同和はこわい考通信 No.2 1987.7.14. 発行者・藤田敬一

《 波紋・波紋・波紋 》

その1.部落解放同盟全国大会で話題に

 さる6月16日〜18日、宿岡て開かれた部落解放同盟第44回全国大会第二日目、第三分散会で『こわい考』が討論の対象になったと、友人がメモを付けて知らせてくれました。そのメモによりますと『こわい考』は、部落解放運動にたいする、差別根性まるだしの差別的批判の一つであり、世間の「部落はこわい」「同和はこわい」という意識に乗っかって、その意味を説明したものだ、との意見がだされ、中央本部答弁にたった小森龍邦書記長も「これはかなり問題がある。早急に理論的な統一、意見の統一をはかれるように取りくみたい」とおっしゃったそうです。午後の討論でも再び『こわい考』がとりあげられ「これは題名には問題があるが、新しい共闘のありかた、つまり部落民と一般民が差別の垣根をこえて、どのように共闘・連帯したらよいかという点にかんして新しい提言をしたものだ。傘のした共闘、部落解放同盟いいなり共闘ではダメであってお互いにものをいい、議論も論争もする。その中で共闘の恩恵を高めてゆく。そういう作風を確立するために、この問題にたいする熱心な、慎重な討議を期待したい」との発言があり、これにたいしても小森さんは「論理として、そうなっているか。部落解放同盟のこれまでの基本的なものの考え方と相当矛盾するところがある。しかし、これは大きな話題になる問題であるので『こぺる』に批判論文を書いたが、雑誌『部落解放』にも執筆したい。議論を沸騰さして、その上で考え方をすすめるということが大事だと思う」と答えられたということです。

 わたしは、まずなによりも部落解放同盟全国大会で『こわい考』がとりあげられたことが嬉しい。そこからしか討論は始まらないからです。これが第一。第二に、『こわい考』が「部落解放運動にたいする、差別根性まるだしの差別的批判である」かどうか、「差別意識に乗っかって、その意味を説明している」ものなのかどうかは、わずか136頁の小冊子を、きちんと読んでから判断してもらいたいと、あらためて申し上げる。また書名には、なんら「問題」がないことも付け加えておきます。第三に、『こわい考』にたいする意見、評価がわかれたことは、この冊子が「禁書」にされず、とにもかくにも、その提起した問題にかんして論議をしようということになったわけで、大変喜ばしい。
 論議が開かれた形ですすめられることに、わたしに異存のあろうはずがありません。むしろ大いに望むところです。しかし『こわい考』にたいする意見は出はじめたばかりであり、いますぐに論争に入るのは時期尚早でしょう。いろんな方の意見をお聞きしたうえで、わたしなりの考えを述べ、できるだけ不毛な議論は避けたいと思っています。

その2.『こぺる』7月号に書評二つ

 京都部落史研究所所報『こぺる』7月号に、先月号につづいて“『同和はこわい考』を読む”と題した特集が組まれ、小森龍邦さん(部落解放同盟中央本部書記長)の「地対協との違いはどこに」、中山武敏さん(弁譲士.狭山事件再審弁護団事務局長)の「自らを糾す」が掲載されています。内容については直接『こぺる』を手にとって読んでください(お申し込みは、〒603京都市北区小山下総町5-1京都府部落解放センター3F.京都部落史研究所宛。年間購読料3000円。郵便振替 京都5-1597)。とくに小森論文には、いろいろ感ずるところがありますが、他日に期します。
 なお『こぺる』編集部によりますと、8月号には、吉田賢作さん(京都新聞編集委員)、八木晃介さん(毎日新聞記者)の文章が載ります。このあと四、五名の方が予定されているようです。『こぺる』はしばらく 『こわい考』書評の連載をつづけることになります。そこから、問題の所在がより明らかになり、新しい視点が生れたらと、切に願っているのですが、さてどうなりますか。

《 各地からの便り 》

その1.「軽々に感想も述べられず・・・」

拝復 過日は「こわい考」をお送りいただき有難う御座居ました。手にして一気に読ませていただきましたが、余りにも重い内容ゆえ、軽々に感想も述べられずにいました。いまもうまく感想が言えませんが、・・・中学生の頃の部落の少年達と野球をした思い出が頭に過り、親や周囲の大人達の反応がよみがえって来ました。・・・  (東京・Kさん)

