同和はこわい考通信 No.101 1995.12.13. 発行者・藤田敬一

《 論考 》
自らの部落民意識と向き合う
山城 弘敬
 私は部落民である。いや、これは正確ではない。私は、自分のことを部落民であると思っている。あるいは、部落民であると信じている。それとも、部落民であると信じ込んでいる。…………何とも回りくどい。不格好な文章だ。私に文才などあるとは思わないが、こればかりは、そのせいだと思いたくない。<私>と<部落問題>の関係の出発点を、もっとも単純な文章で表現しようとする時、その困難さに戸惑ってしまう。

 部落民とは何かを、その概念規定として問うてみる。あるいは自分の、部落民としてのアイデンティティーを考える。そうしたとっかかりの部分で、いつも迷路に入り込んでしまった。どのように考えても、論理的に整合性のある答えを得ることができなかった。いや、論理だけにこだわるのなら、一つの結論はある。しかし、それを自分自身の内面と向き合い、照らし合わせてみると、とうてい受け入れることのできない答えでしかない。横着なものだから、絶えず迷路の出口を探し続けているわけでもなかった。何かきっかけがあると、うろつき回り、やがて座り込む。少なくとも、ここ数年の間はそんな感じだ。
 そんな中で、畑中さんの『「部落史」の終わり』(かもがわ出版)に出会う。例えていうなら、道に迷ってしまったとき、ふと横を見ると、川の対岸に自分と同じ方向へ歩いている人を見つけた。いうまでもなく、「国民融合論」を唱える畑中さんは、ぼくにとって対岸の人だ。しかしそれにどれほどの重みも感じない。むしろ、同じ方向を見ていることが大切に思う。
 下手な比喩はやめよう。
 部落民という言葉は、よく使われる。被差別部落民といったりもするが、これは同義語だ。しかし、部落出身者や部落住民などという、微妙に異なる言葉も用意されている。部落民の語を、明瞭に規定できない現実がこのような余分な言葉を生み出しているのだ。部落民を論理的に定義できない。誰が部落民であり、誰が部落民でないかを定める基準など存在しない。(ここであれこれ書く必要もないだろう。『「部落史」の終わり』で、詳しく展開されている。)
 にもかかわらず、世間にはそれが自明のことであるかに思いこんでいる人が、いくらでもいる。部落民は穢多・非人の子孫であり、部落外の人々は穢多や非人の子孫ではないと。差別意識を持った人がそのように思いこんでいるだけなら、話は早い。実際には、部落の側ですらがそれを信じ込んでいる。同和啓発も、同じ中身で展開される。
 他人のことはおいておこう。どうせ頭の中身までのぞけるわけでもないのだから。それよりも私自身だ。
 穢多や非人の子孫としての部落民など、存在しない。これはわかる。なのに、自分を部落民だと思いこんでいる。同じ部落民だとされる人々に、親しい感覚を覚える。どうしてだろうか。生活体験を共有しなくとも、それは存在する。被差別の体験であろうか。
 いやいや、そんな意識を生み出す体験など心当たりはない。冷静に私自身の意識を見つめるなら、少なくともこの10年以上の間、「自分が差別されている」という実感はもってこなかったように思う。その一方では、「自分は部落民である」という意識は変わらずもっていた。それは、「自分が差別される存在である」という認識を持っていたということと、おそらく同義だろう。矛盾した話である。
 自分の存在について、冷静で客観的な観察を、完全に怠ってきたということではないかと思う。それでもなお、自分についての「被差別者である」との思いこみが成立してきたのは、おそらく過去の体験に関わることだけではないだろう。しかしその理由は、本当のところわからなかった。
 どうにも割り切れない。どうにも理解できない。自分自身の意識が……

