同和はこわい考通信 No.29 1989.11.11. 発行者・藤田敬一

《 再録 》
授業「言葉と人間:部落差別を考える」の感想文を読んで
藤 田 敬 一
1.
講義の初めにいきなり「差別・差別するとはどういうことか、5分でノートに書きなさい」と指示がでて頭を抱えこんでしまった。差別・差別…全然知らないはずはない。今までに自分でも何度か口に出してきたし、前回のレポートの文中にも性差別という言葉を使った覚えはある。感覚的には、何となく分るような気がしたし、そこに漂う雰囲気も浮かぶような気がした。けれど、改めて問われてみると、うまく表現できない、というよりは正確にわかっていないんじゃないかということに気付いた。苦しまぎれに“一般的・大衆的とされる扱いと比べて不当なひどい扱いを差別すると言うのだと思う”と書いた。何か分ったような分らないような、何か足りないような…と又頭を抱えていたら、先生から名前が呼ばれて発表するはめになってしまった。発表しながら何かちがう…すっきりしない…と思った。(中略)私にとって差別の意味がこんなにもわかっていない、ということが大変ショックだった。

「夏休みの旅行に、嫌いなAさんは誘わないというのは差別か」と重ねてたずねると、学生の困惑は頂点に達したようです。漠然と感じているものを文章化することにより、問題のありかを自分の力で探しあて、自分の言葉で表現してほしかったのでこんな質問をしてみました。しかし学生ならずともこれはちょっと考える値打ちのあるテーマだと思いますが、どうでしょう。

2.
 提出された34通の感想文の中に

…差別をなくそうという過剰な意識が、実はかえって差別を生んでしまうのだということに早く私たちは気付くべきなのです。この差別への自意識過剰ともいうべき傾向、つまり差別の根元を絶つことこそが「差別をなくそう」という思想にのっとり「チビクロサンボ」や「ダッコちゃん人形」を廃止することよりも、よほど大事なことのように、私には思われてなりません。

というのがありました。論旨全体は「差別はいけません」式の啓蒙・啓発、教育・教化のダメさかげんを突くものとなっていて貴重なのですが、ここに引用した、過剰な意識、自意識過剰が差別の根元だとする結論部分は、「意識することがいけない」「意識させるものがいけない」へと収斂されやすい。「知らないままにいたら」「そっとしておけば」「寝た子をおこさない方が」というのも同じ発想からくるものでしょう。この学生はひょっとするとこんな授業などやらない方がよいといいたかったのかもしれません。

3.
 次は学生がこれまで被差別部落について聞いたことのある話。

A.
私の地区に嫁入りがあった。その時、近所の人が「あそこの人らしい」という言い方で軽蔑したように話しているのを聞いた時もショックだった。祝福されるべき結婚も被差別部落の住民というだけで軽蔑や冷笑の対象になるなんて…。
B.
私の家でも父母が「四つ」と言っているのを聞いて、尋ねたことがある。
「昔は新平民(父母は被差別部落の人のことをこう呼ぶ)はよく四つ足のものを食べたんだって」と説明されて、私は別段不思議とも思わなかった。又、母は不良生徒のことを“あちら様”と言う。これにも何の疑問も抱かなかった。人は自分が多数側にいると少数側のことは忘れてしまう。
C.
講義の後で友人たちと話をしたところ、糸貫に住んでいる子は、岐大に入学が決まった時に、親御さんから「黒野は危ないから、車から降りてはいけない。財布を盗まれる」と言われたそうです。(中略)高校の時「高田の人間は怖い」というのを聞いた事があるんですけど、私は「不良でも多いのかな」程度にしか思わなかったのです。友人に高田の子がいて、その子に怖いというイメージがなかったからです。無知とは全くお気楽で幸せである。
D.
私は実家が恵那なので下宿をしていますが、この下宿先が決まったとき、父の友人の岐阜の人が「黒野には近づかん方がいい。朝鮮人や何やらいるから」といわれた。この“何やら”には被差別部落の人たちを含んでいたのだろう。私はそのとき「へェー黒野っていうところは危ないところなのか」と思ったけれどこんなの偏見にすぎない。私は何度も黒野に行ったけれど危ない目にあったことはない。おじさんの偏見を人に植えつけないで!

