網野氏の名前を一般の読者につたえると同時に、のちに社会史ブームと呼ばれる現象をまきおこし、歴史研究の新機軸を顕在化させるきっかけになったのが本書であった。本書が当時どれほどの反響をもって迎えられたかは、『史学雑誌』88編 5号の「回顧と展望」中世の項が、本書の紹介から始められていることからうかがえると思う(『史学雑誌』は、東京大学文学部に事務局をおく史学会の編集にかかる月刊の学術誌。毎年 5月号には、前年の歴史学界の成果をまとめた「回顧と展望」が掲載される)。執筆者の石井進氏は、『中世の風景』(中央公論社 1981)、『中世の罪と罰』(東京大学出版会 1983)、『中世の都市と墳墓』(日本エディタースクール 1983)などで、網野氏と共編著者となり、日本中世史の新しい動向を網野氏ともども担っていかれた方であるが、その項の冒頭を、本書の内容の紹介もかねて少し長く引いてみたい。

総説・史料学の分野の回顧と展望は、網野善彦の二つの著作から始めなければなるまい。近年の中世史学界の「新しい波」の一人として網野の活躍はまことに目ざましく、研究の「活性化」に大きく貢献しているからである。まず①『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』(平凡社)は、日本民族も保有していた原始以来の「自由と平和」の原理が、とくに中世史の分野では遍歴漂泊の職人・芸能民・聖など、世俗権力から「無縁」の人々によってになわれてきた事実を強調する。雄大で野心的な構想、埋もれて来た幾多の重要な史実の発掘、「無縁」の原理の「再生」に賭けようとする情熱のほとばしり。まことに本書は近来稀な「起爆力」にあふれる作品である。木村尚三郎(『教養学部報』〈東大〉 245)、広末保(『週刊ポスト』1977年10月27日号)をはじめ多方面からの注目が集まったのも当然といえよう。

石井氏はこれに続けて、自らの本書に抱いた疑問を述べたのち、同年に発刊された『中世東寺と東寺領荘園』の紹介におよんでいる。さらに、おなじ中世の戦国期の項を執筆した神田千里氏は、本書について次のように述べている。

従来中世後期にみられる一揆の盛行、惣村の自治的活動、自治都市の発達等は民衆の意識のめざめによって説明されることが多かった。歴史の発展段階に照応して民衆のかしこさも向上するのであり、現代人のレベルに昇ってくるというわけである。かかる説明が、現代からみて、近世民衆の活動より中世民衆のそれは意義少なく、古代民衆は更に意義少ない、という暗黙の不等式を生み出してきた一面は否定できない。網野氏の所論は、原始・未開から脈々と継承されてきた自由・平和の思想の歴史とでもいうべきものをこの不等式に対置し、これにラジカルな批判を提起するものである。その意味で、古代・中世の民衆史を解明してゆく視点が初めて本格的に提起されたといえよう。

本書がいかにおおきな衝撃を当時の日本史学界と読書界にあたえたかを、両氏の記述から推測していただけると思う。

2.
 わたしにとってもこの本は、個人的に思い出ぶかいものであった。わたしは当時、 3年余におよんだ部落解放同盟中央本部機関紙「解放新聞社」を退職したのち、 1年の休養期間をへて、前年77年の春より京都部落史研究所に勤務していた。その頃、研究所は左京区の熊野神社をすこし南にさがった小さなビルに間借りしており、10畳ほどの広さに机が 3つと書架が 6本ほどあるだけでのささやかな規模であった。歴史の編さんという仕事はまったく始めてのことであり、右も左もわからぬという言葉がぴったりの状態であった。
 研究所でのわたしの仕事は部落史編さんにあたっての事務で、具体的には書籍の購入・整理、予算の編成、史料調査にあたっての準備作業、所報の編集などであった。しかし初期の準備作業がおわると史料調査では古文書を読む必要にせまられ、その報告の執筆には関連の論文にあたらざるを得なくなった。つまり、わたしが研究者への道に半歩踏みいれかけたときに、この本に出合ったのであった。このまま勉強をつつげて研究者のまねごとをしようか、あくまで事務に徹しようかと迷っていたのである。
 そのようなわたしに新しい歴史学の可能性を、本書はかいまみせてくれた。
 わたしは解放新聞社にはいる前までは東京にいて、高校を卒業していらい10年にわたって、今の言葉でいえばフリーターをやっていた。 1月働いては、 2月遊ぶというような日々であった。と同時にその時代は70年安保闘争とよばれるものが激しく吹き荒れていた時代で、わたしも律義に“決戦”の度に現場にヘルメットをかぶってかけつけていた。そして、その70年闘争のさなかに入管闘争とよばれた新出入国管理法反対の闘争と出会って、差別問題を課題として意識するようになり現在の仕事につながっていった。
 ある“決戦”のときには、自分たちで主催したダンスパーティーで一晩踊りあかしたあと、眠い目をこすりながらデモにでかけるというようなこともした。古いものと新しいものが奇妙にも同居していた。そして70年の闘争自体も、片側で大学にみられたように前近代的な体質を問題として追及しながらも、もう一方ですでに日本において 100年という時間をもった近代を全体として問いなおすという一見矛盾したものを課題としている、と当時わたしは考えていた。そして、その近代への批判の軸として当初設定されていたのはマルクス主義であった。近代を資本主義社会とみて、社会主義によりそれを乗り越えようと考えたのである。
 しかし、当時からすでに伝わってきていた社会主義社会の閉塞状況や、資本主義と社会主義をともに管理社会という共通のカテゴリーでみようとするマルクーゼの管理社会論の影響などによって社会主義も近代社会に含めざるをえないと考えるようになった。となれば当然、マルクス主義も含めた近代的理念と思惟全体が疑問符のなかに投じられることになる。マルクス主義の最後の再生運動といえた中国の文化大革命の終息が、この考えを決定的なものにしたといえる。このような思考は、それまで歴史をみる枠組みであった、マルクス主義歴史学の再検討をせまることとなった。

