同和はこわい考通信 No.13 1988.6.20. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》

「個人の見解」と「組織の見解」について

1.
 先日、友人から雑誌『部落解放』6月号の小森龍邦さん担当コラム「きのう きょう あす」に『こわい考』をめぐって「差別とたたかう文化会議」の見解が出たように書いてあるけれども、ほんとうかとたずねられた。急いで開いてみたところ、つぎのような文章が目にとまった。

…「差別とたたかう文化会議」(野間宏議長)は、われわれの闘いの前進をはかって、文化の側面から、あれこれと協力していただいている団体である。ときには、文化活動における指導も受けている。/その「差別とたたかう文化会議」の総会の席上、世上論議されている『同和はこわい考』(藤田敬一著)についての見解をまとめられたようである。一つには、「地対協」が「同和はこわい」という大合唱をしているときでもあり、この書物の「タイトル」が「どうしても気になる」と指摘しているということ。/二つめには、「地対協」路線を批判すると言いながら、「行政に対する批判が抜けているのが欠点だ」と言われる。/三つめには、「それに『両側から越える』と言っておられるわけですが、(中略)むしろ私は、被差別の側に、徹底して立ちきる。その深いところから発言していく立場が必要だと思います」とまとめておられる。……
(56〜57頁)

これはなんとも要領をえない文章である。だいたい「『差別とたたかう文化会議』の総会の席上、世上論議されている『同和はこわい考』(藤田敬一著)について見解をまとめられたようである。」という文には主語がない。文章の流れからいえば文化会議が主語のようにとれる。ところが奇妙なことに引用文中に「むしろ私は…」という一人称単数の主格が出てくる。「文化会議が組織としての見解をまとめた」のか、「文化会議の総会の席上でなされた一個人の発言がまとめられた」のかはっきりしない。また小森さんは「見解をまとめられたようである」と伝聞の形をとりながら、中略の注記まで加えて「見解」の文章を引用しているのであるから、文章化されたものが存在するにちがいなく、読むほうとしては戸惑うほかない。
 わたしは、一応「差別とたたかう文化会議」の会員で、この二月の総会案内ももらっている。所用のため欠席したが、後日、知人が総会の様子をかなり詳しく伝ええてくれた。自由討論の場で『こわい考』がとりあげられたからである。しかし文化会議が組織としての見解をまとめたとは聞いていない。念のため文化会議の事務局担当者にも確めてみたが、そんな事実はないということだった。そういえば、小森さんも後の方で「野間先生が今回、『被差別の側に徹底して立ちきる』ことを指摘された」と述べていて、上掲引用文の主語が野間さんであり、文化会議でないことがわかる。文化会議の総会で野間さんが口頭で見解を表明し、それがメモかなにかにされて部落解放同盟中央本部に伝えられたというのが、ことの経緯らしい。だから文化会議が組織としての見解をまとめたというのは誤解である。わたしは友人にそう答えておいた。