岐阜大学が黒野地区に移転することで部落問題について、なんらかの反応があるだろうと予想していましたからC、Dの話にはあまり驚きもしません。そして、こんなことが囁かれているという事実があったとて大学教員の99% はビクともしないというのもこれまた確実に予想できます。

4.
 小、中、高と受けてきた同和教育に対する感想も少しありました。

私の通っていた高校は、同和教育指定校でした。と言っても年に1、2回映画を見て、その後1時間程度差別について考える時間をクラスでもつというだけで、その外には何もなかったような気がします。その映画も、誰が選んだのかと問いたくなるようなおそまつなものでした。登場人物の格好を見ると、どう考えても、私達の親の若い頃のファッションで、同和問題が現在のものとして伝わってきません。画像も古くて傷だらけでした。内容は、若い男女が主人公で、たしか男の人がいわゆる部落の人でした。結婚寸前になって、その事がわかり、女の人の親が反対するが、結局許してもらって、ハッピーエンドで終わっていました。悲惨さがほとんど伝わってきませんでした。私が在学した3年間のうち、指定校だったのは2年間だけで、残りの1年間は全く何もありませんでした。“同和教育推進”と言いながらも、その実状がこれでは、なんとも情ないとしか言いようがありません。一体、あの映画は、指定校宛に送られてきたものなのか、と疑問に思った覚えがあります。映画の感想も、「あんなものでは、同和問題の悲惨さが伝わってこない」と、映画選択者への非難でしかありませんでした。

部落問題=悲惨とのイメージには若干ひっかかりますが、同和教育の実態については、さもありなんという感じです。推進指定校、研究指定校になったからやむをえずというのも、まあいたしかたないことでしょう。きっかけはどうであれ、いくらかでも関心をもつ人が出てくればという意見も当然成り立ちます。しかし教員の意識のありようを見透かしている生徒がいることも、この感想文は教えてくれます。

5.
 「差別とわたし」を正面からみつめようとするものもありました。

同和問題に限らず“差別”ということについて考える時、私は“2人の自分”と“いつまでたっても、出ない答え”に悩まされ、いつもいやになり考えることをやめてしまいます。小学校でも、中学校でも、高校でも、道徳の時間に、あるいはホームルームの時間に“差別”をテーマに数多くの話し合いがもたれました。そんな時には、私の中に必ず2人の自分があらわれるのです。発言している自分はいつも立前の自分です。それは、中学、高校はもちろん、小学校の時でさえ無意識のうちに理想論をまくしたてている自分なのです。そんな自分が情けなく思えて、沈黙してしまうのです。情けなく思うのも、沈黙してしまうのも、裏に本音の自分がいるからです。この本音の自分と、先に述べた立前の自分との間のジレンマに陥り、堂々めぐりの結果、差別について考えることをやめ、沈黙してしまうのです。/話をもっと具体的にするために、1つの例を挙げたいと思います。部落差別を考える時、必ずといっていいほど問題にされるのが“結婚問題”です。まとまりかけていた結婚が、部落出身者であるとわかった時点で破棄されるという事例が出されるたびに、立前の自分は、こう発言するのです。“そうした差別は一掃されるべきだ”と。そして恥ずかしながら心の中で本音の自分はこう言うのです。“おそらく自分も同じことをするだろう”と。“恥ずかしながら”と述べたのは、先生の講義を伺った直後の今でさえ、そうした気持が心の奥底にあるからです。こうして私は、いつも2人の自分に悩まされるのです。(中略)今回、先生の講義の後、私がしたことは、いつもの堂々めぐりと、そしてもう1つ、友達との議論でした。教育学部学生のレポート、差出人不明の年賀状、紀伊国屋書店のマル秘文書、放送上避けたい用語例など、さまざまな事例を見せられて、少なからずSHOCK を受けた私と、同じく友は、珍しく真剣に講義内容について話しをしました。“いったい何をするべきか。”あるいは“一体、何ができるのか?”という問題について、これから挙げる私達の意見などは、わかりきったことかと思いますが、少し耳を傾けてください。/まず消極的方法と積極的方法の2つにわけて考えました。消極的方法として1)単純に、分散すればよい、2)“寝た子を起こすな”的発想で、世代交代とともに“忘れていく”ことを期待する、の2つが挙がりました。しかしながら、分散しても部落差別はどこまでも追ってくる、また本当に“忘れる”ことが可能であるかという疑問が挙げられ却下。積極的方法としては、もっと実態を明らかにして、人々の意識改革をはかるという意見。また「見えにくい」「見えない」「知らされない」の壁を越えるための努力がかなり必要だという意見。以上、私達の議論の結果を簡単にまとめてみました。/結局、私の中でだされた結論はこういうことです。私達にできる1番大きく、そして大切なことは、次の世代の子供たちに自分の先入観、偏見にとらわれずに事実をありのまま伝えることではないかと思うのです。部落差別について何の根拠もないこと、相手をありのまま受入れることなど、伝えるべきことはたくさんあって、これが自分にもできることではないかと思うのです。

