同和はこわい考通信 No.33 1990.3.28. 発行者・藤田敬一

《 網野善彦さんの本を読む 》 ①
中世民衆の自由と現代
柴 田 則 愛
1.
 網野さんの著書『異形(いぎょう)の王権』(平凡社)には、数多くの図版が掲載されている。そこに描かれている人々の服装や仕草が、当時の民衆像を探るうえで貴重な資料になるのだろうが、それを見てまず感じることは人や町の様子が生き生きとしていることだ。奴隷や農奴とか、差別され抑圧されといった重苦しい風景ではない。そこで、中世民衆にとっての「自由」とは何なのかを考えてみようと思う。
 ぼくにつきまとう「発展段階論」の歴史のイメージは、自由を現代の特権のように考えさせがちだ。ところがどうだ、中世の絵巻物などからうかがえる溌刺とした民衆の表情は。こうした驚きが中世の魅力なのだろうが、もう一つはぼくたちの生活の源流を遡れば、この時代にたどりつくということだ。ちなみに、お茶、そうめん、豆腐、みそ、醤油、納豆、かまぼこ、畳、釜、筆、油、紙、扇、盆踊りなど。みなさんお好きの酒の普及もこのころだ。白梅町北野神社に残っている『酒屋名簿』には、1423年、京都に347 軒の造り酒屋があったということだ。狂言『餅酒』に、「松の酒屋や梅壺の、柳の酒こそ秀れたり」とあり、この「柳の酒」が室町時代の銘酒だったそうだ。ともあれ、これほどの文化の芽生えは、民衆のはかりしれないエネルギーを想像させる。そしてそれはきっと、自由への憧れを現実のものにしよう、したいということだったのではないだろうか。

2.
 網野さんにとって「自由」とは、キー・ワードの一つだ。だからほとんどの著書に、「自由」についてふれられている箇所がある。その中で論文としてまとめられているのは、『中世再考──列島の地域と社会』(日本エディタースクール出版部)所収の「日本中世の自由について」だ。
 中世前期、支配者層を除けば大きくいって平民、職人、下人(げにん)に分けられる。この三者を区別するときにもっとも明確にしやすいのが、負担である。平民には年貢と公事(くじ)の負担があり、職人はそれらの一部又は全部が免除され、下人には負担する義務がない。平民という言葉は網野さん独自の用法で、「自由民」という意味を含んでいる。では平民の「自由」とはなにか。「私的な隷属民になることを拒否する自由」である。
 ところでぼくたちはとかく、年貢・公事を支配者にうむを言わせず取られるものと考えがちである。それは前近代において、被支配者は力によって常に隷属させられていたという思い込みによる。ところが収穫高がきわめて不安定な当時、抵抗のいくつかはあったにしても、なぜ民衆は重い年貢を払い続けてきたのか、あるいはさまざまな抵抗の中に「年貢廃止」のスローガンが存在しただろうかと、網野さんは問いかけている。
 それは平民の意識のうちに、年貢・公事を自発的に差し出す根拠があったことを示している。根拠、それはおそらく共同体が形成され、その共同体の成員であろうとする平民の自発的な自由意志なのではないだろうか。やがて、共同体への負担が、首長への奉仕となり、奉仕しつつも私的隷属民となることへの抵抗は、根強く残っているということになる。
 一方、「職人」は共同体から排除されたり脱出して、独自の「芸能」を武器に「自由」を獲得した。共同体の規制からの自由である。彼らは、道路・市・津・泊・宿などを活動の場とした。ところがこうした「無主」の場は、人間の力を越えた聖なるところであり、神仏やそれに準ずる天皇の奴隷になることで、自由通行権や課役の免除を獲得する。「寺奴」「神奴」とみずから称し、こうした特権を獲得した徴として、服装や所持品で表現した。
 共同体の規制から自由になった「職人」たちは、やがて「座」という二次的な共同体を形成することになる。なぜ再び、という思いもするが、有縁の世界に対する批判と「座」の形成には、何かしら連関があるようにも思う。
 中世の前期までは、農業も職能の一つであり、すべての職能にたずさわる人々が「境界性」をおびていたことは間違いない。だとしたら「境界」に対する畏怖にもかかわらず、「寺奴」「神奴」を選択した理由は、「職能」がもつ境界性にあるのではなく、当時の人々の世界観に求められる。その世界観が変わることによって、呪的要素の強い「職能」の人々が賤視化されていくと考えたほうがわかりやすい気がする。世界観の変化への対応として、「無縁」の人々の、有縁の世界に対する批判と「座」の形成とを考えられないだろうか。
 ともあれ、中世における二つの「自由」は、平民にとっては「権門」と共同体という「公」を、職人にとっては「権門」という「公」をもたらした。言い方を変えれば、こうした「公」によって「自由」は保証されたともいえる。