2.
 さて小森さんの文章によって、わたしは『こわい考』に対する野間さんの見解の一部を知ることができた。一部というのは、小森さんの引用には欠落があると考えられるからである。わたしの聞いているところによれば、「藤田さんはけっして差別者ではありません」と、野間さんは繰り返し強調したという。わたしを差別者と規定して呼び捨てにしたり、『こわい考』を事実上、禁書扱いにする事態も地域によっては起こっている。野間さんの意見がそうした事態に対する憂慮の表明かどうか、わたしは知らない。いずれにしても小森さんの文章にこの部分が引用されていないのは事実であって、呈示された野間さんの見解が部分的であることに変わりはなく、しかもそれが野間さん自身によって公表されていないことに、わたしはこだわりを感じている。また小森さんは野間さんだけでなく、日高六郎さんの「(『こわい考』は)行政批判の点が抜けている」との意見も紹介しているけれども、これは伝聞にすぎない。
 野間さんや日高さんの『こわい考』に対する意見、見解を、わたしもぜひ知りたいと思っている。しかし残念ながら小森さんが引用、紹介するのは確かな根拠、つまり公表された文章にもとづくものでない上に、部分的断片的すぎる。このようなものをお二人の意見、見解として受けとってはかえって礼を失することになろう。野間さんや日高さんには部落解放運動をとりまく状況と、この一年の論議をふまえて、ご自身の意見、見解を公表してもらい、その段階でわたしなりの考えを明らかにするほうが、論議を脇道にそらさないためにもいいように思う。
 いま一つ小森さんの文章全体に、そこはかとなく漂う権威主義についてもふれておかねばなるまい。確かに人は権威に弱く、無名の人より有名な人の見解に、個人名より組織名の見解にとらわれやすいものだ。だからいつまでたっても有名人や組織名の見解を重宝がる人があとを断たない。それが一定の権威をもつと信じられているからにちがいない。小森さんの文章に著名な人の言説によって自説を補強しようとする権威主義を感じとったのは、わたしだけではないはずである。
 だが、すでに『こわい考』をめぐる論議はいわゆる有名、無名などにかかわりなく展開されていて、そこでは「誰が語っているか」ではなく、「何が語られているか」が問われている。京都部落史研究所所報『こぺる』や本『通信』に掲載されている文章をみてもらえばそのことが理解されるだろう。
 有名人や組織名の見解によって納得したり、考えを変えたりする人ももちろんいるだろうが、そんな人びとによって維持される権威が案外もろいことは、いまさら贅言を要しない。組織や既成概念にとらわれない自立した個々人の思索と討論を欠くなら、いかなる見解も空談と化すしかないのだから。

3.
 ところで小森さんはこの文章の中でつぎのように述べている。

…できれば、『同和はこわい考』について、これ以上、「地対協」路線を勢いづけることのないよう、藤田敬一氏らの自重をお願いしたい。…思いきって、「地対協」路線の全面的批判を展開した著作をお願いしたいところだ。これからもわれわれと連帯してもらいたいし、その道がまだそこに残されていることを思う次第だ。

まず第一に、わたしは『こわい考』が地対協路線を勢いづけているとは考えていない。なにをもってそのように小森さんは判断するのだろうか。もし「法務省の役人云々」程度のことなら、すでに「部落解放運動をめぐる率直な論議を−あわせ聞けばあかるく、かたより信ずればくらし−」(『こぺる』1988年5 月号)で論じておいた。第二に、地対協・地対室の三文書に対するわたしの批判は、『こわい考』の他、「地対室の正体みたり枯尾花−『啓発推進指針』を読む」(『紅風』92〜94号 1987.7.〜1988.9) 、「地対協・地対室批判の一視点」(部落解放基本法制定要求国民運動京都府実行委員会編『非人権国家の論理』1988.2) および前掲『こぺる』論文などで展開している。もっとも小森さんの視点と同じというわけにはゆかないが。そしてこれまで指摘してきたように、いま重要なのは深部からの地対協・地対室批判であって、そのためには部落解放運動の基本的問題について率直な議論をする必要がある。したがって小森さんに、わたしの前掲諸論文に関する意見を明らかにしてもらって論議をさらに広く深く進めたい。第三に、昨年12月、中央本部「見解」が出たあとも、部落解放同盟に対するわたしの想いになんの変化もない。わたしなりに共同の営みとしての部落解放運動の創出にむけて努力しているけれども、それが小森さんのいう連帯と重なるのか重ならないのか、連帯の内容が不明である以上、わからないとしかいえない。。ただ金時鐘さんのいう「切れて繋がる」関係がつくれたらと願っていることを付言しておく。(藤田)

