同和はこわい考通信 No.134 1999.6.17. 発行者・藤田敬一

《 採録 》
○灘本昌久『ちびくろサンボよ、すこやかによみがえれ』(径書房、99/5)
第5章 反差別の思想[被差別の痛み論批判]
  ▼同和はこわい考
 いまから十年ほど前の1987年、岐阜大学教授の藤田敬一氏が著した『同和はこわい考』が阿吽社から出版された。この本は、さまざまな反響をよんで刷りを重ね、現在に至っている。差別問題に関する本は、たいていが建前、きれいごと、古くさい議論のくりかえしで、多くの人に飽きられているが、『同和はこわい考』は、そうした沈滞とタブーを打ち破ったまさにエポックメイキングともいえる本であった。
 では、『同和はこわい考』が提起した問題とはなにか。それを一言でいうなら、差別からの解放は、差別する側が反省して差別をやめれば達成できるというような素朴なものではなく、人間のもつ「差別/被差別」の構造総体を問題として、差別する者と差別される者が「両側から越える」ことでしか達成できないということであった。藤田氏は『同和はこわい考』のなかで、「随伴的活動家=被差別者との主体なき自己同一化」「無限責任を負わされることに対する恐怖による被差別者への全面拝跪」「被差別者を絶対正義とした対話の拒絶」という問題点を指摘、さらに「差別の痛み論」「差別の結果論」(注 被差別者本人が責任を負わなければならないことまで「差別の結果」と主張し、差別されていることを理由に自己正当化すること。前掲『同和はこわい考』66頁参照)を批判した。そして、失われた人間関係をつむぎなおすための障害となっている、さまざまな反差別思想の歪みや、反差別運動の呪縛の論理を次々に暴いていったのだ。
 しかし、『同和はこわい考』のなかで提起されたこともさることながら、さらに重要なことは、「被差別者の真の友とはなにか?」ということに対する回答を、『同和はこわい考』を出版することで藤田氏が身をもって提起したということにある。それは、「差別される痛みは差別された者にしかわからない」という言葉に象徴されるような「体験、立場、資格の相違を固定的に考えて相互の対話は不可能だ」(注 前掲『同和はこわい考』59頁)とする立場にたって、被差別者を擁護したり、擁護を強要したりする態度こそが、むしろ差別を強化する場合もあるということだ。だからこそ、「差別だ」という指摘に異があるならば、言うべきことは言うべきときに、あらゆる危険を冒して──たとえ被差別者から非難されようとも──言わねばならないのである。ここには「立場性の問題」といわれるひとつの大きな問題がある。それは、人びとを「差別者/被差別者」というふたつの立場に固定し、被差別者が「差別される痛み」をもちだすことで特権的に批判を回避したり、あるいは特権的に相手を断罪したりすることができることへの大きな警鐘であった。
 藤田氏のこのような捨身の行動(注 藤田氏は、この『同和はこわい考』の出版にあたって、多くの被差別部落民から抗議を受けることを予想していたし、また現実に抗議を受けた。)に触発されて、また『同和はこわい考』を読んで感じたさまざまな思い──むろん、否定的なものも含めて──をまとめて出版されたのが、『同和はこわい考を読む』(こぺる編集部編・阿吽社・1988年)である。この『同和はこわい考を読む』によせられた文章の多くが「差別/被差別」という立場性の問題に集中していたことは、いかにこの問題が、現在、反差別論のネックになっているかを象徴している。この立場性の問題については、部落問題はいうにおよばず、女性問題、朝鮮人問題、障害者問題、労働運動などのさまざまな領域で問題を考えている人たちが、「実は、私も『差別される痛み』という手を使ってきたけど、もうあかんみたい」というぐあいに次々と発言し、「被差別の痛み論」が差別される側にとっても有害な抗議手段となっていることを、白日の下にさらけだしてしまったのである。『ちびくろサンボ』について書いた本書は、こうした議論の延長線上にある。(190頁~192 頁)