3.
 長い間、差別問題を考えてきて、「反差別」の世界と「日常」の世界におけるぼく自身の分裂にこだわってきた。反差別の世界の理念を絶対として、それを日常の世界に及ぼせば日常の人間関係は否定するしかなく、さらに進んで人間そのものの否定にまで行かざるをえない。ところが反差別に片足をつっこんでいるぼくは、自己を肯定することができるから、否定するのは他者だけになる。反差別の理念を武器に、ぼくは自分の不利益を他者と重ねて一刀両断のもとに切り捨てる。
 中世の民衆がもつ創造性に憧れるのも確かだが、網野さんのいくつかの著書を読んで興味をおぼえるのは、「自由」の内容についてだ。もっと具体的に言えば、「共同体の成員権」と「公」のことだ。現代風なら、帰属意識とかアイデンティティと言えるかもしれない。上のような問題を抱えているぼくの眼が、そこに向かうのは当然かもしれないが、それにしても反差別の運動が「差別者」を敵視し、「人間関係の歪み」に「加担」してきたことを考えれば、よりよい人間関係を射程に入れずには、新たな「反差別論」も構築できないように思う。
 たとえ小集団におけるささいな「歪み」でさえ、そこには普遍性が存在する。「歪み」を正当化しようとする個々の意見には、かならずといっていいほど「公」が顔を出す。この「公」が、絶対的なものへのとらわれであったり、社会的に承認された常識へのなれあいであったりする。両極端に見える言動の根底に、実は「公によって保証された自由」が横たわっているのでは、と思えるのだが。
 網野さんは、「共同体成員の負担すべき義務と意識された年貢・公事を怠らぬかぎり、移動の自由、武装の自由は否定されなかった」といわれる。そして平民の自由を、「私的な隷属民になることを拒否する自由」と規定される。義務を怠った人が下人になることは当然であり、共同体の成員権の資格を失ったものと見なされた。ところが義務を負担しているにもかかわらず、「人を私的に隷属させようとする動きに」対しては、「あくまで抵抗し、それを拒否し抜こうとする平民の自由の根強く強靱な自己主張」があった。
 そしてそれは、「現代まで変わるところのない、人間の本性、本質につながる問題」とぼくも思う。しかし、隷属されることを拒否し抜く人間の本質は、肯定されてしかるべきだが、遂行すべき「義務」の設定はいまだに「公」に依存したままだし、設定された「義務」を遂行できなかったものとできたものとの間に、明らかに人格の否定が見られる。そうした間隙が縦横に錯綜し、管理支配が存続する基盤となっていることは今更言うまでもない。ということを考えれば、『交感する中世-日本と中国』(株式会社ユニテ)の中で網野さんと谷川さんが対談されているように、「他から支配され、拘束されている側面と、拘束されてはいても別の次元では自分自身であるという面、この二つの面が、人間存在の中にあ」り、「それが、それぞれの時代の形態をとって表れてくる」こともうなすげる。だからこそ、「共同体にとどまっているのではなく、個人のあり方まで掘り下げていく必要がある」という言葉は、現代における人間存在の深い洞察抜きにはできないものとして、強い説得力を持つ。

4.
 こうして中世の「自由」を考えてきて感じることは、現実の「ものの見方」と歴史観が深いつながりをもっているということだ。これまでの「自由」のとらえ方は、「土地私有の発展とともに人民の自由が拡大する」というものだった。ところが昨今の地価高騰は、土地私有の矛盾をさらけだしている。同じように、科学の発達が、人類を幸福に導くという「科学神話」も、公害、原発、自然破壊などによって解体しつつある。
 近代文明批判に伴って、人間関係、社会関係のひずみにもようやく眼が向けられるようになってきた。教育現場における人間破壊は、指摘されてすでに久しいが、労働現場における人間破壊にはなかなか眼が届かない。資本と労働の対立を軸とした「労働強化」という視点や、会社の発展が労働者の幸福につながるといった視点では、労働現場の人間関係の歪みによって精神をむしばまれていく労働者の姿をとらえることは困難だろう。
 「労働する喜び」や「団結の絆」がもたらしたものが、「上意下達」の組織であり、労働組合への不信から、労働者の要求は現場から遠ざかる。社会的な存在感が稀薄になった労働者は、その防衛のために「仕事ができるのがあたりまえ」という「公」をかざし、ますます仲間をそしてみずからを排除する。
 こうした労働現場における人間関係の歪みは抜き差しならないところまできている。だからこそ、「なんとかせな」という気持ちは、しだいに社会化するだろう。そうなれば、「ものの見方」を根底から変えざるをえず、当然歴史観、世界観も変わるしかない。ぼくは差別問題を考えている人が、人間存在のあり方にもっと敏感であってほしいと思う。
 『無縁・公界くがい・楽』(平凡社)で「職人」の生き生きとした姿を描きだした網野さんの眼は、「平民」の「自由」にも深く深く届いていた。そしてその眼には、人間を溺愛するのでもなく、また突放すのでもない、いわば自由を憧憬する少年の輝きが湛えられているようだ。「交流会」でのお話が、いかにも待遠しい。

