同和はこわい考通信 No.106 1996.5.18. 発行者・藤田敬一

《 採録 》
「部落民を名乗る」こと
広岡 淨進
 「『同和はこわい考』通信」の発行者である藤田敬一先生から、先日ひとつの依頼を受けた。それは、「通信」に「部落民とは」というテーマで寄稿してほしい、というものであった。具体的にはどういう内容を求められているのか尋ねたところ、下のようなお返事であった。

 …組織・集団よりも貴君の内面に私の関心はあります。…貴君自身が「部落民」という規定とどうむきあってきたのか知りたいのです。アプリオリに自らを部落民として規定するのではなくて、存在被拘束との葛藤を明らかにして下さればありがたく存じます。

 以下は、この求めにこたえて書いた文章である。
 私は「部落民」という規定とどう向きあってきたのだろうか。ここでは、部落民であることを名乗ることにたいする私自身の感情の揺れ動きを見つめ直すことから、この問題について考えてみたい。そこから、私が解放研活動をする動機も見えてくるのではないかと思う。
 大阪大学の入学式では、例年解放研のアピールがある。今年、そこで私ははじめての「出身者宣言」を行った。阪大で今年二月末に発見された朝鮮民族差別落書、関西大学をはじめ各大学で起きている差別落書事件をつたえた後、私はおおよそ次のようなアピールをした。「コロス」と書かれることは露骨な脅迫行為である。誰が書いたのかもわからない状況の中で被差別の立場の学生は孤立感を持たされ、自らの出身を名乗ることへのおそれと不安とに陥れられる。そのことに現実感を持ってもらうためと、被差別の立場にある学生に、ともに差別に立ち向かうなかまの存在を伝えるために、自分はここで出身を明らかにする、と。
 私がカミングアウトすることをほかのメンバー(といっても二人だが)に伝えたのは、その日の、アピール内容を打ち合わせのなかであった。私は議事を進行させながら「僕のカミングアウトが必要かな」と漏らしつつ、心中そのことは決意していた。「だがしかし」なのか、「だからこそ」なのか、その打ち合わせのなかで、差別落書が部落出身や在日朝鮮人の学生に与える脅迫感を、一般論として説明しようとして、自分の声の震えに私は当惑した。名乗ることへのおびえ、ただそれだけを言うのに言葉が詰まった。そして、私が「出身者宣言」をすることと、その内容を、私はすぐには声にできなかった。黙りこくったまま、私はアピール内容をノートに書きつけた。
 この入学式アピールを決断するには、ひとつのきっかけがある。三月に、大阪府下の大学部落研・解放研の集まりがもた、そこで、ある大学から、差別事件糾弾の取り組みが報告された。その取り組みは、講義での差別発言にたいして解放研の出身学生が抗議したことに端を発するものであり、その報告自体はその出身学生の思いが、結果としてはある時点まで放置されてしまったことへの総括を交えたものであった。それでも、私はそのことを責めずにはおられなかった。
 なぜそこで、解放研のメンバーは彼女を一人にさせてしまったのか。出身学生にとって差別発言に抗議するとは、部落民であるという立場を明らかにする覚悟を必要とすることである。かく言う私は、解放研に入っているということを研究室で言うだけで、半年以上かかっている。研究室全体に対しては、今はまだ部落出身であるとは名乗れていない。名乗ることは、それほどに抜き差しならぬところにある。こう語ったその時も、私の声は涙で震えていた。そこで激昂してしまったことは、私自身にとっても戸惑いをもたらすものであった。私自身の立場性に根ざすとしか言いようがないこの感覚への直面。入学式アピールも、その後の研究室アピールも、そこに理由のひとつがある。それにしても、「名乗る」ことを問題にするとき、なぜこうも私は動揺してしまうのだろうか。
 私自身には、具体的かつ直接的な被差別体験はない。「差別されるくやしさ」はたぶんに言葉の上のものである。乱暴に言い切ってしまえば、あるのはただ「差別されるかもしれない」という警戒感だけである。部落民である根拠さえ、自明なものではない。血筋としての根拠は父が部落寺院の住職の子であるところにあるが、ずっと別居している。両親に思うところがあって縁もゆかりもない部落に十年あまり住んだが、今は引っ越している。父としても、「物取り」へ堕したそこでの運動への幻滅を感じたらしい。家族全体が「入りびと」としてよそ者扱いされていたようであるし、私自身そこでいじめにあっている。私には、「帰るべきふるさと」としての部落はない。それでも私は部落民なのである。
 部落差別の難しさは、差別される理由がわからないことにもある(だからこそ「隠す」であるとか、「名乗る」であるだとかが問題になるのだが)。だが最近の学説によると、差別そのものは違いのあることを前提にするものではなく、差別するために差異が作られ、「発見」されるのであるという。その論に従えば、「部落民」という存在が実体として先にあるのではなく、差別の中で「部落民」がつくりだされることになる。つまり、部落差別のゆえに被差別部落が「被差別部落」なのであり、部落民は部落差別を受けることによって「部落民」とされることになる。差別する側にとっては、彼/彼女が「由緒正しき部落民」であらねばならぬ必然性はない。当人にその自覚があろうとなかろうと、部落差別を受ける可能性を回避することはできない。部落差別が存在しつづけるかぎり、部落民が部落民であることから本当の意味で自由になることはできない。
 暗いといえば暗い。これが現実の部落差別にたちむかう論理へと、即つながるものではないかもしれない。しかし、部落に帰属意識をもたない私が、自分を「部落民」と規定する根拠は、おそらくここにしかない。
