No.158 2002.8.4.


いつも通信をありがとうございます。155号の中学生の感想を読み、そして三月末に退職してからの考えをまとめてから、お便りを出したいと思っていましたが、「考えをまとめる」なんていうのはできそうにありませんので、長い間送って下さっていることに対してのお礼を言わなくてはと思いペンを取りました。
 中学生の感想を読みながら、私も在職中に藤田さんの話を生徒に聞かせたかった、と思いました。外部の“ほんもの”に出会った時、生徒はおどろくほどの吸収力を見せます。得たもの、考えたことをことばや文章できちんと表現できなくても、それは子供の様子から感じとれます。そんなことも教職の楽しみのひとつで、いろんな人に出会わせたいと思っていたのですが……。
 私ごとですが、定年まで三年残っていたのですが、体力のあるうちにやりたいこともあり、三月末で三年生を卒業させて私も卒業しました。考えをまとめたい、などというのは何かというと、大阪府で、三十三年間中学校の社会科教員をしてきて、部落解放運動が自分の仕事に与えた影響について……ということです。大学で林屋辰三郎先生にこれから大切なのは「女性史・部落史・地方史」だと聞いたような気がしますし、当時必修でなかった同和教育の授業で東上高志さんの授業(内容は最初に被差別部落の人の作文を読まれたことだけ記憶していてあとは忘れましたが、これから教員になる人間には必要な知識だが、まだ講座のあるところは少ない…という話)を受けたりして、卒業二年後、教員になった時もきちんと向きあいたいと思っていたはずでした。間もなく『にんげん』(副読本)中学生版ができた時、自分が社会科の授業で使おうと思っていた資料がたくさん入っていて(奈良本辰也先生の部落史はじめ、上野英信の筑豊のこと、木下順二の文?等々)背中をあたたかく押されたような気がしました。「こんな資料をいっぱい使って授業したらええんや…」という気持ち。研修にも進んで参加したと思います。当時、「踏まれた者の痛みがあなたたちにわかるか?」という
詰問をいつも考えていて、自分の体験(特に女性としての)と比べて考えていたのを思い出します(思い出せるものもありますが、長くなるので省略します)。
 そんな風に真正面から向きあいたい、と思いながら、いつの間にか私の姿勢は斜めを向いていました。在日朝鮮人・「障害」者・女性差別問題等、同和教育を進める中で広がってきた内容の豊かさは充分理解できるのに、部落問題に関して、私は少し横を向きかけている。歴史を教えることはとても楽しいのに、部落史に直接触れる所は苦痛になって来はじめたこと(簡単には書けませんが、ひとつは歴史学習の後、しばしば起きる生徒の発言に対する外部の反応(「糾弾」とは言わず「事実確認」と言っていましたが)、二つ目は新しい研究の成果を教材化できない自分に対するいらだち)、同推校の勤務時間が、子持ちの女性が働き続けることができないような状態であることに対する“労働者”としての疑問、同和教育に指導的立場で携わる人々(教員)が権力的であること(“出世”の道具であること)、このようなことが原因であろうと思います。
 一九九三年から七年間、同和教育推進校に勤務したこともあったのですが、立派だと思える人に少しは出会えましたが、個人的に深くつきあえる人には出会えませんでした(これは私自身の姿勢にも問題があったと思います)。むしろこれまで出会った何人かの在日朝鮮人の保護者の人たち(子供も)はとても魅力的であり、この人たちと出会い、つながり、これからもつきあっていくであろうと思えることはとても幸せなことであり、希有なことと思うべきでしょう。仕事を通じて、一生つきあいたい人、ことがらに出会えたことは幸せなことです。
 自分の仕事と部落問題について考えをまとめる、などどいうことはこれからもできないでしょうが、こんなことが気になっているのは、本当は真正面からぶつかる価値のあるものなのに自分がしなかった(できなかった)という悔いが少し残っているからだと思います。『同和はこわい考』を読んだ時(八七年?)、こんな考え方ができたのか、と驚き、その後少し気持ちが楽になってきたことが忘れられません。くどくど書きましたが、藤田さんに言いたかったのは、このことだけです。          (大阪 Kさん)
 コメント.部落問題と「真正面から向きあいたい」と誠実に考えて、同和教育に取り組んできたひとりの教員を「斜めに向けさせ」、「横に向けさせた」ものはなにか。「仕事を通じて一生つきあいたい人・ことがらに出会えた」幸せが、部落問題では感じとれなかったとするなら、それはいったいなぜなのか。「出会い、つながりたい」という願いがかなえられなかった背景になにがあったのか。ここには個人をこえた問題がひそんでいるのではないでしょうか。
 わたしは、部落解放運動のなかでいくどとなく「斜めに構え、横を向き」そうになりました。そのつど部落内外の友人に励まされたり、またみずからを励ましたりするうちに、『こわい考』に書いたような考え方にたどりついたわけです。しかし、そうした営みをすべての人にもとめることはできません。それぞれの条件が違うからです。むしろ個々人の条件を捨象したところから見えてくる差別・被差別関係の総体を見つめることが肝心だと考えるようになりました。そこで見えてきたものは、運動、行政、教育などの世界に蔓延・浸透している差別・被差別の立場の絶対化と関係の固定化であり、その根底にある人間観の貧しさ、そこから生み出される傲慢不遜・傍若無人・横柄横風の振る舞いとそれを黙認してしまう「勦(いた)わり」の心情、そして結果としての対話の途切れと関係のゆがみでした。
 こんな情況のなかにいて疲れないほうが不思議です。それなのにKさんはいまだにみずからの「姿勢」を問おうとし、「真正面からぶつかる価値のあるものなのに自分がしなかった(できなかった)という悔い」を語っておられる。このようなお便りを読むとほんとにつらくなってしまいます。『こわい考』がKさんのお気持を少しでも楽にさせたとすればほんとにうれしい。十五年目の感想、ありがとうございました。