コメント.
 すでにちょこっとお知らせしたように今年の第七回部落問題全国交流会(7/21~7/22.京都・西本願寺門徒会館)の講演は網野善彦さんです。そこで網野さんの著書の紹介を始めます。今号の筆者柴田則愛さんの職場は四日市郵便局集配課です。なお以下は、手元にある本などを参考にしてまとめた「講師紹介」なので、遺漏があるかと思います。ご教示ください。(藤田)

○網野善彦氏 1928年、山梨県生まれ。日本中世史専攻、神奈川大学短期大学部教授・神奈川大学常民文化研究所所員。

☆専著
『中世荘園の様相』 塙書房 1966
『蒙古襲来』(日本の歴史10) 小学館 1974
『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和』平凡社 選書No.58 1978 増補版1987『中世東寺と東寺領荘園』 東京大学出版会 1978
『日本中世の民衆像-平民と職人』 岩波書店 新書No.136  1980
『東と西の語る日本の歴史』 そしえて 1982
『日本中世の非農業民と天皇』 岩波書店  1984
『中世再考-列島の地域と社会』 日本エディタースクール出版部 1986
『異形の王権』 平凡社 1986
『日本社会と天皇制』 岩波書店 岩波ブックレットNo.108  1988

☆共編著
『中世の風景』上下 阿部謹也・石井進・樺山紘一との共著
          中央公論社 新書No.608,613  1981
『対談・中世の再発見』 阿部謹也との共著 平凡社 選書No.74 1982
『中世の罪と罰』 石井進・笠松宏至・勝俣鎮夫との共著 東京大学出版会 1983
『漂泊と定着-定住社会への道-』(日本民俗文化体系⑥)編著 小学館 1984
『日本文化の深層を考える』 塚本学・坪井洋文・宮田登との共著
              日本エディタースクール出版部 1986
『日本王権論』 上野千鶴子・宮田登との共著 春秋社 1988
『中世の都市と墳墓-一の谷遺跡をめぐって』 石井進と共編
                    日本エディタースクール出版部 1988
『交感する中世-日本と中国』 谷川道雄との共著 株式会社ユニテ 1988
『日本中世史像の再検討』 石井進・上横手雅敬・大隅和雄・勝俣鎮夫との共著
             山川出版社 1988
『列島文化再考-歴史学と民俗学』 塚本学・坪井洋文・宮田登との共著
                 日本エディタースクール出版部 1989

☆この他『週刊朝日百科・日本の歴史』(朝日新聞社)などにも多数の論稿が収録されています。

《 各地からの便り 》
不幸な出合いを大切な出合いに変えるために
H・S(兵庫)
 …初めてのおたよりで大変恐縮ですが、私にも『同和はこわい考通信』を送付していただけるようにお願いできないでしょうか。
 私は脳性マヒの障害者です。私は障害者差別を受けてきました。だが、私は障害者のエリートとして他の多くの障害者の心を傷つけ、踏み台にして、養護学校から抜け出し、健常者のいる地域の高校に入りました。だから、私が障害者解放運動に係わっていたころ、被差別の立場を絶対化し、差別している側を一方的に責める人がいましたが、私はその考えにはついていけませんでした。むしろ、差別という不幸な出合いを一つのきっかけにして、差別・被差別という立場を越え、それぞれが自らの心根(差別意識も含めて)を隠すことなく明らかにし、かけがえのない大切な出合いに変えていくことの方がいいのではないかと思いました。その思いで私の母校である高校の身体障害者問題研究会のインタビューに答えて、後輩たちに向かって障害者は「迷惑をかけることを恐れるな」、健常者は「障害者の心を傷つけることを恐れるな」と語ったことがあります。そのような思いの時、『同和はこわい考』を読みました。その感想は私の大学時代の友人を介して『紅風』99号に「『同和はこわい考』を読んで」との題名をつけ支倉深生というペンネームで載せていただきました。私のような解放運動に係わっていない者が解放運動についてとやかく言うことは筋ちがいかもしれないと思いますが、被差別・差別という両側から越えようという『同和はこわい考』の主旨にはげまされ、私は勇気が出て書くことができました。だから、その論議の行方が気がかりです。
 誠に勝手なことばかり述べましたが、どうかよろしくお願いします。…

