同和はこわい考通信 No.135 1999.7.20. 発行者・藤田敬一

《 再録 》
○藤田 敬一「矢田の運動に期待するもの」
     (部落解放同盟大阪府連矢田支部『矢田支部結成40周年記念誌』99/6)
 矢田支部が結成された1958年は、わたしにとっても忘れられない年です。勤評反対運動を報じる記事がきっかけになって部落問題に関心をいだき、京都市下京区河原町七条西南角の部落問題研究所に出かけたのは58年6月のことでした。そこで、木村京太郎さんから「部落問題を勉強するには本を読むことも大切やけど、未解放部落へ行って、人びとの暮らしぶりを見、人々の思いや願いを聞かせてもらうことが肝心やよ」とさとされ、名詞の裏に紹介状を書いてもらったのでした。紹介状を持って京都市左京区田中の朝田善之助さん宅を訪れたのは一ヶ月後の7月中旬のことです。/振り返ってみると、それからの40年は木村さんのアドバイスを、わたしなりに休み休みしながら実行してきた歳月だったように思います。京都、大阪だけでなく各地でたくさんの人びとと知り合い、「人間と差別」について貴重な勉強をさせてもらってきました。
 いま住専管理機構の社長をしておられる中坊公平さんに関する本を読んで共感を覚えるのは、中坊さんが弁護士としての活動はもちろん、全てにわたって「現場」を大切にしているということです。木村さんのおっしゃったことも同じなんです。「現場」という言葉は関係者以外立入禁止という感じがしてイヤですが、要するに本や活字からではわからない微妙な人間の機微みたいなものが伝わり、それが硬直した認識を改めさせるということではないでしょうか。
 さて、こうしてわたしは学生時代から部落解放運動にふれるようになったのですが、矢田で学ばせたもらったことはいっぱいあります。60年夏の総合実態調査はいうまでもありませんけれど、その後のつながりのなかで、わたしは二つのことを教えてもらったように思います。
 一つは、「足を踏んでいる者には、踏まれている者の痛さがわからんところがある」というものでした。その痛切で深い意味をすぐに理解できたわけではありませんが、「人の不幸は、いくらでも辛抱できる」、「人の苦楽は、壁一重」、「人の苦労は、鴨の味」と同様、人間の限界をつきつめたところから出てくる言葉であることはおぼろげながら受けとめたのでした。ただ、急いで付け加えますが、これと「足を踏んでいる者には、踏まれている者の痛さはわからない」とは、根本的に違います。前者には「足を踏んでいる者」のなかに自分も入っていることの自覚があるのに対して、後者にはそれがなく、「足を踏んでいる者」と「足を踏まれている者」との二項対立的発想がある。ここからは、「部落民でない者に、なにがわかるか」という対話拒否しか生まれない。しかし、わたしが矢田で教えてもらったのはそうではなかった。自分が人さまの足を踏んでいるかもしれないという自覚、人の苦しみ、悲しみ、憂さ・辛さに無関心のままに生きてゆける人間であるという自覚を持てということでした。もちろん、矢田にも面と向かって「部落民でない君に、なにがわかるか」といういう人もいましたが、大方の人はそうではなかった。「わかってほしい」という思い・願いと、「わかりたい」という思い・願いが出会うことが肝心なのです。
 二つ目は、「人間にとってなにが大事か、よう考えるように」と教えられたように思います。大きな家に住み、きれいな服を着て、漢字や横文字などのむずかしい言葉が使いこなせる学歴を持つことが大事なのかどうか、ということでした。あのころの矢田の暮らしはきびしかった。そんななかでも人間にとってなにが大事かを考えようとしている人がいる。人間は、財産や外面や学歴ではない。世間のものさし、価値観に抗する人びとがいる。豊かとは決していえないけれど、飾り気のない、個性的な人間の魅力が生地のままで闊歩している町に、わたしは引きつけられたのでした。虚飾と傲慢と無責任を絵に描いたような世界に住みつつ、ちょっとばかりそこからずれることがでるのは、若いころに矢田を初めとして各地で部落解放運動にふれたおかげだと思っています。
 ところで、矢田はこの40年間、変貌しつづけてきました。それは、運動としての活力がれずにあったことの表われでしょう。そんな矢田の町を見ると、わたしは深い感慨を抱きます。そこには、先輩たちの願いが詰まっているからです。
 行商と雑業の暮らしでは明日への希望が持ちえないのも無理からぬところがありました。ときには、殺伐とした人間関係で傷つく人もいたし、ヤケになる人もいた。しかし、部落差別事件をきっかけに運動の芽が出てきます。なぜこんな差別があるのか、差別は部落の責任か。なぜ部落は貧しいのか、貧しいのは甲斐性がないからか。自らに問い、人に問うなかから取り組みが進みます。自動車運転免許証取得の取り組み(55年)、金属屑条例反対闘争(56年)、住宅要求期成同盟(58年)、生業資金獲得闘争(58年)、そして矢田支部の結成…。
 矢田の運動は、なによりも部落差別にたじろがず、きちんと向き合うなかでつくられてきたし、暮らしに押しつぶされず、暮らしを変える取り組みをすすめるという部落解放運動の大道を歩んできました。その成果には大きいものがあることはいうまでもありません。しかし、成果に酔いしれることなく、それが部落問題の解決に資するものであったのかどうかをいま真剣に問おうとしている姿勢に、わたしは感銘を受けます。
 貧しさからの解放を求めて数多くの事業がなされました。それらは部落差別からの解放につながるはずだと信じられていたのです。ところが、周りの人々の眼差しに根本的な変化が起こっているようには見えない。個々人の暮らしは全体的な経済の高度成長もあって豊かになったけれど、人間関係が豊かになったとはいえないのではないか。これまでの成果をふまえつつ、部落差別からの解放とはなにか、どうすれば部落解放が達成できるのかを、自分の言葉で考えなければならないのではないか。……
 こうした問いは、当然のことながら、いわゆる部落解放運動第三期論と重なっています。わたしの考えでは、第三期論とは、