3.
 どの時代もその時代が正しいと信じる理念をもって、他の時代と人を裁断してきた点で変わりないといえるが、前近代社会の支配的理念は通常前代からの継承性を正当性の根拠とするため、その暴力的性格は薄められていたといえるが、近代にいたってその理念は他の時代にたいする暴力的否定をあらわにし、そのなかでもマルクス主義のそれはきわだっていたといえる。
 たとえば、身分と階級の関係はいかにという問題がある。日本の近代史学の場合、当初は身分を階級という言葉で表現しており、マルクス主義史学の導入の中でそれが二つのカテゴリーに分離していった。その分離の過程において穢多を身分とみるか階級とみるかが問題となり、その検討をつうじて二つのカテゴリーの相違が具体的に検証されるという、部落問題にたずさわっているものには興味深いエピソードをふくんでいるのだが、それはさておきマルクスが身分を前近代社会における階級の外皮とみ、その外皮にとらわれるのではなく身分という形をとって現われるものの中に潜む階級的要因をあらわにすることを歴史学の課題にしたことはよく知られている。
 しかしこのマルクスの論理の中にはそれを否定するものが含まれている。つまり、前近代社会において階級が身分という外皮をとって現われざるを得ないとしたら、前近代社会の人々にとって現実的であったのは身分であったという当然のことである。身分の中にも地主と小作という階級的要因により形成されるものもあるが、それは政治的、村落内あるいは同職内の場においてさまざまに要因により形成される身分のひとつに過ぎないのである。このような観点は、階級という要因が他のものとは決定的に違う本質的なものをもつという見方が維持されるかぎり力をもたないが、それが崩れたとたん意味をもってくる。
 とくに、歴史というものを権力の正当性を支える政治的道具として用いるのではなく、今後のわれわれの歩む道をさがす手かがりとしようとする者にとっては、過去の時代を語ることを過去の言語をつうじて聞くということが、どうしても必要となって来るのである。身分というものも、身分という近代にはいって概念化された言葉で考えるよりは、まずは当時普通に使われた「分」という言葉にもどしてとらえ直すということに向わざるをえない。このようなことを漠然と考えていたわたしには、『無縁・公界・楽』はそのような方法による歴史叙述の具体例として驚きをもって受けとめられたのである。
 とくに網野氏が日本的自由の発現として考える「無縁」という原理を、太古から脈打って日本史を通底するがゆえに、語られざる理念としてとりだしてくる氏の手法には舌をまいてしまった。時代に息づき、支配的であった理念はそうであるがゆえに、言葉としては表に出して語られることはないという、歴史を専門としてやってこられた人には常識であるだろうことも、そのときはじめて知ったのである。そしてその視点から現在の歴史学の成果をながるめると、それはまだうまれたばかりで形もなしていない子どものようなものであることも。
 すこしおおげさかもしれないが、この網野氏の本、そしてそれに導かれて知った笠松宏至、勝俣鎮夫両氏のお仕事、こられとの出会いがわたしに今の仕事に一歩踏みだすようさそってくれたのであった。
*網野善彦氏著作目録(追加)
 『列島と半島の社会史-新しい歴史像を求めて』川村湊との共著 作品社 1988

《 紹介 》
☆京都部落史研究所『こぺる』
 阿部謹也「ヨーロッパの宇宙観と差別」上下 No.145,146(90/1,2)
 横井 清「誕生から葬送へ」上下 No.148,149(90/4,5)
 *いずれも全国交流会における講演(横井さんは88年 7月、阿部さんは89年 8月)
  に加筆されたものです。

《 あとがき 》
*『通信』、いよいよ 4年目に突入。わたしの郵送・手渡し分 650部に、知人による複製・配布分を加えれば 700部をこえるのは確実で、いやはやエライことになってきたなあというのが正直なところです。もうしばらく続けられそうなので、よろしくお付き合いくだされたし*交流会の季節がやって来ました。交流会は一年間の思索と実践の成果を持ち寄って討論する場であり、なにより自分の言葉で語る場、自らの課題をまさぐる場です。決議も決定もありません。ぜひお出かけあれ
*連載「網野さん」は、次号にわたしがちょこっと書いて終わりということにします。あしからず
* 5月19日から 6月12日まで、京都(6)、富山(25)、北海道、三重(3)、鳥取、福岡、大阪(3)、岐阜(3)、兵庫(2)、東京の46人の方から計11万 3,261円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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