No.155 2002.3.1.

 DEAR 藤田敬一さん
 この前、M中学校で藤田さんの話を聞いてとっても感動したので、先生に無理をいって住所を調べてもらい、お手紙します。私は毎日とても平凡に過ごしていたけれど、藤田さんのお話を聞いて1日1日を考えるようになりました。そしたら、いつもいじょうに1日を過ごすのが楽しくなりました。なぜかというと、自分の意思が前よりも強くもてるようになったからです。「あの子〜〜だよね〜?」と友達に聞かれても、「そうだよね」などといわないで、「私はべつに思わないけど」とか言いきれるようになったからです。
 人権ってことばの意味って知ってるつもりでも、知らないことだらけで、私は藤田さんのお話を聞いてとても考えさせられました。お年玉、いす。私は生まれたときから、そのことをあたり前に思っていたけど、よく考えればなんなんだろう→と思いました。差別のような気もするけど差別じゃないような気もして、お話を聞いてからずっと悩んでいます。この質問は答えは一つ一つ違った答えがあるので、とっても悩むばかりです。今まで人々はきっと藤田さんのようにこんな所に目をつけてないので差別だとは思わないと思うけど…。私一人ではこの答えはだせず、家族に聞いてもなっとくするばかりで、このことが本当に頭からはなれません(泣)。数学みたいに答えがあったらなと思う今日このごろ(笑)。でも、これにはこの答え!?みたいなものばかりだったら毎日楽しくないよな★…って思ったりもします。
 藤田さんのお話で学歴ってでてきたけど、とっても複雑です。私のまわりの子はだいたい大きな塾に行って勉強×2ってがんばってるけど、世の中、学歴って大事なのかな??って思います。うちの親は高校入るのに塾なんて必要ないっていってるけど…。どれだけ学歴あったって自分に個性をもってなくちゃ意味ないというか…。勉強だけできてもなぁ〜って…。ずる×2ながされても毎日楽しくないかもって思えてきます。
 私は藤田さんが今まで会った人の中で一番かがやいてみえました。今、「自分が伝えたいこと!?」を何人聞いてるかわからない中でも、その中で一人でも聞いてくれる人がいればいいと思って、自分が今、いいたいことを一生懸命に話してくれた藤田さんは本当にかがやいてみえました。
 だから、私も自分が伝えたいことをはっきりいいたいと思います。そして、自分に自信をもっていきたいです。すっごく、文章がめちゃ×2になってしまったけどすみません。また藤田さんのお話を聞きたいです!?でも、なぜこんなにかっこいい藤田さんにファンクラブがないのか不思議です(爆)。あったら入会したかったのに…(泣)。では!?お体にお気をつけて。かぜには注意です。(私はかぜっ子だけど…(苦笑))いつまでもかっこいい藤田さんでいて下さい。From U・H(中2)

 
コメント.愛知県豊田市の中学二年の女生徒からいただいたお便りで、ちょっと照れますが、「すっごく」うれしくて、すぐに返事の葉書を出しました。ところで、文中に出てくる「お年玉・いす」というのは、差別とはなんだろうと質問したときにあげた例です。辞書には「差をつけて扱うこと」とあるけれど、兄姉とお年玉の額がちがうのは差別だろうか。地位によって椅子に差があるのは差別だろうか。辞書に書いてあるからといって頭から信じて覚えようとしないで、自分の言葉で考え、自分の言葉で表現することが大切ではないか、とまあ、そんな話をしているのです。おかげでU・Hさんをだいぶ悩ませたようですが、「なぜ」、「どうして」という問いを抱いて悩むことはけっして悪いことではないはずです。

先日の『通信』の中の小学生のコメント、読ませていただきました。自分の言葉で素直に表現できる子どもの素晴らしさ、あらためて感動しています。人に分かりやすく語りかける大切さ。人間いつまでも素直でありたいと思うのですが、理屈の方が先になってしまいます。 (岐阜 T・Nさん)
通信に載っている子どもたちの声がすごく素敵ですね。毎回、しみじみいいなあと思って読ませて頂いています。九年も教員をやってきて何だと思われるかもしれませんが、子どもたちが言ったことの中に内容ではなく物事の本質を言い当てている言葉があったりすると、びっくりして、すごくうれしくなります。そしてそれは本当に多いのです。大人の中には(もちろん自己反省もこめてですが)長々と話したあげく、結局何を伝えたいのかわからないという人がいるので、困ったものだと思います。それはともかくとして、先生が講演先で出会った素敵な子どもたちのお話を、いつかゆっくりお聞かせ願いたいと思っています。(岐阜 T・Rさん)