《 各地の便り 》

その1.二つのことが印象に残りました
大阪・H.S.
 …先生の今度の本は、去年八月ごろ『朝日ジャーナル』で紹介された時点で読ませていただきました。一気に読ませる内容をもったものでした。とくに印象深かったのは、部落の人たちが、自分たちは仕事がなくて苦しんでいる、それに対して、釜ケ崎の人たちは、もともとなまけものだからしかたがないのだといっているところです。このような形の寄せ場差別はよくあることですから、私は、部落にもこのような見方をする人がいてもおかしくはないと思う一方で、しかしよく藤田さんはこのことを書かれたなと感心したのです。
 もう一つ印象に残ったのは、前川さんとの手紙のやりとりで、部落出身者でないものは結局のところ信用できないと前川さんにいわせているところです。
 私は以上の二点を人々の前に呈示したということだけでも、この本は肯定的に評価され、議論のたたき台されるべきだと思いました。しかしながらその後の推移は、残念ながら実りあるものになっていない気がします。…

コメント.
釜ケ崎の労働者に対するマイナス・イメージにもとづく発言が、部落解放をめざす人びとの集りでなされたにもかかわらず、議論が起こらなかったことの意味するところは深刻です。運動の思想そのものがあらためて検討される必要がありますが、議論はそこまで届いていません。ところでわたしが前川さんに「いわせた」という表現は、穏当でない。そんな次元の問題ではないのです。資格、立場によって信用できる、できないと概括的にいくら議論しても仕方がなく、大切なのは人と人との向かい合いだというのが、わたしたちの真意ですので誤解なきよう。

その2.「差別する側か、される側か?」
京都・A.M.
 このあいだ友人と話しをしている時「僕らは差別する側か、される側、どちらなんやろう?」ということになりました。僕らというのは、私も彼も、連れあいが、部落の出身ということで、“側”といった時、どうなるのだろうかと──。彼によると『嫁さんが言うには「あんたらはする側、私と子供は、される側」ということらしいけど…』と──(笑いながら)
 又、数年前のこと、職場で何の話しからか、部落外から嫁いできた女性が『私と彼との間に生れた子は4.5やなあ…」と、そして、それをうけててとなりの人が『それもいうならハーフや…」と、笑うに笑えぬ会話がかわされこともありました。(その場は、ふっきったごとく、笑い声でまぎれましたが…)。4.5とかハーフとか(!)──説明なしでわかっていただけると思います。
 とうとつにも、こんな例を出しましたのも“側”の問題(差別、被差別関係のありよう)、ひいては部落差別ー部落民とはなにか(『こぺる』5 月号)を考えるとっかかりにしたかったからです。つまり代々、結婚が続き、数字が「4」に近づくのか「5」に近づくのか、わからないなどと考えると、する側、される側の問題も何ともこっけいなように思えてくるからです。
 しかし一方でまた、される側の問題(ひいては、する側も)は、差別があるかぎり残る問題でもあります。歴史的に、そして現に忌避、排除されているのですから。 要は“側”を強調すること(こだわること)は、部落解放へのステップを焦点化して考えれば、あまりよい様には思えません。
 先程“こっけいな”と書きましたが、そもそも、こっけいなのは差別すること、そのことにあるのでしょう。そして4.5 とかハーフとか、差別を、こっけいさに転化し、そして笑いとばせる強い人間性も時には必要でもあります。──私はなかなか笑いとばせないのか、こんな例を、自分で出しておいて、“しんどく”なりました(怒りも含め)──今回は、このへんで、中途半端で。又、ひきつづき考えていきます。

コメント.
笑いとばそうとしながら、ついには笑いとばせぬ自分を自覚する。A.Mさんの苦衷が察せられます。差別は不条理なものですから、差別する者が押しつける「しるし」が実態のあるもののように感じてしまう。「血」の問題もその一つでしょう。わたしも被差別部落で同じような話をよく聞かせてもらいました。笑いあっておられる段にはいいのだけれど、その後の沈黙がたまりませんでした。もう少し、わたしも考えてみます。