1)豊かさの中味を考える。
2)自分のことを、人のこととつなげて考える。
3)人と人との出会いとつながりを、血の通った人間らしいものにする。
4)内にこもらず、開かれたつながりを作り出す。

の4点にしぼられます。
 矢田支部が結成40周年をきっかけに、部落解放運動とはなにをめざす運動なのかを明らかにしつつ、これまでの発想・理論・思想を大胆に転換して、より広く、より深く「部落解放の人間的基礎」を追求すること、そして自らをおとしめ、疑い、軽んじ、理想を引き下げるのではなく、毅然とした自尊心と他者に開かれた精神を持った運動をすすめ、第三期部落解放運動の先導を担うことを心から願っています。

コメント.
 人には忘れられない、忘れてはならない場所がある。わたしにとって矢田はそのひとつです。寄せてもらうようになっておよそ40年、部落解放運動の現状と課題について率直に意見交換しあえる関係が持続できたことは幸せでした。『同和はこわい考』の出版以降も矢田は、わたしの意見を聞こうとしてくださいました。これはほんとにありがたかった。
 人は、日々人と出会っているけれど、それが「つながり」になることはまれではないでしょうか。「つながり」は、双方が求めあってはじめて成り立つものであり、片方だけではダメなんですな。矢田とのつながりはときに太くなったり、ときに細くなったりしましたが、40年も持続できたというのは、矢田のみなさんの度量によるところが大きい。こうして支部創立40周年記念誌に寄稿できたこと自体、わたしの生のあかしでもあると思ってます。

○藤田 敬一「松永さんのこと-志・思想・人物について」
  (福岡水平塾双書②『松永幸治氏を悼んで』99/6)
 『こぺる』76号(99年6月)のあとがき「鴨水記」に、わたしはつぎのように書きました。

いまにして思えば、松永さんは、いかがわしさがつきまとう多数、中心から距離をとり、少数、周縁に身をおこうとしておられたようです。福岡水平塾を主宰なさったのもその表われに違いない。