 何度も考え、何度も行き詰まったこの問題を、今回考え直そうと思い立ったのは、やはり『「部落史」の終わり』である。
 畑中さんは、この本で部落民の概念を問うだけでなく、部落の概念も検討している。そこで思い立った。部落や部落民が問われるなら、部落差別や部落問題の存在すら、問われるべきではないかと。別に、部落差別がないとか、部落問題が解決されたとか主張したいわけではない。指摘される事象のすべての存在を認めても、それを部落差別や部落問題とくくって理解していいのか。それを考えてみたい。
 私は自分の体験から、食肉やそれに連なる産業に対する意識にこだわってきた。父の家業が化製業、すなわち牛や豚の骨・皮・脂をあつかう仕事であった。私も10年ほどこれに従事した。私が働き始めたとき、すでに同和対策事業が始まっていた。それから10年の経験に限定しても、この産業に対する差別は露骨なものがあった。それが部落外の人々によるものだけであれば、それなりに納得できたのかも知れない。実際には、部落の中で生活していたこともあってか、部落の人々の言動にしんどい思いをした。
 部落の中からの視線は、私の知る限り問題にされたことはなかった。部落外の人々の対応については、それを「部落差別意識」として解釈されてきた。
 しかし本当にそれでいいのだろうか。

 中島久恵さんの『シャガールと祖父』(新『こぺる』№10.94/1)は、フランスにおける食肉業に対する、人々の意識を明らかにした。そこでは紹介されていないが、化製業に対する多くの意識もどうやら日本のそれと変わらぬものであるらしい。さらに、イギリスの食肉業界は、自らに対する差別的イメージの払拭のためとして、呼称変更を議論している事実もある。観光で有名なアメリカのシカゴの屠場は、現場労働者のすべてが黒人であるという。
 アジアでそうした意識があることは、以前から知られていた。アフリカなど実態が全くわからぬ国々があるので、断定はできない。しかし少なくとも、この産業に対する差別が日本固有のものであるという思い込みはすてるべきだろう。
 部落問題を深刻な社会問題であるとする、様々な指標がある。低位な学力、不安定な就労、劣悪な住環境など。それらが同和対策事業でどれほど改善され、あるいは改善されなかったかは問題ではない。やはりこれらが日本固有の問題ではなく、先進国では長年問題にされてきたことであり、低開発国でもその大都市では問題となっている事項だ。それらの国々での問題のされようを見れば、犯罪と暴力など、日本の部落問題と無関係ではないにも関わらず、「差別を助長する」などの配慮から無視され続けてきた事柄すら、公然と議論されている。
 部落民、あるいは穢多や非人の子孫などという差別の理由を別にすれば、結婚や就職など部落差別としてあげられるすべての事象は、それこそ世界中に満ちあふれているではないか。従って、これらの諸問題を部落問題として包括し、それとして解決の方策を議論することは、きわめて幼稚であることは明らかだろう。もっとも、これが深刻に現れるのは別の局面であるが、これもあとで述べたい。

 穢多・非人の子孫など、どこにも存在しない。あるいは、日本人の大多数がそうであるといえる。要するに、意味のない概念だ。これがあたかも実態をなして、特定できるものであるとする神話がある。もし部落問題に本質などというものが存在するのであれば、この神話こそが、そうではないかと思う。
 その内容のからくりは、まったく大したものではないが、その神話の裏側を、部落民(と自ら思う者、あるいは、とされる者)のすべてが理解しさえすれば、部落問題のありようは一変するだろう。確かに、部落差別はまだまだ存在する。しかし実際に起きる事象のほとんどすべてが実際上の権利の侵害をもたらさないことであるか、その回復が可能なものだからである。
 この点については、多少の異論もあるだろうから、少し触れよう。今日問題とされる差別事象は、その大半が具体的な権利侵害を伴わない。個人を特定しての陰湿な嫌がらせ的な差別がまれに報告される。この場合は、部落民である(とされる)ことが、その原因であるとは限らない。むしろあらかじめ対立する関係が存在し、この個人を攻撃する手段として、部落問題が利用されている。この場合、差別されて傷つく人間があったとしても、攻撃に力を与えているのは、他ならぬ部落民自身の意識だろう。
 ここで「エッタ」などと罵られる場面を想定してみよう。いかなる対応が考えられるだろうか。怒りや悲しみ、痛みを感じたとして、それをあらわすことがどのような効果をもたらすだろう。相手を激励しているようなものだ。無視するというのは、次善の策にすぎない。もっとも効果的なものは、笑って返すことだ。それも、鼻で笑うなんてことではいけない。心からおもしろそうな表情を示すことだ。
 「『エッタ』だって!今時そんな言葉を使う人がいるなんて……」
と、誰かが林家三平の物まねをしている場面に出くわしたかのごとく対応すべし。
 相手がどのような意図で差別を攻撃の手段としたのであったとしても、こればかりは予想を超える反応だろう。こんなことが続けば、恥ずかしくて差別するのをやめるのではないだろうか。
 それを可能とする社会的条件は、おそらくすでに獲得しているか、あるいは間近に可能であろう。