 それでいて、部落民が差別をつうじて自らの立場性を痛烈に感じざるをえないような状況に出会うことは、今やかなり減ってきている。決して差別がなくなったわけではない。陰にこもっているのである。しかしそれはともあれ、日常生活を送るかぎりにおいては自分が部落民であることを、あえて意識せずともやり過ごしていけてしまうような現実がある。正直なところ、私自身にとっても、かつては部落差別が自分にとって切実な実感をもって迫ってくる問題ではなかった。生まれ育ちとしては部落民であるはずの自分と、それでいて差別との具体的な接点を見いだしかねる自分がいた。どうしても自分自身を被差別の存在としてイメージできなかった。
 それもあってか、解放研の勧誘には、被差別の立場を押しつけられるような感じをうけた。部落出身学生たるもの、差別された悔しさをばねに解放運動に参加すべきであり、そうでないものは「丑松」である、と言われているようだった。
 私はそれに反発した。なぜそんなに「部落出身だから」という追い詰められ方を解放研にされねばならないのか。運動に関わるかどうかは個人の内発的動機の問題であり、立場を盾に強要されるような筋合いのものではないのではないか。一緒にやれる、一緒にやりたい、と私のような出身学生に思わせるにたるような活動展開もできずに、かつそのことへの点検もなく、私ひとりに解放研を、そして部落差別に向き合うしんどさそのものを背負いこませるつもりなのか。私が解放研に入りたがらないのは、べつに部落差別を考えたくないからではない。私にとっては部落差別は一生関わっていかねばならないものである。しかし、それは解放研に属さなくてもなんら差し支えのでてくる問題ではないのではないのか。なぜそこで頭ごなしに、私の考えとは関わりのない所から、「部落民の自覚」を押しつけられなければならないのか。「部落民だからこう考えるべき、こうすべき」とされるのでは、具体的個人としての私は無視され、一足飛びに部落民という立場性に一般化され、埋没させられてしまう。私は私なのであり、私である前に部落民なのではない、と。そこに、被差別のアイデンティティなるものに塗りつぶされてしまうことへのおそれとでも言いうるような感覚を、私はおぼえずにはいられなかった。
 解放研に入ることは、私にとっては部落民であると名乗っていくことぬきには考えられなかった。しかしそこでのためらいは、いわゆる「差別されることへのおびえ」とはすこし違うように思う。むしろ、社会的に自分が部落民という立場に置かれていることを、どう受けとめたらよいのかというところでの葛藤であったように思う。
 そこでは、「部落民」という立場は「追いかけてくるもの」であった。それゆえに、そこから自由になることはできないのかという思いは強かった。「立場性追求」とは言うが、それでは私は差別されるしかない立場なのか。差別する-されるという関係から自由になれる関係を作りだすことはできないのか。自分にとってさえ「部落民」という立場は漠然としているのに、そこに身を置いて話をするのでは、人間としての連帯は成り立たないのではないか。そんな問題意識を私は抱くようになった。
 「部落である」と名乗ることでの対話の途切れ。それ自体がいわば、今日的差別の実態なのであろう。それを承知の上でなおかつ、そこから対話をつないでいこうとは、その頃は考えなかった。むしろ立場性を棚上げしたところでの話を指向してしていたきらいがある。三回生に上がるときになって、ようやく解放研に入ったのだが、それからでも立場性追求には違和感を感じつづけてきた。ところがある集まりにおいて、私は図らずも突きつける側にまわってしまったのである。と同時に、私は自らの「部落民」という立場を突きつけられた。私はあのように悔しく思うかぎり、私はやはり部落民なのである。
 前述の出身学生はといえば、彼女の父親は部落出身ではない。部落出身である母親からは、「おまえはどちらを選んでもいい」と言われていたそうだ。部落民でない生き方であっても、選択は許された。彼女においては、「部落民」とは選び取った立場である。そこでつかみ取ったものこそ、「部落民の誇り」ではないか。
 現実問題として部落からの人口流出が進んでいるなか、「部落民の自覚」を持たず、「部落差別は自分とは関わりない」という「部落出身者」は多い。私の周囲にもいる。それも一方の現実ではある。だが、「部落民」という規定があくまでも外からなされるものであるかぎり、部落民でない生き方はできようとも、それでもって出会い頭に差別にあう可能性からまでも逃れ切ることはできない。
 そこで敢えて部落民としての自己規定をするとは、結局、生き方の問題なのである。自分はどちらの立場に立とうとするのか。部落差別をはじめとするさまざまな差別を、その構造のうちに組み込んで成り立っている日本社会。好むと好まざるとにかかわらず、私はこの社会を構成している一員なのである。この差別の現実とどう向き合っていくのか。「自分は関係ない」とパスしようとすることで、この社会に同化し、差別する側にまわろうとするのか。それとも自分の問題としてとらえ開き直ることころから、この社会に対峙し、反差別の連帯への道を探るのか。
 現実に差別がある以上、差別に抗する主体性は、自ら被差別の立場性を積極的に引き受ける、つまり「エタである事を誇」るところからしか生まれてこない。「部落民を名乗る」とは、何より自分自身がどう生きたいのかに関わることである。私は、「私はここにいる」と胸を張るために、部落民であることを名乗る。私にとっての解放研とは、そこからの連帯を探る、差別・被差別「両側」の共同闘争の場なのである。(大阪大学部落解放研究会『みちくさ』No.6 、96/5/7)