《 採録 》

その1.高麗 恵「エステルと会って、その後、井戸端会議風に
          −藤田敬一氏の『同和はこわい考』にいっておきたいこと−」

(幻野の会『幻野通信』復刊5 号.1988.5.28.)
 …いま差別の様相は「あれ」とか「あの部落」とかあらさまな用語を使わないで、アクセントの入れ方や殊更なる念押しや、つめたい無視の態度で伝達されている。あからさまに言うのはこわいのである。私はいつでも「差別の井戸端会議」に入ってゆける主婦なので、運動者達のような理論や批判はなかなかに持てないでいる。しかし運動の成果である「制度」が出来たあといつも限界が見えてくるようです。エセ同和やオドシ同和が「こわさ」の原因なら、それはいかなる行政施策にもつきまとうタカリ屋の群れだから気にすることはない。/「こわさ」の原点は、やはり私が暮らしているごく普通の人々の性根の中にある。この人々は「こわさ」の再生産を飽きずに心掛けており、知らない人には何とかして伝えたいとお節介を買って出る人々で、「同和だよ」「こわいよ」と上手に伝達できるとひと荷物おろしたようなほっとした顔をする人々です。/解放同盟の役員にも、運動にコミットする学者たちにもいちど親しく会ってもらいたくなるいやな顔々です。

コメント.
「運動にコミットする学者たち」の一人に、わたしも入っているらしいことは表題からして明らかですが、こういうもの言いは、どうしても好きになれません。それに「私はいつでも『差別の井戸端会議』にはいってゆける主婦なので、運動者たちのような理論や批判はなかなかに持てないでいる」などとおっしゃりながら、「運動の成果である『制度』が出来たあとにいつも限界が見えてくるようです」と述べておられるところをみると、なかなかどうして、理論や批判がもてない方ではなさそうです。
 さて、高麗さんは(1)「こわさ」の原点は、ごく普通の人々の性根の中にあり、解放同盟の役員や学者たちにそのいやな顔を見せてあげたい、(2)だからエセ同和やオドシ同和のことなんか気にしなくてもよろしいという。わたしは「同和はこわい」という心理、意識の原因が被差別部落側にあるか、それとも「ごく普通の人々」にあるかを、二者択一的に論じているわけではなく、差別・被差別関係のありようを問題にしているのです。「ごく普通の人々のいやな顔々」なら、わたしの育った家庭をはじめ、しっかりみてきました。だからこそ、いわゆる「エセ同和」事象などを放置してはならないといっているのです。高麗さんのように「気にしない、気にしない」ですむのなら話は簡単でしょう。

その2.塩見鮮一郎「『差別の痛みは被差別者にしか分らない』という主張にこだわる理由」
(『朝日ジャーナル』1988.6.17)
 …一方、わたしは、《おまえは人から後ろ指をさされ、四つ、といわれることがどんなもんかわかるか。おまえの血と肉の中にその気持が入っていけるか。いくら大学へ行ったって、こいつだけはわかりゃせん。……絶対にだ!》という部落の青年の《二八年前》の叫びをいまなお原点にしているのだから、差別は《その痛みを知っている被差別者にしかわからない》という主張を、それがいかに旧態依然の主張に見えようと断乎、支持するし、少々の部落民が便宜供与を受けるためにこの主張を利用したぐらいで、これを放棄するわけにはいかない。/なにが差別かを、被差別者のほかのだれが決められるというのか。だれに決めさせようというのか。「部落第一主義」になろうとなるまいと、この主張をはずしてしまえば、糾弾闘争のよって立つ理論的基盤も失われてしまうのだ。/…つまりわたしは、差別される立場と差別する立場の明瞭なちがいに、残念をがら今日においてもなお固執するのであり、ここの固執をとくときは、部落差別の解消するときでしかない、と思う。…

コメント.
塩見鮮一郎さんの文章を読みつつ、前川む一さんが30年前に書かれた小説を思い浮べていました。

「黙れ/男は短い叫びを上げた。/「お前なんかに何がわかるか。俺がこの出身のために何度悩み、苦しんだか、お前のような外の人間にわかってたまるか。
…外の世界にいるお前に、この気持ちがわかるか」