 にもかかわらず、多くの部落民にとってそれができないから、部落問題が深刻な社会問題であり続けているのではないか。現実に行き詰まっている問題は、ここにあるだろう。
 ではどうしたらいいのか。それを考えるのが解放運動だろう。ありがたいことに、現在の解放運動には、うってつけの反面教師がいる。
 近年部落民が、その被差別体験を語るという企画が流行している。同和教育研究集会などの特別講演と称して、演壇に立った人物が、その生い立ちとともに、自らの受けた差別の体験を延々と話しする。その始まりは、兵庫の「語り運動」にあるのだろうか。あるいはそれ以前にもあったのだろうか。くわしくは知らない。
 これがどうにも、好きになれない。いや好き嫌いの問題ではなく、部落差別をなくそうという取り組みにとって、決してプラスになるとは思えない。確かに差別された者が、そうした場で自らの体験を語るということは、大きな意味を持っているように錯覚しやすい。
 実際にこれを聞いて、多くの人々が感銘を受けるそうだ。それは半分事実だろう。こうしたことの流行は、それをあらわしている。しかしもう一方では、こうした語りを行う人物が、きわめて固定されている現実もある。これを聞く他の部落民は、どのように受けとめているのだろうか。仮に本当に共感し、感銘するのであれば、新たな語り手が生まれてきても、不思議はない。むしろ次から次へと生まれてくるはずだ。現実には、語り手はいつも固定されている。
 しかし気になる点は、そこで語られる被差別の体験とは、自らが差別され、その不当性に気づき、それと対決した体験ではない。差別されながらも、それに抗議することができず、あるいは抗議しても結果として負けてしまったこと、おしなべて差別に負けた体験でしかない。
 おそらくは本人にとって、できれば忘れてしまいたい事柄であろう。無論それらを忘れてしまっていいとは思わない。いや忘れることができるのであれば、忘れてしまってもいいのかも知れない。忘れたい、しかし忘れることができない、そうした体験であろうと思う。
 それらを再び思い出し、言葉に置き換える作業は、それ自身否定されることではない。その屈辱感は、思い起こし、それを対象化することを通じて初めて、乗り越えられるだろう。しかしながら、「語り」といわれる作業は、これを恨みの発露として実現しているにすぎない。問われているのは、差別に負けたことによる屈辱感を、自らを負けた本人として対象化し、負けぬ自己へと脱皮する作業をなさねばならないことなのだ。
 私は、かつて部落の中で解放同盟の運動に参加した。その時すでに、様々の同和対策事業による利益誘導の運動が主流でああった。組織問題となる腐敗や利権は、氷山の一角であり、運動と一体となっていたといっていいだろう。それと異なる運動内実を作り出すことが、求められていた。当時それを実現するために、狭山闘争や差別糾弾闘争を基軸に運動を展開したわけである。そうした運動の基礎となる意識を、それぞれの仲間の被差別体験を対象化するという作業として基本においた。しかし、「語り」という行為と無縁であろうとした。それは、「語り」が他者(具体的には部落外の人々)を突き動かす力として使われていたことに対する反発であり、むしろそれは自らを運動に駆り立てる力とすべきであると考えたからであった。
 当時の運動やそこでの思想を、今日振り返ってみるなら、すべてを正当化できるとは思わない。むしろ様々に反省すべき点が目立つ。しかし「語り」を拒否したこの一点だけは、いまだに正しいものであると信じる。なぜならば、差別された悔しさとは、差別に負けた自分が存在することを前提になりたつ意識である。それを正視し、「今度は負けぬ自分」への飛躍を実現することなしに、古傷を思い出す必要はないと考えるからだ。「語り」には、差別をなくすための活動に、自らを決起させるという自己変革の視点はない。絶えず「被差別の立場」の正当性を主張し、それを絶対化する論理が先行してしまう。そこで形成されるのは、「部落解放を実現する主体」ではなく、「部落解放を実現させる主体(?)」でしかない。おそらくは、差別の前に再び、三たび負けてしまう自分しか実現できないだろう。

