同和はこわい考通信 No.105 1996.4.22. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
「凍りついた」関係について
藤田 敬一
1.
 同和教育に取り組んでいる三重のAさんと話していたとき、話題が「両側から超える」に及んだことがある。Aさんの意見によれば、問題は「両側の関係」にではなく、差別する側の人間にあり、その点を問わない『同和はこわい考』の主張には納得がいかないと言いたいらしかった。これまでも同様の批判を受けてきた。差別者がいて被差別者がいる。差別がなければ被差別もない。差別者・差別する側に立つ者・被差別部落外出身者がまず問われるべきなのに、藤田は被差別者・差別される側に立つ者・被差別部落出身者とその運動、組織のわずかな落ち度を批判する。藤田自ら部落責任論に陥っている…と。
 差別の問題を、差別→被差別の一方通行、差別=悪・被差別=正義の二元論からとらえるのは、言ってみれば常識的発想に属する。なによりわかりやすい。差別する人がいなくなれば差別はなくなるというのも、もっともな意見のように見える。差別の現実にいらだち、その解決をはかろうと一途に考えれば考えるほど、差別者・差別する側に立つ者・被差別部落出身者の萎えた感性にウンザリし、時にはムカッとしてしまうようだ。わたしにもそんな経験がある。話を始めて5分もしないのに居眠りをする人がいたり、いびきをかく人がいると、自分の話がつまらないことは重々承知していながら、なんともやりきれない思いがいまだにする。部落解放研究集会のある分科会で当初600人の参加者があったのに、啓発映画が終わった段階で300人、一人の講師が話し終わったとき160人、わたしの話が終わったら、なんと130人に減っていたことは以前に書いたことがある。「なくそう差別 守ろう人権」の標語にもかかわらず、人びとの無関心・無関係意識は根強い。
 十数年前までのわたしは、寝ている人をたたき起こした。聞く気のない人は出て行ってもらったことさえある。当時、各地の部落をまわって被差別の体験や思いを聞かせてもらっていたので使命感に燃え、気持が高ぶっていたのだろう。思い上がりもあったかもしれない。いや、たしかにあった。しかし、寝ている人を起こしても、心が目覚めてもらわないと意味がない。正しいとされる考えに人を引っぱれば、身体はついてきてくださるかもしれないが、心はもとのところに残っていることが多いのではないか。心のかんぬきは内側からかかっている。外からどんな力でこじ開けようとしても開くものではない。閂はご本人に内からはずしてもらうしかない。閂が内からはずされるかどうかは、関係いかんにかかっている。そんなことに気づいたら肩の力がすーっと抜けた。
 部落差別問題とは、とどのつまり部落差別(意識)を媒介にした人と人との関係であり、部落解放とは、その「人と人との関係」を変えることである。差別者・差別する側に立っている者・被差別部落外出身者だけを問い、悔い改めを迫ってすむ問題ではない。個々の出会いとつながりを人間らしいものに変えてゆく努力がそれぞれに求められているのである。対話がとぎれ、関係がねじれ、ゆがんだままで、いくら解放を叫んでも、その声はむなしく吸い込まれてゆくしかない。

2.
 後の予定もあり、ゆっくり議論する余裕がなかったので、以上のようなことを口早に語り、今後の課題として残しておきましょうと言って別れかけたら、Aさんが共感を寄せている坂田次男さん(高知県土佐山田町立繁藤小学校)の文章をいただいた。そのなかに「想像する」(『解放教育』94/12)と題する一文があった。