コメント.
 「【捨(て)身】 自分の生命を投げ出すほどの覚悟で、全力を注ぐこと」と辞書にはある。12年前、『こわい考』の出版にあたって相当緊張していたことはたしかだけれど、「生命を投げ出すほどの覚悟」があったかというと、それは大いにあやしい。灘本さんの表現は、ちょっとオーバーです。
 ところで、上掲書で灘本さんは「痛み論」について具体例を挙げて論じていますが、わたしもそこに人間存在の根源にかかわる大きなテーマがひそんでいることには気づいていて、あれこれ本を読んだり、考えてはきたものの、いまだに焦点がぼやけて像が結びません。たとえば細見和之『アドルノ-非同一性の哲学』(講談社「現代思想の冒険者たち」第15巻、96/7)にも、ジャック・デリダの「分割=分有」という概念を使って、

他者の痛みから自分が切り離されていると感じるとき、実はぼくらは同時にその痛みを何らかの意味ですでに『分有』していると、言えるのではないだろうか。(略)ぼくらは他者の痛みから単純に切り離されているのではない。ぼくらの五感は常にすでに、むしろ否応なく他者の痛みの『分有』へと開かれている、と言うべきなのだ。ぼくらの身体とその記憶には、すでに多くの他者がすまわっている。その意味で、ぼく自身が無数の『他者』なのだ。(略)この『他者』の記憶を、ぼくらの五感と思考の全てをあげて解き放ってゆくこと、それこそが、ぼくらがぼくら自身の新たな思考と経験にむけて踏み出してゆくための、第一歩であるにちがいない。(286~287 頁)。

とある。えらく力んだ文章だが、著者の言いたいことが鮮明には伝わってこない。しかし、そのように感じるのは、わたしが哲学や現代思想にうとくて発想があまりにも〈現実〉密着型であるからかもしれません。もう少し考えてみます。

○書評・藤田敬一編著『「部落民」とは何か』
     『ひょうご部落解放』99年5月号
 本年の部落解放同盟五十六回大会でも、高橋書記長から「巷間では『部落民とは何か』という論議もあるようだが、理論的な問題を整理していくために『中央理論委員会』を再開したい」という話もあった。/最近、「部落史の見直し」論議を含めて様々な問題が提起されてきていると思う。/時代は大きく動きつつあるし、これまでとは質的に異なるのではないかと思われる深刻で長期的な不況が続く中では、時代に見合った展望を切り開いていくためにも「中央理論委員会再開」は待ち望まれていたものである。
 さて、本書であるが、月刊『こぺる』を主宰する藤田敬一氏を中心に、「部落問題全国交流会」という、年一回の勉強会が既に十四回続けられていて、昨年の分の記録である。/パソコン通信でのアナウンスもあったから参加したい想いもあった。誹謗中傷をもって同盟攻撃を繰り返す連中とは違って、それなりに誠実な論議が交わされているからだが、スケジュールが詰まっていて断念せざるをえなかった。実際の運動課題に追いまくられ、腰を据えて自身を振り返ることもなかなか出来ぬが、運動の外側の人々の意識を「鏡」として、そこに映る「わが身」を眺め、考えてみるのも必要なことではあろう。/いささか、その「鏡面」は歪んでいるかとも思えるのだが。/この「交流会」は「自分以外の何者をも代表しない」という立場をモットーにおいて、端から一定の結論に収斂されていくことを予定していない。/問題点が様々に表出されていて、読者は自分なりにそれらと向き合って、自分なりの「答え」を見つけなければならない。
 藤田氏は「資格・立場の絶対化と、差別-被差別の固定化に気づかず、対話の途切れと関係のねじれ・ゆがみに無頓着である限り、人と人との関係を変えようがない」(185頁)と言う。『同和はこわい考』以来、一貫した主張だが、これには根本的な疑問がある。例えば、「足を踏まれている者の痛みは分かるまい」として、藤田氏自身が運動側から切り捨てられてきたという話についてであるが、彼はその経験を過大に評価し過ぎている。「痛みが分からない」ことなど当たり前なことではないか。そう言われて何故、屈服する必要があろう。運動の場面で、そのような台詞が吐かれることがあったとすれば、吐いた本人の力不足ということであろうし、藤田氏についていえば、自身の思いを相手側の伝える力の不足ということでしかない。それらのことは、粘り強い努力の積み重ねで克服しうることであり、是非にもそうすべきことである。
 「立場の絶対化」とか「差別の『判定基準』は部落の側だけにある」などという主張を運動側がしているように言われるが、誤解という外ない。/部落の内側でも、女性や民族・障害者等に対する差別は、たいへん根強いものがある。自らの被差別の経験や、それに由来する感情を対象化しえず、他者への攻撃に「救い」を求める態度は、言ってみれば「自然」なことだからである。/そのことを強く意識し、その克服を目指してきたからこそ、部落解放運動はあらゆる差別に反対する運動の先頭に立ってこれたのだと思う。/全般について、理論的な問題を取り扱う態度としては、いささか厳密性を欠いていると言わざるをえない。/「両側から超える」などという情緒的・文学的表現は、かっこよく聞こえても、その実、何も語っていないに等しいのではないか。
 『比較サベツ論』の著者で、私の好きな柴谷篤弘さんも参加されていて何度か発言されているが、ほとんど無視されているみたいだ。彼などは、最近の分子生物学やフランス哲学(特にフーコー)の到達点を踏まえて、たいへん考えさせられる仕事をなされてきておられると思っているが、他の参加者には、そのあたりのことが理解されていないかに見える。
 いずれにしても、部落問題について言及する人々の多くは、この国の歴史の総体の中に問題を位置づけて考えていくという姿勢が弱い。また、その方法も、形式論理学の枠を超えられていない。/今は「はやらなく」なったけれど、私などは、マルクスの「唯物論弁証法」がやはり正しいと思っていて、そういう立場から積極的な発言をしていきたいと思っている。
 ちょうど、わが同盟兵庫県連でも「総学習運動」が提起されている折でもあるが、古い理論の単なる学習ではなく、未来を切り開いていくようなものとして、組織の内外で大きな論議がまきおこされることを期待する。  (杉岡康次郎)