「自分とのかかわり」の話になると、どうして「部落民と結婚できるか」の問いが出てくるのでしょうかね。結婚をめぐるテーマは自らの隠された意識を表出するのに適当だと考えられているからかもしれませんが、わたしはこの種の自問自答にいわゆる自己陶酔が秘められているように感じられてならんのです。もちろんこの学生がゆらぎつつも自己の内面をみつめようとしていることには好感をもちますけれど。授業のあとで友人と議論したというのも嬉しい。どんなにささやかであっても、そしていっときのことであっても真剣に友人と議論した記憶は残るはずですから。

6.
 『同和はこわい考』で紹介した岐阜大学教育学部三回生のレポートは、学生たちにとって衝撃的だったようです。

腹がたって腹がたって仕方がない。レポートを書いた人の名が明記してあれば会いにいって面罵してやりたいくらいだ。…わたしは中学で同和教育を受けた。3年の時の担任の先生がよく授業中にその話をしてくれた。けれど、他の学校にくらべると、まだまだ少ないのではないかと思っていた。もしかしたら同和教育をほとんど受けずにいた人もいるのだろうか。岐阜にも平気で差別を生徒に教え込む先生がいるのだろうか。同和問題の(授業の)度、“どうあがいても差別は間違っていることを理解させられないような人は少なくないだろう。しかし、せめて我々の世代はこの非人間的な行動を憎んでいかなくてはいけないと思う”というような感想を持ったり書いたりして来た。しかし今回の講義でその“せめて”すらも危ないのではないかということに気付いた。まず私達の世代からたてなおさなくてはいけないだろう。同和教育のようなものは、本当に必要な地域に限ってなされていないのではないだろうか。地域によってはその付近一帯が差別意識に固まり、というようなこともあるだろう。同和教育を行ったらかえって教師が非難されるかもしれない。しかしこの実情を知って同和教育は絶対不可欠なものだと確信した。例え家庭でどんなに差別意識が強かろうと学校で同和教育を受ければ少なくとも差別は悪いことなのか(どうか)考えるだろう。自分達が差別をしていることに気付くだけでも、それすら知らないよりはずっとましである。ここで私がいくら感情的に叫んだとしても何の役にも立たないかもしれないが、とにかく1日も早く同和教育が徹底されることを望んでいる。