松永さんが自らの位置を「多数、中心」から「少数、周縁」へ移動なさった背景にどのような事情があったのか、詳しくは知りません。松永さんは、おのれを語ることに禁欲的なように思えたので、聞こうともしませんでした。
 ただ一度だけ、福岡駅に向かう道すがら、松永事務所の閉鎖をそれとなく洩らされたことがあります。それは松永さんにしてはめずらしいことでしたが、わたしは「そうですか」と答えたまま黙っていました。松永さんもわたしも、つきあいに一定の距離をおくことを暗黙のうちに了解しあっていたようです。
 この「一定の距離」というのが、肝心なんですね。わたしはどうも距離の取り方がヘタで、ついつい近寄りすぎる癖がある。近寄りすぎて喜怒哀楽の呼吸まであわせたくなり、おかげでいい関係をだめにした経験がいくつかあります。松永さんと「一定の距離」を保つようになったのは、その経験のせいかもしれません。もちろん、松永さんの人柄に助けられてのことですが。
 また、松永さんは、自分は理論家ではないと述懐なさったことがあります。人には、それぞれ得手不得手があるもので、文章を書くのが得手の人、しゃべるのが得手の人、理論的に意見を展開することが得手の人、行動することが得手の人がいる。重要なのは、そこに志、思想があるかどうかでしょう。志、思想は、生き方の中にあるものです。その点で松永さんには米田 富さんと共通するところがあり、だからこそ人を惹きつけてやまなかったのではないででしょうか。
 まわりを見渡しても米田さんや松永さんのような、人を包み込む度量のある、個性的で魅力的な人物が少なくなったように思われてなりません。こじんまりして、こせこせした人が幅を利かせている。そんな人が主唱する運動なんか高がしれています。松永さんを失ったことの意味は、そのうち必ず明らかになるはずです。

コメント.
 この4月に急逝された松永幸治さんを追悼するために編まれた福岡水平塾双書②に寄稿したもの。同書には、97年10月の第14回水平塾における「松永幸治さんを囲む座談会-戦後の福岡市における部落解放運動」のほか、みなさんから寄せられた「思い出」の記、「写真に見る松永幸治」、略歴などが掲載されています。ご希望の方は、北口忠さん(〒813-0021 福岡市東区みどり丘3-25-10 、電話とファクス092-691-5513)まで。一部500 円(送料別)です。