《 各地からの便り 》
その1.
○『通信』No.105「凍りついた関係について」の「心のかんぬきは内側からかかっている」というところ、心に残りました。それからKさんの「そんなことは関係ない」という一言、最初読んだ時は、私は“後者”の意味ととらえてしまっていたので、複雑な気分になりました。  (東京 T・Kさん)

○「そんなことは関係ない」。私は、先生が書かれたように、後者の使い方をします。逆に前者の様な解釈をする人も世の中にはいるんだなあとあらためて思いました。全くの世間知らずです。ごめんなさい。  (岐阜 N・Mさん)

○私も教育現場で同和教育に取り組んでいますが、差別体質を持つ自分を反省しながらも、いろいろの公私の仕事もあり(教育とはそんなものですが…)、これでよしということのない部分で内心、悩むこともあります。多くの実践・研究報告などを見る度に“遅れている”自分の取り組み、自分の学校を思い、大きな壁の前に立っているような気持にもなります。「凍りついた関係」では、やはりAさんのような考え方が支配的(運動団体では)だと思います。「そんなの関係ない」は、先生のおっしゃる方が本意だったと思いますが。“両側の関係”は、文中にありました二つの議論がなかなか交わらないように思いますし、実際の場面では「差別者」の側?にある者は、全く自由には発言できにくい状況があるように思います。  (鳥取 H・Kさん)