教授会であのレポートを読み上げたのは、たしか1983年の初頭だったと思います。ごくわずかな人びとが関心を寄せてくださっただけでした。大半の無表情な顔はいまも忘れられない。それにひきかえこの文章は本人も自覚しているようにやや感情がたかぶっていますが、それだけに気持がストレートに出ています。ただ同和教育に期待しすぎると、挫折感も大きいのではと心配です。ついでに申し添えますとあのレポートを書いた学生は現在、岐阜市内の小学校に勤務しているようです。
 さてわたしの授業によって早田と黒野に被差別部落があることをはじめて知った学生がいます。この知識がどのように生かされるか、それはわからない。「わからないとは、なにごとだ。無責任ではないか」という人がいてもおかしくないし、「そんなことをするから差別が残るのだ」という人もいるでしょう。しかし問題の核心は案外こんなところに顔をのぞかせているものです。来年は、そのあたりのことについても一緒に議論する時間がつくれればと考えています。
 工藤さんの熱意に促されてヤル気を出し、あれもこれもと考えて結局中途半端な授業になったのはお恥ずかしいかぎりです。ほとんどあきらめていただけに、熱心に聞きいり、その上多くの感想文を出してくれた学生に励まされた感じで、こんな機会をつくってくださった工藤さんにはただ感謝あるのみ。

コメント.
 工藤力男さん(岐阜大学教育学部教員)が発行しておられる『修羅』15号(1989/10)に寄稿したものです。再録にあたり表題など少し改めました。
 この授業で、わたしは学生に「部落差別とはなにか、その実状はどうなっているか、差別は“わたし”にとってどういう意味があるのか、教育に何ができるか」などを考えてもらおうとしたのですが、意図の半分も実現できなかったのは面目ない。準備した資料は2コマ200 分の授業にしては多すぎ、島崎藤村『破戒』からの引用、『同和対策審議会答申』からの抜粋、北代巴さんの手紙「夕やけがうつくしい」、金孟任さんの文章(大沢敏郎さん『ちからにする』1085号.1987.10.23)にはふれられなかった。しかし提出された感想文はいずれも青年らしい、真摯なもので、とくに「差別とわたし」をめぐって格闘していたのが印象的です。

《 各地からの便り 》──授業「言葉と人間」に寄せて──
☆岐大の新講座の報告、興味深く読みました。<同和教育>の講座を設置して一人の専門家に任せきりにするというのが従来の一般的な例だとすれば、それぞれ専門分野を異にするものであるらしい数人の教員の協力によって行われている岐大の試みというのは、画期的と言ってよいのではありませんか。これほど多岐にわたる講座内容となれば、これはとても一人の専門家の手におえるものではありません。部落問題と部落史という枠の中に終始してきた<同和教育>とは異質な、新しい方法が生まれてきそうな気がしている。こういう協力作業によって始めて、見えないものも見えてくるようになるのでしょう。みなさま方のさらなる奮闘努力に期待しております。(S・Y、京都)

☆工藤さんの岐阜大学内での講義のリポート、大変感動的に拝見しました。僕は最近の新入社員達をみていて、とても感性の秀れた人たちも大勢いると思っています。当り前のことを当り前に語ってゆきさえすれば、受け止める人がいて、当り前なのでしょう。問題は、当り前にしゃべれない僕自身の側にあるのです。もし、この講座が続くようなら、ぜひ語ってほしい人が1人います。横浜のドヤ街寿町で識字学校をやっている、御存知と思いますが、大沢敏郎さんです。ドヤのオッサンやアンチャン、オモニたち、アジアからの出稼ぎ労働者たちに、言葉-生活と命をとりもどさせる=自分の生き方をとりもどす作業を黙々と10年続けている人で、その労働者たちの文章の記録集「ちからにする」は、言葉の「ちから」というものを語って余りあると思います。僕自身が「普通人」への道程を示して貰っている楽しくあたたかい“読み物”です。学生さんにみて貰いたいものです。(T・M、神奈川)