 学生時代の後輩にあたるジャーナリストの友人からの便りです。古い友人だから催促がましい葉書を思いきってだしたところ、こんな返事がきたのでした。むりやり感想を書かせたようで、なんともあと味がよろしくありません。申し訳けないことをしてしまいました。
 ただ、それなりに思いをこめて送ったものの、なんの応答もないというのは、気持ちのうえで整理がつかんことおびただしい。ラブレターの返事待ちに似た気分といえば、わかっていただけるでしょうか。「ウンとかスンとか、なんとか言うて来てくれてもええのやおまへんか」と、前川さんと二人でぶつくさいいつつ、「そやけど、みなさん、当惑したはるのとちがいますか」と、返事の遅いわけを付度したりして、気をまぎらわせていたのですが、この葉書をみて、これからは、感想が届くのをじっと待つことにきめました。

その2.「随伴者と同伴者」

読みかえして気づいた第二点は、「随伴者」という自己規定についててす。
これが貴兄による独自の用語なのか、或いは運動内部で一般的に認知されているものなのかはともかく、私はこれを「同伴者」と思い込み、一連の文脈もそのつもりで読み且つ考えていたようです。私はいま、この語感の差異になんとはなしにこだわりを感じております。
  簡便な辞書によると、随伴とは供として従うこと、同伴は連れだつこと・同行、とあります。同行二人などという場合はお大師さまにつき従うということだから、あまり違いはなさそうです。しかし、むかし或る種の宿泊施設にあったのは「ご同伴」の文字で、「ご随伴」ではなかったように記憶しています。ここで同伴者の項目を見てみると、「或る運動に自ら直接に参加はしないが理解をもって、或る程度の助力をする人」となっております。この解釈を宿泊施設の場合にそのままあてはめるとおかしな具合になりましょうが、それはともかく世間ではこのこつの言葉は同じようでもあるけれど、やはりニュアンスで使い分けられていると考えてよいようです。
 ものごとについて須く素人であり、素浪人ないしは浮浪人である私が、何か或ることがらに理解を示し、或る程度の助力をするということも時には全くないわけではありません。でも、自ら直接ことがらにかかわることはありませんので、言葉の正しい意味において「同伴者」ではあっても「随伴者」ではないわけです。この論法をもってすれば、貴兄が「同伴者」でないことも明白です。これで漸く、こだわりの一つはとけましたが、むろん語るべきはワタクシのことではなく、貴兄の自己規定であらねばなりません。
 とはいえ、ここで予め先まわりをして、私の守備範囲の狭さをお詫びしておかなければなりません。貴兄自らが自己規定そのものを主題に論じているわけではありませんから、私が御門違いのことあげをしてみたところでどうにもなりません。私の力が及ぶとすれば、行間から悲しさの如きものがただよってくるのを幽かに感覚するくらいのものですが、その場合にも悲しみの深さを堆し量るところまでは、とてもおよぴもつきません。肝心なことをのに、そういう自己規定は、私にはどうしても気になってしかたがないのである、というようにしか表現できないもどかしさをいかんともできませぬ。お許しください。・・・」  (北海道・Sさん)

 一九六○年の安保の頃からだから「Sさん」なんて書くのも他人行儀で気恥かしいくらい永いつきあいの友人からのものです。私信だけれども、断りなしに載せさせてもらいます。
 そう、六年前、前川さんと交わした往復書簡のテーマの一つは「部落解放運動と“主体なき同一化”を特徴とする随伴者との関係」でした。わたしの考えの底にあったのは課題、運動、認識と随伴者、とくに随伴的知識人のことでした。随伴的知識人のことは、六○年代の末頃から気にかかっていました。世界的な学生運動、大学闘争と関連があったかもしれません。ときどきの政治課題にかんする声明文に名をつらねる知識人、運動や組織のブレーン、知恵袋として専門的知識を提供する知識人、文章を書いたりして組織をバックアッアする「祐筆」的知識人のありかたに、つねづね疑問を感じていました。ところが、わたし自身、いつしか「祐筆」的知識人として部落解放運動の中で遇され、十年近くもその役割を演じてしまったのです。もちろん「大学のセンセー」として運動にかかわるつもりは、わたしにはありませんでした。大学闘争の中で、それなりのことは考えたからです。また自己規定とか、自己限定とかいうほど立派なものがあったわけでもありません。しかし、おかしなもので、永年やっていますと、わたしの役割みたいなものが自ずと定まってきて、結構、居心地がよろしい。そして、ついつい差別・被差別の「関係」とか、「側」とかを忘れたり、あるいは、思わず超えてしまうことがある。「部落民でもなく、現場も知らない大学教師、評論家、サロン談議家になにがわかるか」といわれるのは、大抵、そんなときでした。そうなると自らの「随伴性」、つまり「差別する側」から「差別される側」へ、あるいは「知識層」から「大衆」へ、身と心をすり寄せているというか、そっと潜り込んでいるかの如き存在としての己が正体が暴かれるような仕儀にあいなり、まことにぶざまな状態に陥ってしまったこともしばしばでした。そんなときに書いた「書簡」でしたから、「行間から悲しさの如きものがただよってくる」と受けとられたのでしょう。
 こうした体験から、わたしは「随伴的」であるかぎり、差別・被差別関係の全体像はみえないのではないか、差別・被差別の「両側」から超え、とぎれる対話をつなげる努力をしつつ、部落解放運動を共同の営みとしてすすめることはできないか、考えはじめたのでした。模索しているうちに部落問題全国交流会のような「場」ができていたというわけです。いま、わたしは岐阜県連のみなさんとつながりつつ、太平天国社の仲間とワイワイガヤガヤやっていまして、自分を「随伴者」の立場におくようなことは二度とあるまいと、思っています。わたしは、わたしなりに部落解放運動を追い求めてゆきます。その中で「両側から超える」契機が見い出せるかもしれませんし、またそうであってほしいと望んでいます。
 とはいうものの、「相手」のあることで、そううまくゆくかどうか。ここで魯迅の例の「絶望の虚妄なるは希望のそれとあい同じい」との言葉をもちだしてもしかたがない。一喜一憂せず、ボツボツやります。