 お元気でご活躍の様子、Gさんから『通信』を見せてもらって感じています。「あるがままの自分をさらけだすしかないという開き直り」(156号)、まったくその通り。私の場合はもっと次元の低い、「これ以上の私はいない。それで悪いのか」の考えで生きています。自分をより良く見せようとするところに欺瞞が起こり、問題が生まれ、より良い自分に成長する為の進歩が止まると思います。でも、たまにはエエかっこもしてみたい。私も月一回で、グループの通信を出していましたが、このようなスタイルは初めてです。おもしろいですね。でも、誰にでもはできません。有形無形の敬一さんファンクラブの存在があるからこそ。          (広島 T.Hさん)
 コメント.友人の友人からいただいたお便り。友人の友人は、すでにしてわたしの友人です。こうして友人の輪がひろがるというのはほんまに楽しい。しかも『通信』があいだを結ぶ絆のひとつになったということになれば、これはもう『通信』はやめられそうにないですな。ところで「開き直り」というのはときには必要ですらあると思いますよ。世間や他人のものさしにあわせて生きることほどつまらないものはない。折り合いをつけるわざは生きていくうえで必要でしょうが、それにもまた程度というものがあるのであって。ただ、わたしは飾ることはやめようとは思ってます。飾りなんて、とどのつまり外見ですから。

● 今回の通信(156号)のなかで、「少数意見の尊重」の問題、面白く読みました。日本では、「少数意見の尊重」が戦闘的且つ無論理的に主張されることが多いような気がします。これは明治維新以来、「頑迷固陋な」保守派に対して、外国文明の導入に積極的な戦闘的少数派が対立し、大体少数派が勝利をしてきたということが背景にあるのではないでしょうか。          (神奈川 S.Yさん)
 コメント.学生時代からの友人の便りです。わたしのやっていることをじっと見つめてくれている。ありがたいことです。ところで「少数意見の尊重」というのはどういうことか、実はわたしにもようわからんのです。多数意見に従って方向、方針を決定するにしても、少数意見の存在を自覚し、少数意見が危惧し、指摘していた偏向、錯誤、誤謬が起れば、既定の方向、方針をただちに訂正することができる精神、システムのことなんでしょうか。日本近代政治思想史における「少数意見の尊重」論については、まったくわからないのでご無礼するしかありません。ゴメン。



