No.162 2003.5.20.


○第70回郵政記念日特別功労総裁表彰ご受賞、心よりお慶び申し上げます。先生が「東海郵政だより」に執筆していらっしゃる頃、一度お手紙を差し上げたSです。当時はI郵便局に勤めておりました。さて先日の事です。S・Nさんからのお便りで先生と交流をつづけておられる事をうかがい、そして『通信』161 を送ってくださいました。Sさんは様々な事で前に進めなかった私に「人間をどう見るか。人と人との関係をどう変えるか」をお示しになられたかったのだと思います。
 私も是非、『通信』をいただきたいと切望していましたが、方法がわからずにいました。今回のご受賞で先生のお名前を拝見し、うれしさでいっぱいになりました。 S・Nさんのお考え、行動は「価値観の変換」ということで、先生と同時代性を持っていらっしゃると感じました。私も、必死で教えていただくよう、勉強します。どうぞよろしくお願い申し上げます。    (愛知 S・Mさん)

コメント.この四月二十一日、日本郵政公社総裁から、「郵政事業に深い理解を寄せられ多年わたり人権問題啓発の講師として職員の人権意識の高揚に努められ事業の発展に多大の貢献」をした、として感謝状をいただきました。
 わたしは七七年九月いらい、東海郵政局(現東海支社)の職場研修講師として三重、岐阜、愛知、静岡をくまなくまわってきた。出会った職員はのべ数万人になるはず。この研修で、わたしは大切なことを学びました。「話を聞いてもらいたいのなら、聞いてもらいたいと願う者が、聞いてもらえるように努力すべきだ」と教えられ、まずは人びとの意識のありよう、ホンネを見つめる必要があることに思いいたったのです。『こわい考』の意識調査などにふれた部分は、東海郵政局の部内誌に連載したものがもとになっている。
 『こわい考の十年』のあとがきに、「この十年を振り返ると、わりかしちゃんとしてきたことはたしかであって、われながら不思議なんです。おそらく各地の友人、部落問題全国交流会のスタッフ、『通信』や『こぺる』の読者、ある企業の同対室メンバーなどとの出会いとつながりが大いに関係しているとにらんでいます。わたしは、こうした人びととの呼応の関係に励まされ支えられてきました」と書いたけれど、「ある企業」とは実は東海郵政局のことでした。ひとつの企業の研修講師を二十数年間もつづけてこれたのは、同和対策室(現人権啓発室)の担当者との信頼関係によるところが大きい。感謝するのは、むしろわたしの方です。

○「『こわい考』の十五年」という文章、興味深く読ませていただきました。15年ですかあ。1987年以降の自分自身の身に起こったことを振り返りながら、短いようで長いものだなぁって思いました。その15年の間に、藤田さんも少しずつ少しずつ変化されてきたご様子ですね。しかし、基本のところでは少しも変わっていない!それがよく伝わってくる文章だと思いました。     (京都 M・Tさん)

コメント.おっしゃるとおり、わたしは変わりました。人間ができたというか。いや、これは冗談。そうですねぇ、なんといっても「部落問題がいまもなお存在していることをふまえ、その解決に努力しつつ、まわりの人びとや運動団体、行政にたいして、おかしいことはおかしいときちんともの申す」市民の登場に期待するようになったということでしょうか。
 「解放新聞」(5/19)によれば、部落解放同盟全国大会(5/9-10、東京)で、宝島社の『同和利権の真相』をめぐって議論がなされ、本部からは「彼ら(執筆者たち−藤田注)は、部落問題の解決に、まったく責任をもっていない。こうした人物にまともに対応する必要はないが、(略)『このままほおっておいていいのか』ということについては、今後検討してまいりたい」との答弁があったという。「われわれ運動団体こそが部落問題の解決に責任をもっている」というわけです。運動・運動団体を名乗りさえすれば、「変革の意志をもった集団の活動や働きかけ」を実践しているのだと思いこむのは勝手だし、会議や集会に出席するのも、たしかに「集団の活動」ではある。問題は、それが集団外の人びとへの「働きかけ」になっているかどうかであって、集団や組織に加わっているから運動しているとは必ずしもいえない。自負をもつのはいいことかもしれないが、過剰になると批判の拒否に陥りやすい。まして反論するにあたって責任をもちだすのは公明正大でない。
 集団・組織の指導者はどうも「資格・立場の絶対化」から逃れられないらしい。この十五年で、運動や運動団体への思い入れは消えました。もちろん、そのなかの個人は別ですよ。ひそかに期待している人は少数ながらまだおられますからね。