その3.「次の通信はまだですか。早う、せんかいな!」

藤田さん、先日はお便りを、そして本日は通信第一号をお送り下ださり有難 うございます。早速に拝見、貴兄が一本を発し、且つ差別撤廃へむけて各方面の意見をフォローしてゆこうとされる姿に胸揺すらるる想いです。元気だなあー、と、先ずそのことを私なりに大変嬉しく存じました。・・・「波紋」も面白く。四頁の前川さんの話、胸がアツウなりました。ちゃんと読む人は、きっときっと応えはりまっせ!それがどちら向きのものであろうと、貴兄の“生”の証として生きましょう。・・・  (富山・Yさん)

 二十円切手を数枚同封してのお便りでした。二週間後、「次の通信はまだですか!!待っております。早う、せんかいな!」との葉書が舞い込みました。申し訳けなし。『こべる』七月号の発行を待っていたものですから。

その4.「具体策をどうしますか」

・・・両方から越えるという時間のかかる、本当の意識改革の提言は、同和問題に限らぬ人権の問題として核心をついているものと思います。これを実現してゆく具体策をどうしますか。・・・  (名古屋・Tさん)

・・・次に出てくるのは、「じゃー、どうしろというのだ」ということばだと思います。「行政要求や糾弾をどうしろというのか」、「『両側からこえる』という精神運動みたいなことで、差別はなくせるのか」となるんではないかと考えられます。連載を続けて、展開してはどうでしょうか。・・・  (東京・Uさん)

 たしかに『こわい考』には「超える」ための具体的な提案がありません。抽象的だとの批判をうける所以でしょう。しかし、なにごとも一遍にやるわけにはいかない。ひとまずは大前提を提起して、それからゆっくり考えたいと思っていたのです。少し時間を貸してください。

《 日 誌 》

6/14. 「『同和はこわい考』出版記念の集い」開かれる。
岐阜婦人生活会館で、幻野の会、岐阜県連、わたしの同僚、元同僚、それに太平天国社など27人の参加をえたアルコールぬきの「合評会」でした。司会は吉田欣一さん。とくに「『こわい考』は人間と運動、人間と組織にかかわる問題にふれている。そこをどう考えるかは、われわれの問題でもある」「この本は、部落解放運動をめぐる全体的展望の中での位置付けが弱い」「問題は文字にゆきつく。永遠のテーマでもあって、実際の運動、組織においてどう具体化されるのか」といった感想がだされました。大きな問題ばかりで、今後の課題にさせてもらいます。
6/16. 三刷五千部を承諾する。こうなったら“ドンとこい”という感じ。
6/21. 京都三条小橋『がんこ寿司』で出版祝賀の会あり。百人近い友人、知人が出席してくださいました。田中、錦林、矢田をはじめ、わたしが勉強させてもらった披差別部落からも大勢の人がみえてくださり、人の情けに酔いしれました。「天国」からは八人参加。「青い山脈」の合唱には上方のみなさんも度胆を抜かれたようす。「古い上衣よ さようなら」いうところがとくにええ、といってくれた人もいました。
6/30. 京都精華大学有志の懇談会に前川さん、師岡さんと出席する。「大学での取り組みがなにか役に立っているのか、疑問に思うときがある」という自問の言葉が印象約でした。
7/1. 末節ジャーナリスト人権問題懇談会に前川さんと出席。今日の部落問題をめぐる「問題状況」下で『こわい考』が果たすかもしれないマイナス作用を心配する人もおられたようです。「主観的にどうであろうと、客観的には差別を拡大・助長する」といった論法は、この間たいそう幅をきかせてきました。しかし、こうした状況論、客観的可能性
論が人を金縛りにしてきたことも確かです。もともと運動というのは、「平地に波を起こす」ものではないでしょうか。とくに社会意識を対象にする場合、運動は「寝た子を起こす」あるいは「寝たふりをしている子を起こす」ものでしょう。当然、そこに波風が立ち、知らずにおればよかったことを知るという事態も起こります。しかも得た知識がかならず差別的偏見の克服に使われるとはかぎらない。
 要するに差別・被差別関係が存在する状況の下では、部落問題にかんする「知識」はもちろん、運動すらも差別のために利用される可能性をつねにもっている。だからといって啓発や部落解放運動をしてはならないということにはなりますまい。波風、波紋の行く末を凝視しつつ、たえず波風、波紋に立ち向かうほかないのではありませんか。
人には誤解する権利があると、誰かがいっていましたが、人の誤解可能性を心配していては、運動は成り立たない。ただその誤解を解く努力を放棄してはならないでしょう。その意味で、この「通信」も、わたしなりの一つの「努力」だと考えています。
7/6. 『朝日ジャーナル』のインタビューをうける。