《 再録 》
仮名、筆名、イニシアル…そして実名
藤 田 敬 一
 名乗りをあげたり、ある人を名指しするとき、どうしても人名が必要になる。しかし実名が出せない事情のもとでは、仮名や筆名が使われる。『紅風』の編集にたずさわっていたころ、わたしはいくつもの筆名を使って文章を書いた。わたしだけでなく他の人もほとんど筆名だったから、しまいには誰が誰だかこんがらがってしまうことさえあった。
 こうした仮名、筆名も、作家のペンネーム、芸能人の芸名と同じだが、後者には本人に実名を隠すという意識はなく一種の変身なのにたいし、前者にはどこか身を隠すという雰囲気がある。わたしなんか明らかに実名では発言できそうにないことを筆名で語ったといわざるをえない。それはそれでやむをえない面があったと思うけれど、身を隠して語ったという事実は消えず、すっきりしない気分にとらわれつづけてきた。
 いまひとつ、よく使われるものにイニシアルがある。無署名に色をつけたような新聞、雑誌のコラム欄の場合は別にして、多くは仮名に近い。『同和はこわい考通信』に載せさせてもらっている各地からの便りもイニシアルにしている。実名を載せては迷惑をかける可能性があるし、それに実名を載せないでほしいとおっしゃる人もおられるからである。
 実名を知ったからといってどうってこともないはずだが、実名と、仮名・筆名やそれとおぼしき名前、イニシアルとでは、文章の印象、インパクトはかなりちがう。なぜなのかよくはわからない。書き手の顔が見えないこともあるだろうが、仮名・筆名・イニシアルには身を隠す趣があり、それが読み手にある種のこだわりを生み、開かれた論議の場でないとのイメージをもたせるためとも考えられる。それにひきかえ素顔をさらしての意見交換というだけでリアリティーを感じるから不思議である。
 匿名性は現代の特徴らしい。しかし度が過ぎると人間同士の交流を断ち切りかねない。隠れん坊は見つかるから面白いので、忍者よろしく完璧に隠れる友だちがいると、つまらなくなってやめたことを思い出す。顔や姿が見え、声や咳が聞こえ、そして色や匂いのある世界が、やっぱりよろしい。

コメント.
 『天国つうしん』90年3 月5 日号に寄せたものです。匿名について問題提起したくて書いてみたのですが、なんとも歯切れがよくないですなあ。実名を秘す事情も多様だし、発行者・筆者双方の考えもあるでしょうから、かくあるべしと一概にきめにくい。まあできるだけ素顔で話し合おうという提案として受けとめてもらえば幸いです。ただ今後、この『通信』では実名でよいかどうか筆者にお尋ねし、「かまわない」とご返事のあった場合のみ実名で、「困る」とおっしゃった場合はイニシアルでということにしたいと思います。もちろん無断で実名にすることは絶対にしませんから、これまで同様気安くお便りをください。

《 紹介 》
☆京都部落史研究所『こぺる』 特集“『同和はこわい考』をめぐって”17
 梅沢利彦「朝日新聞に見る5 年間の差別の諸相」No.147 (90/3)

☆みすず書房『みすず』No.346 (90/1)
 読書アンケート(1989年中に読んだ本でとくに興味を感じたもの5 点)
 佐藤秀夫(日本教育史)
 「…2 こぺる編集部編『同和はこわい考を読む』(阿吽社、1988年)/藤田敬一の異色な著書『同和はこわい考』(1987年)をめぐって、様々な立場・視点から論評・討論した論文を集成した。被差別部落問題、差別問題を真剣に議論する場を提供した本書の意義は大きかった。…」

《 あとがき 》

*1958年は、わたしにとって忘れられぬ出会いのあった年です。一つは京都の田中部落に出かけたこと。「としにい」と呼ばれていた松下年男さんは、そのころからお世話になってきた方ですが、昨年11月、亡くなられました。享年61歳
*もう一つはリラ亭のマスター木村勝次さんとの出会いです(リラ亭のことは『こわい考』の前川さん文をご覧ください。P128)。リラ亭で知り合った友人も多く、酒縁なる言葉を作ったほどでした。その木村さんがこの3 月3 日亡くなられました。享年59歳
*お二人とも『こわい考』の出版をほんとに喜んでくださって。親しかった人を次々と送るのは寂しいものです。1958年も京都も、遠くなってゆくということでしょうか
*目下、網野さんの本と格闘中。引用史料をきちんと読めないのがクヤシイー。ともすれば降参しそうになるのですが、「いくじなし」といわれてはしゃくですからね、もう頑張るしかおまへん
*シリーズ「網野善彦さん」は、このあと『東と西の語る日本の歴史』(橘尚彦)、『日本中世の民衆像』(崎山政毅)、『無縁・公界・楽』(山本尚友)と続きます
*2 月22日から3 月19日まで、岡山、岐阜、大阪(2)、京都(4)、埼玉、神奈川、奈良、三重の12人の方から計41,736円の切手、葉書、カンパをいただきました。ありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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