 コメント.むかし親に口答えすると、屁理屈をいうなとしかられたものです。そんなことが重なるうちに理屈は口に出してはいけないものだと肝に銘じるようになる。ところが、学校で理屈が大事と教えられ、いつしか理屈がなければ夜も日も明けぬ仕儀とあいなり、とうとう素直に感じ、考えるという大切なことを忘れてしまった。学生時代、「理論は灰色だが、現実は緑だ」とあるのを読み、「そうか、現実が大事なんだ」と被差別部落に出かけたわけ。でもずっと頭にあったのは理屈、理論でした。そんなわたしにとって転機となったのは部落解放運動での挫折です。そこで、理屈、理論も大事だが、ともかくいまは自分の感じ方、考え方に素直になろうと思い定めるようになる。そうすると、それまで見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえてくる。理屈、理論には素直な心をゆがめる働きがふくまれているんですな。その点、子どもたちには理屈、理論の毒に侵されていないところがまだあるのかも。
 ところで小学生や中学生のお便りを読んで気づくのは、わたしを「藤田さん」と呼ぶ人が半数以上いることです。つまり、子どもたちにとって先生とは、「わたしたちを受け持ち、教えてくれる人びととその仲間」であって、職業で人を先生と呼ぶのは、きっとおとなの知恵のような気がする。世の中には先生と呼ばれたがる人が多いけれど、それは素直な心をなくしたことの表われかもしれませんね。

 あけましておめでとうございます。旧年中も通信ありがとうございました。昨年も全国交流会に参加して思うところがあったので筆を執ったのですが、同時にその時購(あがな)った福岡水平塾の〈部落=共同幻想〉論を考えるという小冊子を見ていたら、「なんで、あんた関心があると?」(p38)という原口氏のことばがあり、そういう問いに耐えるものなのかどうなのか、と疑問に思われて、くじけてしましました。「関心がある」とはどういうことなのでしょう。どういうあり方なのでしょう。
                              (三重 K・Mさん)

 コメント.「なぜ部落問題に関心があるのか」と問われて立ち往生したことが、わたしにもあります。こうした問いが出されるには、興味本位で物見遊山的にかかわる「部外者」への不信といらだちがあったことはまちがいないにしても、この問いにすぐさま明解な受け答えができる人がそうそういるとも思えない。さまざまに存在する社会問題のなかで「なぜ部落問題なのか」という問いは、みずからに投げかけ、内面でそれと向き合いつづけるしかないのではありますまいか。正解はない、と思います。そしてこの問いは、投げかける人にも跳ね返る。どれほど大切な問いであっても、投げかけることによって相手をくじけさせてしまう可能性があることへの想像力と、相手が内面で問いつづけることをじっと待つゆとりがほしい。

 近頃は身辺の急変に驚き、不安と恐怖すら感じています。先輩や同志の逝去もそうでありますが、それよりも、一般市民や議員・行政関係者の一変した傲慢な姿勢があります。先日、理事者側提案の「人権センター設立」案が全会一致で否決されました。運動団体の言うがままの理事者への猛反発でありますが、怖いのは問題の本質を弁(わきま)えない憎悪と差別丸出しの議会内外の行動にあります。しかも、多数の市民の拍手喝采の賛同にも恐怖を覚えます。同類の現象が県下で筍出の如く発生しています。もう、本質を弁えた市民運動しかありません。 (M・Mさん)

 コメント.特措法の終了とともに逆風が吹くと予想はしていましたが、M・Mさんのところでは思いのほか強い風になっているようです。「一般市民・議員・行政関係者の一変した傲慢な姿勢」が見られ、「問題の本質を弁えない憎悪と差別丸出し」の言動が見られるとすれば、それはなぜなのか。逆風現象は、三十三年のあいだに積もった「鬱憤」の表われかもしれないし、「問題の本質を弁える」人びとの輪がつくりだせなかった取り組みのあり方の結果かもしれないのです。だとすれば傲慢、憎悪だとして非難するだけではすまないのではないでしょうか。