○大変ご無沙汰しております、と言っていいかどうか。それほど近しい関係ではないよ、と言われてしまいそうです。ご記憶におありでしょうか。4,5 年前に二度ほどお手紙を差し上げ、その私信を『通信』にも取り上げていただいた者です。(略) ところで、ちょっと気になっていたことがあったので書かせていただきます。それは『通信』159(02/10/4)に掲載されている、松井安彦さんという方の〈正義と悪の論理〉と見出し書きした文章です。
 松井さんは、その文章の中で、「差別・被差別という敵・味方に対して、それぞれ悪と正義を割り振る、強固な論理」が存在する。「被差別の側に正義があり、差別の側に悪がある。この単純なものさしでは、被差別の立場が正義の源泉であり、そこから距離を置くこと自体が悪いことになる。被差別の立場にない者は、まずそのこと自体の弁明が迫られ、被差別の側へと距離をつめていくことが絶えず求められることになる。」その結果「被差別の側のあり方を、対等な立場で問題にしていく視点をそこに見ることができ」なくなる、と指摘されています。そして文脈の中で、『通信』147(01/5/3)に掲載された私の文章の一部を引用され、「彼ら(私もその一人)の自己批判は直ちに、被差別対差別という善悪のものさしで、自分より差別側に位置すると見なす人たちへの批判へと振り向けられるだろう」と結論づけられている。
 松井さんが引用した私の文章というのは、「自らの中の部落差別意識をさらけ出し、その差別意識に何らかの形で決着をつけ、そのことで部落の人たちと連帯できる」というものです。たしかに「自らの中の部落差別意識をさらけ出す」ことがそんなに簡単にできるわけがないし、ましてやそれに「決着をつける」なんていうのは、観念論者の戯言(ざれごと)でしょう。私のこの文章は、これだけを取りだしてみると、たしかに空虚な絵空事の謗(そし)りは免れないようです。ただ、あの私信の中でも私は「しかし、自らの差別意識を晒しだし、それに何らかの決着をつけるといっても、それがそんなに言葉どおりにうまくいくような簡単なものではありません」と書いています。私なりに、予防線は引いたわけですが、考え自体は「被差別の側に寄り添うための自己弁護」ではなかったと今でも思っています。
 私が、上のような論理を持つようになったのは、その前提として、自分の中にある、ある種の「じれったさ」への自覚があったのです。それは、あの私信の中の言葉をそのまま使えば、「『被差別の立場から逆照射される関係のなかでしか自己の存在を確認できないと思ってしまう』(これは藤田先生の言葉です)という「じれったさ」ではなく、ある一つの立場に身を置き切ることのできないという自分自身の状況の『じれったさ』」でした。
 藤田先生の言われる「じれったさ」というのは、己れの位置づけを、「自分は部落民でない」「自分は障害者でない」「自分は在日韓国・朝鮮人でない」という具合に、いったん被差別の立場を設定した上で、そこから反転させて、自分はそうではない、と認識することで自らを自己否定的に位置づける「差別する側」にいる人たちのやり方、そこに起因する「じれったさ」なのです。藤田先生は、そのような「じれったさ」からの脱却の道はあるのか、と問うているわけです。この藤田先生の指摘する「じれったさ」というのは、「被差別の立場が善として所与であり、それだからこそ、そこから逆照射するしかないという、自らの位置づけの一方通行性」に起因します。ですから、松井さんの「被差別の側に正義があり、差別の側に悪がある。この単純なものさしでは、被差別の立場が正義の源泉であり、そこから距離を置くこと自体が悪いことになる。被差別の立場にない者は、まずそのこと自体の弁明が迫られ、被差別の側へと距離をつめていくことが絶えず求められることになる」という主張は、藤田先生の指摘と重なるのかも知れません。
 しかし、私の持った「じれったさ」というのは、そうではなく、「帰属感」そのものが感じられない自らの「空白感」だったのです。どんな形にしろ、帰属感を感じたい、当時はそう思っていました。このどこにも帰属し切れない「じれったさ」からの脱却は、「自分の中にある劣等意識(それは私の祖父母が障害者であり、そのことから私が逃げようとしていたことを指します)を晒し出し」「晒し出した劣等意識と対峙する」、そして「自分はこんなにもちっぽけなものだと認識する」ということで折り合いをつけるという、言ってみれば大変自虐的な方法で可能になると思ったわけです。私は最初から「自らの中の部落差別意識をさらけ出し、その差別意識に何らかの形で決着をつけ、そのことで部落の人たちと連帯できる」と考えていたわけではありません。