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その1.部落解放同盟全国大会で話題に さる6月16日〜18日、宿岡て開かれた部落解放同盟第44回全国大会第二日目、第三分散会で『こわい考』が討論の対象になったと、友人がメモを付けて知らせてくれました。そのメモによりますと『こわい考』は、部落解放運動にたいする、差別根性まるだしの差別的批判の一つであり、世間の「部落はこわい」「同和はこわい」という意識に乗っかって、その意味を説明したものだ、との意見がだされ、中央本部答弁にたった小森龍邦書記長も「これはかなり問題がある。早急に理論的な統一、意見の統一をはかれるように取りくみたい」とおっしゃったそうです。午後の討論でも再び『こわい考』がとりあげられ「これは題名には問題があるが、新しい共闘のありかた、つまり部落民と一般民が差別の垣根をこえて、どのように共闘・連帯したらよいかという点にかんして新しい提言をしたものだ。傘のした共闘、部落解放同盟いいなり共闘ではダメであってお互いにものをいい、議論も論争もする。その中で共闘の恩恵を高めてゆく。そういう作風を確立するために、この問題にたいする熱心な、慎重な討議を期待したい」との発言があり、これにたいしても小森さんは「論理として、そうなっているか。部落解放同盟のこれまでの基本的なものの考え方と相当矛盾するところがある。しかし、これは大きな話題になる問題であるので『こぺる』に批判論文を書いたが、雑誌『部落解放』にも執筆したい。議論を沸騰さして、その上で考え方をすすめるということが大事だと思う」と答えられたということです。 わたしは、まずなによりも部落解放同盟全国大会で『こわい考』がとりあげられたことが嬉しい。そこからしか討論は始まらないからです。これが第一。第二に、『こわい考』が「部落解放運動にたいする、差別根性まるだしの差別的批判である」かどうか、「差別意識に乗っかって、その意味を説明している」ものなのかどうかは、わずか136頁の小冊子を、きちんと読んでから判断してもらいたいと、あらためて申し上げる。また書名には、なんら「問題」がないことも付け加えておきます。第三に、『こわい考』にたいする意見、評価がわかれたことは、この冊子が「禁書」にされず、とにもかくにも、その提起した問題にかんして論議をしようということになったわけで、大変喜ばしい。 論議が開かれた形ですすめられることに、わたしに異存のあろうはずがありません。むしろ大いに望むところです。しかし『こわい考』にたいする意見は出はじめたばかりであり、いますぐに論争に入るのは時期尚早でしょう。いろんな方の意見をお聞きしたうえで、わたしなりの考えを述べ、できるだけ不毛な議論は避けたいと思っています。 その2.『こぺる』7月号に書評二つ 京都部落史研究所所報『こぺる』7月号に、先月号につづいて“『同和はこわい考』を読む”と題した特集が組まれ、小森龍邦さん(部落解放同盟中央本部書記長)の「地対協との違いはどこに」、中山武敏さん(弁譲士.狭山事件再審弁護団事務局長)の「自らを糾す」が掲載されています。内容については直接『こぺる』を手にとって読んでください(お申し込みは、〒603京都市北区小山下総町5-1京都府部落解放センター3F.京都部落史研究所宛。年間購読料3000円。郵便振替 京都5-1597)。とくに小森論文には、いろいろ感ずるところがありますが、他日に期します。 なお『こぺる』編集部によりますと、8月号には、吉田賢作さん(京都新聞編集委員)、八木晃介さん(毎日新聞記者)の文章が載ります。このあと四、五名の方が予定されているようです。『こぺる』はしばらく 『こわい考』書評の連載をつづけることになります。そこから、問題の所在がより明らかになり、新しい視点が生れたらと、切に願っているのですが、さてどうなりますか。
その1.「軽々に感想も述べられず・・・」
学生時代の後輩にあたるジャーナリストの友人からの便りです。古い友人だから催促がましい葉書を思いきってだしたところ、こんな返事がきたのでした。むりやり感想を書かせたようで、なんともあと味がよろしくありません。申し訳けないことをしてしまいました。 ただ、それなりに思いをこめて送ったものの、なんの応答もないというのは、気持ちのうえで整理がつかんことおびただしい。ラブレターの返事待ちに似た気分といえば、わかっていただけるでしょうか。「ウンとかスンとか、なんとか言うて来てくれてもええのやおまへんか」と、前川さんと二人でぶつくさいいつつ、「そやけど、みなさん、当惑したはるのとちがいますか」と、返事の遅いわけを付度したりして、気をまぎらわせていたのですが、この葉書をみて、これからは、感想が届くのをじっと待つことにきめました。 その2.「随伴者と同伴者」