 高校生のときのある秋の午後のことだ。私は、Kと二人で駅の裏にある小高  い丘に登って雑談を交わしていた。(中略)/Kとの付き合いはながい。なにがきっかけなのかは覚えていないが、小学校一年生のときからの付き合いで、ケンカもよくしたけれど、お互いの家にもよく行き来をして、いわゆる「親友」といういい方がぴったりの間柄だった。/Kには父がいなかった。Kはそのことについて今までくわしくは語らなかったけれど、このときは幼い頃の父とのくらし、父がいなくなった後の母とのくらし、父に対する思い、母に対する思いなど彼独特の口調で語った。この日、Kはなぜか饒舌だった。
 私は彼の話を聞きながら、普段ユーモアのかたまりのようなKの、そのユーモアの出てくる根元の生活を知ったような気がして、Kへの見方が変わった。それとして意識したわけではないけれど、「友だち」を越えて「仲間」を感じたのだったかもしれない。/Kの話が終わると、私は胸の中で、彼の生活の語りに呼応するものとして、「部落差別」を選んだ。トン、トンと感覚できるほどに高まる胸の鼓動を、つばを飲み込んで抑えた。
 「オレもオマエに言わないかんことがある」
 そう切り出してはみたけれど、すぐにはことばが続かない。何度も何度もつばを飲み込んで、何倍にも高まった鼓動を抑え込もうとするけれど、そうすればするほどに、次のことばを選び出すことができない。/なかなか語り始めない私の様子に、重いものを感じとったにちがいないKはやわらかく声をかけた。
 「なんのことやな。早よう言えや。友だちやろうが」
 Kは友だちだと言った。私は、Kの言う友だちを「仲間」と読んだ。
 「オマエも知っちゅうと思うけんど……、オレは部落よや」
 まさに絞り出したひとことだった。私は、Kに何かのことばを期待していたのではない。彼ならわかる──それだけだったのだ。
 「そんなことは関係ない」
 私の口から「部落」と聞いた途端、Kはそこまでのムードを切るように、早口で言った。/話は、それですべて終わってしまった。何とも言えぬ冷たいものが心を支配した。/多感さ故に、それまでのKの語りに胸を熱くして、彼の生活の語りに呼応する自らの生活を語り始めようとした私のことばを、一瞬にして凍りつかせたことば──「そんなことは関係ない」
 ものごころついてからこの日まで、何年も何年も抱き続けてきた感情──痛み、恐れ、怒り、くやしさ、……。それを伝えるべき「仲間」をKに感じて、やっとの思いで絞り出したことばに対するこのひとことを、私は今でも、これ以上ない冷たいうらぎりのことばとして胸に閉じ込めている。
 Kにそう言わせたものが何であるかについては、多様な切り口からとらえることはできるだろう。その切り口のひとつに、「他者に対する想像力」の欠如があると、私は考えている。あのとき、Kにその想像力があったならば、関係ないどころか、「友だち」(Kのことば)をこれほどに苦しめる部落差別に、「腹が立つなあ」と、私の部落差別に対する感情に共感をし、私と共に差別への怒りを共有したにちがいないと思うからだ。/あの日以来、私とKとの関係は、部落問題(それはまさに私の人生の問題なのだ)が凍りついたままの「親友」としてある。(下略)(P69~72)