コメント.
 筆者の杉岡さんは部落解放同盟兵庫県連の活動家のようです。そのような人が、部落問題全国交流会に参加しようかなと考えたり、『「部落民」とは何か』を読んで感想を書いたり、さらには『こわい考』を批判してくださったりしたことにちょっと驚くとともに、うれしくなりました。異なった意見を呈示しあって議論する気風というか、古い言葉でいえば作風を好まない活動家が多いように思っていたものですから。しかし、せっかくのご意見ですが、わたしとしては同意するわけにはいきません。
 杉岡さんは、藤田の主張は自らの力不足を脇においた議論であり、運動にたいする誤解にもとづくものであって、「理論的問題を取り扱う態度としては、いささか厳密性を欠」くうえに、「『両側から超える』などという情緒的・文学的表現は、かっこよく聞こえても、その実、何も語っていないに等しい」と一蹴する。こうした批判は『こわい考』の出版当初からあり、「どうして活動家には、まわりが見えないのか」と、憮然たる思いは如何ともしがたかったのですが、杉岡さんの意見にも同じ感想をもちます。
 部落解放運動のなかで、「差別判断の資格と基準をめぐる立場・資格の絶対化と、差別-被差別関係の固定化」などお目にかかったためしはなく、「対話の途切れと、関係のゆがみ・ねじれ」など一切ないと言い切り、被差別部落の生活実態の改善が進んだにもかかわらず、また教育・啓発が幅広く取り組まれてきたにもかかわらず、被差別部落とそこに住む人びとへの眼差しに根本的な変化が起こっていないのはなぜなのかを問おうとせず、また部落差別とは何か・その実態はどうなっているか・部落解放とは何か・どうすれば部落解放が達成できるかといった部落解放運動の基本問題について開かれた議論が起こらないのはなぜなのかを問おうとしないなら、遅かれ早かれ部落解放運動の存在根拠そのものが崩壊する事態を迎えることになるに違いありません。
 活動家としての自負のせいでしょうが、「部落解放運動はあらゆる差別に反対する運動の先頭に立ってこれた」と自賛したところで、そして同盟の運動だけが部落解放運動だと見なして、「運動の外側の人々の、歪んでいるかとも思える『鏡面』に映る『わが身』を眺め、考えてみるのも必要なことではあろう」と余裕たっぷりに構えたところで、事態は何も変わらないのです。まして部落問題と部落解放運動をめぐる、これまでの発想、理論、思想の枠組みをめぐって議論をしているときに、その内容に踏み込まないで、分子生物学、フランス哲学、フーコー、形式論理学、唯物論弁証法といった語句を持ち出してもしかたがない。
 わたしは、杉岡さんのように部落解放同盟中央理論委員会の議論に期待をかけたりしないし、彼らに「理論的な問題を整理」してもらうつもりもない。だいたい、「巷間では『部落民とは何か』という議論もあるようだが」との高橋書記長の発言からして、部落解放運動の発想や理論、思想を根底から検討しようとする意欲、意志が感じられないではありませんか。杉岡さんは「唯物論弁証法という正しい立場から積極的な発言をしていきたい」という。どんな内容の発言になるのか見当もつきませんが、公表された段階で感想を述べることにします。