 誰がいったのか忘れたが、こんな意見がある。
人は苦しみや悲しみに出会う。それが人生だ。ところが部落民は、そうした苦しみ、悲しみのすべてを部落差別のせいにしてしまう。
 初めて聞いたときは、ずいぶんと驚いた。幾分にも事態を誇張した表現であると感じたのだ。しかしよく考えてみると、これほど事態を正確に表現した言葉はない。一つは、部落問題全般のありようを、的確に表している。世界に共通する様々な問題を、日本固有の特殊な問題として切り縮め、事態の解決の方策を混乱させてしまっていること。もう一つは、個人のレベルでも、差別と対決する姿勢を作り上げるのでなく、差別に負けた自分を正当化し、それを他人の責任として追及するだけの姿勢。
 これでは、部落差別をなくす社会的条件を作り出すことはできるかも知れないが、部落差別をなくす主体的条件は形成されない。ここでいう「部落差別をなくす」とは、本当にこの世から部落差別をなくすという意味ではない。最近では、そんなことが不可能ではないかと思いかけているからだ。そこで、部落差別が存在しようが、それが深刻な問題としてならないような状態を展望すればよいと考えるようになった。差別を本当に根絶することができるのであれば、それを誰がどのような手段で実現するかなど、それほど問題ではないかも知れない。そもそも主体的条件など考える必要もないだろう。しかし、差別が人を傷つけぬ社会を展望するなら、社会的条件と主体的条件をともに満たさねばならないと思う。その意味では、今日の姿は、実に不満足だ。
 繰り返せば、どんな手段を講じ、どれほどの物量を投じても、すべての人々に部落差別をしないでおくといことを実現することなど、不可能だ。例え法律で禁止したところで、差別する人は差別するだろう。人を殺すことは、「殺人罪」という形で刑法で禁止されている。その是非に議論はあるものの、死刑という制度がある。それでもなお年間千人を超す人々が、日本で殺され続けている。おそらくこの先人類が存続する限り、殺人という犯罪は消え失せないだろう。人殺しもなくすことができないのに、どうして部落差別をなくすことができるだろうか。
 部落差別をする人が、古い意識の持ち主であるとは限らない。差別言動それだけで、部落民が傷つくということが続く限り、差別をもって人を攻撃する人まで根絶やしにはできないだろう。だから、差別をなくす取り組みだけでなく、それと同時に差別を無害化するための様々な取り組みが必要とされていると思う。