 曽野綾子『私日記1−運命は均(なら)される』の記述をめぐって
K.H

(略)「こぺる」という小さい雑誌があるわけですが、この雑誌で作家の曽野綾子さんが「私日記」という本に書いている文章を目にしました。彼女がサンデー毎日に連載していた私日記の一九九八年五月十九日の部分をどうしても載せられないと新聞社に言われて、連載が中止してしまったことについてこう書いています。「戦後の新聞が言論の自由を守ったなどというのは嘘だということを体験として言うことができる。今また一つ、ここに実例ができただけのことだ」と書いています。その一九九八年五月十九日の記事、つまりサンデー毎日が載せなかった記事には次のとおり書かれています。
  
 「私は東京に生まれ、東京に育ち、その個人的な暮らしの中で、被差別部落に関して話題が出た記憶がない。(略)東京の日常的な暮らしでは、交遊、就職、結婚などあらゆる面で部落問題が意識や話題に上ることがない。学校や、女性同士の通俗的な場での、陰口、噂話にも出ない。しかしなぜか東京には部落問題がない、と言うと、機嫌が悪い人がいる。喜んでくれてもいいのではないか。(略)今まで、私が東京には部落問題は(問題になるほど)ない、と言うと、『ないということはない』と言葉尻を捕らえられる。現にどこそこには、どういう町があって、そこに住んでいる人はどういう職業についていて、それがすなわちその証拠である。曽野綾子は知識がないだけで、部落問題がないわけではない、というわけだ。どうして差別問題を是正しようとする人は、こうも差別を知らせること、教え込むことに熱心なのだ!?それは東京の住人に対するこの上ない非礼で、私は それをずっと我慢し続けてきた。彼らこそ、差別の急先鋒、差別を知らない人にも差別の仕組みと感覚を教え込む元凶だろう。(略)知らない人に、同和教育だけはしてほしくない。」
と、こういう文章であります。
 「こぺる」の編集者は前岐阜大学教授の藤田敬一さんで、「同和はこわい考」の著者であります。藤田先生は「一読、『典型的な寝た子を起こすな論』だと怒りだす人もいるはずです。しかし曽野さんのこのような意見は、教育・啓発が進んだとされる現在でも潜在化しているだけでけっこう多いのではないでしょうか。これまでの取り組みはこうしたホンネの押さえ込みに成功はしたものの、『知らないことは存在しない』という考えの厚い壁にまで風穴をあけたとはいえないのではないか。曽野さんの意見に反発するだけではすまない問題がここには含まれているように思いますが、どうでしょうか。」とコメントしておられます。さて、皆さんはどうお考えでしょうか。
 「私の知らないことは存在しない」というのは、個人の知る知らないにかかわらず、客観的に存在するものがあるということを認めない、極端な主観的観念論であります。私はそれが問題だと思います。しかし、それだけではなしに、同和問題という問題の存在の仕方は、特定の地区の特定の職業の人々ということに尽きるものではないのではないか。むしろ、少なくともわが国に生きる人々、曽野さんも含むすべての人々がかかわる差別、被差別の社会関係の問題であって、東京のどこそこという特定地域の問題だけではないであろうと思います。同和問題はふるさとを出て東京に住んでいても、いつ出会い頭に差別に出会うかもしれない不安を抱えるという問題であります。曽野さんは、「人権について議論する場合には、人間と人間との関係の根本にあるべき愛について考えることなしに議論は成り立たない」とかつて申しました。つまり、差別の問題を考える場合に、隣人に対する愛、思いやり、想像力がないと他人の痛みがわからないから、人権尊重といっても話にならないというわけであります。
 私は、想像力ということを考えないと、「足を踏まれた者でなければ踏まれた痛さはわからない」ということに答えられなくなると思って曽野さんに賛成して、何年か前のこの講座で紹介したことがあります。
 曽野さんがこういう寝た子を起こすな論を言うのは、小説家にこんなことを言うのは大変失礼ではありますけれども、彼女の想像力の問題ではないかという気がします。これは作家にとっては致命傷の問題であります。同和問題は、彼女もその一員である我が国社会の差別的な体質の問題であります。同和問題だけではなしにさまざまな差別は、我が国のよそ者排除の社会を根拠として存在していると考えています。だから、曽野さんを含めてだれも傍観者でいられないわけです。そして、寝た子を起こすなというのは、結局傍観者の論理ではないかと思っております。寝た子を起こすな論についてはとてもこの程度の議論で済むはずはないと思いますが、時間の関係で次に進みます。(下略)
 コメント.ある県で開かれた講座でK.Hさんがお話になった講義録の一節です。『こわい考』にふれられているので採録しました。見出しは、わたしがつけたもの。
 文中で取りあげられている曽野綾子さんの『私日記1−運命は均される』(海竜社、99/1)の一節については、『こぺる』誌上で目下議論がつづいております。最新号には、すみだいくこさんの論稿が掲載されます。