 Aさんがわたしに読ませたかったのがこの部分であることはすぐ理解できた。

3.
 坂田さんのいわゆる部落民宣言にたいするKさんの「そんなことは関係ない」との一言が小学校以来の親友関係を凍結してしまったというのである。そして今もなお坂田さんはその言葉を「これ以上ないうらぎりのことば」だと断定してはばからない。坂田さんの体験を軽く扱う気はないけれど、達者な筆遣いから醸し出される雰囲気には二十余年前、部落解放教育界を席捲した「語り」に酷似したものがある。坂田さんは「何かのことばを期待していたのではない」と書いているが、自らへの共感・同調、部落差別への怒りの共有を求めていたことはまちがいない。だからこそKさんの一言が裏切りと映ったのだ。それは共感・同調、怒りの共有を性急に他者に求めたことの裏返しではなかったのか。しかし、残念ながら坂田さんの文章からは、当時の体験を対象化し、体験と対話して経験にまで深めようとするところが感じられない。高校時代の体験にもとづく怒りの持続が吐露されているだけである。これでは、「凍りついた」関係を変えることはむずかしい。「『ぬくもりのある想像力』の芽は、生活をのがさず綴り続けることで、冷たさを溶かすものとして伸びていくものだ。それは、『関係ない』の対極にあって、人の憂いとあくまでも関係を結びながら育っていく」ともあるが、この言葉は坂田さんにもはね返える。
 想像力、それが問題であることはわたしも認める。しかし、他者の苦しみ、哀しみ、憂さ、辛さ、怒り、嘆き、訴えに時として心を寄せ、共感・同感することがあっても、それとは無関係に日々の生活を過ごせる“わたし”がいる。それが人間というものの現実、限界だろう。重要なのは、そのような現実、限界が他ならぬおのれの内部に厳として存在していることを見すえることだ。そのことを互いに心に刻んで生きあうとき、人と人との関係を変える道筋が見えてくるのでは、とわたしは考えている。わかってほしいという思いと、わかりたいという願いの遭遇の大切さに、運動はいいかげん気がついてもいいころである。「凍りついた」関係を溶かすのはあなた、おまえだ、と言っていては一歩も前進しないのだから。
 ところで、わたしにはKさんの真意を坂田さんは受け取りそこなったのではないかという思いがしてならないので、そのことについて触れておく。「そんなことは関係ない」は、「部落差別の問題なんか、おれには関係ない」「君が部落出身者として苦しんでいることなんか、おれには関係ない」との意味に取ることはできる。しかし、「君とぼくとの間では部落差別が立ち入るすきまはない」「君がいわゆる被差別部落出身者であろうと、それは君とぼくとの間柄には関係ない」との意味にも取れる。事柄はきわめて微妙だが、Kさんの言いたかったのはむしろ後者ではなかったか。もしそうなら、誤解が「凍りついた」関係を招いたということになり、なんとも不幸な出会いだったとしか言いようがない。
 わたしは、部落差別の呪縛から双方ともに解き放たれ、「部落差別(意識)を媒介にした人と人との関係」が無化されているとき、後者の意味での「関係ない」との言葉が発せられることは大いにありうると思う。「個々人同士の解き放たれた関係」を抜きにして一気に集団の、共同体の解放を求めたことが、これまでの運動のつまずきの石だった。58年6月以来、木村京太郎さんや朝田善之助さん、米田富さんなどを初めとして各地でいい出会いをしてきた。運動のなかで一瞬であれ「解き放たれた関係」の原形を垣間見もした。そうした経験が、わたしの考えの根底を支えている。かたくなと言われようと、その考えを捨て去ることはできない。