 敬やん、通信153、ありがとうございました。私は野町さんが好きなので、うれしかったでーす/さいとう純一氏の本は私にはむつかしそう(私の読解力は中学生レベルなり)。でも、「自らがある場所では肯定されているという感情が不可欠」は、私も自分に○(まる)をつけてあげるためにいろんな本を読んできたので、よくわかりました。敬やんの〈「生きる力」は「生き合う」中でしかはぐくまれない〉も、98年に読んだ時には読みすごしてしまったけど、井上まや子さんの関係の中の自立、エンパワメントを学習し、考え、「DV夫を殺してしまったA子さんを支える会」の中で、エンパワメントを体験できた今、改めてストンと私の心に入ってきました。敬やん、私はヘンチキチンですけど、受け入れてくれる仲間にめぐまれて、人が恐いばっかりだった私が、私の宝物は友だちだ、好きな人がおるって気がつけて、幸せです。       (奈良 SUさん)

 コメント.「自らが誰かによって肯定されている」という実感をもつことはほんとに大切だなと思います。「肯定されている」とは、「そのまま、いまのままでいいんだ」と認められること。あるいは「他者から共感・同感されている」という実感をもつこと。その前提には「存在の確認」がある。存在しているのに、存在していないように扱われることほどつらいことはない。いじめで、無視が重要な手段になるのは、そのためでしょう。人と人の関係は「存在の確認」からはじまる。

 通信153、拝読しました。野町さんの投稿、遠慮がちにかいておられますが、最後の部分は大切なことだと痛感しました。      (大阪 Y・Tさん)

 コメント.野町均さんの文章(『朝日』01/11/19)は慎重ではあっても、遠慮がちではないと思います。もし遠慮がちだと受け取られるとすれば、それは、事件もしくは事態の背後に見え隠れする「差別−被差別」関係の、心理をふくめた深層に読み手の関心が向かい、無意識のうちに野町文にそれへの言及を期待するからではないでしょうか。ここは重要なところなので、詳しくは後ほど。

「こわい考通信」ありがとうございました。野町さんの勇気ある文章、大きな共感を呼んでいますね。高知新聞の『黒い陽炎(かげろう)』、当地の新聞にも広告が出ていたので、早速取り寄せて読んだところでした。十数兆円に達する同和予算、利権を産み出す根拠をここに見ます。いま沖縄が基地の県内移転をめぐって巨額の振興費が組まれ、工事費だけでも数兆円といわれています。自民+公明の保守勢力が牛耳っていますが、この絵を描いたのが野中広務、振興費などをちらつかせて露骨に利益誘導しているのが鈴木宗男です。やっと沖縄の政治状況がハッキリと見えてきました。同和対策事業の経験をこの地に生かそうとしているのではないかと思うことしきりです。 (沖縄 師岡佑行さん)

 コメント.わたしも野町さんに導かれて『黒い陽炎』を読みました。興味津々の内容で、いろいろ思うことあり。感想は、これまた後ほど。

「退職と出立」を控えていかがですか。知っておられるかとも思いますが、小森龍邦氏のホームページ「こぼれ話」欄、昨年12月6 日の項に下記のとおりありましたので引用してみます。小生はつい先日知りました。
 「『朝日新聞』に高知県高同教の幹部の「私の視点」欄における主張であったと思うが、先般来、高知県の縫製関係の民間会社に、不正融資を県側が行っていた不祥事についてのことである。『同和はこわい考』の論調を肯定的に引用していたことが気にかかる。『同和はこわい考』は、当時、「部落解放の主体」構築を説いたものに反発していた連中である。全国的に、そのような図式で分布していた。ちょうど「暴力追放」のポスターを暴力団がかくれみのにしていたのと同じだということを知らねばならない。」
 ところで、「こぺる」に先生が曽野綾子の日記を引用され、それについて松井安彦氏が「ひろば」で書いておられます。たいへん考えさせられるトピックで刺激を受けました。いろいろな論者の意見がお聞きできるとよいのだがと思いつつの本メールです。   (高知 野町 均さん)