最初に私の意識に昇ったのは、「差別意識」ではなく、「劣等意識」でした。この「劣等意識」を延長させることで、「少数者(被差別者)への帰属意識」へ通底できる(もしかしたらこれが連帯ではないか)と考えたのです。「差別意識」も「劣等意識」も同じではないかと言われそうですが、私の中では違ったものでした。いや、違ったものだったというより、違ったものになっていたというのが正しいかも知れません。おうおうにして「劣等意識」は、瞬時に「差別意識」に転化します。たしかに「差別意識」と「劣等意識」は表裏をなすと捉えていい面があります。コインの裏表をなすこの「差別意識」と「劣等意識」を、私は私の中で引き剥がして、別の場所に置いたのです。
 自分の中にあった「劣等意識」と「差別意識」の分離、その間に「社会の共同幻想」というカラクリが介在したわけです。「劣等意識」は、あくまでも個人の中に存在する意識ですが、「差別意識」というのは、たとえ個人の意識であっても、それは社会の共同幻想に導かれた意識です。そういう意味で、両者は異なります。
 この社会の共同幻想に導かれた差別意識は、いわゆる「差別される側」に位置する人々にだって存在します。たとえば「被差別部落」の人たちの中にも、「障害者」への差別意識を持った人だっているわけです。「自らの中の差別意識をさらけ出し、その差別意識に何らかの形で決着をつけ、そのことで被差別の人たちと連帯する」というのは、常に「被差別の側」にいるとされる「被差別部落」の人たちにも求められることなのだと私は思います。
 それにしましても松井さんは、私のような「自己批判は直ちに、……自分より差別側に位置すると見なす人たちへの批判へと振り向けられ」「被差別の側のあり方を、対等な立場で問題にしていく視点をそこに見ることが」できなくなると言われるのですが、「対等な立場」で「被差別の側のあり方」を見る、というのは、どういうことでしょうか。「対等な立場」があれば、「被差別のあり方」は存在しないのではないでしょうか。
 藤田先生の主張される「両側から超える」ということは、「対等な立場から被差別のあり方を見る」といったことでもなければ、「『側』の前提を全く無視した」論でもないと、私自身は理解しています。「側」そのものの前提を完全に消してしまったのでは、「両側から超える」ことなどできないのではないでしょうか。否定されるのは「側」の存在ではなく、「側」の固定化、あるいは特権化だと思います。 さらに、人と人とが連帯するのは、人としてまるごと連帯するのではないように思います。人が持っているたくさんの目的のうち、共通する一つの目的が重なったとき、人は連帯するのだと思います。それと、たとえ目的が重なったとしても、特にそれが「差別問題」であるときは、自らの中にある差別意識を不問にして、連帯などできようがないのではないでしょうか。
 私の言う、「自らの中の差別意識をさらけ出し、その差別意識に何らかの形で決着をつけ、そのことで被差別の人たちと連帯する」というのは、このような意味をもって言いたかったのです。
 これ以上言うと、それこそ自己弁護になってしまいそうなので、このへんで措きます。もうすでに長々とした自己弁護になっていますが。(略)
 『通信』161 に藤田先生が書かれていた、「『人権同和』『人権・同和』という理解不能のことばを我慢して使っていては健康に悪い」ではありませんが、そうすっきりと言い切ってしまえないところが、行政のつらさです。半分ばかり行政に身を置くようになった者としては、そのつらさが半分くらい分かります。ですから、「健康に悪い」と思いながらも、当分は旧弊を引きずるよりないかなあと同情的に思ったりもします。「健康に悪い」場所に身を置いてしまった者の「いいわけ」です。また、私のまわりでは、「同和問題」はまだまだ「応用問題」にはなりません。「必須問題」ではなくなりつつありますが、「応用問題」では承服しない人々の力が弱まっていないからです。「大事なことは、それぞれの哀しみが響き合い、重なり合うこと」だという藤田先生の言葉を肝に銘じながら(考えてみれば、私が言っている「自分の中にある劣等意識を晒し出し、晒し出した劣等意識と対峙する。そして自分はこんなにもちっぽけなものだと認識する。そこを通底させて他者と連帯する」ということも、これと同じではないかと思ったりします)、どうしても鳥瞰的に(それも余り感度の良くない眼で見てしまうというか、要するに大雑把に)捉える性癖と、その性癖に拍車をかける位置に身を置いてしまったことを反省しながら、今後、頑張りたいと思います。私のできることと言えば、現場で頑張っている人たちを応援するぐらいしかないのかも知れませんが。(略)      (F・Oさん)