《 採録 》
○「部落民」をめぐって危険な動き
  (横浜国際人権センター『語る・かたる・トーク』Vol.51[99/5/20])
 同和問題をめぐる被差別者とは誰をさして言うのか。これは簡単なようであるが、実は非常にむずかしいことでもある。このために、最近、「部落民とは何か」という論議が、主に部落史の研究家たちによって活発に交わされている。それは、これまで、この問題をあいまいにしてきた結果であると言うこともできるであろう。
 世間一般には、同和地区内に住んでいる人たちは部落差別の被差別者であると考えられてきた。外から見れば、そのように見える。だが、具体的に検証してみると、同和地区内で散髪店を開いたり大衆的な食堂を経営している人も同和地区の出身者であるかというと、そうでない場合も多い。/こういう人たちは、「おれは部落民ではない」と思い続け、わが子の進学や就職、結婚問題をひかえたり、商売が順調にいかない場合は、さっと同和地区外に引っ越してしまう。つまり、そこに住んでいることが決め手ではないのである。
 典型的なのは「混住地域」と呼ばれるところであろう。同和地区出身者とそうでない人たちが三対七、または四対六の割合で住んでいる地域もある。こういうところは「同和地区」と呼ぶこともできるが、できないところもある。決め手は法律によって同和対策事業を実施するための地域指定がなされているかどうかである。仮りに「同和地区」の地域指定が実施されても、ここに住む同和地区出身者でない人たちは、自分を「部落民」とは認めていない。
 さらに東北地方や北陸の一部のように、行政や解放運動団体から、明らかに同和地区であると認められ、差別の対象になっていながらも、ここに住む人たちが、こぞって「部落民」であることを強く否定し「ここは同和地区ではなく、自分たちは被差別者ではない」と主張し続けているところもある。
 こうした実情にたいして部落史の研究者たちは「研究」の名目で「部落民とは何か」ということを、はっきりさせたがっているようである。このために岐阜大学教授のF氏は最近「部落民とは何か」という単行本を出版。東京のある出版社は月刊誌で同名の「部落民とは何か」の大特集を組み、かなりの数の研究者や大学教授らを参加させている。同じテーマでシンポジウムも開かれている。
 この問題を議論すると、研究者や学者の“立場”によって大きく二分される。同和地区出身者の側の議論と当事者から一歩離れた立場からの議論と主張である。
 今、この論争に参加している研究者の大半は同和地区出身者の側に足をおいた人たちであるが、その主張や見解には、かなり“危険な要素”が見受けられる。一言でいえば、「部落民」であることを徹底的に無視し、隠し続けたらいいという主張が目立つからである。
 当事者の立場に立てば、その心情は理解できないわけではない。しかし、それで通せられるであろうか。本人が無視しても同和地区出身者にたいする差別は執拗に迫ってくる。身元調べも依然として続けられている。それはまさに“丑松的発想”であると言わなければならない。そこからは部落解放への運動は生まれてこないであろう。後ろ向きの議論であると言うべきである。
 そういった学者・研究者の主張の行き着くところは、「差別、差別と言う必要はない」「部落の解放運動も不必要である」「部落民の側が我慢をすれば、いずれ差別はなくなる」ということであり、現にシンポジウムの討論では、かなりの研究者が、そのことを明言している。これでは、戦前の融和時代への逆戻りではないか。これは危険な動きであると言わなければならない。/問題の本質は、そんなところにあるのではない。もちろん「部落民とは何か」の定義を明確にすることの大切さは否定しないが、研究者の最大の課題は、「同和問題をいかに解決させるか」というところになければならないはずである。同和地区出身者が社会のなかで隠れて生きればいいという問題では決してない。誰が、なぜ、どのように差別しているか。加害者的立場の人びとをどうするか、ということである。
 しかも残念なのは、そのような、“丑松的発想”の主張にたいして、立場を異にした研究者は少数であり、まともに反論していないことである。
 学者・研究者の主張は影響力が大きい。とくに名の知れた大学教授の見解となると、ある程度の説得力があるように見えるかもしれない。これらの学者・研究者の主張は「研究結果」という名目で、さらに強まることが予想されるが、私たちは問題の本質を決して見失ってはならない。(青)

コメント.
 『「部落民」とは何か』をきちんと読んだとは思えない批評です。読んだのであれば、討論参加者を部落史の研究者だとか学者だとか書いたり、『「部落民」とは何か』と『現代思想』の特集タイトル「部落民とは誰か」をいっしょくたにしたりするはずがない。「何か」と「誰か」とでは問題の立て方に根本的な違いがある。それに気づかないのは、いいかげんに読み飛ばしたからでしょう。ただ、わたしたちの議論が危険だとする考え方が興味深いので、全文を採録しました。
 筆者によれば要するに、現在の議論は「『部落民』であることを徹底的に無視し、隠し続けたらいい」と主張して「丑松的発想」を鼓吹し、「戦前の融和時代への逆戻り」を画策していることになるらしい。それが完全な誤読、誤解にもとづくことはさておき、筆者は議論のなかに、これまで主張されてきた「部落民=同和地区出身者=当事者」としての、強固な様相を呈しているかに思われてきた自明の自己像、存在根拠を揺るがし、ついには「被差別の立場」の動揺、したがって部落解放運動における発想・理論・思想の枠組みの動揺に連動する“危険な要素”を感じとったようです。その危険の感受は、ある意味で的確です。運動団体に属する人ほど「部落民とは何か」という問いに戸惑ったり、拒絶反応を示す傾向が強いのは、直感的に自明世界の動揺を避けたいという心理が働くからでしょう。『「部落民」とは何か』のあとがきに「自明とされる〈存在〉について問いを発することから根源的な思索は始まります。もっともそんな思索を始めたとたんに常識世界にまどろむことは許されなくなり、自らの存在根拠が揺らぐ危険性すらある。人は誰しも危険を犯したがらないものなのです」と書きましたが、筆者が感じとった危険性とは、実は「自明・常識世界」が動揺することへの危機感に発するに違いありません。
 筆者の言いたいのは、「加害者的立場の人びとをどうするかが問題の本質だ」ということに尽きる。どこかで聞いた覚えのある物言いです。そう、小森龍邦さんが好んで使う啓蒙主義的レトリックです。この「部落民=同和地区出身者=当事者」と「加害者的立場にある人びと」という二項対立的図式と発想が「人と人との関係」を切り裂き、ゆがめ、ねじれさせてきた一因なのです。そのことの自覚を欠いては「問題の本質」など見えるわけがない。