《 各地からの便り 》
 話はとびますが、先日エイズ訴訟団が、交渉の激化のあまり、非常に悪名の高い製薬会社の代表者達を土下座させている場面がテレビで放映されていました。「もっときちんとヒザをつきなさい」とか「それで謝っているのですか」といった怒声を浴びながら、代表者達はテレビカメラの前で、いつまでこうやっていればよいのだろうか、仕方がないな、といったカンジで頭を垂らしていました。私はこれを見て嫌悪と反感を覚えました。しばらく前には、オウム信者をマンションの住民が集団で追い出すという運動を展開している光景もテレビで見ました。マンション内に「オウムは出ていけ」風のビラを大量に貼り付け、カメラで監視し、部屋の中を立ち入り調査し、部屋のドアーの前ではシュプレヒコールをあげていました。私はこれにも嫌悪と反感を覚えました。
 エイズ訴訟団もマンション住民も、この運動は失敗だと思いますし、両者共に、同じ現場にいるマスコミの視線が私には気になって仕方がなかった。エイズ訴訟団の場合、まず、薬害問題の責任の所在を明確にすること、責任の果たし方を明確にすること、謝罪の意志を明確にすること、は、それぞれ区別して考えられなければならないはずです。それをごっちゃにして、「これまで自分達は屈服させられてきた、だから今度は屈服させてやる」「自分達は殺されてきただから、その相手方には屈辱を味わわせてもよい」……という方向に行動が展開していくことになると、それは敵対的な仕返しにすぎません。彼等を土下座させて「謝罪を勝ち取った」といっても、原告団は運動を仕返しの運動にしてしまったという点で、大きな失敗を犯したのだと思います。
 そもそも製薬会社の代表者達が土下座して謝ったのも、心から非を認めてというより、テレビカメラに代表される無言の権力的威圧に負けたからではないでしょうか。製薬会社は原告団にというより、マスコミに謝罪した(ような格好をした)に過ぎないと思われます。この件に関するマスコミの論調も、「マズイ」とはっきり言い切っていたものは目にしませんでした。それは、彼等がこの土下座に加担(もちろん強者として)していたことに無意識的に気付いていながら、あくまでも客観報道という逃げ場所で、メディアとしての影響力のすさまじさを不断に自己検証する必要性を認めていないからです。
 また、マンション住民の場合で言えば、このやり方はファシズムのやり方そのものではないでしょうか。「目的が正しければ手段は許される」というのは考え方として最悪です。確かにオウムも最悪なことをやったわけですが、こんな「お互い様」のようなことをやっていては、どっちがどっちか分からないような気がします。
 このような場合、マンションに入居していることや彼等の活動が「違法」であれば法的に戦い、言論の戦いであれば言論で答え、ケースバイケースに個人で判断して行うしかないと思います。集団が行う「民主的」な「ムラ八分」活動は、対象が何であれダメだなあ、悲惨だなあ、と思わずにはいられません。おそらくオウムがなぜダメなのかをつきつめて考えていくと、こうした住民運動も同じようにダメだという同一の結論に至るはずです。
 私には、ここでマスコミが問題にすべきなのは、オウム信者達がどれだけ危険で、どれだけ変なヤツかということではなく、むしろこのマンション住民の病的な反応と、その対応の危険性ではないかと思えました。一方ではあれだけエイズ患者が受けた〈差別〉を問題にするようなふりをしながら、その実ここでは<差別>が何なのかぜんぜん分かっていない(としか思えない)報道を平気でするのは醜怪です。
 こうした例を見ても、たくさんの人々が参加する「運動」とは、つくづく難しいものだと考えさせられます。恐怖心や憎悪と復讐欲が、ヘドの出そうなパフォーマンスをエスカレートさせ、新たな「権力」を支え、「運動」をダメにしていきます。そしてそこには、現代という時代では不可避に、常にメディアが一役かっているのです。憎悪と復讐欲を越え、なおかつ「強さ」をもった「思想」。「両側から越える」ためにも、「両側」にこの「思想」が必要とされているはずです。おそらくそのためには、より根底的に問うこと、現在の自分(達)のいる場所を理解していること、広い<世界>からの視線を失わないこと……、なにかそうしたことが重要なような気がします。  (島根 Y.Sさん)

《 読書漫記 》
『中井久夫著作集』から
 先日、中井久夫さんの本を読んでいましたら、こんな文章がありました。

 多数者に倣わせようと強いることは、成功したとみえる場合にすら、時に、何のために生きるかがはっきりせぬままに周囲の眼を怖れる萎縮した人生に彼らを導くであろう。あるいは、たかだかB級市民の刻印の下に生きる道を彼らに示すにすぎないのではないか。/考えてみれば、分裂病を経過した人は、事実において、しばしばすでに社会の少数者である。そのように考えるとすれば、少数者として生きる道を積極的にさぐりもとめるところに一つの活路があるのではあるまいか。  (「世に棲む患者」著作集第5巻所収より)