○ 大谷 強「一人十色:安易なコピーの風潮が市民活動をつぶす」
      (http://www.ops.dti.ne.jp/~t-otani/)
 藤田敬一さんが編集責任となって、毎月発行されている『こぺる』という雑誌がある(発売元 阿吽社 京都市)。表紙を含めてわずか18頁でパンフレットのような体裁ではあるが、部落差別について固定観念を打ち破ろうとピリッとした文章が1つか、2つ掲載されている。編集・発行は「こぺる刊行会」という市民の自主組織である。99年5月号で、藤田さんは、後書きにあたる「鴨水記」で新規購読を呼びかけられるとともに、「ところで興味ある文章だけをコピーしてすます人が役所なんかに結構いるらしい。そういう人を見かけたら購読を勧めてほしいな。『こぺる』は複製歓迎を標榜していないのですから」と、書いている。
 藤田さんの訴えは他人事ではない。私が代表をつとめてきた「ノーマライゼーション研究会」は、99年4月29日に最後のシンポジウムを行い、15年間の幕を閉じた。なぜ解散するのかという理由の背景には、このままでは研究会組織を継続できない財政問題があった。最後の集まりを予告した機関紙『共生の理論』(第23号)で、私も藤田さんと同じ内容を、冗談めかして書いた。(略)
 かつて中西準子さんが中心になって、水問題について社会に発言し、具体的な改善を提案していた下水道問題連絡会議があった。その編集発行になる『水情報』(略)でも編集後記で「お願い、コピーをやめて!」と、毎回訴えていた。下水道問題連絡会議の機関誌を読む人は、公害・環境問題に深い関心を持っているだけでなく、これまでのあり方を変えようと研究もするし、実際に調査や計画づくりに携わっている人々であった。『こぺる』や『ノーマライゼーション研究年報』を読もうとする人は、部落差別や障害者差別からの解放、人としての権利を日本で実現しようとして、研究だけでなく、実際に活動している人たちであろう。いずれも、既成の勢力や公式化された考え方だけでは、問題を解決できないという批判的意識から、もっと違う視点でものごとを考えていこうとしている人々のはずである。
 藤田さんはひかえめに「役所なんかに」と書いているが、じつは活動的な市民の間にも、障害者グループにも、コピーが出回っている。社会問題にかかわる活動家は経済的に貧しいからだ、障害者市民や被差別市民はそんなお金を払う余裕がないといって、合理化できるだろうか。(略)市民活動家たちの甘えだろうか。社会によいことをしているのだから、と納得させているのだろうか。
 根深い問題に気づいた市民が自主的に集まって、手弁当で行っている研究活動である。雑誌を発行するにあたっても、編集担当のメンバーは自分の本来の仕事の合間を縫って、駆け付けている。執筆者にも、原稿料なしで書いてもらっている。販売も手探りである。行政や企業、マスコミ、各種の助成財団の金銭的支援を受けていない。こうしてやっとできあがった知的財産を、社会改革の意識を持った代表一人が購入して、あとはコピーが駆け巡る。マスコミはNPOをもてはやしているが、最低限の維持する経費を獲得するために、どれだけのエネルギーを使っているかについては、報道していない。
 市民活動は、もっと情報の価値にお金を注ぎ込んで欲しい。営利企業が出版した図書雑誌は有料で購入しながら、同じ立場の市民組織が発行している機関誌類はただ乗りする市民活動であれば、社会的影響力は持てない。情報を獲得するために、それ相応の負担をすることも、市民である証であろう。生き残っている組織の情報には、ぜひお金を支払って欲しい。払うだけの価値がないと判断したら、きっぱり読むことをやめたらよろしい。