コメント.現在の心境に照らしていえば、「差別する側と差別される側の両側から超える」ということを書いたり、人さまの前で語ったりすることは、おそらくもうないでしょう。十五年という歳月が、「差別する側」と「差別される側」という二項対立的発想の「虚構と欺瞞」の一面を事実にもとづいて教えてくれたからです。わたしは「差別者−被差別者」というくくり方にとらわれて悩んだけれど、この図式の荒っぽさに気づき、不信の眼で見つめている人は多い。“被差別正義”をいまなお本気で信じている人などいそうにない。だから議論は不要だというわけではありません。ただ、わたしには遠いところの話のように聞こえてしまうのです。
 先ごろ、今井澄(きよし)『理想の医療を語れますか−患者のための制度改革を』(東洋経済新報社、02/4)を読んでいたら、「連帯を求めて孤立を恐れず。力尽きて倒れることを辞さないが、力尽くさずして倒れることを拒否する」という例のことばが最後に掲げられていて、一瞬へーと思ったんですが、今井さんの生き方をたどると、彼のなかで「連帯と孤立」の緊張関係が三十余年間持続されていたことがわかります。そのような質の緊張を、部落問題の解決を求める取り組みは持続してきたと自信をもっていえるでしょうか。「両側から超える」ということばをいまも使う人がいる。たとえば部落解放同盟奈良県連(川口委員長)がそう。それに異をとなえるつもりはないけれど、わたしにはまったく生気のないことばとしてしか響かない。内面の緊張感を欠くとき、ことばの生命力も消えるのです。