○研究誌から-『こぺる』・部落史は終わったか-師岡佑行さん   (『部落解放運動情報』№35,99/6/20.)
 『こぺる』の2月号と6月号で師岡佑行さんが「部落史は終わったか」と題し畑中敏之さんの批判をしている。ここまで気合いを入れてイケずっぽく批判するのか、理解できない。師岡さんは「少女が部落民であることを初めて知ったとき、どうしてみずからが『どん底』にあり『ここから落ちることはない』と考え、『これ以上のショックはきいひんやん』と悲痛の思いを抱いたのかを思わないではいられない。これが部落差別の結果であり、まぎれもなく90年代の部落問題であることを否定することは誰にもできまい」として近世政治起源説の「罪」を指摘する(2月号冒頭)。この展開は論理が飛躍しすぎのように思う。少女が誰からどのように「部落(民)」を聞いたかを検証せず、結論づけてよいのか。何より少女自身の生き方(-思想)を問う回路はどう確立されていくのだろうか。人生には部落だと聞いたとき以上のショックなどいくらでもころがっているのに。(誌面に)貼付した箇所(『こぺる』6月号12頁)の「共感」についての展開もいささか、のめりこみすぎではないか。もしかしたら、師岡さんはエキサイティングな「論争」を求めているのでしょうか。
 畑中さんの著書『「部落史」の終わり』には確かに「そうやろか」という箇所もある。でも「あとがき」の「《被差別者》というレッテルが本人の自覚を装ってじつは他から強制されることへの不条理を批判してきた、(略)強制された同質性を前提にした人間観の克服が重要」「その人が《誰》であるのかという立場(部落解放運動や政治的な立場)がまず議論の前提とされてその人が《何》を言おうが、そのレッテルで評価されてしまう(略)、これでは研究も運動も前進しない」の意見に私はとても共感しているのだが。(F)(一部、藤田補足)

《案内》-第16回部落問題全国交流会-人間と差別をめぐって
 日 時:9月11日(土)午後2時~12日(日)正午
 場 所:大谷婦人会館[大谷ホール](京都・東本願寺北側、TEL 075-371-6181)
 講 演:三橋 修さん(和光大学)
 分科会:住田一郎さん「部落問題の現在」・戸田二郎さん「障害者から見た部落問題」
     ・広岡浄進さん「部落青年の現在」
 申込み:8月27日までに阿吽社(TEL 075-414-8951,FAX 075-414-8952)へ。

《 川向こうから 》
●お変わりございませんか。わたしは相変わらず。各地へ出かけて話をさせてもらったり(先日は高知・四万十しまんと川上流の高校へ行ってきました)、山小舎でのんびり本を読んだり。夏休みは本がまとめて読めるのがうれしい。「なんとも呑気な暮らしじゃのお」などと言わんでくださいね。例の水と本は、わたしには欠かせないんです。欠けば、腑抜けになること必定で。アハハハ。

●『こぺる』について報告します。7月19日現在、3月4月切れの人は50人ほどですが、それに匹敵する新規申し込みがあって、なんとか第三種郵便物認可限度部数は維持できました。お力添えに感謝します。ある人から「義理でも無理でもありません。今まで購読しなくてすみません」とあり。ああ友情とはありがたきもの。いかんぞ祝盃をあげざるべけんや。てなわけで一人で乾盃した次第。

●本『通信』の連絡先は〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一(郵便振替〈00830-2-117436 藤田敬一〉)です。(複製歓迎)

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