○三重のAさんの意見は、ある意味では同和教育関係者の代表とも言える考えで、興味深く読ませてもらいました。特に坂田次男さんの「Kとの思い出」の文章は、以前からとても気になっていたので、何度も読み直しました。藤田先生の言われる、Kさんの「関係ない」の二通りのとらえ方は、僕も感じていました。そこで坂田先生に直接聞いてみました。坂田先生は、その疑問は、よく聞かれるがと前置きされて、「もし部落出身ということが、二人の間柄をなんら変えるものではないという意味の『関係ない』だとしても、それは裏切りです。」と答えられました。僕はもうそれ以上は聞けませんでした。なんという、きびしい関係を求める人なのだろうという、感嘆にも似た思いが残りました。ただ、僕はこの人の友人には選んでもらえないだろうとも思えました。少し以前に、僕の教え子が部落の青年と結婚した時に、その青年が「俺は、部落出身なんだけど…」と深刻に告白したそうです。その教え子は、その時、「そんなん知っとたワ。そんなこと、二人の間に関係ないやん」と返答したと聞いたことがありました。こんな若い二人のやりとりが、部落差別からの解放の可能性の表れだと思っていただけに、坂田先生の返答はショックでもありました。藤田先生の文章を読みながら、僕は「関係ないやん」と言った教え子の人権感覚をほめてやろうと思うのです。  (三重 I・Tさん)

その2.
○『こぺる』合評会(4/27)での池田士郎さんの報告は興味深いものでした。印象に残ったことが二つあります。まず、ハンセン病者の定義です。これは、簡単そうに見えてとても根が深い。おおざっぱに考えても、
 ・病気と病識と障害の関係をどう見るか
 ・「当事者」が具体的に何と名乗るか
 ・私たちはどの範囲を「当事者」にし、どのように呼ぶか
など、どこから考え始めてもむずかしい。治癒した人が大多数であるのに「療養所に居住している人」を患者呼ばわりするのは、たしかに変です。結核回復者にならって、ハンセン病回復者という表現は可能性があると思います。しかし、何より大切だと思うのは、「今となっては障害になった原因は大した問題やない、と思う。僕らは、普通の障害者なんやけどなあ。なかなか、みんなも外の人もそうは思ってくれん」という元患者のため息にも似た発言です。
 横道にそれますが、さきにとりあえず「当事者」でくくろうとして、手が止まりました。さも当たり前のように、被差別側=「当事者」、差別側=非「当事者」と考えたことに思い至ったからです。これではドラマの出演者と観客の関係と同じことで、私自身が一方の当事者であることに目をつむっているわけです。「当事者」概念には多くの罠がある、と実感しました。
 二つめは、私の中にハンセン病(その歴史と現状)の概説(およその輪郭)がないことです。活字を通して、あるいは実際長島に行って出会った元患者さんを通じて、個々のイメージは少しありますが、全体像があいまいなために、ハンセン病隔離政策史、医者と医療施策(過誤)の問題、元患者の行く末、といった課題の前に立ちすくんでしまいます。
 ただ、これは当たり前のことといえば当たり前のことですが、度しがたい抑圧の中にあっても、人はさまざまに日常生活をおくり、その中でささやかな喜びや悲しみに出会うのだと、初老の元患者さんは、生意気な若造だった私にそれとなく諭してくれたことがあります。灰色一色だった私のハンセン病「当事者」像は、オリンピックの前夜(60年代前半)に東京方面へ多くの人がこっそり出稼ぎに行ったこと、療養所内での結婚と子どものことなど、悲喜こもごものエピソードに置き換わりました。鳥瞰図がないのは苦しいですが、当面は虫瞰図を暖めることとします。
 蛇足ですが、神戸新聞に九州弁護士連合会の「人権に関する協議会」による、九州・沖縄の国立療養所を対象にしたアンケートの記事を見つけました。「質問は①子孫を残さないための断種手術を受けたか②家族への偏見を恐れて偽名を使ったことがあるか-など」で、約6割の回答者のうち、前者は約3割、後者は約4割、という内容です。結果もさることながら、実際「偽名を使ったことがあるか」と質問したとすれば、いかにも法律家らしいというべきか、少し唐突な気がします。  (兵庫 高田 嘉敬さん)