○3月4日(火) 岐阜県土岐市・土岐津(ときつ)小学校。全校生徒六百人に四十分ほど話をしてほしいと依頼があった。友人のNはあきれ顔をして「そら無謀やで」という。たしかにそうだろう。でも、めったにないこの機会を逃したくないと引き受けたのだった。しかし、一年生から三年生までの低学年に話すのははじめてということもあってか、かなりあがってしまった。演題は金子みすゞの詩の一節を借りて「みんなちがって、みんないい」とする。わたし自身が人をいじめた体験を中心に話した。
   
「ふじ田けい一さんへ わたしはふじ田さんの話を聞いてぜったいいじめたりしたらあやまらないと心にきずがのこることがわかりました。わたしは、この話が 聞けてよかったな〜ぁと思っています。だって、おにいちゃんは四年生でわたしをいじめたりしてくるのでふじ田さんの話を聞いていじめると心にきずがつくことがわかってあんまりけんかをしなくなりました。ふじ田さんの話がやくにたちました。」(2年女子)
「『大学の名よ教じゅらしいから、前で長々と、えん説するのか。』と最初は思っていました。だけれどしゃべり始めてから『あ、こう言う人なんだなぁ』と改めて思いました。『意外に、おもしろい人なんだなぁ』とも思いました。家に帰って、お母さんに話そうと思ったけれど、ほとんどは、覚えていたはずなのに、家に帰って話そうとしたら、忘れていて、言葉が出てこない、と言ってもいいほど、どこから話せばいいかも分からないくらい、いい話で感動しました。笑いも少し入っていたので、楽しむこともできました。」(4年男子)
「私は、藤田さんの話を聞いて、なんだかむしょうに心が熱くなりました。私もいじめたり、いじめられたりしたことがあるからです。今でもまだ、あまり好きでない子としゃべったりしてないです。むしろ、相手を見ていません。けれども、話を聞いて、やっぱり、早くなかなおりしようと思いました。けれども、藤田さんのように大人になっても、なかなおりができないかもしれません。私には、まだそのような力がついていないからです。そして、今も、中学に行っても、高校に行っても、大人になっても、いじめたり、いじめられたりしないよう心にちかいます。」(4年女子)
「私は三年生の時に、金子みすゞさんの、『わたしと小鳥とすずと』の詩を勉強しました。その時は、『みんなちがってみんないい』という所を読んで、『うん。その通り。』と思っていたけど、今考えてみると、今までに別の国の人に会ったりすると、『なんかちがう。』という目でみてしまっていることに気がつきました。あの詩を読んだ時の気持ちと、今までの行動がまったくちがっていました。不思議です。思っていたのになぜできないのか。これからは、いつでも『みんなちがってみんないい』という文を忘れないで、一人一人の個性を大切にしていきたいと思います。」(6年女子)
構える−心を開く−心を向ける−耳を傾ける−深く感じる−自らを見つめる−まわりを見まわす−「なぜ」と問う−「したい・しない」と心に決める。生徒たちの心の動きがビンビン伝わってくる。やはり冒険はしてみるものだ。
○4月9日(水) 岐阜大学新任教官研修会。前列左端の男性が、わたしをにらみつけている。「ああ、引き受けなければよかった」と後悔したけれど、もう遅い。演題は「大学教育とわたし−岐大在職32年の経験から」。全学交通対策委員長時代に体験したキャンパスにおける「生き合う力」の衰弱現象を具体的にあげ、「人間に対して関心をもつよう指導してほしい。そして人間をどう見るか、どう生き合うかなどについて語りかけてほしい」と話した。終わったらなんと拍手がおこった。苦虫をかみつぶしたような表情をしていた人も、おだやかな顔つきになっている。心を開いてくれたのだろう。アンケートに「他大学で10年以上教員として過ごして参りましたが、今度岐阜大学で教育を行うにあたり、気づかずにきた点も多々あって、引き締まる思いが致しました」と書いてくれた人もいる。大学の教員だからといって構えず、いつもどおり「日本で心臓のペースメーカーをつけている人の数はどれくらいか」などと質問しながら話を進めたので、みなさん学生気分に戻ったのがよかったのかもしれない。


●四月二十六日から二十九日までは埼玉、東京、愛知、京都、福井の友人を迎えて「ティーピーを建てる会」。五月三日、四日は兵庫、大阪、京都、滋賀、岐阜の友人を迎えて「春の山小舎交流会」。円原川の瀬音を聞きながら焚火をかこみ、酒を飲み、語りあう。それがなんとも楽しくて。自重したので去年のような失敗はなし。五月一日、二年ぶりに山小舎近くの舟伏山に登る。野鳥の声と姿を追い、頂上では残雪をいただく能郷白山を眺めることができた。下山途中、アナグマ二頭と遭遇。ちょっとこわかったけど、いい出会いになりました。
最近読んだ本から −− 鎌田實『がんばらない』(集英社、00/9)。「人はつながりのなかで生きている。人と人とのつながりのなかで生活をいとなみ、人と自然とのつながりのなかで命は生かされ、体と心のつながりのなかで、生命を育んでいる。ぼくらが生きている今という時代は、この三つのつながりが、ことごとく断ち切られているように思えてならない。」(24頁)同『あきらめない』(集英社、03/1)。「死を目の前にしていても、人間には死がくるまで、自由に生きる力があるのだと思いたい。苦しさや悲しみの真っただ中にいると、自分に与えられた自由が見えなくなることがある。でもぼくたち一人ひとりのなかには、運命を背負う自由も、運命を変える自由もある。がんばる自由も、がんばらない自由も。」(66頁)「結果だけが尊重され、過程が省略される日本という国には、深い意味での『癒し』は存在しにくいのかもしれない。」(81-82頁)「どう生き終えるか」、ふと思うことがある。そういう年齢になったということだろう。この二冊に紹介されている、さまざまな死の迎え方に励まされつつ、「わたしらしく死ぬ」とはどういうことなのか考えてしまった。
3月24日から5 月14日まで、島根、京都、岐阜、徳島、愛知、三重、奈良の12人の方より計43,360円の切手、カンパをいただきました。ありがとうございます。支出は郵送費(161号)36,760円です。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-mail<k-fujita@h6.dion.ne.jp>,郵便振替<00830-2-117436藤田敬一>)です。(複製歓迎)