● 「同和問題をはじめ…」のフレーズは「百害あって一利なし」
  (奈良県部落解放同盟支部連合会機関誌『解放新聞』682,01/11/25)

 十一月八日から二日間の日程で、部落解放行政推進要求!第三十八回対県交渉を三宅町同和対策総合センターにおいて開催した。交渉には、各支部の同盟員や市町村行政関係者などのべ三百二十人が参加。一日目は、基本路線・県民運動、環境改善対策、啓発対策、産業・就労対策に関わって、二日目は福祉・女性対策、教育・保育対策について、「特別法」失効後の同和行政のあり方をめぐって県の基本的姿勢を問うた。/交渉の第一日目の午前中は、これまでの「同和」対策のあり方にけじめをつけ、今後の方向性を県と我々とで共通認識をはかるため基本認識・県民運動について県の見解を求めた。/冒頭、山下理事長は「『特別法』の失効をうけ法がなくなるから名称を人権に変更するとか、もう「同和」行政や「同和」教育は終了したなどという思い違いや錯覚も少なくない。また単純にそう理解する向きもある。県行政においても今後のあり方についてまだ整理しきれていない。県の主体性を示さなければならない」と今後の基本認識のポイントを示した。
 一九六○年代には奈良県において人権問題で目を引いてあったのは部落差別問題であった。しかし今日、我々の周辺で緊急に対処しなければならない課題は、ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、「いじめ」、不登校等である。「同和問題をはじめとし…」というフレーズは「百害あって一利なし」と言わなければならない。答申路線を繰り返しても差別をなくせないという現実をはっきりと認識する必要がある。答申が目的とした教育や就職の機会均等は達成し生活格差はほぼ無くなった。その反面、差別意識はそれ程に変化は見られなかった。今後は、あえて格差を見つけ出し差別と言いたて克服を求めるというペテンはなくさなければならない。
 コメント.奈良県連が昨秋行った対県交渉を報じる記事から採録しました。記事は少し古いけれど、中味は新鮮です。これまで、運動体だけでなく行政も教育も企業もみんな「同和問題をはじめとして」、あるいは「わが国における人権問題の最たる同和問題」というフレーズをなんの違和感もなしに使ってきました。なぜ「はじめとして」なのか、どうして「最たる」なのか、人びとはあまり深く考えてこなかったようです。しかし、この「なぜ」「どうして」という問いを発したとたんに、事態はがらりと変わる。
 部落問題の解決が緊急を要する最重要課題のひとつとして政策上位置づけられたのは三十七年前のことです。そしてその解決をめざす取り組みがさまざまな人権諸課題への関心を呼び起こし、世界の動向とも呼応して人権問題にたいする人びとの認識を深めたことはまぎれもない事実でしょう。そうだからといって部落問題が人権諸課題のなかで最優先に位置づけられるべきだとか、いちばん重いということにはならない。特別措置法は文字どおり政策的選択によるものなのであって、もしそのことが理解できず、人権諸課題に優先順位や重い軽いの差をつけようとする人がいるとしたら、それは思想的な堕落です。
 人はなにげなく言葉を使っていしまうことがあるのだから、目くじらを立てることはないという意見もありえます。ところが習慣化された言葉には無意識の意味づけがあるともいえるのです。奈良県連の主張、“「同和問題をはじめ」というフレーズは「百害あって一利なし」”は、無意識のうちに部落問題はほかの人権諸課題より重く、最優先に位置づけられるべきだとする感じ方、考え方への痛烈な一撃、そういっておけば波風も起たずまずは安心という計算づくの発想にたいする頂門の一針です。でも、わかってくださる人は少ないでしょうねぇ。