コメント.
 大谷さんから「『こぺる』の後書きにふれた文章をウェブサイトに掲載した」とのEメールが届いたので、恐る恐るキーをたたいたら、画面にばっちり出てきました。一読、わたし自身、大いに反省するところあり。
 ただ、こぺる刊行会に関していえば、「ノーマライゼーション研究会」や「下水道問題連絡会議」とはちょっと性格が違う気がします。こぺる刊行会は、『こぺる』を発行するという目的のためだけの、いわば賛助会組織であって、基金を寄せてくださったからといっていかなる義務もなければ特権もない。読者もまた『こぺる』掲載の意見を支持して、それを世に広めねばならないといった責務があるわけでもない。この六年あまり千二百部の発行部数をなんとか維持してきたのは、市民の自主組織だからではなく、執筆者と読者のあいだの交感・共感・同感および友情によるものと思ってます。たしかにコピーされるのは痛い。そこで、下段の欄外に「こぺる」と印刷したんですが、効き目はどうもなさそうです。
 思い上がった言い方かもしれませんが、『こぺる』が第三種郵便物認可限度部数ぎりぎりの読者しかいないというのは、部落問題解決のための取り組みがいかに個人を基礎においていないかを示しています。この国の風土では、自立した個人の自主結合というのはほんとにむずかしい。『こぺる』もいずれ敗退するかもしれない。かりに敗退に追い込まれたとしても、それはおそらくコピーのせいではありますまい。『こぺる』が復刊当初の志を忘れ、情況と切り結ぶ緊張感をなくしたとき、そして人びとが部落問題に関心を失ったとき、敗退は不可避です。そうしてはならぬと考える人びとが少数ながらも存在するからこそ続いているというのが正直なところではないでしょうか。それにしても自分では「何事も義理と無理はあかん」といいながら、人には「義理と無理」を強いてるようで心苦しい。友情には多少の「義理と無理」はつきものとはいえ、申しわけないと思ってます。

《 案内 》
第16回部落問題全国交流会-人間と差別をめぐって-
 日 時:9月11日(土)午後2時~12日(日)正午
 場 所:京都・東本願寺北側・大谷婦人会館(大谷ホール)
 内 容:講演(三橋 修さん)と分科会(話題提供=住田一郎さん、戸田二郎さん、広岡浄進さん)
 申込み:阿吽社(TEL 075-414-8951,FAX 075-414-8952)へ8月27日までに。

《 川向こうから 》
●去年のいまごろ、山小舎にホタルが舞い込んできたことがあります。暗い部屋に小さなあかりがついているので、スイッチを消し忘れたのかなと近寄るとホタルでした。外に放したら、頼りげのない光の線を残しながら、闇の向こうに消え去りました。今年もホタルに会えるかなあ。会えたらうれしいんだけどなあ。

●最近読んだ本から───☆藤原新也『東京漂流』(朝日文庫、95/5)。元の本は83年の出版で、当時たいそう評判になったとか。こんど『乳の海』(朝日文庫、95/12)と併読してみて「家」をキーワードにした現代日本論として感心させられた。なにより切り口が鋭くて深い。もちろん、どうすべきかについては答えていない。考えるヒントは示されている。答えは自分で見つけるしかないのだ☆杉本良夫『「日本人」をやめられますか』(朝日文庫、96/7)は、比較文化論としては物足らないが、「越境のすすめ」は興味深い。「境」は国境とは限らない。あらゆる共同体の内と外の「境」を指すはずである。「境」のなかでは「われわれ」がはばをきかすものだが、カレル・チャペック『未来からの手紙』(平凡社ライブラリー、96/8)の短いエッセイ「『われわれ』対『わたし』」「われわれ、誰かの民族」が、そんな「われわれ」の危うさを指摘していて、考えさせられる。

●タイガースが好調で気分がよろしい。『部落解放運動情報』誌No.34(5/20)によれば編集部はタイガースファンが多数派で、ただ一人のジャイアンツファンJさんを悔しがらせているらしい。わたしだって圧倒的多数のドラゴンズファンに囲まれながら耐えてるんですからJさんもしっかり。……余裕ですかねぇ。アハハハ。

●本『通信』の連絡先は〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一(郵便振替〈00830-2-117436 藤田敬一〉)です。(複製歓迎)

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