《 お知らせ 》

横井清さん「『部落史研究』と『私』」について

 先日、横井さんから『季刊人間雑誌』創刊号(1979年12月)に寄稿された上掲論文のコピーを送っていただきました。発行当時、わたしの周りで話題になったものです。こんど再読し、わたしが『こわい考』で論じたことがらと大筋で一致しているのに驚きました。横井さんの考えを、いつのまにか取り込んでしまったというべきか、わたしなりに咀嚼して敷衍したというべきか。まあ、このさい優先権はさておいて、ぜひ一読されることをお勧めします。コピーをご希望の方には、お送りしますので、ご一報ください。

《 採録 》

ざ・ぴーぷる 1987年6月24日 編集発行 ひとびと社
BOOK 『同和はこわい考』を読む

 ・・・
 これらの現象は、国も運動体も国民もこぞって部落問題の国権主義への委譲を競っているかに思わせる。しかもその競争を押し止める楔機と可能性は残念ながら見つかっていない。だが、ほんとにその可能性の芽は萌えでていないのだろうか?最近刊行された「同和はこわい考−−地対協を批判する」(藤田敬一)は、その芽を示してくれたような気かする。著者は、被差別部落民でないという立場を踏まえながらも、率直に部落解放運動に苦言を呈する。見田宗介(社会学者)の主張する被差別者に対する被差別者の「関係の客観性」という概念を乗り越え、痛みへの共感を大切にし、その関係をきちんと見すえつつ、両側から超える努力をめざす。著者は「地対協」意見具申として表現された国家意思を厳しく批判しつつ、他方に部落解放運動の「運動としての存在根拠」を問う現在の状況を「自らをも科す思想」をもって受けとめるべきだと、率直に苦言を呈する。
政府の急速な動きに対して、「部落問題の真の解決と人間解放を求める人びとの「共感と連帯」に支えられた共同の営みとしての部落解放運動を対置することではないか」と思いを告げる。
 第2部は部落解放同盟の専従である前川む一さんとの往復書簡で、むしろこちらの方か論点がすっきりしている。
逆に読まれた方かよい。前川さんの文章もすてきだ。かって「紅風」誌に、「村の父」という詩がのせられていた。前川さんの詩であろうと私は秘かに推測するのだが、「強いからこそ優しかった、無□で無骨な父たち」であろうかと前川さんを想像する。この本を読むと、花崎晃平さんの文体を想いだす。
それぞれの持場はちがうけれど、ともに差別とたたかう2人の共通性を優しく、そして力強い文章に発見したようだ。  (森はじめ)
「同和はこわい考」−地対協を批判する−(阿吽社) 藤田敬一著 800円
藤田さんへの連絡は、大平天国社(岐阜市長良太平町1-14)へ。

《 あとがき 》

 激動の二か月でした。前川さんも、わたしもふらふらです。「少しゆっくりしまへんか」ということで、師岡佑行さん、山本尚友さんを誘い、一緒に郡上八幡へ一泊旅行をしてきました。郡上はちょうど盆踊りが始まったばかり。吉田川のおいしい水を飲み、ついでにお酒も飲みました*ところで本「通信」は複製大歓迎です。多くの方に読んでもらえればありがたく存じます。念のため一言*『こわい考』についての感想、ニュースをお知らせください。よろしく。

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