 コメント.小森さんがホームページを開設しておられるとは知りませんでした。久しぶりに聞く小森節ですが、相変わらず難解というか、意味がとりにくい文章ですなあ。『こぺる』108(02/3) の松井安彦さんの「編集人への手紙−曽野綾子氏の意見について」をめぐって読者から投稿があればぜひ掲載したいと考えています。とくに東京在住の読者から意見が寄せられたらいいのですが。



『「オカマ」は差別か−『週刊金曜日』の「差別表現」事件』(ポット出版、02/2)
●発行にあたって
 藤田敬一さんは一九八七年に発行された『同和はこわい考』(阿吽社、1987年)で、【ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない】【日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である】(同書57頁)という二つのテーゼが「被差別の側」にあることを指摘しました。そして、その二つのテーゼに異論を提出したのです。これは、たぶん初めての異論だったと思います。/そこで提出されたのは、「差別かどうかの判定を被差別者のものにすべきではない」ということだと思います。
 このことは、その後も、柴谷篤弘さんが『反差別論』(明石書店、1989年)などで、小浜逸郎さんが『「弱者」とはだれか』(PHP研究所、1999年)で、問題提起しています。/今回、この本の発行を考えたのは、そうした藤田さんから始まった提起が、初めて「被差別」の側から(今回はゲイという「被差別」の側)行われたと思ったからです。
 『週刊金曜日』に掲載された「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」という記事へのすこたん企画の抗議から、この問題は始まりました。タイトルに「オカマ」という言葉を使ったことなどに対する抗議でした。
 すこたん企画は【「差別される」側がその痛みを何度語っても、「差別している」側にはなかなか通じない、という現実を改めて痛感する場面もありました。】(伊藤悟/簗瀬竜太「私たちが声をあげたわけ」『週刊金曜日』2001年8 月24日号(376号)、12頁)といいます。元編集委員の辛淑玉さんは【少数者(弱者)の生き方を尊重する意識のない者が、どうやって権力とたたかえるのだ?】(辛淑玉『週刊金曜日』2001年7 月6 日号(370号),82頁)といっています。これらは被差別者の判定が尊重されるべきだとの前提にたったものだと思います。
 これにたいして伏見憲明さんなどが、異議を唱えます。『週刊金曜日』への投書であったり、シンポジウムの開催であったり。
 この本はそのシンポジウムを中心に、こうした新しい反差別論の問題提起を記録したつもりです。判定を被差別者に限定するのはやめよう、という考え方にたって編集することにしました。差別を減らすために、そうすることが、今、必要だと思ったからです。一方、被差別者の判定が、尊重されるべきだという考え方も掲載して、読者の皆さんに考える材料を提供することに注力しました。しかし残念ながら、そうした掲載依頼はほとんど断られました。ある考え方にたった本の編集をすることと、反対側の意見をできるだけ網羅して読者に検討材料として提供していくこととは充分に両立すると考えたのですが、現実にはそうした立場は理解されなかったようです。議論はまだまだ成立しないんですね。
 そこでこの本では、可能な限り本書と反対側の意見を読むことができるように、掲載誌やインターネット上のありかを記しました。/この本以降も、引き続いて差別をどう考え、どうやって減らしていくことが可能なのか、またメディアは差別という問題とどうやってつきあっていくといいのか、といったことを考えていきたいと思っています。シリーズ「反差別論の再構築へ」としてです。
          2002年1 月  沢辺 均(本書編集担当・ポット出版)