☆たとえ「同和教育」の講座でなくとも、このような多面的な人権教育の講義がなされたことはすばらしいと思います。部落問題という側面を掘り下げることも大切ですが、その他にも社会のいろいろな場で様々な人権問題が起こっているのだということは、教師になろうという学生にはとりわけ必要な問題意識ではないかと思います。私など聴講に行きたいくらいです。(O・S、大阪)

☆「言葉と人間」の講座、興味深く読みました。熊本でもずうーっと以前、熊大医学部の地医研というのが原田正純さんなんかと自主講座をやっていたし、3年位前には嵯峨一郎(『他者との出会い』の著書あり)さんが中心になって金曜講座という市民講座をやったりしたのですが、ポシャってしまい、今は向学心をそそられるような講座が皆無ですから、うらやましく思いました。私は行けないけど、開かれた大学として一般の人も受講できるといいですね。(T・H、熊本)

《 紹介 》
☆柴谷篤弘『反差別論-無根拠性の逆説パラドックス-』明石書店 89/10  2060円
*柴谷さん(京都精華大学教員)は『こわい考』『こわい考を読む』にもふれながら、独自の反差別・論、反・差別論を展開しておられます。ぜひ一読されるようおすすめします。次号で、わたしなりの感想を書くつもりです。

☆京都地域労働センター『センター通信』第6号(89/10)
 「特集・部落問題へのアプローチと内省」
*収録されている11編の文章中、『こわい考』を批判してくださっているものが何編かあります。連絡先は〒601 京都市南区東九条南河原町3 京都地域労働センター。

《 『同和はこわい考』通信について 》
 前号で、「この『通信』は、わたしが勝手に出して送りつけているにすぎません。“誰に遠慮がいるものか”を地でいっていますので、どうか負担に感じないでください」と書きました。しかし、この言い方はどう考えても不遜というか、言葉足らずというか、なんともしっくりしない。
 2年5か月、たしかに、わたしが「勝手に出して送りつけている」面はあるものの、各地からの800 通近いお便りに、どれほど励まされてきたかわからない。ぽんぽんにふくらんだクリヤーブック14冊は、おおげさにいえば、わたしの“生のあかし”です。そして延べ244 人の方が684,762 円にのぼる切手、カンパを送ってくださってる。現在、650 部印刷、郵送540 部、依頼信20部、手渡し40部。1号あたりの経費は3 万円少々なので、みなさんからいただいた切手、カンパによって支えられているといえます。「正直いって助かります」どころの話ではないのです。前言を訂正するとともに、あらためてお礼を申しあげる次第。

《 あとがき 》
*昨年に引きつづき鳥取大学に招かれ、工学部の教職員、学生のみなさんに少し話をさせてもらいました(10/20)。前日、米子に途中下車。米子市政研究会の事務所で鳥取、島根の友人たちと蟹すきをつつきながら一夜の歓談を楽しみ、翌朝、山陰本線で鳥取へ。大山は曇って見えなかったかわりに、秋の日本海が眺められて満悦至極。鳥取で一泊して、はじめて因美線に乗り、津山・岡山経由で京都に。ここでまた途中下車。京都近辺の事務局メンバーと全国交流会の打ち合わせかたがた一杯。胃腸がグロッキー気味になったのは自業自得です

*いろいろ検討したあげく、来年の交流会は7月末、京都で開くことにしました。講演は網野善彦さん(神奈川大学短期大学部、日本中世史)にお願いしようかと考えています。もちろんこれは、わたしたちの希望にすぎません

*『こわい考』92~93頁でお名前をあげた師岡笑子さんの著書『さかのぼれぬ舟よ ひとたびかいま見せよ-早過ぎる自叙伝のための覚書・他-』(創樹社 2400円)が出版されました。師岡笑子さんは、学生時代いらいの友人でしたが、1982年10月に亡くなられています。よろしかったら読んであげてください

*10月9 日から10月27日まで、岐阜(3)、鳥取、京都(3)、三重(2)、愛知、滋賀、福岡の12人の方から計48,612円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます

*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。

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