○合評会では、執筆者の池田士郎さんの出席を得て、まことに刺激的な、内容豊かな会になり、いい勉強をすることができました。「ハンセン病」と判定され、人間としての権利のいっさいを剥奪された人々への思いを重ねながら、強制的に隔離され、故郷、親、兄弟姉妹、親戚縁者、友人を奪われたこれらの人々の、それを取り戻すことが、基本的人権を回復する具体的目標となることを強く感じました。さてその翌日、大阪のリバティーセンターでの「差別とたたかう文化」刊行会幹事会後の歓談の席で、当日の報告者であった北口学さん(海外青年協力隊員として南太平洋のナウルなど各地で活躍し、昨年帰国、現在は「反差別国際運動(IMADR)」の事務局員)に、1941年の日本の軍事占領後、「ハンセン病」者に対する措置はどうであったのかと尋ねてみたところ、驚くべき返事が返ってきました。日本軍は、癩(ハンセン病)者と思われる本人及び家族のすべてを小舟に乗せ、その舟底に穴を開けて「水舟」となるよう工作し、舟を沈没させて皆殺しにした!というのです。(中略)いま、薬害エイズ問題で、厚生省、製薬会社、そしてこれにかかわった役人、学者、製薬関係者の責任が問われつつありますが(それもまた不徹底で曖昧にされようとしていますが)、同じ視点で、それ以上の迫力で、「ハンセン病」と認定され、苦しみ、悩み、無限の涙のうちに暮らしてきた人々の無念を晴らすことが、いま社会に生きているわれわれの責務であると思うのです。(京都 岩井貞雄さん)

《 案内とお願い 》
○『こぺる』合評会:5月25日(土)午後2時 京都府部落解放センター2階
 原口孝博「部落差別と共同体意識の関連について」(5月号)。原口さんも出席されます。ところで、合評会終了後、部落問題全国交流会の事務局会議がありますので、恒例の「天狗」の会はお休みにします。申しわけありません。なお交流会の事務局会議はどなたでも参加していただけます。

○『こぺる』購読料が3月切れのままの方、至急購読手続きをお願いします。6月号まではお送りしますが、それ以後は発送を中止せざるをえません。なにとぞ財政事情をご賢察の上、郵便局にお出かけくださいますように。

《 川向こうから 》
○連休中はどこへも行かず、プ-ルで泳いだり、本を読むなどして過ごしました。いやあほんまに充実した一週間でした、と書きたいところですが、実は人ごみに たえるだけの元気がもうないということです。

○広岡さんの文章は阪大解放研の情報誌に載ったものですが、わたしの依頼にこたえて書かれたものでもあるということで採録させてもらいました。揺れ動く心の 軌跡が丁寧にたどられています。感想をお寄せくだされば幸甚。

○吉田智弥さんから『歩きながらの反差別論-「人間に光」よみがえる日を信じて』(『自治研なら』別冊、96/4)が送られてきました。吉田さんが最近書いた5篇の論稿を集めたものです。部落解放同盟奈良県連の分裂という事態を前にして思考停止状態に陥った人が多いなかで、独自に思索を続けてきた吉田さんの気概がうかがわれる一冊です。『こぺる』に掲載された文章2篇のほかに、「『差別語』論ノ-ト」「ある解放運動家の無念さを思う」「差別糾弾の方法論への疑問」など、運動とじかに交差する濃密な論稿が収録されています。お申し込みは〒630 奈良市大安寺5丁目12-16 奈良県自治研究センター(TEL 0742-64-1005,FAX 0742-50-2085)まで。定価750円、郵送料250円。

○部落解放同盟委員長の上杉佐一郎さんが亡くなられました。死去の直前、全同盟 員に部落解放基本法闘争への決起を訴えた檄文(『解放新聞』4月1日)を発表。運動の現状を憂慮し、将来を危惧する内容は悲壮でさえあります。今後、運動はどこに向かって進むのか、第三期論はどうなるのか、注視したいと思います。

○本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)

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