●三か月ぶりです。ご無沙汰してしまいました。四月末、山仕事をしていて左の肩と腕、指に劇痛が走ったものの「大事にいたらずホッ」と前号本欄に書きましたが、「ホッ」とするわけにはまいらず、大変な目にあっていたんです。
 いくらたっても痛みと痺(しび)れがとれないので整形外科へ。頸椎の椎間板ヘルニアで、最悪の場合は手術だという診断。くれたのはパップ剤と鎮痛剤とビタミン剤だけ。二十年前、指が痺れて老化(?!)による椎間板ヘルニアと診断されたけれ ど、鍼と経絡体操で克服したことがあるので、今度もなんとかなるんじゃないかと考えていたところ、これが甘かった。痛みと痺れがいっこうにとれないどころ か、息ができなくなるほどの状態に。それが六月四日。
  もうこうなると東洋医学にたよるしかないと判断して近くの接骨院に駆け込みました。それから二か月あまり、頸椎の牽引などの治療を受け、左指先に少し痺れは残っていますが、こうして『通信』を発行できるまでに回復しました。お酒ですか。お酒は無害だというので、しっかりいただいております、ハイ。
 退職後早々のアクシデント、いい勉強なりました。まず第一は、歳を考えること。自覚が足らなかった。アハハ。第二は、どの医院に駆け込むか、どこへ転院するかは最終的には自分の責任で決断するしかないこと。弱っていると迷うもんで右往左往してしまう。それは仕方がない。しかし、最後に決めるのは自分です。決断の結果は引き受けるしかない。人のせいにしないというのも大事なこと。
 接骨院に通って、地元のおばあちゃんたちと仲よくなれたのも収穫です。ある朝、背骨を延ばす機械に横になっていたら、おばあちゃん三人が地元に外国人が増えたことを話題にしている。「外人が増えて困ったもんだ。よく物が盗まれる。 「中国人がやりよる。」「クロンボも多いなあ。」すると一人のおばあちゃんが穏やかに「それは偏見やよ。」とひとこと。まずい雰囲気にならないで、話題は移っていきました。ああいいなあ。わたしはひとり愉快な気分にひたった次第。
●最近読んだ本から−−−内山興正『内山興正老師遺稿集−いのち楽しむ』(大法輪閣、99/4)。「私は以前読んだルソ−の『エミ−ル』の中にある言葉を思い出します。それは「何か恐わいものがあったら、積極的に進んで手に触れてみろ。 もし恐わいといって伏せておいたら、一生恐わいと避けなければならない。反対に進んで手に触れてみたら、実は何でもないことであり、それどころか、かえってこれから先、生きるために役立つ知恵となることもある」という言葉です。今、 死についてもまさしくそうです。今までも一応「生きるものは死す」「自分もいつか死ぬのだ」とは分かっていましたが、それはこの自分の次の瞬間の事実としてではありませんでした。ところが今やまさしく、死は自分の次の瞬間のこととしてマザマザとしてきました。しかもこの死は、自己いのちの最も煮詰めた畢竟帰処(ひっきょうきしょ)であることもマザマザとしてきたのです。」某日、本屋で仏教関係のコーナーをのぞいていたら、この本が目にとまった。遺稿集とある。内山さんは亡くなられていたのだ。八十六歳。学生時代に京都鷹峯(たかがみね)の安泰寺でお話を聞いたり、折り紙作品を見せてもらっただけなのになぜか忘れられず、隠栖しておられる宇治の能化院を訪れたいと思っていたところだったのでちょっとショックだった。最晩年にいたってもなお「死とは何か?もちろん、とうてい私などに分かるはずはありません」と書くことができた人。もう一度お目にかかりたかった。
●5月12日から7月25日まで愛知、京都、岐阜、奈良、大阪、兵庫、滋賀、高知の 14人の方と二つのグループから計132,634円の切手、カンパなどをいただきました。多謝。支出は郵送料(157号)と中質紙など計58,019円でした。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-Mail<k-fujita@h6.dion.ne.jp>、郵便振替<00830-2-117436藤田敬一>)です。(複製歓迎)