●いよいよ岐阜大学ともおわかれ。大学の印刷機を使っての本『通信』の印刷もこれが最後です。さよなら岐阜大学、さよなら印刷機。お世話になりました。
「いつも通信を楽しみに、精神的解放感と大いなる刺戟を受けつつ読ませていた だいています」と賀状にあり(岡山 I・Yさん)。『通信』が精神衛生上、いささかなりともお役に立っているとすれば、ありがたいことです。ところでこの方は「“年金生活者”になると、年金の少なさを忘れて凧糸が切れるので、これまた大変です」とのアドバイスもつけくわえてくださいました。退職後は「義理や無理とは無縁の自由な読書渡世の小市民、年金生活者となり、勝手気ままに生きるつもり」と今年の賀状に書いたけれど、そう簡単にはいかんらしい。しかしまあなんとかなるでしょう。「義理と無理」に縛られた窮屈なくらしより、糸の切れた凧のように天空をさまようほうがずっといい。
「人権問題のエッセーは大分書きとめてあるのですが、『売れない』という理由で出版してくれません」。著述業の方からの賀状の一節。人権関係の本は売れないから出さないのは、商業出版社として当然の論理でしょう。ほんとに自分の考えを世間に知らせたいのなら、私家版でお出しになればいいのにとわたしなんかは思ってしまう。最近読んだ生田耕作『ダンディズム』(中公文庫、99/3)の後記に「〈感情の垂れ流し〉と、〈服装のよごれ〉が、カッコイイとかいう国籍不明の言葉によって持て囃(はや)される今の世に、ダンディズムの掲げる〈寡黙〉と〈潔癖〉の理想は、所詮アナクロニックなしろもの、顧みられるべくもないのはもとより自明の理、本書もまた多くの読者を期待していない」とある。だから生田は自著を世に出すべくみずから出版社を設立した。著述家はかくあるべきで、商業出版社が出してくれないなどと泣きごとをいってはいけません。
最近読んだ本から   朝日新聞西部本社社会部『土地ころがし』(葦書房、82/12)のつづき。本書には福岡県同和教育研究協議会会長 林 力から出された「朝日」にたいする「質問書」も収録されている。その第一に「部落問題の『負』の 部分に対して(略)熱意と執念を燃やし(ながら)『正』の部分への積極的な報道、日常的な取材活動があまりにも少なかっただけに、その意図について、まったく図りかねる」。第二に報道は『結果的には、読者の誤った認識をさらに拡大、凝縮させていくという、役割を果たすに違いない。」そして第三に「今次の報道のあり方は、部落差別とは何かについて本当は分からないまま、すべてを事件という視点で把え、部落問題の本質について分かろうとしないまま、筆をとりつづけた、というのが、二十数年にわたって、部落問題に関わり続けようとしてきた、わたしたちの偽らざる感想であります。そして、このような貴社の姿勢と対応が、結果的には、差別の拡大助長に大きな役割を果たす一面を思わざるを得ません。」 
 第一は報道する資格への問い、第二はいわゆる「差別の拡大助長」論、そして第三は部落問題にアプローチするために必要な「心構え」論。しかし、こうした意見こそ人びとの意気を萎えさせ、ものをいわなくさせたのだった。運動や団体のありかたについて意見をいうのに条件はいらない。ところが意見をいう人の資格や立場を問うことによって批判を拒否し、かくして部落解放運動と部落解放同盟は「裸の王様」になった。それにしても、「質問書」の文章には生気がない。「負」の部分にまともに立ち向う気概がないからだろう。自分たち福岡県の同和教育にかかわってきた教員は「自らの五感を現場にぶっつけ」、「差別の中にある人々との痛覚の共有への肉迫ともいえる作業」をおこなってきたという、よくいえば自負、ありていにいえば「思い上がり」にはむしずが走る。
  「一地方の同和対策事業をめぐる不祥事件、金融などをめぐる刑事事件は、またたくまに全国に伝播され、結果としてどれほど部落解放運動、部落解放同盟の社会的信頼を傷つけたことだろう。(略)『こがね虫は金持ちだ、土地転がして家建てた』と新聞漫画にかかれ、子供たちが学校ではやされてもかまわないというのかと、ひとり憤慨したこともあった」と『こわい考』に書いたが、これは北九州市における「土地ころがし」をふまえている。あれから十五年、事態はどうなっているか。それを考えると暗澹たる思いにとらわれてしまう。
『通信』のインターネット版(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/9391/)が昨年七月から友人によって開設されています。わたし自身九月の交流会ではじめて知りました。「複製歓迎」だからいいんです。でも、わたしはこのかたちの『通信』をつづけます。切手を貼って出す。これが楽しいんだなあ。
2 月17日から2 月28日まで、京都、山形、兵庫、岐阜の延べ5 人と岐阜の1 グループから計41,330円の切手、カンパをいただきました。ありがとうございます。支出は封筒と郵送費(154号)計39,265円。本『通信』の連絡先は、〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-mail<k-fujita @h6.dion.ne.jp>,郵便振替<00830-2-117436 藤田敬一>)です。(複製歓迎)

※管理人注:郵便振替番号を修正してあります。