 だらだらと書いてしまったが、もう一度自分自身の意識の問題に帰ろう。
 今でも年に1~2回は、こんな体験をする。名前を間違えられる。山城を山下や山科などと間違えられるなら、聞き違えですむ。ところが間違えられるのは、MやSという、私の出身部落に多い名前である。普通ならどう聞いても、間違えようのない名前だ。こんな時、「いえ、山城ですけれども……」というと、ほとんどの場合相手から狼狽の表情が読みとれる。こっちの方も、あまりいい気はしない。何しろ、相手が自分のことを部落民であることをそれなりに強く意識しているだろうということは、はっきりわかるのだから。
 しかし、ここで相手に「どうして間違えたのか」などと問いつめることはしない。大概は、仕事の上での場である。本当に単なる間違いである可能性もある。もっともこちらからすれば、間違えられるパターンがいつも一緒だから、ほぼ相手の意識は一つに絞られると思っている。しかしそれはいわない。「ふーん、この人は私のことを、そんな風に見ているのか」といった程度ですます。
 これですませることができるのは、私の生き方も反映されているのかも知れない。マンガの『釣りバカ日誌』のハマちゃん風の人生とまではいかないが、それなりに自由に生きている。そして、これらの出来事が具体的な権利の侵害でないことだ。仮に誰かの権利が侵されることなら、それなりの対応をする。決して差別を容認するつもりはないからだ。
 こんな風なところで、いまだに「自分は部落民だ」という意識を持っている。時には、それがとても不条理なものであると、それを否定しようということもある。日本人を部落民と一般民(あえてここではこの語を使おう)の二つに分け、そのどちらかしか存在しないような考え。それを不当と思うなら、第三の存在に、自らなろうとすることもいいかも知れない。
 そこまでの踏ん切りがつかないまま、今しばらくは自分の自己認識とつきあい、自分の生き方を模索する中で考え続けていこうと思っている。

《 お知らせ 》
◎『こぺる』合評会-12月23日(土)午後2時 京都府部落解放センタ-2階
  話題提供者:畑中敏之さん
  テ-マ:「住田一郎さんの『「部落史」の終り』への書評の感想」(仮題)
 なお次回は、1月27日(土)です。

《 川向こうから 》
○住田さん、津田さんと続いてきたミニ特集は今号の山城文でひとまず終わります。「部落民とはなにか」「部落とはなにか」「部落解放とは」との問いを、あらたvめて想起させられます。議論をつなぐために、ご意見、ご感想をお寄せください。

○『通信』百号を祝う会が松江(11月23日)と京都(11月25日)で開かれました。
友人たちにかこまれて感無量。お酒もおいしかったけど、なにより雰囲気が最高でした。義理でなく無理がない集まりほど愉快なものはありません。「いいお友だちがおられて、藤田さんは幸せな人ですなあ」とおっしゃった方がおられます。出席されなかった方々をふくめて多くの人びとに励まされ、支えられてきた八年 余でした。最初は、一人で出しているつもりだったんです。ところが、お便りやメッセ-ジ、サインを受けているうちに、次第に「それは違う。人びととの交感が原動力になっているのだ」と考えるようになりました。きざな表現かもしれませんが、心底そう思うのだから仕方がない。京都の会で、ある人がわたしを評して「しつこい」とおっしゃいました。たしかにしつこいと自分でも感じます。要するに淡白ではないんです。深情けというんでしょうか。だから「転居先不明」で返送されてきた人の名前は絶対忘れない。恨み深いんです。「いつまで出すのだ」とのご質問には、気力か体力があるかぎり、としか答えようがない。「わたし書く人、あなた読む人」の分業におさまりきれるようなテーマではありませんし、応答しながら思索するのが、ここ八年来のわたし流のやりかたですから。
 最後になりましたが、『通信』百号にさまざまな形でメッセージを寄せてくださった方々に厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。

○12月3日、大阪で西岡コヤエさんの米寿をお祝いする、小さけれど気持のいい会がありました。1960年前後、矢田部落でお世話になった当時の学生数人がコヤエさんをお招きしたのです。二年後に九十歳の会をもつことが決まりました。

○本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)

戻る