患者さんが治ってからどうしていけば生きやすか、を考察した文章の中にあります。何かこういう文章は、心に沁み入るような感じが致します。
 最近、「自分とは何か」といろいろ考えておりましたところ、「自分は狷介けんかいな人間だ」と思い当たりました。私はいわゆる協調性に富んだ人間ではありません。時と場合によっては突っかかるような口ぶりについなってしまうような人間です。また、これまで人と同じような道はたどってきませんでした。大学を出てからも普通に就職せず、バイト生活、尾鷲行きと、後ろ指をさされかねぬ生活を送って参りました。「後ろ指をさされかねぬ」と書きましたが、もちろん自分としてはなんら後ろ暗いところはございません。しかし現実問題としては、そう見ない人もいる。彼らが私をさもうさんくさそうに見る眼に私が気付かぬはずがない。これは非常に不愉快な体験でした。そんな人たちをムキになって説得しようと試みたこともありました。また、あえて己をまげ、人の言うことに合わせようとしたこともありました。しかしその結果、私はどうなったか。端的な話、疲れただけです。そして、相手は相変わらず私を理解しない。何かが間違っていたと考えざるを得ません。
 私はもっと自分に忠実に、好きなように生きた方がよいのではないか。無理に人に合わすより、むしろ意見を同じくする人たちとの付き合いを深くして行くべきではないのか。……そんなふうに考え始めていた折りだっただけに、中井さんの文章を読んで、何か渇き切っていたものが癒されるような感じがしました。というのは、人の眼を気にして生きることも、人に合わせて生きることも、所詮は消極的な生き方でしかないからです。自分の中からすくすく育ってくるものを押さえつけ、嫌な気持ちを我慢しながら、人に言われるままに動いて行く訳ですから。そして前川む一さんのいう「肩をいからせて世間を歩く」ことも、人の眼を意識しているという点では、全く同じだと思います。もちろん、長い人生の中で、そうせざるを得ない時期というものもありましょう。しかし、人生全てがそれであってよいものかどうか。自分が何者であるかを忘れてしまってよいものかどうか。つまり、マイナスを気にして生きて行くのではなく、プラスの部分を最大限に活かし、更に伸ばそうと心掛けながら生きて行くことは出来ないでしょうか。
 中井さんの文章に戻りましょう。「少数者として生きる道を積極的にさぐりもとめるところに一つの活路があるのではあるまいか」。この「積極的に」という言葉を見たときに、私はやはり救われたような感じを抱きました。私は狷介な人間かもしれないが、それでも私なりの良き生き方というものもあり得るのではないか。具体的には、肩の力を抜き、気のあった連中(そういう人たちも決していない訳ではありません)と楽しくやっていくことをまず大事にしてはどうでしょうか。そうする内に人の眼を相対化していくことも、徐々に出来てくると思います。そうしたら以前ほど気にならなくなってくるのでは。
 もう一箇所、中井さんの文章から引きましょう。

 まったく、経験、それももとより我が国だけの経験にたよって言うことだが、寛解患者[回復期にある患者、という意味でしょう-引用者注]のほぼ安定した生き方の一つは、…あくまでも一つであるが…巧みな少数者として生きることだ、と思う。/そのためには、たしかにいくつかの、多数者であれば享受しうるものを断念しなければならないだろう。しかし、その中に愛や友情ややさしさの断念までが必ず入っているわけではない。

 確かに、断念せねばならないものもあるでしょう。しかし、ここに書かれてあるように、人間らしさはあくまで捨てずに、やって行くことも不可能ではないのではないか。そして、諦めと同時に、希望を、そして誇りを持って生きて行くことも出来るのではないか。「水平社宣言」の「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」という言葉と、この中井さんの文章は、どこか響き合うものがあるようにも思いますがいかがでしょうか。  (恩智 理)

《 案内 》
○『こぺる』合評会
  4月27日(土)午後2時 京都部落史研究所(場所が変更になりました。)
  3月号 池田士郎「らい予防法を越えて」(池田さんも出席されます。)

《 川向こうから 》
○4月22日、ある企業から職員研修講師20年ということで感謝状をいただきました。こんなことは初めてなのでうれしいけれど、同和対策室のスタッフを通しては人間の信頼関係の大切さを、そして職員のみなさんからはホンネと向きあうことの重要性を学びました。感謝するのは、むしろこちらの方かもしれませんな。

○島根Y・Sさんのお便りにある「土下座」をテレビで見ながら、渡辺一夫さんの「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という文章(いま『狂気について-他二十二篇』岩波文庫、『寛容について』筑摩叢書などに収録)を思い出していました。土下座をさせてしまった人を批判する人がいれば、弁護する人が必ずいる。しかし、Y・Sさんの意見については、それぞれに考えてくださればいいのであって、反論その他はご無用にねがいます。

○目下、水泳にこっています。そんなに泳げないんですが、忙しい合間の息抜きとして楽しんでいます。経絡体操も再開。おかげで体調はすこぶるよろしい。

○本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)

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