一九六○年の安保の頃からだから「Sさん」なんて書くのも他人行儀で気恥かしいくらい永いつきあいの友人からのものです。私信だけれども、断りなしに載せさせてもらいます。 そう、六年前、前川さんと交わした往復書簡のテーマの一つは「部落解放運動と“主体なき同一化”を特徴とする随伴者との関係」でした。わたしの考えの底にあったのは課題、運動、認識と随伴者、とくに随伴的知識人のことでした。随伴的知識人のことは、六○年代の末頃から気にかかっていました。世界的な学生運動、大学闘争と関連があったかもしれません。ときどきの政治課題にかんする声明文に名をつらねる知識人、運動や組織のブレーン、知恵袋として専門的知識を提供する知識人、文章を書いたりして組織をバックアッアする「祐筆」的知識人のありかたに、つねづね疑問を感じていました。ところが、わたし自身、いつしか「祐筆」的知識人として部落解放運動の中で遇され、十年近くもその役割を演じてしまったのです。もちろん「大学のセンセー」として運動にかかわるつもりは、わたしにはありませんでした。大学闘争の中で、それなりのことは考えたからです。また自己規定とか、自己限定とかいうほど立派なものがあったわけでもありません。しかし、おかしなもので、永年やっていますと、わたしの役割みたいなものが自ずと定まってきて、結構、居心地がよろしい。そして、ついつい差別・被差別の「関係」とか、「側」とかを忘れたり、あるいは、思わず超えてしまうことがある。「部落民でもなく、現場も知らない大学教師、評論家、サロン談議家になにがわかるか」といわれるのは、大抵、そんなときでした。そうなると自らの「随伴性」、つまり「差別する側」から「差別される側」へ、あるいは「知識層」から「大衆」へ、身と心をすり寄せているというか、そっと潜り込んでいるかの如き存在としての己が正体が暴かれるような仕儀にあいなり、まことにぶざまな状態に陥ってしまったこともしばしばでした。そんなときに書いた「書簡」でしたから、「行間から悲しさの如きものがただよってくる」と受けとられたのでしょう。 こうした体験から、わたしは「随伴的」であるかぎり、差別・被差別関係の全体像はみえないのではないか、差別・被差別の「両側」から超え、とぎれる対話をつなげる努力をしつつ、部落解放運動を共同の営みとしてすすめることはできないか、考えはじめたのでした。模索しているうちに部落問題全国交流会のような「場」ができていたというわけです。いま、わたしは岐阜県連のみなさんとつながりつつ、太平天国社の仲間とワイワイガヤガヤやっていまして、自分を「随伴者」の立場におくようなことは二度とあるまいと、思っています。わたしは、わたしなりに部落解放運動を追い求めてゆきます。その中で「両側から超える」契機が見い出せるかもしれませんし、またそうであってほしいと望んでいます。 とはいうものの、「相手」のあることで、そううまくゆくかどうか。ここで魯迅の例の「絶望の虚妄なるは希望のそれとあい同じい」との言葉をもちだしてもしかたがない。一喜一憂せず、ボツボツやります。 その3.「次の通信はまだですか。早う、せんかいな!」
二十円切手を数枚同封してのお便りでした。二週間後、「次の通信はまだですか!!待っております。早う、せんかいな!」との葉書が舞い込みました。申し訳けなし。『こべる』七月号の発行を待っていたものですから。 その4.「具体策をどうしますか」
たしかに『こわい考』には「超える」ための具体的な提案がありません。抽象的だとの批判をうける所以でしょう。しかし、なにごとも一遍にやるわけにはいかない。ひとまずは大前提を提起して、それからゆっくり考えたいと思っていたのです。少し時間を貸してください。
横井清さん「『部落史研究』と『私』」について 先日、横井さんから『季刊人間雑誌』創刊号(1979年12月)に寄稿された上掲論文のコピーを送っていただきました。発行当時、わたしの周りで話題になったものです。こんど再読し、わたしが『こわい考』で論じたことがらと大筋で一致しているのに驚きました。横井さんの考えを、いつのまにか取り込んでしまったというべきか、わたしなりに咀嚼して敷衍したというべきか。まあ、このさい優先権はさておいて、ぜひ一読されることをお勧めします。コピーをご希望の方には、お送りしますので、ご一報ください。
激動の二か月でした。前川さんも、わたしもふらふらです。「少しゆっくりしまへんか」ということで、師岡佑行さん、山本尚友さんを誘い、一緒に郡上八幡へ一泊旅行をしてきました。郡上はちょうど盆踊りが始まったばかり。吉田川のおいしい水を飲み、ついでにお酒も飲みました*ところで本「通信」は複製大歓迎です。多くの方に読んでもらえればありがたく存じます。念のため一言*『こわい考』についての感想、ニュースをお知らせください。よろしく。 |