そして前川さんは「二○歳のぼくは、すでに『部落民でない者に何がわかるか』という、被差別部落民に共有されるところの感情、いい分に対して、『それをいってしまったら、もうおしまいだ」という気持ちを強くもっていたようです。/ところが、この批判的精神を、ぼくは長いことどこかに置き忘れてきていたようです。」と述懐しておられます(『こわい考』121〜124頁)。「差別の痛みは、被差別者にしか分らない」という主張を断乎支持するとおっしゃる塩見さんは(その意味で「こだわる」という見出しの言葉は塩見論文の主旨にそっていません)、この前川さんの述懐をどう考えられるのでしょうか。また塩見さんは「少々の部落民が便宜供与を受けるためにこの主張を利用したぐらいで、これを放棄するわけにはいかない」とも述べておられます。しかし事柄は便宜供与要求事象の問題にとどまらない。対話がとぎれる、あるいはとぎれがちになる関係にかかわっているのです。その点についてもおたずねしたいと思います。

その3.山城弘敬「提起する実践は、今日と明日を照らす議論」
(『同和はこわい考通信 海賊版』VOL.V.1988.5.25.)
…「こわい考」で藤田さんが提起している「差別の概念規定」では、「差別を狭い範囲で理解してしまう」「住環境などの生活にあらわれる差別を対象化できない」という意見がある。残念ながら、この意見は、「批判派」の人から提起されていない。この藤田さんの概念規定では、朝田さんの提起した二つのテーゼの社会批判という観点を、継承しないばかりか、否定することにもつながりかねない。…

コメント.
わたしの概念規定では社会批判にむかわず、個々人の観念、意識の問題にとどまってしまうということでしょう。しかし、たとえば「差別と貧困と歴史・社会」あるいは「差別と劣悪な生活実態と歴史・社会」について、これまでの説明ではあまりにも無媒介的につなげられてきたのではないでしょうか。「劣悪な生活実態が差別であり、それは歴史的社会約関係にもとづく」といわれても、よくわからない。そもそも、その場合の差別というのはいったいなにか。いわゆる三つの命題をいくら読んでも、概念が拡散するばかりです。山城さんのおっしゃる「朝田さんの社会批判についても、まず社会という言葉の前で、わたしなんかウロウロしてLまいます。近代市民社会、資本主義社会、階級社会…。山城さんのおっしゃる社会とはなんでしょうか。一度、ゆっくり話を聞かせてください。

《 お知らせ 》

第5回部落問題全国交流会のご案内

 「開催案内」が訂正されました。ご注意ねがいます。
日時 1988年7月30日(土)午後1時〜31日)正午まで。
場所 30日:楽友会館(京都市左京区吉田近衛町。075-751-1100)
  31日:平安会館(京都市上京区鳥丸上長者町。075-432-6181)
参加費 7000円(参加費+夕食+宿泊+朝食)
   1600円(参加費+夕食)
講演 横井清さん(富山大学)「最近の部落問題について」
分科会 第1分科会 部落差別とはなにか
   第2分科会 差別糾弾について
   第3分科会 同和事業の総括と今後の方向
申し込み (1)〒603 京都市北区小山下総町5-1。京都府部落解放センター内
   京都部落史研究所気付 山本尚友さん宛(075-415-1032)
   (2)締め切り:7月10日。(必着)
   (3)お申し込みは、参加される分科会をお書きの上、葉書もしくは封書でおねがいします。


《 あとがき 》
*米田富さんにつづいて木村京太郎さんが亡くなられれた内浜の部落問題研究所を訪れ、木村さんに「本で勉強するのもいいけれど、未解放部落へ行って話を聞くのが大切だ」と教えられたのは、1958年6月11日のことでした。いまだにあの時の木村さんのやさいお顔が忘れられません*5月16日から6月15日まで、各地のみなさんが送ってくださった切手、カンパは、40,840円にもなりました結局、促した形になってしまい、申しわけなく存じます。「運動に役立ててください」とのお便りが付いていたりして、なにか背中をドンとたたかれている感じです。*手の腱鞘炎、いまのところおさまってくれていますので、ご放念ください*本『通信』のご連料ま〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一まで。

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